櫻花灼灼 (4/24 漢昭烈忌辰)

2026/04/24

漢昭烈忌辰

春のまろやかさを含んだ早朝の空気は清く、どこか芳しく心地良い。

「成都での春は初めてでございますが、やはり春は、何やら良いことがありそうな心地になりまするなぁ」

ワシが騎乗する馬を引きながら、いつもののんびりした口調で、こやつはとりとめもない話をする。

「そうじゃのう。……いずちも春は、良いものじゃな」
「左様でございますね、旦那様」


こやつは、ワシが将軍になる前から仕えておる。
それゆえ、ワシを「旦那様」と呼ぶ。

父の代から仕えていた者ではなく、ひょんなことから、ワシが召し抱えることになった。

ワシも別に、改める必要はないと思うておる。
むしろ、こやつから「旦那様」を聞くたびに来し方を思い出し、若返る心地がする。


今や皆、ワシを
「老将軍」
と呼ぶのでな。

その度にワシは、額に青筋を立てては
「『老』は余計じゃっ」
と、眼光鋭く言い放つのに忙しい。


こやつ、特にこれと言って取り柄はないのだが、若い頃から血の気の多いワシとしては、この者の、のんびりとした性質が妙に好ましく、長年にわたり身の回りの世話を任せているという具合だ。

こやつも、もうよい年だ。
……白頭翁のワシが言うのも、何だがの。

ゆえに、住み慣れた荊州を離れるにあたり、望むなら暇と銀を与えると言うてみたことがあったが

「旦那様。……たとえいずこでも、旦那様のお住まいが、わたしめの荊州なのでございます。お見捨てなければ、終生お仕えいたしとうございます」
と、こやつは目を潤ませるので、結局、成都まで連れてきてしまったわけだ。


人の気配が少ない街の通りを抜けて、ほどなくワシらは、城中の外れの、錦江の支流の向こうに、春の野がひらけた一角に至った。

「……ああ、お見込み通りですね、旦那様。満開です」
「おう」

ワシは馬を降りて、支流の向こうの大木を見遣った。
「春が来たら、こいつと勝負しようと、目を付けていたのだ」


大木は、薄い紅色の花で枝を埋め尽くしている。
八重咲の小花が密集し、枝に小さな美しい鞠が無数に取り付けられているかのようだ。

当地の者に聞いたら、櫻花というて、春には見事な花を咲かせるという話じゃった。


「旦那様、ここは……。旦那様には、近すぎるのではありませんか?」
わしは、こやつが何を言わんとしているかを悟り、軽口を叩いてやった。

「馬鹿を言え。強敵じゃぞ。ワシが射るは、幹にあらず。射るはあの、散る花びらじゃ」
「ええっ! ……さすがは旦那様…」

こやつは、目を丸くして、本心から驚いているようだった。
こやつの、こういった素直なところも、戦場に出ては荒みがちな心を和ませる。

本来ワシは、射を研ぎ澄ますことの方が性に合うておる。
いにしえの飛衛や紀昌が至ったという境地の、入り口ぐらいにはワシも立ちたきものよと、思うておる。


「さて、強敵との初手合わせじゃ。小的(シァォディィ)、そちが証人じゃぞ」
「心得ました」

わしは、携えてきた弓に矢をつがえて、対岸の桜の花びらを散らせる一陣の風を待った。


すると、そこへ不意に、小型の舟が滑るようにやってきた。
舟は、対岸にある大きな石に、巧みに寄せられ、しばらくして、2人の人影が、対岸に降り立った。

「あれれ、旦那様の勝負が…」
小的は、のんびりと言葉を発したが、ワシは内心、軽く驚いていた。


ワシのこの、爛爛とした両眼は伊達ではない。
何しろ、ここから百歩隔たろうという対岸の櫻の花びらを狙うワシじゃぞ。
対岸の人影が誰であるかの判別など、嚢中を見るようなものじゃ。


あれにおわすは、主公と軍師殿ではないか。
あの佇まい、軍師殿の羽扇は遠目にも皓く、そして主公の巨きな両の御耳。
見まごうべくもない。

このような早朝に、このようなところへお忍びとは。
わしは稽古じゃが、ご両所は何用で。


……と、思うたが、ここから大声でご挨拶申し上げるは、野暮というもの。

(ん? 野暮とは何じゃ)
ワシが、おのれの考えについて一瞬戸惑っておると

「旦那様、釣り人にしては、身なりが良すぎますなぁ」
小的は、こう呟いて額に掌をかざし、主公と軍師の後ろ姿を眺めておる。

ワシは小的を振り返って、小声で命じた。
「……馬を、向こうの木陰に隠して参れ。無粋はならん」
「かしこまりました」

小的は、ワシの下知に従いつつ、要領を得ぬ表情じゃ。
(無粋?)と、顔に書いてあるわい。

ワシは灌木の陰に身を寄せて、ご両所のご様子を窺った。


ご両所は手を携えて、件の櫻の木に歩をお進めだ。
ははーん。
この櫻に目をつけておったは、ワシだけでないと見える。

ご両所は、櫻の風情を眺めつつ立ち話をしておられる。
軍師殿は、櫻についての蘊蓄を傾けておいでか、主公はしきりと頷いておいでだ。


ん?
軍議や宴でのご両所のご様子と、何一つ変わらぬぞ?
……あのご様子は、あれは。
何か意図がおありで、主公はあのように懇ろにお振舞いなのだと考えておったに。

例えば、年若い軍師殿を、主公自ら率先して敬愛し尊重する姿勢を、常に下々へ示して、軍師殿の兵権を揺るぎなく保つため……などじゃ。
あれは。
素だった、ということなの、か……ッ?


こうしてワシが、対岸で石の如くに気配を消しておると、向こう岸では船頭と小者が絨毯を延べ、四隅に鎮子を置き、ご休息の用意をしておる。

その時、ワシが待っていた一陣の春風が吹き渡った。

櫻木は、満開の花で重たげな枝を揺らし、薄紅色の淡い花弁が、吹雪のように辺りを舞った。

軍師殿の若やいだ黒髪は花吹雪に映え、春景を写した絵のようじゃった。
ワシでさえ、今、そう思ったが。


……主公。
風に舞う花びらを目で追いなさりながら、主公は、櫻花よりも軍師殿をご覧とお見受けいたす。
いやはや、この黄漢升の両眼、節穴でございました。


小的が、忍び足でワシの元に戻ってくる気配がする。
「旦那様、勝負は…?」
ワシの様子に合わせて、小的は囁いた。

「引き上げじゃ。今朝はワシの負けじゃ」
「えっ。神弓の旦那様が、まさか、そんな」
小的は、目を丸くして、怪訝な顔でワシを見た。

「ワシはまだまだ、目を養う必要があるようじゃ。櫻に教えを受けたわい」
「え。櫻に……? で、ございますかぁ?」

旦那様の射の道は奥深すぎて、時々わからないのでございます、お許しくださいませ、と、小的が呟く声を背後に、ワシは木陰の馬の元へと退却した。


あの時の風の余韻が運んできた花びらが、ワシらの後を追うてきた気配に、ワシは何となく可憐さを覚えて、櫻花との対戦は取りやめにしようと思い始めた。

そのかわりに、秋が来たなら、あの櫻木が落とすであろう葉に、再び勝負を挑もうと思いつき、心さやぐものを覚えたのだった。


(了)
昭烈忌辰紀念2026雙人小展 題目「花」 によせて

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