「……という次第でございました」
裏庭のそばの小径に差し出た庇の下で、官女に見える身なりの、
軒下に小雨を避ける風情のこの女のそばには、
女は張府の梨梨(リィリィ)で、梨梨の傍らの僮は、
格子窓の向こうでは、龍が窓に背を向けて座り、茶を喫している。
梨梨がお使いに来た序でに、
軍師が執務の合間に、張府の奥女中と面談している様子など、
立場と場所柄はもちろんのこと、まして今の張府には、
いよいよ、龍と張府の者が直接に接触している様子など、
談合している者同士、たがいに顔を合わせぬので、
龍は一服し、徐に口をひらいた。
「……すると、将軍の黒駒は、張府の厩にはおらぬのであるな」
久方ぶりに、翡翠の玉が転がるような聲を窓越しに聞き、
「はい。奥方から、そう伺いましてございます」
「ほ。それは、なかなか……」
(突然の思いつきにしては、邸に乗り付けぬ機転。
張将軍の、豪放一点張りと思いきや、時に細心さを見せる意外性を、
梨梨の話によれば……。
張将軍は一昨日、飄然と水井坊の馴染みの酒屋に現れたらしいのだ。
「よ! 儲かってるかァ?」
「あっ……? 将軍、いつ成都にお戻りで……? お呼びくだされば、こちらから参上しますのに……」
「シー。声がでけェよ」
帳場に番頭しかいない隙を見計らって、
そしてその場で、みずから酒をたんまりと注文して裏に回り、
愛馬は、水井坊が出荷によく使う水路が城外に流れ出た先の、
「奥方さまはカンカンでしたが、将軍は
『あれだけの悍馬はまず居ねえからな、盗もうったって、蹴り入れて靡かねェさ』
……と、自信たっぷりで仰せで……」
梨梨は、両袖を揃えて低頭した姿勢をピタリと保ち、張将軍の口調を棒読みで龍に伝えた。
軍師にとって、笑うところなのかどうか、よく分からなかったのである。
龍は、珍しく、朗らかな短い笑い声を立てた。
乖も、龍につられてクスクス笑いをして、 梨梨の緊張を和らげようとしていた。
龍は、珍しく、朗らかな短い笑い声を立てた。
乖も、龍につられてクスクス笑いをして、
(先生って、基本、恐れられちゃっているからなあ……)
乖は、梨梨が緊張して畏っている姿のほうを、可笑しく感じているのだ。
主君たる彼の前で、 しおらしくしている龍の一面も知っている乖としては、天下の豪傑・ 張翼徳の愛馬が、 成都の片隅でぽつねんと繋がれているらしき情景よりも、 今のこの状況のほうに、なんだか笑いが出てしまうのだった。
「して、将軍のお加減はいかがか」
「はい。お気は確かながら、ひどい二日酔いで、 厠へゆかれるのがやっとのご様子です」
「上首尾なり。今宵から復調すると奥方に伝えよ」
「承りました」
「して、将軍のお加減はいかがか」
「はい。お気は確かながら、ひどい二日酔いで、
「上首尾なり。今宵から復調すると奥方に伝えよ」
「承りました」
龍は、白い羽扇をじっと見つめ、縁を指先でなぞった。
「そのほうに問うが……」
なぞりながら問い、羽根の繋ぎ目でぴたりと指先を止めて、
「……件の楽女、これまでにその楽女を張府へ召した事はあったか」
「ございません」
「ございません」
昨夜、彼から聞いた話を思い出して、龍は重ねて問うた。
「調べによれば、昨夜の宴にて楽女が歌を披露した由。…… 将軍は、昨夜その者の歌を初めて聴いたのであるな」
「調べによれば、昨夜の宴にて楽女が歌を披露した由。……
正確には、龍が調べ上げたのではなく、 その宴の主賓であった彼から、昨夜聴いたことを考え合わせたにすぎない。
龍の脳裏を、慕わしいあの仁君のおもかげがよぎり、龍は、 またもや気が散りそうになる。
慌てて、茶碗を取り上げて顔を左右に振り、 茶の香りを聞いて心を落ち着けた。
「左様でございます。
将軍だけでなく、奥様も下々の私どもも、張府一同、 皆でございます」
将軍だけでなく、奥様も下々の私どもも、張府一同、
(張府、軍師様に筒抜けじゃないの……。もう、ハラハラするっ)
梨梨は、龍の地獄耳にどきりとしながら、 ありのままを答える以外はない。
梨梨は、龍の地獄耳にどきりとしながら、
「左様か」
(それは。後顧の憂いを除いておく必要がある)
(それは。後顧の憂いを除いておく必要がある)
龍はさらに問うた。
「件の楽女は、どこの者か。なぜ張府へ召した」
「はい。……南門の茶楼の者です。斯様な仕儀で、 誤って張府へ参ったところ、流れにて宴に侍らせました」
「はい。……南門の茶楼の者です。斯様な仕儀で、
斯様な、とは、こういうことらしい。
張将軍は、注文分の酒甕が荷車に積まれて、 番頭が人手を確保しにその場を離れた僅かな間に、別な荷車の上の、 見慣れぬ酒甕をめざとく見つけた。
(おッ? 新酒かァ? そいつはいっぺん、呑んでみるべきだろ。銀はあとで二倍やれば、 文句はあるまいゼ)
と、あの怪力で大きな酒甕を荷車に自力で追加し、
なんとその酒甕は空で、酒ではなく楽女が入っていた、
梨梨は、今朝方に女楼主と話をしており、
しかし、おそらく、龍の関心は「張将軍を穏便に閬中へ帰すこと」 にあると思い、張府内で見聞きしたことを答えるよう努めた。
龍は、些細なことほど後に禍根となる事例をあまた知っているため
(念には念を)
と思い、微かに頷いた。
龍は、些細なことほど後に禍根となる事例をあまた知っているため
(念には念を)
と思い、微かに頷いた。
白い羽扇をひとつ繰ると立ち上がり、窓へ向かって少し声を張って、 梨梨に命じた。
「よろしい。
……直ちに再びその楽女を雇うて……。女一人では怪しかろうゆえ、 幾人かを一団とし、奥方から閬中へ慰問の遣いの役を受けさせよ。 必ずその楽女を入れよ。算段は夫人に任せる」
「かしこまりました」
「かしこまりました」
梨梨は、格子窓の向こうの人影に対して、
「楽女らを雇う銀は取らせる。後刻、銀と通行証を乖に託すゆえ、
「かしこまりました。奥方に以下を復命いたします。
一つ、閬中へ慰問の遣いを立てる準備を直ちにすること
一つ、その使いに必ず昨夜の楽女を入れること
一つ、銀と通行証はお遣わしくださること
一つ、委細は後ほど乖さんから承ること
……おそれながら、この四つで相違ございませんか?」
一つ、閬中へ慰問の遣いを立てる準備を直ちにすること
一つ、その使いに必ず昨夜の楽女を入れること
一つ、銀と通行証はお遣わしくださること
一つ、委細は後ほど乖さんから承ること
……おそれながら、この四つで相違ございませんか?」
梨梨は、指を折りながら、格子窓の向こうの龍へ問いかける。
梨梨は、機転が利かぬかわりに、役目に忠実であろうとして、 自分なりにこのように念を入れる癖がついている。
龍は、過去に張府の夫人の遣いとして梨梨が初めて来たとき、 龍が求める前に下知を復唱したことを今でも覚えている。
奥女中とはいえ、梨梨を「能吏」として龍は見ており、 張府の内々のことは梨梨を通すことに決めているのだ。
「いかにも。夫人に、よしなにの」
龍は、茶碗を取り上げてから、 卓上にコトリと音を立てて置き直して乖に合図した。
龍は、茶碗を取り上げてから、
(つづく)