春のまろやかさを含んだ早朝の空気は清く、どこか芳しく心地良い。
「成都での春は初めてでございますが、やはり春は、何やら良いことがありそうな心地になりまするなぁ」
ワシが騎乗する馬を引きながら、いつもののんびりした口調で、こやつはとりとめもない話をする。
「そうじゃのう。……いずちも春は、良いものじゃな」
「左様でございますね、旦那様」
こやつは、ワシが将軍になる前から仕えておる。
それゆえ、ワシを「旦那様」と呼ぶ。
父の代から仕えていた者ではなく、ひょんなことから、ワシが召し抱えることになった。
ワシも別に、改める必要はないと思うておる。
むしろ、こやつから「旦那様」を聞くたびに来し方を思い出し、若返る心地がする。
今や皆、ワシを
「老将軍」
と呼ぶのでな。
その度にワシは、額に青筋を立てては
「『老』は余計じゃっ」
と、眼光鋭く言い放つのに忙しい。
こやつ、特にこれと言って取り柄はないのだが、若い頃から血の気の多いワシとしては、この者の、のんびりとした性質が妙に好ましく、長年にわたり身の回りの世話を任せているという具合だ。
こやつも、もうよい年だ。
……白頭翁のワシが言うのも、何だがの。
ゆえに、住み慣れた荊州を離れるにあたり、望むなら暇と銀を与えると言うてみたことがあったが
むしろ、こやつから「旦那様」を聞くたびに来し方を思い出し、若返る心地がする。
今や皆、ワシを
「老将軍」
と呼ぶのでな。
その度にワシは、額に青筋を立てては
「『老』は余計じゃっ」
と、眼光鋭く言い放つのに忙しい。
こやつ、特にこれと言って取り柄はないのだが、若い頃から血の気の多いワシとしては、この者の、のんびりとした性質が妙に好ましく、長年にわたり身の回りの世話を任せているという具合だ。
こやつも、もうよい年だ。
……白頭翁のワシが言うのも、何だがの。
ゆえに、住み慣れた荊州を離れるにあたり、望むなら暇と銀を与えると言うてみたことがあったが
「旦那様。……たとえいずこでも、旦那様のお住まいが、わたしめの荊州なのでございます。お見捨てなければ、終生お仕えいたしとうございます」
と、こやつは目を潤ませるので、結局、成都まで連れてきてしまったわけだ。
人の気配が少ない街の通りを抜けて、ほどなくワシらは、城中の外れの、錦江の支流の向こうに、春の野がひらけた一角に至った。
「……ああ、お見込み通りですね、旦那様。満開です」
「おう」
ワシは馬を降りて、支流の向こうの大木を見遣った。
「春が来たら、こいつと勝負しようと、目を付けていたのだ」
大木は、薄い紅色の花で枝を埋め尽くしている。
八重咲の小花が密集し、枝に小さな美しい鞠が無数に取り付けられているかのようだ。
と、こやつは目を潤ませるので、結局、成都まで連れてきてしまったわけだ。
人の気配が少ない街の通りを抜けて、ほどなくワシらは、城中の外れの、錦江の支流の向こうに、春の野がひらけた一角に至った。
「……ああ、お見込み通りですね、旦那様。満開です」
「おう」
ワシは馬を降りて、支流の向こうの大木を見遣った。
「春が来たら、こいつと勝負しようと、目を付けていたのだ」
大木は、薄い紅色の花で枝を埋め尽くしている。
八重咲の小花が密集し、枝に小さな美しい鞠が無数に取り付けられているかのようだ。
当地の者に聞いたら、櫻花というて、春には見事な花を咲かせるという話じゃった。
「旦那様、ここは……。旦那様には、近すぎるのではありませんか?」
わしは、こやつが何を言わんとしているかを悟り、軽口を叩いてやった。
「馬鹿を言え。強敵じゃぞ。ワシが射るは、幹にあらず。射るはあの、散る花びらじゃ」
「ええっ! ……さすがは旦那様…」
こやつは、目を丸くして、本心から驚いているようだった。
こやつの、こういった素直なところも、戦場に出ては荒みがちな心を和ませる。
本来ワシは、射を研ぎ澄ますことの方が性に合うておる。
いにしえの飛衛や紀昌が至ったという境地の、入り口ぐらいにはワシも立ちたきものよと、思うておる。
「さて、強敵との初手合わせじゃ。小的(シァォディィ)、そちが証人じゃぞ」
「心得ました」
わしは、携えてきた弓に矢をつがえて、対岸の桜の花びらを散らせる一陣の風を待った。
すると、そこへ不意に、小型の舟が滑るようにやってきた。
舟は、対岸にある大きな石に、巧みに寄せられ、しばらくして、2人の人影が、対岸に降り立った。
「あれれ、旦那様の勝負が…」
小的は、のんびりと言葉を発したが、ワシは内心、軽く驚いていた。
ワシのこの、爛爛とした両眼は伊達ではない。
何しろ、ここから百歩隔たろうという対岸の櫻の花びらを狙うワシじゃぞ。
対岸の人影が誰であるかの判別など、嚢中を見るようなものじゃ。
あれにおわすは、主公と軍師殿ではないか。
あの佇まい、軍師殿の羽扇は遠目にも皓く、そして主公の巨きな両の御耳。
見まごうべくもない。
このような早朝に、このようなところへお忍びとは。
わしは稽古じゃが、ご両所は何用で。
……と、思うたが、ここから大声でご挨拶申し上げるは、野暮というもの。
(ん? 野暮とは何じゃ)
ワシが、おのれの考えについて一瞬戸惑っておると
「旦那様、釣り人にしては、身なりが良すぎますなぁ」
小的は、こう呟いて額に掌をかざし、主公と軍師の後ろ姿を眺めておる。
ワシは小的を振り返って、小声で命じた。
「……馬を、向こうの木陰に隠して参れ。無粋はならん」
「かしこまりました」
小的は、ワシの下知に従いつつ、要領を得ぬ表情じゃ。
(無粋?)と、顔に書いてあるわい。
ワシは灌木の陰に身を寄せて、ご両所のご様子を窺った。
ご両所は手を携えて、件の櫻の木に歩をお進めだ。
ははーん。
この櫻に目をつけておったは、ワシだけでないと見える。
ご両所は、櫻の風情を眺めつつ立ち話をしておられる。
軍師殿は、櫻についての蘊蓄を傾けておいでか、主公はしきりと頷いておいでだ。
「旦那様、ここは……。旦那様には、近すぎるのではありませんか?」
わしは、こやつが何を言わんとしているかを悟り、軽口を叩いてやった。
「馬鹿を言え。強敵じゃぞ。ワシが射るは、幹にあらず。射るはあの、散る花びらじゃ」
「ええっ! ……さすがは旦那様…」
こやつは、目を丸くして、本心から驚いているようだった。
こやつの、こういった素直なところも、戦場に出ては荒みがちな心を和ませる。
本来ワシは、射を研ぎ澄ますことの方が性に合うておる。
いにしえの飛衛や紀昌が至ったという境地の、入り口ぐらいにはワシも立ちたきものよと、思うておる。
「さて、強敵との初手合わせじゃ。小的(シァォディィ)、そちが証人じゃぞ」
「心得ました」
わしは、携えてきた弓に矢をつがえて、対岸の桜の花びらを散らせる一陣の風を待った。
すると、そこへ不意に、小型の舟が滑るようにやってきた。
舟は、対岸にある大きな石に、巧みに寄せられ、しばらくして、2人の人影が、対岸に降り立った。
「あれれ、旦那様の勝負が…」
小的は、のんびりと言葉を発したが、ワシは内心、軽く驚いていた。
ワシのこの、爛爛とした両眼は伊達ではない。
何しろ、ここから百歩隔たろうという対岸の櫻の花びらを狙うワシじゃぞ。
対岸の人影が誰であるかの判別など、嚢中を見るようなものじゃ。
あれにおわすは、主公と軍師殿ではないか。
あの佇まい、軍師殿の羽扇は遠目にも皓く、そして主公の巨きな両の御耳。
見まごうべくもない。
このような早朝に、このようなところへお忍びとは。
わしは稽古じゃが、ご両所は何用で。
……と、思うたが、ここから大声でご挨拶申し上げるは、野暮というもの。
(ん? 野暮とは何じゃ)
ワシが、おのれの考えについて一瞬戸惑っておると
「旦那様、釣り人にしては、身なりが良すぎますなぁ」
小的は、こう呟いて額に掌をかざし、主公と軍師の後ろ姿を眺めておる。
ワシは小的を振り返って、小声で命じた。
「……馬を、向こうの木陰に隠して参れ。無粋はならん」
「かしこまりました」
小的は、ワシの下知に従いつつ、要領を得ぬ表情じゃ。
(無粋?)と、顔に書いてあるわい。
ワシは灌木の陰に身を寄せて、ご両所のご様子を窺った。
ご両所は手を携えて、件の櫻の木に歩をお進めだ。
ははーん。
この櫻に目をつけておったは、ワシだけでないと見える。
ご両所は、櫻の風情を眺めつつ立ち話をしておられる。
軍師殿は、櫻についての蘊蓄を傾けておいでか、主公はしきりと頷いておいでだ。
ん?
軍議や宴でのご両所のご様子と、何一つ変わらぬぞ?
……あのご様子は、あれは。
何か意図がおありで、主公はあのように懇ろにお振舞いなのだと考えておったに。
例えば、年若い軍師殿を、主公自ら率先して敬愛し尊重する姿勢を、常に下々へ示して、軍師殿の兵権を揺るぎなく保つため……などじゃ。
あれは。
素だった、ということなの、か……ッ?
こうしてワシが、対岸で石の如くに気配を消しておると、向こう岸では船頭と小者が絨毯を延べ、四隅に鎮子を置き、ご休息の用意をしておる。
その時、ワシが待っていた一陣の春風が吹き渡った。
櫻木は、満開の花で重たげな枝を揺らし、薄紅色の淡い花弁が、吹雪のように辺りを舞った。
軍師殿の若やいだ黒髪は花吹雪に映え、春景を写した絵のようじゃった。
ワシでさえ、今、そう思ったが。
……主公。
風に舞う花びらを目で追いなさりながら、主公は、櫻花よりも軍師殿をご覧とお見受けいたす。
いやはや、この黄漢升の両眼、節穴でございました。
小的が、忍び足でワシの元に戻ってくる気配がする。
「旦那様、勝負は…?」
ワシの様子に合わせて、小的は囁いた。
「引き上げじゃ。今朝はワシの負けじゃ」
「えっ。神弓の旦那様が、まさか、そんな」
小的は、目を丸くして、怪訝な顔でワシを見た。
「ワシはまだまだ、目を養う必要があるようじゃ。櫻に教えを受けたわい」
「え。櫻に……? で、ございますかぁ?」
旦那様の射の道は奥深すぎて、時々わからないのでございます、お許しくださいませ、と、小的が呟く声を背後に、ワシは木陰の馬の元へと退却した。
あの時の風の余韻が運んできた花びらが、ワシらの後を追うてきた気配に、ワシは何となく可憐さを覚えて、櫻花との対戦は取りやめにしようと思い始めた。
そのかわりに、秋が来たなら、あの櫻木が落とすであろう葉に、再び勝負を挑もうと思いつき、心さやぐものを覚えたのだった。
(了)
昭烈忌辰紀念2026雙人小展 題目「花」 によせて
軍師殿の若やいだ黒髪は花吹雪に映え、春景を写した絵のようじゃった。
ワシでさえ、今、そう思ったが。
……主公。
風に舞う花びらを目で追いなさりながら、主公は、櫻花よりも軍師殿をご覧とお見受けいたす。
いやはや、この黄漢升の両眼、節穴でございました。
小的が、忍び足でワシの元に戻ってくる気配がする。
「旦那様、勝負は…?」
ワシの様子に合わせて、小的は囁いた。
「引き上げじゃ。今朝はワシの負けじゃ」
「えっ。神弓の旦那様が、まさか、そんな」
小的は、目を丸くして、怪訝な顔でワシを見た。
「ワシはまだまだ、目を養う必要があるようじゃ。櫻に教えを受けたわい」
「え。櫻に……? で、ございますかぁ?」
旦那様の射の道は奥深すぎて、時々わからないのでございます、お許しくださいませ、と、小的が呟く声を背後に、ワシは木陰の馬の元へと退却した。
あの時の風の余韻が運んできた花びらが、ワシらの後を追うてきた気配に、ワシは何となく可憐さを覚えて、櫻花との対戦は取りやめにしようと思い始めた。
そのかわりに、秋が来たなら、あの櫻木が落とすであろう葉に、再び勝負を挑もうと思いつき、心さやぐものを覚えたのだった。
(了)
昭烈忌辰紀念2026雙人小展 題目「花」 によせて
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