同じ頃、軍師の書房では、龍が勤めに励んでいた。
励んで見えるのは傍目にだけで、龍自身は、今日は大層気が散っていることに、朝から何度も気づいている。
普段の龍は、龍の王たる彼が『まるで、磨き抜かれた薄い璧の如きが、空恐ろしい速さで回転を続けるような危うさ』を傍で感じ取るほどに、忽ちに専心し、些かの狂いもなく僅かの停滞もなく、粛粛かつ着着と物事を処してゆく。
――それが、今日はどうであろうか。
下官が竹簡を運ぶ物音、廊のあたりから時折聞こえてくる足音、甍の向こうで鳥が啼く声、草木のさざめき、そして今は、雨が降り出しそうな気配を含んだ微風の匂いにと、たびたび気を削がれている。
そのたびに、龍の瞼には、昨夜の楼台でのひとときが去来してやまない。
彼に
「孔明、近う」
と囁かれ、差し伸べられた彼の手を取ったあとのことである。
彼は、龍と手を取り合い、見つめ合いながら昔話を続けようとした。
その時、彼の視界の端の夜空を、キラリと掠めくだるものがあった。
流れ星であろうと思い、彼はそれを捨ておき
「初平のころの、雒邑の話じゃが……」
と、言いかけると、また、先ほどと同じあたりを、一条の光芒が音もなく、きらめいて消えた。
こたびは残像さえ感じ、五旬を過ぎ、衰えはじめた彼の視力であっても、見間違えたとは思えぬので
「……孔明よ。何の兆しじゃ、あれは。流れ星が、一つならずまたも……」
彼は、先ほど流れ星が相次いで流れたあたりに眸を向け、龍に問うた。
龍は、彼の視線の先を追うて、彼方の方角へと眸を巡らせる。
とはいえ、流れ星はもう流れ去ってしまい、夜空は元の静寂に戻っている。
今更、龍に「何の兆しじゃ」と、問うても詮無きことよと彼は思う。
その矢先、星は三たび流れた。
「おう、見よ。星が。また流れた」
彼は、龍と手を携えたまま、傍らの龍に再び眸で問いかけた。
「ご心配には及びませぬ」
龍は夜目にも皓く微笑み、羽扇の端で二人の視線の先を指し示して
「秋頃は……あの辺り、この頃合に、流星の群れが見えることがございます」
と、彼の問いに答えた。
「左様か……知らなんだの」
龍の言葉と落ち着いた聲音に、人が没したしるしではなさそうであると知り、彼は眉をひらき頬に笑みを含んで、また視線をあげた。
流星の光の跡は細く、ふわりとまろやかに、まばらに現れては消える。
「そうと知れば……うつくしきものよのう……」
彼は我知らず、流星の方角の夜空へ、数歩踏み出して近づこうとした。
「あ、わが君」
彼が一歩踏み出すと、龍は咄嗟に彼と携えた手をほどき、両手で彼の長い腕をとらえて彼の歩みを阻んだ。
この突然の行動で、龍の愛用する白い羽根の扇は、磚の床の暗がりに無造作に投げ出されている。
「……いかがした……孔明」
このような事は今までになかったため、彼はやや当惑しながら心を騒がせて、傍の賢者の白皙を間近に見た。
「御無礼をお許しください。……この辺りの磚は、大層古く、乱れておりますゆえ……」
彼の足元の危険を回避した後、龍は言い淀みながら、彼の腕から手を解こうとした。
それを彼は、惜しいと感じ
「左様か……。ここは先生の庭じゃ。先生が添うてくださるならば、心丈夫じゃ。何の危きがあろう。ささ、共に、星の流るるをしばし眺めることとしようぞ。……いかがじゃ」
そう言いながら、彼は、我が腕に添えられた龍の手に、そっと手を重ね莞爾と笑ってみせたのである。
いま少し流星の方角へ歩み寄るために、なるべく平坦で安全な辺りを龍が選んで進むというのに、二人が歩む様子は、君の腕に臣が縋っているかのようである。
二人が、おのおのが持ち寄った灯火の光が頼りなく届く翳ったところへ移動する間に、流れ星はまた現れては消え、幾筋も夜空を渡った。
彼は、わが腕に添えられた龍の手を包んだまま、静かに夜空を仰ぐ。
「……いくつ、流れるのであろうのう」
「あまた流れまする」
「左様か」
彼の聲音に、少年のように弾んだ若やぎを感じ、龍は胸の辺りに温もりを覚える。
齢五十を超えた彼にとって、この世で目新しいことなど、ほぼ無いのであろう、と日ごろ考えていたが、龍が慣れ親しんだ夜空の中に、彼にとっての未知がまだあったとは、新鮮でもあった。
「……孔明よ」
「はい」
「高祖も、ご覧になったであろうかのう……」
「さて……」
龍は、羽扇を繰ろうとして、先ほど投げ出してしまったことと、なぜ投げ出したのか、そして今、羽扇を握るべき手がどこにあるのかを考え合わせて、内心の狼狽を隠しつつ、答えを探した。
「史書には見えず。いにしえの天文書にも、流星の記述は極めて少のうございます……しかしながら」
彼の腕と手から伝わる温もりが、まるで蜜が伝わり来るかのような粘度をもって、龍の心の奥底へと流れ込んでくる。
もしも、この熱い蜜の如きが心を満たし溢れ出たならば、一体どうなってしまうのかと、鼓動を早めながら、さあらぬ態で龍は落ち着き払った聲音で言葉を続けた。
「……それらは、高祖がご覧にならなかったことの断定には足らぬと心得まする」
平静を装って答える龍の心の奥底では、発した言葉と全く関連のない情感が谺していた。
もしも、この熱い蜜の如きが心を満たし溢れ出たならば。龍の身を溢れ出て、龍の心が彼へと伝わり始めるのではないか。
……離れがたい、失いがたい、に似た、あるいはこれに留まらぬほどの思いが、である。
今すぐ手をほどけば、これほどの思いを彼に知られずに済むのかも知れない。
而るに、この思いを言葉で彼に伝えることなど、できる由もなき以上は、言葉や文字以外の何かを用いて伝え得るのであるならば、はきと言うたことにはならず、むしろその方が良いのかも知れない。
白い賢者は、ぐるぐると思い惑うて、結局は手をほどけもしない。