音階七音で7題 【A-1】 Ai mo neng zhu 愛莫能助(1)

2007/01/29

21C(パラレル音階七題) 劉公叔の物語(21世紀)

 先生は空の色さえ分からずに車に揺られていたのに、空は先生の心の中など知らないのか、淀みもない青色で、雲ひとつなかった。
 どこの病院へゆくのかと思っていたら
「魯子敬どのの邸にお住まいなのだよ」
 と、後部座席に並んで座る彼に教えられて、先生は少しだけ気が楽になった。病室のベッドに横たわる兄上を想像すると、兄上と対面して兄上の力になれる自信など、今朝が近づくにつれてみるみる失せてゆくのが自分でもわかっていた。

 魯子敬の邸は秋が美しい。
 邸は白萩で囲まれていて、ご近所では「萩屋敷」などという愛称で呼ばれている。秋にならねば萩屋敷が萩屋敷であることを忘れ去られている奥ゆかしさは、そのまま魯子敬の人柄を示しているようでもあって、じつに似つかわしい。
「ああ、これは、ようこそ、劉公叔」
 魯子敬は、車寄せの横の白萩を愛でながら、どうやら彼らを待っていた様子で、迎えにやった車から彼が降りてくるや、大股に近寄って握手を求めた。
「お忙しいところ、お呼び立てすることになってしまいまして、恐縮です」
「子敬どの、何をおおせか。儂らのところにお呼び立てするのは、理にも情にもあわぬではありませぬか」
 彼は、言外に魯子敬の客人を気遣ってそう言いながら、続く先生に長い腕を伸べて降車を扶けた。
「伏龍先生も、ようお越しくださいました。周郎とのこともあり、お越しいただけぬこともやむを得ぬと思いながら……やはり、公叔をお頼りしてしまいました」
「ほかならぬ兄のこと、魯兄にはお匿いくださっている御礼を申し上げこそすれ……」
 兄という言葉を聞いて、魯子敬は複雑な表情を浮かべ
「ともかく、まずは中へどうぞ」
 と、つつましい邸の中へといざなった。

 魯府の客間で、茶が振舞われる。
「……ちょっとお耳に入れておきたいのですが。たいへん申し上げにくいのですが……驚きなさるかもしれませんが……お兄上はいわゆる、記憶喪失という類のようです」
 彼と先生は返答すべき言葉の用意もなく、ただ魯子敬を瞬きもせず見るばかりである。
「言葉はお話しになれます。お人柄も、以前のままに見えます。さすがに孫博士のことは覚えておられて、探検隊に加わっていたことも朧に覚えておいでです。外国語もお忘れではなく、職業であったことも分かっておいでです。ですが……。一命をとりとめたあと、ご自分が誰か、既にお忘れだったと、孫博士は言っておられます。こうして帰国なさっても、わたしのこともお忘れで。あらたに人生にあらわれた『魯子敬という妙におせっかいな男』ぐらいに、覚え直してくださったのだと見ております」
 魯子敬は、期待を隠せないまなざしで先生の白皙をみつめた。
「もしかしたら、ご家族に会えば、あるいは……と。虫が良すぎるのですが」
 先生は俯く以外にない。魯子敬が先生に期待をいだくのも無理はないという状況を察した以上に、自分がその期待に直ちに応えられる由もないであろう厳しい現実を受け止めかねた。
「孫博士はもちろんですが、実は、われらが当主がひとかたならぬ落胆でして。我々も、腫れ物に触るようです」
「ご当主が」
 彼は、ようやく相槌を打ちやすい話題に転じたところで言葉を発し、喉が渇いていたことに気がついて茶を服した。
「博士が研究に専念する前、当主が気楽な次男坊だった頃、外国語の家庭教師が子瑜先生でして。語学だけではなく、あの率直でしかも温厚なお人柄に、多感な年頃の当主はすっかり懐いて、お父上のように慕っておりまして。第一次探検隊に子瑜先生を加えるという話が持ち上がったときは、それはもう、激しい兄弟喧嘩をなさいました」
 魯子敬は、当時を思い返して懐かしみ、ひとり、短く笑った。その笑いを共有できるものは客間に居ない。孫呉の若き当主が同席していたとしても、おそらく笑える心境ではない。
「周郎は周郎で、孫博士とは双子のように肝胆相照らす仲で……。孫博士失踪のあとは、ビジネスには背を向けて音楽の修羅の道に、それは痛ましいほどに打ち込むことになったと言えます」

 彼も先生も、黙って聞くほかはなく、そして今の段階では機転の利いた質問ひとつできないのも当然で、魯子敬が語り続けるばかりである。
「孫博士の生還は、周郎には福音ですが、子瑜先生のことについては……当主にとっては相当にダメージが大きいと見ねばなりません。プライベートなことについて、公叔と先生のお力添えを願うのですから、本来ならば私ごときの家などで、お話すべきことではないのではありますが、僭越をお許しください」
 ここに孫呉海運の若き当主も同席して然るべきであることを婉曲に詫びた。
「それから、おわかりにならない色が多いです。高名な眼科医にもかかりましたが、視力に全く異常はありません。検査の数値はどれも『むしろ理想的』だそうです」
 かいつまんで話したことについて、他者と共通した理解が伴ってくるには、時間が必要である。魯子敬は気長に待った。
「……お会いせずに今日は帰るという選択も、もちろんあるがな。兄上に会わずにおれば、明日どのようであったらよいか、そなたの聡明を以てしても分からぬのではないか」
 彼は、先生の意思を尊重しようと、水を向けた。居間の時計の秒針の音だけが饒舌だった。
 先生がなかなか応じないのだが、彼も全く動じないので、魯子敬は茶を喫しながらじっと待っている。
「知らせれば、そなたは同時に辛い思いをすることは分かりきっていた。だが、あとから知ったならば、なお残酷であろうと思った。そして、儂は、そなたはきっと乗り越えられると信じておるし、そなたなしでお兄上が回復できるとも思えなかった」

 魯子敬は、少なくとも彼は、このことに対する考えが魯子敬と同じであることにまず安堵する。あとは先生の応答次第である。
「儂には、何ができるというわけではない。それはわかっておる。だが、お前の大事な兄上のことは、儂の家族の一大事である。それだけは確かなことだ。お前も儂も、いまのお兄上と接触を持たずに居ることが穏当だとは、とても思えん」
 先生は長い間、考えて、吉とも凶ともにわかには判断できなかった天文の相を思い出した。間違えなかったら吉に転じるという楽観をいだくよりも、間違えたなら凶に転じるという恐怖の方を重く感じたのだ。いっそ、どちらなのかの兆しぐらい現れていれば、会うべきか会わざるべきかの結論を導きやすかったかもしれない。結局、先生が信じたのは彼の言葉であったと言えた。
「……会ってみようと……思います。でも、今日、あなたの弟ですと早速に名乗っても良いものか……迷います」
 ようやく迷いながらも選択をした先生に、魯子敬は内心ほっとした。彼の口添えがなければ、今日のことはもっと先か、あるいはなかったかも知れない。
「それは、お兄上のご様子次第で決めたらよいのではないか。今日ただちに名乗りあえずとも。時々、お邸にうかがえるよう、如何様にも用件は用意できる。どうであろう、子敬どの」
「心得ました。お任せ下さい」

 魯子敬の、状況に応じた優れたバランス感覚は、天性のものである。そして、魯子敬は基本的に人の長所を見ることに長けていて、今日のこの選択さえあれば、あとは時間の問題であろうという直感に愁眉をひらいていた。


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