日月両把劍(六) じつげつりょうはのけん

2015/08/01

3世紀中編 うをとみづ3世紀SS 日月両把劍


「まだ、何月にとは明かせませぬが」
 かならず年内に曹賊との決戦があろうことを打ち明け
「その折に、いささか機会があろうと、我らが軍師が申しております。今日はそれを、お耳に」
「おお……」
 老剣匠は急き込んでその続きを求めると思われたが、しばし言葉を失って、まるで趙子龍のその言葉だけで報われたような表情をした。

 剣の調整の対価として、老剣匠は三年前に旅に出た息子と、廿余年も前に生き別れた哥の消息を請うていた。
 もしもできぬと言われたら、自分のなきあとの嫁と孫の保護を願い出ることにして、いずれにしても銀をとらずにいるつもりでいた。

「本当で、ございますか」
「我らが軍師、いままで戯れ言をおおせになったことはない」
「軍師様は、年寄りは気が短いことをわかっていなさる。ありがてえ。……ありがてえ」
 皺の寄った革手袋のような熟練工の手を合わせて、趙子龍を拝んだ。
(そうか。ご老人のために、あえて、か)

 このあとの漢中攻略についての見通しを、これほどに早期にしかもおそらく己のみに明かされた理由がわかったので、常山趙子龍は得心がいった。
 どうやら彼らの軍師には、趙子龍を宥めるという意図は薄かった。

 あったとしてもそれは二つ目以降の理由であることが、老剣匠の様子で知れたし、趙子龍が仮に内心不満を持ったとしても公事に私の遺恨を差し挟むわけがないという信頼を措いているならば、いよいよこの内密の話は老剣匠のためにこそ明かされたとみるべきでもあった。
 趙子龍はそこに気づいて、少し嬉しい。

「……もう諦めておったんです。倅のことも。哥のこともですじゃ」
 語尾は涙声になり、老剣匠は袖で両目を拭った。
「その、ご子息のことと、お哥上のことを、いま少し詳しくうかがうようにとのお申し付けもありまして、参上しました」
 老剣匠は、「子息」「哥」という言葉にいちいち点頭して、また目尻に皺を寄せて瞼を閉じ、溢れ出でる涙を両袖で拭って
「……あの剣を、お預かりしなかった、ら。あのまま、あのまんま諦めて、お迎えを、待つだけじゃった、か、と思う、と、」

 あの剣の鐺のあきらかに不自然な拵えが怪しいとみて、とりあえず工夫をつけに淘盡堂へ行ってみると、店主の仲介でそっくり同じ鐺が手に入ったのだ。
 店主が差し出した金属製の鐺と、玉製の鐺とを交換というのが条件で、費用は発生しなかった。
 はじめ、老剣匠は迷ったが
「不思議話と思ってもいいがね、先方もこれが手に入れば一式揃うんでね。どうだろう」
 互いに、これでなくてはならぬ理由があることが奇遇の形をとった必然のような気がして、一存で諾った。
 後日なにか問題が発生したなら、淘盡堂店主に証人になってもらうことを念押しして、玉の鐺を店主に渡した。
 
 工房に帰って、天から降ってわいたその鐺に少し汚しを入れて、他の部分の経年との釣り合いをとってから取りつけた。
 物言わぬ物の希望を聞き届けて叶えてやれたような達成感と安堵とともに、心おどる大仕事が終わってしまった寂しさにやや肩を落としながら、掌には薄い金属片が残った。
 おそらく本来の一揃いの分厚い鐺を得て、剣は険しい癇を和らげて深呼吸しているようだったが、剣とも、長年一緒だった玉の鐺とも別れ、鐺の鞘は心もとない空蝉のようだった。
(……そうか。そうだな。お前さんは、どうするべきじゃろな)
 空蝉を掌に乗せ、もう片方の手で頬杖をついて思案していると

(諦めてしまうのか。探す手も歩く足も、見る目も聞く耳もある、人間のお前のほうは)

 空耳が聞こえた。
 聞こえたというよりも、掌から文字が頭へ吹き抜けて轟いたが如きだった。
「……だけど、だけどよぅ」
 老剣匠は、空耳と弱弱しく会話した。
「誰にもできっこねぇだろ。どことも知れねえ河原に落っことした粟粒をさがすようなもんじゃねぇかよ」
 探し当てられぬのではなく、もう探すのをやめたのだという諦めを、いままでつけていたというのにだ。この歳になってから絶望を重ねたくない。
「だいいち……。生きてるかどうかも……わからねえじゃねえかよ。それに」
 言葉に出してしまうと切なく、悄然としてしばらく黙る。
「……それに、そんな大それたこと、お願いできるかよ。お願いしたって……かないっこ、ねえだろ……」
 視線をおとして呟いていると、鐺をあらためたばかりの剣が目に入った。
(そうとも限らねえ。っていうのか?)

 いつの頃か、誰かに何らかの意図で鐺に細工を施されていて、持ち前の気性に不機嫌を加えていたようなこの剣は、再び手に取ってみると、すっと締まって感じた。
 何やら、力が湧いてくる。
(なんじゃこの、敗ける気がしねぇような、この風は)
 夢の中で見た惨憺たる敗け戦の風の匂いを、螺旋状に別な風が巻き込んで制するようだった。
(たしかに。この剣を、主公がお気に召さぬはずがねえ)
 たとえ伝説の大公の闕にすらも相まみえて一歩もひかぬつもりの秘めたる自信と矜持が、むくむくと何倍にも増すのを覚えた。
 
 鐺に気が付くまでは、褒美に、かならずあると踏んでいる雌剣の拝見を願い出ても許されるだろうかと、淡く思い描いていた。
 しかし今、こうして剣の息を吹き返させたごとき大仕事を終えて、もう一把のことは忘れてしまった。
 否、もう諦めて何十年も蓋をしたきりのかけがえのないことをこのままにして、この剣に釣り合うほどのもう一把に、あわせる顔などなかったのだ。

「わしは、何度も後悔したが」
 老剣匠は剣を手にしたまま鞘を払いもせず、その重みを手にして瞑目して長く沈黙した。
「……益州に来たのは、間違いじゃなかったかもしれねぇ」
 ふたたび眼を開いた時には、老いた目の底にあった諦めも逡巡も消え去っていたのだった。

 趙子龍は、老剣匠が人知れず耐えてきた年月の長さと行き別れの悲しみの重さが背にかかったような風情で、じっと黙って耐えて待っている。
 またしばらくむせび泣いてから、老剣匠は重い口を開いて長い物語りを始めた。
 

 成都が今年の蝉の初鳴きを聞いた日、彼は髪を洗わせ、夕べには行水をした。

 五十をこえてから、体にこたえる夏日が増えてきたことに気づいたうえ、盆地に位置し曇りがちの成都の夏は高湿で、住みやすくかつ住み慣れた荊州の夏とは異なっていたので、年齢相応に體の具合に気を付けるようになった。

 夏たちてからは茶にも薄荷の葉を浮かべ、眠る前などおりおりに噛みしめて體をめぐる気を整えたりして、夏が来る前に夏に耐えうる體を保とうと意識するようになった。
 薄荷の葉の清涼感を含みながら、齢をくわえてもなお齢に似合わず頑丈であることにかわりはない彼は、蒲柳の質たる我が龍にとってこの成都の夏はいかほど辛かろうかと思いやる。

 そして、主君とはいえ既に百の半ばまで生きた白髪まじりの薄汚い男と枕を並べるなど、いかにも寝苦しかろうと思い至るのでもある。
 そんな彼の杞憂は夏物の麻の寝衣を涼げにまとうことでやや散じて、彼は我が龍と共に牀の上によこたわり、老剣匠の話をしていた。

 話しては泣き、泣いては話を続けた老剣匠の半生を、趙子龍が簡潔に復命した内容は、こうであった。

 若き日の老剣匠には義兄弟が居た。
 同じ村の剣匠で、老剣匠にいわせれば「めっぽう腕が立つ哥貴」だった。
 哥は鉱石の声が聞こえた。
 老剣匠は剣の匂いが聞こえる。
「俺が打った剣をお前が聞けば、剣は二百年、いや、三百年だ」
 と、哥はすぐに老剣匠の才能に気づき、義兄弟になった。

 哥の夢は
「戈ヲ止ムヲ以ッテ武トナス。だ。いつか、戦いをやめさせる護国の剣になりたい鉱石を見つけ出して、俺のこの手で姿を与えたい」
 だったが、時勢は戦う剣でなければ権威のお飾りの剣ばかりを求めていた。

 そのうち龍淵村は次第に曹公の支配下に入らざるを得ず、鉱石の声に応じてのびのびと「いい剣」を生み出していられる時世は終わった。名剣がぬしを選ぶのではなく、注文主の希望に添う名剣を作る時代になった。
 哥は、いやがっていた。
 師匠が請け負っていた倚天剣の仕事の輔佐を最後に、
 「益州の親戚を頼って、去ろう」
 と、密かに約していた。
 
 倚天剣と青釭剣は、同じ山のほぼ同一の場所で見つけた良質の鉱石でできている。
 石は哥が見つけ、当然、師匠の目にも適った。
 注文主の意向で、倚天剣は龍淵村で作り、青釭剣はまた別な工房で作られた。
 互いに競い合わせて、技の粋を尽くさせようというのだった。

 倚天剣が世に出て数日の風の匂いを、老剣匠は生涯忘れ得ない。 
 
 師匠と哥が剣をおさめて帰ってくるはずの日にあわせて、
「採石にゆく」
 と、村の者には偽り、哥と嫂と打ち合わせて待ち合わせたはずの樹の下で今か今かと哥たちを待っていたが、日が暮れてゆく。

 いやな予感がして、村へ戻ろうかと思案していると、荷を背負った商人という態の男が歩いてくる。
「あ。龍淵の鐡の哥貴の、弟さんだろ」
 見覚えはあったが、にわかには思い出せない顔だった。
「この子、預かってきたよ」
 男は背負子をおろして、その中から眠った幼児を抱きあげて差し出した。
「えっ。……坊っ」
「鍛冶やらせんな、学問させてやってくれ、って言ってた」
 混乱しながら、まだ話もできない哥の子を反射的に受け取った。

 ただ哥の子だけがこの待ち合わせの場所にやってきたこの状況が、変事の証拠であり、若き老剣匠はつづいて聞くであろう事の次第を怖れた。

「おいらは余所者だから出てこれたんだけどよ、村はすっかり、兵に囲まれてる」
「兵に? 哥哥は? 嫂嫂は?」
「殺されやしないだろうさ。でも、出入り禁止か、許昌に連れて行かれるのかもしれんよ」
「許昌?」
「曹公が、いたくお気に召したらしい。夏……なんとかって将軍がそんな口上言ってたよ。ご自分の剣以外は作らせたくないってやつかね」
 よくある話さ、と、男は気の毒そうな溜息をついた。

 若き老剣匠には、その情景が目に浮かぶようだった。
 皆、夏なんとか将軍の前にひれ伏して
「ありがたき幸せにございます」
 と言って、従うほかはないのだ。

「じゃ、確かに坊ちゃんをお渡ししましたよ」
 と、男は足早に立ち去った。そういえば、あの男は時々村へやってくる旅の藥屋だったと思い出したが、何の安心の役にも立たなかった。

 老剣匠は戻るべきかどうか迷いに迷ったが、哥の子を連れて戦乱を避け、ついに益州へやってきた。
 哥も、なにか算段をして脱出できたなら、かねて言っていた「益州の親戚」を頼ってくると考えた。
 子の肌着の懐深く秘められていた嚢のなかの銀子は学資として手を付けず、日々の暮らしは鋳掛屋をやって口に糊した。

 五年が過ぎ、十年が経った。

 我が子として育てたその子は、長ずるにつれて哥に似てきた。
 後ろ姿など、生き写しだった。
 哥の言伝のとおりに、貧しいながらも学問をさせると計算に秀でて、絹織物の商舗で重宝がられるようになった。
 また十余年の歳月が流れる。
 子が機織りがうまい働き者の嫁をとり、孫が生まれたとき、あの日のことと哥のことを思い、また老剣匠は涙もろくなった。

 孝行な我が子は老剣匠の涙のわけを知ると、悩んだ挙句に龍淵村へ手がかりを求めてついに旅立ってしまった。
「立派に育ててくださった御恩は山の如しといえど、生みの親を探す試みをせずにいることもできません」 
 たとえ親が無事であっても年月は容赦なく過ぎてゆく事実に、我慢ならなくなったのかもしれない。
 若者は、往往にして待てない。

 老剣匠は、冥途の土産に、この二人の消息を得ることを助けてほしいというのである。 


「儂は『共に死なん』ではない兄弟を、また知り得た。……うるわしいことじゃ」 
 彼のかたわらに臥する龍は、江東の長兄と隆中で留守を守る三弟を思い出したとみえて、懐かしげに微笑を含んで応じた。
 彼は彼で、老剣匠と倅の家族とに血の繋がりがないからこそ、なおのこと心うたれるものを感じずにはいられない。

 夏の到来を告げる虫のねが、墻の向こうの草叢のあたりから、まばらに伝わってくる。

 老剣匠の技を尽くした雄剣が剣身を鏡のようにさえざえと澄ませて帰ってきたほかは何一つかわりはなく、そしてその夜から夢の中ですらも心を保つことができるようになったことにも気づきはしなかったが、彼にとってはそのあとの出来事で
(あるいは)
 と考え、祝儀をはずみたくなたのだった。
 それほど彼の心をとらえる出来事とは、この世で一条の龍に関することにほかならない。

 大凶馬に平然と乗り続ける彼は、迷信や不思議話をたやすくは信じないのだが、あとから考えればちょうど剣が戻ってはじめの早暁の出来事であったので
(あるいは)
 と考えた。
 褒美として願いのすじを聞き届けたいと思ったが、その内容はこのように、銀を積むよりも難しいことだった。

「したがの。請け合うたはいいが、どこからどう探すというのだ」
 銀を積んでもできぬことができる我が龍の白皙に彼は眸をそそいだが、龍は龍で、銀であがなえぬ何事かは、彼をとりまく天運と徳こそが招きよせ得ると信じている。

「まずは、曹賊の手の者に聞くことにいたします……。たとえば、夏侯一族のいずれかの隊など手頃でございましょう」
 手頃とは、倚天・青釭の両把と老剣匠の記憶との関連から、わるくない着手点といえることを指している。

 我が龍は、臥したまま軽く右の手を挙げてみせた。
 下げ与えて用いさせている寝衣は彼のおさがりなので、袖が異様に長いためにその端正な指先は見えないが、袖のなかで二本の指を揃えて重ねて、献策のときのしぐさをしているに違いなかった。

「つぎの合戦でか。ほかにも名将は幾たりもおるが……。むぅ、なるほど、そうであるかもしれぬ」
 彼は、ひい、ふう、み、と指を折って、奸雄の愛将を数えてうなずいた。
 あの奸雄は、智と勇を好んで蒐集するうえに、とくにその勇を出し惜しむごとき癖があるうえ、大戦の重要拠点は手堅く身内に任せることが多い。
 曹子孝、あるいは夏侯妙才。
「……捕虜も取るのじゃな」
(とくに、工夫や職人をだな)
 と、彼は合点した。

 奸雄が倚天剣を常用しているのかどうかは知らない。
 していたとして、実際に鎬を削る前線に出ることは少なくいはずの今、それを抜き放つ必要がない奸雄が剣のために戦場にまで剣匠を召し連れているとは考えにくい。
 連れられていても、果たして探し出したいその人であり得る確証はない。
 たとえ都合よく本陣に伴われていたのだとしても、敵陣深く都合よく発見して連れ帰ることなど、戦場の混乱のなかでできようはずもない。
  
 しかし、上将たちが召し連れているであろう職人たちの一群はまた別儀といえる。
 中には、龍淵村の出の者も居るかもしれない。
 居らずとも、名高い倚天剣を作った工房の者について、兵器に携わる者であれば噂のひとつぐらいは知っていよう。
 この件について、成都から宛もなくはるばる間者を敵地へ送り込む危険を冒すよりもずっと安全である。
 送り込むならば、次なる一戦で雑多な情報を得て整理したあとにだと、龍は考えている。
 必ず得るであろう捕虜の言うがままを老剣匠に伝えて終いにしてしまう気などもないのだ。

「勝つ上にな」
 彼は、敗ける気がしなういえに、名匠の心願の一片をかなえようとする心持ちをあわせて、愉快そうに短い笑い聲をたてたが、戦いに流れる血を即座に思って神妙なおももちに戻った。
「左様でございます」
 さきほどの笑い聲を咎めもせず、龍は彼を頼もしげにみつめる。

「そちの、碁のようじゃな」
「……碁、でございますか」
 いつの碁だったかと、大きな寝衣の襟を深く合わせた中に埋もれたほそい頸をかしげてみせたようだった。
 まだ三十路というべきか、もう三十路と言うべきか、どこか年齢も性別も置き忘れた風情のある我が龍は、このようなとき幼く見える。こうして共に臥している彼だけに許された表情といえる。
 
「徐軍師がよう言うておった。お前の碁は八方睨みで、知らぬ間に思わぬところまで手が回っていると」
「……徐兄の碁は、定石どおり正正堂堂で……ございますれば」
「もっとも、儂はどちらも、見たことはないのだがな」

 徐元直は、彼と碁を打つひとときを持てるほど長くは留まっていられなかった。
 対して、龍は彼には黒を持たせてしかも甚だ緩い碁を打つので、彼は八方睨みされたことがない。
「お前の本気の碁になど、儂ぁ、果たして何手つきあえるものか」
 お戯れを、という応答を予測したのに、応えはなかった。

「眠ったのか。孔明」
 巨きな耳を澄ますと、聴きとれぬほど微かな寝息をみとめた。
 隆中から召し出して以来、寝る間も惜しく、そして放っておくといつまでも職務に熱中して夜更かしをして寝不足になる龍を見かねて、牀もともにせずにはいられず今に至るのだが、結局こうして我が龍はほんの少し物語りを交わしただけですやすやと寝入ってしまう。
「なにゆえかの。儂は」
 彼は、剣が戻った日の夜に見た夢のあとを思い出していた。


 早暁に目覚めて
(やはり、夢であった)
 あのような夢見であったのに、悪い寝汗もかかず魘されもしていない自分を自覚して、妙に落ち着いて、見慣れた天井に焦点をあわせて眺めていた。

 ふと気にかかって肩肘を立てて寝返り、傍らの我が龍に眸をめぐらすと、白い寝顔は涙で濡れている。
 我が龍のただ一条の涙で、彼の心には漣がたち
「孔明、いかがした。孔明」
 龍のあざなを呼んで寝衣のうえから手を握って揺すると、眠りが浅かったのか、ただそれだけで珍しく龍はめざめた。

 ひらいた眸にも涙がいっぱいに湧いており、廊のほうからもれいる明けようとする空の気配を映して揺れていた。
「ああ、我が君」
 短く叫んで龍は彼にしがみついた。
 彼は、つね日ごろの龍に似つかわしくなく怯えた様子に、さては同じような夢を見ていたのではないかと薄薄感じて、それならばどんなに寒かっただろうかと、夢の中と同じように我が龍をかきいだかずにはいられなかった。

(このほうこそ夢か)
 と思いかけたが、夢とはおもえぬ腕の中の確かなぬくもりと、聞き慣れたあの香嚢の薫りの芳しきと、そして衣ごしに伝わる息づかいが、うつつのことだと彼に知らせ、そうと知れば彼はかえって内心うろたえた。

 はてしもなく寛きはずの胸に、年甲斐もなく甜いときめきの如きが幾度も走るのを覚えながらそれを押し隠して、まだ薄昏さに沈んだ房室の牀のうえで、かたみに両の手を握り締め
「よしよし、案ずるな。儂は、ここにおる。いま少し眠れ」
 まるで親と子か、祖父と孫か、それとも何かわからぬほどに慕わしさで互いの胸を溢れんばかりに満たしながら、夢の内容を質しあいもせずに、しっかりと手を結びなおした。


 何か聞いてやるべきか、不寝番に命じて白湯でもやるべきか、と思っていると、腕の中が次第に重くなる。
(……童か。お前は)
 彼は喉の奥で笑ってしまった。
 と同時に、誰が見ているわけでもないのに、牀のうえで薄い寝衣一枚で清く皓い我が眠れる龍を腕にしているこれが、なんとなく一人で気まずい。


 彼は、二人して牀によこたわりなおすきっかけをつかもうと、無意識に剣を遠ざけようとして片手を脇へやったが、やわらかな寝具の感触があるのみだった。
 視界の隅に、帳の向こうの次の間の剣架に剣が掛かっていることを確かめて、やはりこちらがうつつであったと思いながら、龍の眠りを守ったのだった。


「……儂は、なにゆえに、そちを」
 たとえ夢の中であっても守り抜きたい何ものかがあることは、何も失うものがない怖いものなし以上である。
 しかるに彼らは、夢さえもしばしば同時に見ていることにまだ気づきもしていない。