天府南門橋 廿五

2026/06/24

3世紀中編 天府南門橋

 「……という次第でございました」

裏庭のそばの小径に差し出た庇の下で、官女に見える身なりの、年増の女が小声で話している。

軒下に小雨を避ける風情のこの女のそばには、若いというにはまだ幼さの残る僮が立っており、ふたりが寄っている壁には、格子窓が穿ってある。
女は張府の梨梨(リィリィ)で、梨梨の傍らの僮は、龍の書僮の乖(かい)だ。

格子窓の向こうでは、龍が窓に背を向けて座り、茶を喫している。

梨梨がお使いに来た序でに、顔見知りの書僮と話していると装いつつ、実際のところは、龍と梨梨が窓ごしに談合しているのである。

軍師が執務の合間に、張府の奥女中と面談している様子など、不用意に余人に知られてはうまくない。

立場と場所柄はもちろんのこと、まして今の張府には、重大な機密が発生している。

いよいよ、龍と張府の者が直接に接触している様子など、誰にも気取られてはならないのである。


談合している者同士、たがいに顔を合わせぬので、窓辺で話を聞いていることを示すため、ときおりに茶碗を卓に置く音を、相槌のかわりに梨梨に聞かせていた。

龍は一服し、徐に口をひらいた。
「……すると、将軍の黒駒は、張府の厩にはおらぬのであるな」

久方ぶりに、翡翠の玉が転がるような聲を窓越しに聞き、梨梨は両袖を合わせて低頭した。
「はい。奥方から、そう伺いましてございます」
「ほ。それは、なかなか……」

(突然の思いつきにしては、邸に乗り付けぬ機転。さすがは歴戦の豪傑)
張将軍の、豪放一点張りと思いきや、時に細心さを見せる意外性を、龍は面白がっている。


梨梨の話によれば……。

張将軍は一昨日、飄然と水井坊の馴染みの酒屋に現れたらしいのだ。

「よ! 儲かってるかァ?」
「あっ……? 将軍、いつ成都にお戻りで……? お呼びくだされば、こちらから参上しますのに……」
「シー。声がでけェよ」

帳場に番頭しかいない隙を見計らって、張将軍は声をかけたらしい。

そしてその場で、みずから酒をたんまりと注文して裏に回り、荷車にひしめく酒甕に紛れて、自分の身柄ごと、張府の「酒屋専用の門」から帰還したらしいのだ。

愛馬は、水井坊が出荷によく使う水路が城外に流れ出た先の、人通りのない叢の木蔭に繋いできたらしい。

馬の隠し場所として、人目すくなく水も草もあるところを抜け目なく選び、隠しもせず堂々と置いてくるとは、行動は突然であったとしても(もし、秘密裏に帰還する場合は)を、張将軍が何度も夢想していた傍証かもしれない。

「奥方さまはカンカンでしたが、将軍は
『あれだけの悍馬はまず居ねえからな、盗もうったって、蹴り入れて靡かねェさ』
……と、自信たっぷりで仰せで……」

梨梨は、両袖を揃えて低頭した姿勢をピタリと保ち、張将軍の口調を棒読みで龍に伝えた。

軍師にとって、笑うところなのかどうか、よく分からなかったのである。


龍は、珍しく、朗らかな短い笑い声を立てた。

乖も、龍につられてクスクス笑いをして、梨梨の緊張を和らげようとしていた。
(先生って、基本、恐れられちゃっているからなあ……)

乖は、梨梨が緊張して畏っている姿のほうを、可笑しく感じているのだ。

主君たる彼の前で、しおらしくしている龍の一面も知っている乖としては、天下の豪傑・張翼徳の愛馬が、成都の片隅でぽつねんと繋がれているらしき情景よりも、今のこの状況のほうに、なんだか笑いが出てしまうのだった。

「して、将軍のお加減はいかがか」
「はい。お気は確かながら、ひどい二日酔いで、厠へゆかれるのがやっとのご様子です」
「上首尾なり。今宵から復調すると奥方に伝えよ」
「承りました」

龍は、白い羽扇をじっと見つめ、縁を指先でなぞった。
「そのほうに問うが……」
なぞりながら問い、羽根の繋ぎ目でぴたりと指先を止めて、龍はやや思案した。

「……件の楽女、これまでにその楽女を張府へ召した事はあったか」
「ございません」

昨夜、彼から聞いた話を思い出して、龍は重ねて問うた。
「調べによれば、昨夜の宴にて楽女が歌を披露した由。……将軍は、昨夜その者の歌を初めて聴いたのであるな」

正確には、龍が調べ上げたのではなく、その宴の主賓であった彼から、昨夜聴いたことを考え合わせたにすぎない。

龍の脳裏を、慕わしいあの仁君のおもかげがよぎり、龍は、またもや気が散りそうになる。

慌てて、茶碗を取り上げて顔を左右に振り、茶の香りを聞いて心を落ち着けた。

「左様でございます。
将軍だけでなく、奥様も下々の私どもも、張府一同、皆でございます」

(張府、軍師様に筒抜けじゃないの……。もう、ハラハラするっ)
梨梨は、龍の地獄耳にどきりとしながら、ありのままを答える以外はない。

「左様か」
(それは。後顧の憂いを除いておく必要がある)
龍はさらに問うた。

「件の楽女は、どこの者か。なぜ張府へ召した」
「はい。……南門の茶楼の者です。斯様な仕儀で、誤って張府へ参ったところ、流れにて宴に侍らせました」


斯様な、とは、こういうことらしい。

張将軍は、注文分の酒甕が荷車に積まれて、番頭が人手を確保しにその場を離れた僅かな間に、別な荷車の上の、見慣れぬ酒甕をめざとく見つけた。

(おッ? 新酒かァ? そいつはいっぺん、呑んでみるべきだろ。銀はあとで二倍やれば、文句はあるまいゼ)

と、あの怪力で大きな酒甕を荷車に自力で追加し、何食わぬ顔で荷車に紛れて帰還した。

なんとその酒甕は空で、酒ではなく楽女が入っていた、という椿事がおまけについてきた、ということらしかった。

梨梨は、今朝方に女楼主と話をしており、さらに込み入った事情を知ってはいた。

しかし、おそらく、龍の関心は「張将軍を穏便に閬中へ帰すこと」にあると思い、張府内で見聞きしたことを答えるよう努めた。


龍は、些細なことほど後に禍根となる事例をあまた知っているため
(念には念を)
と思い、微かに頷いた。


白い羽扇をひとつ繰ると立ち上がり、窓へ向かって少し声を張って、梨梨に命じた。

「よろしい。
……直ちに再びその楽女を雇うて……。女一人では怪しかろうゆえ、幾人かを一団とし、奥方から閬中へ慰問の遣いの役を受けさせよ。必ずその楽女を入れよ。算段は夫人に任せる」
「かしこまりました」

梨梨は、格子窓の向こうの人影に対して、いちいち両袖を揃え直して応じる。
「楽女らを雇う銀は取らせる。後刻、銀と通行証を乖に託すゆえ、委細もその折に」

「かしこまりました。奥方に以下を復命いたします。
 一つ、閬中へ慰問の遣いを立てる準備を直ちにすること
 一つ、その使いに必ず昨夜の楽女を入れること
 一つ、銀と通行証はお遣わしくださること
 一つ、委細は後ほど乖さんから承ること
……おそれながら、この四つで相違ございませんか?」

梨梨は、指を折りながら、格子窓の向こうの龍へ問いかける。

梨梨は、機転が利かぬかわりに、役目に忠実であろうとして、自分なりにこのように念を入れる癖がついている。

龍は、過去に張府の夫人の遣いとして梨梨が初めて来たとき、龍が求める前に下知を復唱したことを今でも覚えている。

奥女中とはいえ、梨梨を「能吏」として龍は見ており、張府の内々のことは梨梨を通すことに決めているのだ。

「いかにも。夫人に、よしなにの」
龍は、茶碗を取り上げてから、卓上にコトリと音を立てて置き直して乖に合図した。


(つづく)