日月両把劍 (十一)

2015/08/01

3世紀中編 うをとみづ3世紀SS 日月両把劍

 今上の叔父の称号に漢中王を加えんとする彼は、風薫る朝に成都の城の私室に面した石廊のうえで双剣を振るっていた。

 さきの大戦において、この剣を抜き放ち攻撃を命じた後は、彼は本陣に届く軍使の報告を巨きな両耳にし、我が龍の采配が目算のとおりの経過を辿るだけのことをただ聞いていればよかった。剣は佩いていたが実戦はしていない。老剣匠が磨き整えたままの冴え冴えとした姿をしたままである。
 勿体なくも皇叔と敬われ続けようとも、遠からず大王と呼ばれようとも、彼は今上の忠実な臣であり漢室中興こそが宿願であることを忘れてはならぬと、雄剣でかろやかに空を切った。

「ワン」
 稽古が終わったことを察したのか、狗の平和な鳴き声がした。
「鉄竜ではないか。久しいのう。どこから参った」
 温かな視線を足下に投げかけ、雌雄一対の剣を鞘に納めて、その後の更衣の都合で剣を腰から解き、柳の樹のもとに立てかける。彼は懐から布を取り出すと、さっと偏袒して額から順に汗を拭う。襟元から覗く胸の厚みに、齢五十五の衰えはいまだ見えない。
 その時、バタリと金属音がしたので反射的に柳の樹の元を見ると、狗が剣の飾り紐を咥えて引きずっている。
(この音は以前に聞いた)
 彼が巨きな両耳の向こうの記憶を蘇らせるのにそれほど時はかからなかった。
 旅の若者と百歳翁を救ったあの時、なぜか剣が倒れた、その時の音と同じだ。

(さてはあれも、お前の仕業であったか)
 よろよろと、必死に剣を運んでいこうとする狗から剣を取り上げることは容易かったが、なぜ狗が一度ならず二度までもこの剣に興味をいだいているのかを知りたかった。
 彼は袒(かたぬ)いでいた袖を直してから
「誰かある」
 と声をかけ、小走りしてきた若い小者に
「あの狗のあとを追え。剣はあのままでよい。どこへ行ったか復命せよ」
 そう命じて懸命な鉄竜の尻尾を見送り、我が龍と摂る朝の餐の席へと向かったのだった。

 君臣は袖を揃えて挨拶を交わすと、朝粥を摂り始める。
 益州牧の食卓とは思えぬ質素さではあるが旬の滋味あふれる蔬菜を並べ、廿もの歳の違いも何ほどの事もなく、毎朝ふたりの会話は弾む。

 食後の茶を喫する段になり
「そうじゃ、先般、そなた嘆いておったな。翁の兄者が見つかったはよいが、果たしてこれでよかったのだろうかと」
「……はい……」
 彼がおだやかに語りかけると、我が龍は眸を伏せて喫しようとした茶の碗の中にまなざしを注いでいる。箸を動かしているときに話題にすると、おそらく我が龍の食が落ちようと考えたので、いま話題にするのだ。彼は座右の賢者の寝食を常に保つことが治国の要件だと考えてもいて、長年すっかり身についてしまっている。 

 あの老剣匠の願いは叶った。
 戦場で趙子龍が保護した手負いの狗の飼い主こそが例の百歳翁であり、老剣匠の「鐡の哥貴」だったのだ。
 長旅の衰弱について手厚い介抱を受け、孫にも見えた若者が辞去する際に身の上を明かしたので
「すると、そちがあの、剣匠の倅であったか」
 と、判明したというわけである。 

 話せば長いことながら、老剣匠の養子は苦節三年とうとう実父を探し出して、迷いながらも連れ帰る途上、さきの一戦に巻き込まれたという按配であった。
 迷ったというのは、道に迷ったのではなく、実父が呆けていたということにである。
 実際には老剣匠と歳はさほど違わず、呆けるほどではないときけば、百歳翁とみまごう白髪には、これまでの艱難を物語ってあまりあるものがあった。
 連れ帰っても結局は嫁を困らせ、ゆくゆくは下の世話までさせて見送るだけになるのではないか。
 二人と一匹の旅の途中に何度もためらいながらも
(村に異変がなければ、わたしを育ててくれた生みの親だ)
 と思うと、一度迎えようと決めた心を翻すことができなかった。

「どうやら、目出度し目出度し、となる予感がする。儂は」
 熱い茶をずずと啜って美味そうに、ほぅ、と溜息をついて彼は笑む。
「なにゆえでございましょう」
「さてな。なにゆえであろうかの」
 彼は愉快そうに笑い聲をたて、さきほどの鉄竜の挙動を明かした。
「え……っ」
 さすがに我が龍は驚いて、まだ喫していない茶を卓に置きなおした。
「案ずるな。ほかでもない鉄竜ではないか。盗賊ではない。とはいえ、追っ手もやった。それにじゃ」
 彼は長い腕をあげて掌をかろく掲げ、おっとりと続けた。
「確かにあれは家宝じゃが、いと惜しきものなど、そなたの他には。……あとは片手で数え上げられるぐらいじゃ」
(……我が君)
 片手で数えるのは人数ではなく、彼の中で大きく括られた何かなのであろう。
 だのにその一つとして数えられていることに、そして重代の剣よりもなお惜しまれていることに、この世で一条の龍は聡明なはずの頭脳から、何と応じるべきかの言葉を探し出すことができず、よい加減になった茶を礼儀正しく服するのみであった。

 
 鉄竜は苦心して彼の剣を老剣匠の工房へ運んでいった。
 狗なりに、見咎められてはいけないという知恵が回ったか、細い裏通りばかりを選んでゆく。
 追っ手の小者は鉄竜をたびたび見失いかけながらも、小さな家の開けっ放しの門を潜ったところをからくも確認して門口に忍び寄る。
 だがそこは、湧水の近くのあの家ではなく、錦江の上流近くの少し寂れた胡同のつきあたりだった。

「朝メシも食わんと、どこ行ってたんじゃー? 鉄竜」
 狗の鳴き声を聞いてか、のんびりした老爺の声がする。
「……このバカ狗っ! こりゃ何じゃ。主公の剣じゃねえかこのっ! 恩を仇で返そうってのか!」
 キュウン、と、言い訳のような弱弱しい狗の声が続く。
(あの爺さん、主公の剣だと知ってる)
 小者は、ここで剣を取り返しに踏み込むべきか迷ったが、下知を思い出せば「どこへ行ったか復命せよ」であったので、そのまま引き返すことにした。


 趙子龍はその日の午後、彼に招かれた。
 使者の口上のとおりに庭の亭子へ向かうと、亭子の階を龍とともにのぼる彼の後ろ姿があった。
 趙子龍は少し歩調を緩めて、木陰で立ち止まって剣の柄の位置を正し襟元と冠を確かめ、彼ら君臣が座に落ち着くゆとりを作ってから、日頃とかわらぬ隙のなさで小径へ踏み出した。
 彼ら君臣の睦まじさを邪魔したくないなどという単純な動機からではない。
 後世に語り継がれよう彼らのごとき君臣が、兵を語らず四季のみのりを談じる光景こそが、太平というものが目に見える姿をとった一例といえるかもしれぬと思い始めているからだった。
 話の内容は耳に届かずとも、遠目にも和んだ様子を束の間だけでも留めておきたいような祈りにも似た遠慮とも言えるかもしれぬ。

 彼のための生涯の槍働きを望むという生き方を考えたとき、おそらく正確には、彼の最後の一戦を決する日まで槍働きを望むということだ。武器が無用になる日が来るならば、それに優ることはない。

 ただこの際、趙子龍は、おのれだとて語り継がれるに足る名将であるなど、自負していない。だからこそ彼ら君臣を、少し離れて見守るのだろう。

「お召しにより参じました」
 あいもかわらず颯爽たる武者ぶりのその姿の背を庭木の緑が眩しく彩る。
 初夏が似合う男だ。

「よう参った。まあ座れ」
「はっ」
 さっと象牙色の外套を翻し、勧められた席に着座する。
「ほかでもない。くだんのな、聞剣の翁のことだが」
 彼はいつしか、剣の匂いを聞き分けるあの剣匠のことを敬って、聞剣翁と呼び始めた。
「最近、引っ越したか」
 彼の巨きな両耳は、おっとりと細かいことを聴いていないようでいて、梧桐一葉おつる音すら聴きとっていることがある。

「はっ。引っ越しました」
「皆、一緒か。達者にしておるか」
 黙って胸にたたんでいることは騙していることにはならない。
 だが、問われて答えぬのは騙すことと大差がない。
 趙子龍は、たとえ人を傷つけないための方便であったとしても、事実でないことを口にするのは不得手だ。

「聞剣の翁は、兄者とともに住まいを移し、ただいま二人暮らしでございます。翁も兄者も、おかわりなく」
 もとの住まいには息子夫婦と孫が暮らし、老人二人が狗を連れて別居したということである。
 そして、呆けもかわらぬということだ。
 彼の龍は羽の扇でそっと溜息を隠した。
「……。そうか。倅は辛かろう」
 呆け老人を厄介払いしたという簡単な話ではなかろうことぐらい、彼にはわかる。

 趙子龍だとて、老剣匠からの預かりものを返却する序でに青釭剣を研ぎに出し、剣を受け取りに行った折に初めて転居を知った。

 じつは
(あるいは青釭剣の石の聲がまだ聴こえたなら)
 と考えつき、調整の際に持たせてみたりしたのだが
「さっぱり、だめでしたわい」
 剣匠は涙ぐみながら笑って明かし、無断で青釭剣を他者に握らせたことを詫びた。

 ほかに変わったことと言えば、青釭剣を預けに行った趙子龍を鉄竜は尻尾を振って歓迎したというのに、受け取りに行ったときはチラと視線をくれるだけで家の隅に蹲っていたことだが、主人の境遇を思えば是非もないと合点して、鉄竜の賢さをこそ褒めようと思ったのだった。

 青釭剣ですら治せぬ呆けをどうしてやれるわけでなし、趙子龍はそののち特段の用事もなく古びた新居を訪ねることができなかった。
 だが見過ごしにできるはずもなく、戦場で鉄竜を最初に拾った肖という少年兵をふと思い出して召しかかえ、折々に御用聞きのようなことをさせ、老人二人の暮らしを見守らせてはいた。
 
 肖が次第に近づきになって得た情報をつなぎ合わせれば、悩み苦しむ倅を見かねて、どうやら剣匠が別居を決めたらしい。
 呆け老人ひとり、幼児をかかえる嫁が手を焼くであろうことは想像に難くない。
 しかし、舅とともに夫の帰りを三年も待っていられ、趙子龍ほどの男に流し目ひとつくれないあの嫁だ。身の回りの世話や噛み合いもせぬ会話に嫌気が募ってのこととも思えない。

「どうも、死に別れたかみさんと嫁さんを、間違え始めたらしいのが深刻だったみたいでした」
 肖少年は、それさえなければ別居せずにいたのではないかという観察を交えて、同情する風をみせた。肖には呆けた家族すら居ない。

 やがて老い衰え世を去るからこそなのか、人は食欲と共に色欲をしつこく持ち続けるものだという醫者もいる。
 だが、生殖せんという、あるいは色欲を満たさんとする本能で嫁に触れようとするのか、それとも本当に亡き愛妻と間違えているだけなのか、呆けた者の心の中を覗ける者は誰も居ない。

 もし間違えているだけなのだとしても、では嫁はどこまで許せるというのか。
 手を握られるぐらいは我慢できようか。
 呆けていようといまいと、その老爺は夫の実父なのだ。健康な倫理観を持つ女ならば、背筋が寒くなろう。それも毎日である。 

 嫁は、言い聞かせても無駄なことがわかっているからこそ、呆けた父を傷つけぬようにうまく躱してきたに違いないが、とうとう我慢のならぬことがあって夫に打ち明けた。
 呆けているとはいえ、昼間、実父が妻に纏わりついていようとは、三歳の子を持つ父である若者には衝撃だったに違いない。だが連れてきたのはほかならぬ自分だ。この苦境をあの剣匠が見過ごすはずもなかった。

「心配すんなって。あんなことがあってもなくても、哥貴とは生涯、義兄弟なんだからよ」 
 と、親不孝を詫びて号泣する息子夫婦をなだめ、淘盡堂店主の伝手を頼って、身も軽く古びた新居に寓したのであった。


 趙子龍は、昼間から不倫めいた話をすることは気がひけて、青釭剣を以ってしても難しかったことのみを彼に伝え、同居が安穏をもたらさぬ無情な現実を言外に滲ませた。
「青釭の剣ですらもか……」
 さすがに彼も遣る瀬無く溜息をついたが、いつもの調子で命じるともなくおっとりと命じた。
「ところでな、用事じゃが。都合の良い時に聞剣の翁のもとへ行ってくれぬか」
「はっ」
「今朝、儂の剣を鉄竜が持っていきおったのでな」
 あまりに軽い調子で彼が続けたので、趙子龍は神妙に茶を喫して茶碗を置いてから耳を驚かせ
「殿。……いま、何と」
 喫したばかりの茶が、口腔で瞬時に乾いたのを覚えた。
「鉄竜が儂の剣を持って行ったゆえ、なにゆえか行って見てきてくれ」
 彼が皆まで言わぬうちに、趙子龍は外套の裾を払って起立し拱手した。
「参ります。直ちにッ」
「これ、子龍」
 まだ茶が残っておるに、という彼の聲をあとに、趙子龍は裾を翻して廊へ駆け上がり足早に退出していった。