「夏の夜の公園を独り占めして、こうしてアイスバーを食う。どうじゃ、大将になった気分じゃろ」
「大将の気分よりも、アイス! おいしいです!」
「そうか」
「……父うえ、ありがとうございます」
「おう。よいからまず食おう。溶けるぞ」
彼ら親子は、鈴虫が賑やかに鳴く夜の公園のジャングルジムのてっぺんに並んで、西涼乳業夏季限定フローズンアイスバーを齧っていた。公園の前の横断歩道を渡った交差点の角にあるローカルコンビニチェーン「LOUSANG-楼桑」で、行きがけに彼が購入して与えたのだ。
公園でつくつくぼうしが啼く午後、月に何回かこなさねばならない「書斎に缶詰で署名の日」、明かり取りの細い嵌め殺しの窓のUVスクリーンすら射通す容赦ない残暑の西日に負けじと励み、それでも残ってしまった最後の十枚と食後に決着をつけて
「禅よ、父は公園で息抜きがしたいのだが、ちょっとお前もつきあわんか」
と、彼は子息を夜の公園に誘ったのだった。
実は半月ほど前、彼は朔の日の星空を見ていた先生から
「近く、はじめは吉なのか凶なのかわからぬ、思いがけぬことがあるようでございます。……どうも、世の中のことではなく、身の回りに起こるようでございます。お仕事上のご人脈の可能性もございますが……」
という、先生にしては曖昧な、先生自身がなぜか落ち着かぬような占星の所見を巨きな耳に入れられていた。
気象に加えて天体観測も先生の趣味のひとつで、その関連で独自の観星術を編み出している。それは、民放のニュースのあとによく流れる「今日の恋愛運最高は、○○座のあなた!」というあの類ではなく、九星占星術に易経を補ったような内容らしい。
占いというものは、天気予報とは違い、どう転んでも良いような含みを持つものだが、先生の占いは違う。しばしば、現状と近い将来に即した、格言に似た趣なので、彼はご先祖からの忠告といった位置づけで虚心に聞くことにしている。
それから、書斎で署名三昧をしている時に
「お昼間のことでございますが、禅さまがお帰りになってから、おやつも召し上がらずに……ご先祖のお位牌の前で泣いておいででした……」
と、三日前の寝物語に聞いた先生の心配事も思い出していた。
彼の子息は、学校の成績はいまひとつだが、家族の和や友情を大切に考える美点がある。食事時などは変わらずにマイペースで明るく振舞っているが、先生が長椅子の部屋で読書に耽っている夜に、このところいつになく屋上で時間を過ごして考え込んで溜息をついているらしいことを、彼は先生の話のおかげで察していた。
そして昨日、今年に入ってからビジネスパートナーとして重きをなしている孫呉海運の魯という男から私的なメールが着信し、先生の星占いはどうやら子息に関することではないと判断した。一日考えて、まず子息の憂いを軽くすることから始めることにしたのだ。
「禅。儂がお前ぐらいの頃な、ここに遊具ができる前のことじゃ。ちょうどここに、
大きな桑の木があった。儂は、父上が亡くなったあと、よく一人で登って、お前のばあさまが探しに来たものだ」
(そっか。父うえは、小さい頃におじいさまが亡くなったんだった)
「母に相談したいことがあったのではないか。父の耳のでかさは伊達ではないぞ。ゆうに、ふたり分じゃ」
彼はアイスを持っていないほうの手で、耳たぶを引っ張ってみせた。
「……父うえは、関おじ上か、張叔父さんと、ケンカしたことありますか」
「喧嘩か。意見が違うて言い合うことは今も昔もありはするが、儂はそれを喧嘩だとは思うておらん」
「そうですか……。そうですよね」
子息が押し黙ってうつむいたので彼は察して
「姜君と、喧嘩でもしたか」
ずばりと言い当てた。
「……ぼく、そんなつもりじゃなかったんだけど、姜くん泣かせちゃって……。すごくショックです」
「禅よ、お前が人に意地悪をするような人間ではないことぐらい、毎日お前を見ていれば分かる。誤解ならそのうち解けようぞ。案ずるな」
「でも、ぼくも多分わるかったんです、だって……」
姜少年は、天水からの転校生で、父の急逝によって親戚を頼っての転居に伴い、後漢帝大附属小に飛び級で転入してきた秀才である。
彼の子息は、学校の成績はそれほど良くはないが、秀才の姜少年と気が合って親しい。
「この前のプールの日の帰りに、夏休みの思い出のこと話してたら、お父さんの話になっちゃって……。姜くん、だんだん泣きそうになってたから『おとうさん、お墓に住んでなんかいないよ。いつだって姜くんのそばにいるよ。ぼくの母うえも、そんな風なんじゃないかって思うんだ』って、励ますつもりで言いました。そしたら……」
「そしたら、どうしたのだ」
「『ありがとう劉くん、でも僕はまだ、そんな風に思えない』って、なんか棒読みみたいに言って、そのまま泣きながら走って帰っちゃって……」
彼の子息は、姜少年がまだ父親の急逝から癒えないことを察していて、こうして親しくなった今も、父親の話題を不自然に避けはしないが、『おとうさん、どうして亡くなったの?』の如き無邪気で不用意で無神経な問いを決して問いかけない。
それが病気であったとしても事故であったとしても、その辛い日のことを聞いて、姜家についての情報を増やせはしても、それが姜少年の心が癒えることに直ちにつながるわけではないことを、まだ幼くも、経験上知っている。
「禅よ、おそらくお前は間違ってはおらんぞ。ただ、姜君にはまだ時間が必要なのだろう。待ってやれ」
「秀才なのに、間違ってないって分かってくれないの? 時間って、どれぐらいですか?」
「秀才であったなら、テストの答案を書くように父上のことも理路整然と乗り越えられるのか? 待ってくれる友はいらんのか? どんな辛いことも一人で考えて悩み、一人で生きてゆけるのか?」
「……ひとりじゃ、無理だ、……っておもいます。母うえのこと、ぼくがそうだったし。姜くんにとって、その友達がぼくだと嬉しいけど……」
「うむ、それから時間のことだが、たとえば……母を亡くして一年余りのお前が、さきほどのお前の言葉を聞いたなら、直ちに心強くなったかな」
「……ぼく、まだその頃だめだった……です」
急に、アイスがおいしいのかどうかわからなくなってきながら、子息はもうひとかけらを齧った。
「時の薬の効き目は、人によっても違う。年上のお前が辛抱して、待ってやれ。そういったことが、だんだんと分かってくればよかろう。若き頃に立ち返り、弟分の気性を考え合わせ、じっと待つことも兄者の義務であるぞ。そして、無駄に歳ばかり食うておらんかったことを天に謝することができる、それも兄者ならでは味わえる喜びというものじゃ」
「……あと、もう二度と言わないからって謝ったらいいのかもしれないけど、ぼく、バカだから、また言うかもしれないから、それも言い出せなさそうで……」
彼は、子息の一見愚直でしかし誠実で驕らない考え方を好ましく思っている。「もう二度と」など、聞こえは良いが、往往にして、明日以降の将来の自分が今の自分よりも賢明で慎重に成長しているという無根拠な慢心が吐かせる無責任なたわごとにすぎない。
「お前が心から言える言葉で、謝ればよいではないか。バカな子が、こんなに人のことを思い悩んだりできると思うのか。自信を持て」
「でも、『じこまんぞく』っていうやつなのかな、……とか」
「お前は姜君を憐れんでなどおるまい。姜君の心の痛みを思う自分に酔ってもおらん。痛みを分かち合えるなら分かち合いたいのではないか。どうなのだ」
「姜くんがかなしいみたいだと、ぼくもかなしくなる……っていう気持ちです」
「そのような思いを自己満足で片付けてしまったら、友情も何も、始まらんではないか」
「そうかな……。ぼくなんかでも、『始まる』んですか」
「いま、お前以外に誰かおるのか。あの天水の秀才の繊細な気難しさを、待っていようとする者が」
「わからないんですけど……ぼく、姜くんのほうがずっと頭がいいって知ってるし、ぼくって取り柄なんてないけど、もしも大人になっても、父うえと叔父うえたちみたいに、ずっと仲良しだったらすごくいいなって思うんです。姜くんは優等生だから、すぐ妬まれてて。ぼく、妬むのって嫌い。妬んでいじめても、羨ましいものが手に入るわけじゃないのに。姜くんが転校してきたときからなんか放っておけなくて……」
「弟みたいなものか」
「うーん、よくわかんないんですけど、弟って、もし居たら、こんなふうかなって思います。ただの友達よりずっと気になるんです」
「ははは、ならばお前も、一人前の兄者ではないか」
彼は小さな背を大きな掌でぽんぽんと叩いて景気をつけた。
密かに憧れの「兄者」という言葉を聞いて、少し照れくさく、目のやり場に困って、子息は食べ終えたアイスの棒を弄ぶ。
「! あっ、父うえ! 『あたり』! 出てました!」
「儂もじゃ」
「これなかなか当たらないんですよ! 父うえの引きの強さ! いつもですけど、やっぱりすごい!」
子息は声をはずませた。姜少年のことがあって以来、初めて心楽しく嬉しいラッキーだった。
「幸先がよいではないか。西涼乳業もどうやらお前を応援しておる。今度のプールの日に、普段通りに姜君を誘いにゆけ。きっと仲直りできようぞ。仲直りできたら、ほれ、帰りに二人でアイスバーを齧れ。腹を壊すなよ」
彼は気前よく「あたり」の棒を子息に差し出したのだった。
先生が長椅子で読書に耽っていると軽いノックの音がした。
「どうぞ」
「読書のきりはよいか」
「公叔」
きりも何も、当然のように本を伏せて立ち上がり、先生は扉へ近寄った。
「少し、夏痩せしたのではないか」
眠っている先生ばかり見ている忙しい毎日が続くと、できなくなることを彼はしてみようと、長い腕を伸べた。
「人は皆、夏痩せするものでございます」
「外は随分と風が出てきて涼しい。鈴虫の声でも聞かぬか……ああ、そうじゃ。虫除けをしてからな」
彼は長い腕をほどいて、先生を庭へと誘った。
風の中に秋が訪れても都会の空気は淀みがちで、そこへまるい月を加えて三等星ぐらいまでがやっと見える夜空のもとで芝生を踏みながら、彼はいましがたの公園での出来事を話して、まず先生のちいさな安心を誘った。
次いで、半月前の先生の占いの内容を大雑把に思い起こして、頭の中で反芻してから
「お前の占いは当たった。良い知らせと悪い知らせがあってな。どちらかだけを知らせるわけにはゆかん。驚かないようにな」
丸木を磨いて横に渡した腰掛けに先生を座らせ、月のもと、ゆっくりと話し始めた。
「数年前から行方不明であった孫呉海運の前の当主が生還した」
考古学界の小覇王という異名をとっていた若き博士・孫伯符である。
「亀茲王国の遺跡調査で、砂漠に忽然と消えた御方……」
「そうだ。二週間ほど前に、ちょっとしたニュースになっておった。遭難後、中東の探検隊に救われたらしきものの、あのあたりは未だに、民族や国境について何かと難しいであろう、こたびようやく消息が知れて、めでたく帰国となったようだ」
「それでな、この話には続きがある。魯子敬どのの筋の消息でな。帰ってきたのは孫博士だけではなかった」
先生は、星が何を告げていたのか、いま可能性が急速に絞られてゆくのを感じたのか、全身を耳にして聞き入っている。
「もうおひとり生還した人がいた。通訳として行動を共にしていた人だ」
「……その人の、お名は」
早く聞きたいような、聞くのが怖いような、先生は月の海のように複雑な陰影を浮かべていた。
「姓はお前と同じ。名は子瑜」
「公、叔」
「本当だよ。帰国後の会見には孫博士と弟御だけが臨んで、世間は知らん事だが、魯大人は信頼できる。珍姓であるし、まず、間違いなかろう」
驚きと嬉しさと、失ったとさえ思った日々を取り戻せるかもしれない期待と、言い尽くせぬ感情で胸が一杯で、先生は言葉もなく、朗報をもたらしてくれた彼の懐に飛び込むことしかできなかった。
「ただ、言いにくいのだが……病を得ておいでのようなのだ。どうやら、おまえ一人では会わぬがよい。明日の午後、ともに兄上の見舞いにゆかぬか」
<音階七音で七題 全8話>全話一気読みへのショートカットは → こちら
「大将の気分よりも、アイス! おいしいです!」
「そうか」
「……父うえ、ありがとうございます」
「おう。よいからまず食おう。溶けるぞ」
彼ら親子は、鈴虫が賑やかに鳴く夜の公園のジャングルジムのてっぺんに並んで、西涼乳業夏季限定フローズンアイスバーを齧っていた。公園の前の横断歩道を渡った交差点の角にあるローカルコンビニチェーン「LOUSANG-楼桑」で、行きがけに彼が購入して与えたのだ。
公園でつくつくぼうしが啼く午後、月に何回かこなさねばならない「書斎に缶詰で署名の日」、明かり取りの細い嵌め殺しの窓のUVスクリーンすら射通す容赦ない残暑の西日に負けじと励み、それでも残ってしまった最後の十枚と食後に決着をつけて
「禅よ、父は公園で息抜きがしたいのだが、ちょっとお前もつきあわんか」
と、彼は子息を夜の公園に誘ったのだった。
実は半月ほど前、彼は朔の日の星空を見ていた先生から
「近く、はじめは吉なのか凶なのかわからぬ、思いがけぬことがあるようでございます。……どうも、世の中のことではなく、身の回りに起こるようでございます。お仕事上のご人脈の可能性もございますが……」
という、先生にしては曖昧な、先生自身がなぜか落ち着かぬような占星の所見を巨きな耳に入れられていた。
気象に加えて天体観測も先生の趣味のひとつで、その関連で独自の観星術を編み出している。それは、民放のニュースのあとによく流れる「今日の恋愛運最高は、○○座のあなた!」というあの類ではなく、九星占星術に易経を補ったような内容らしい。
占いというものは、天気予報とは違い、どう転んでも良いような含みを持つものだが、先生の占いは違う。しばしば、現状と近い将来に即した、格言に似た趣なので、彼はご先祖からの忠告といった位置づけで虚心に聞くことにしている。
それから、書斎で署名三昧をしている時に
「お昼間のことでございますが、禅さまがお帰りになってから、おやつも召し上がらずに……ご先祖のお位牌の前で泣いておいででした……」
と、三日前の寝物語に聞いた先生の心配事も思い出していた。
彼の子息は、学校の成績はいまひとつだが、家族の和や友情を大切に考える美点がある。食事時などは変わらずにマイペースで明るく振舞っているが、先生が長椅子の部屋で読書に耽っている夜に、このところいつになく屋上で時間を過ごして考え込んで溜息をついているらしいことを、彼は先生の話のおかげで察していた。
そして昨日、今年に入ってからビジネスパートナーとして重きをなしている孫呉海運の魯という男から私的なメールが着信し、先生の星占いはどうやら子息に関することではないと判断した。一日考えて、まず子息の憂いを軽くすることから始めることにしたのだ。
「禅。儂がお前ぐらいの頃な、ここに遊具ができる前のことじゃ。ちょうどここに、
大きな桑の木があった。儂は、父上が亡くなったあと、よく一人で登って、お前のばあさまが探しに来たものだ」
(そっか。父うえは、小さい頃におじいさまが亡くなったんだった)
「母に相談したいことがあったのではないか。父の耳のでかさは伊達ではないぞ。ゆうに、ふたり分じゃ」
彼はアイスを持っていないほうの手で、耳たぶを引っ張ってみせた。
「……父うえは、関おじ上か、張叔父さんと、ケンカしたことありますか」
「喧嘩か。意見が違うて言い合うことは今も昔もありはするが、儂はそれを喧嘩だとは思うておらん」
「そうですか……。そうですよね」
子息が押し黙ってうつむいたので彼は察して
「姜君と、喧嘩でもしたか」
ずばりと言い当てた。
「……ぼく、そんなつもりじゃなかったんだけど、姜くん泣かせちゃって……。すごくショックです」
「禅よ、お前が人に意地悪をするような人間ではないことぐらい、毎日お前を見ていれば分かる。誤解ならそのうち解けようぞ。案ずるな」
「でも、ぼくも多分わるかったんです、だって……」
姜少年は、天水からの転校生で、父の急逝によって親戚を頼っての転居に伴い、後漢帝大附属小に飛び級で転入してきた秀才である。
彼の子息は、学校の成績はそれほど良くはないが、秀才の姜少年と気が合って親しい。
「この前のプールの日の帰りに、夏休みの思い出のこと話してたら、お父さんの話になっちゃって……。姜くん、だんだん泣きそうになってたから『おとうさん、お墓に住んでなんかいないよ。いつだって姜くんのそばにいるよ。ぼくの母うえも、そんな風なんじゃないかって思うんだ』って、励ますつもりで言いました。そしたら……」
「そしたら、どうしたのだ」
「『ありがとう劉くん、でも僕はまだ、そんな風に思えない』って、なんか棒読みみたいに言って、そのまま泣きながら走って帰っちゃって……」
彼の子息は、姜少年がまだ父親の急逝から癒えないことを察していて、こうして親しくなった今も、父親の話題を不自然に避けはしないが、『おとうさん、どうして亡くなったの?』の如き無邪気で不用意で無神経な問いを決して問いかけない。
それが病気であったとしても事故であったとしても、その辛い日のことを聞いて、姜家についての情報を増やせはしても、それが姜少年の心が癒えることに直ちにつながるわけではないことを、まだ幼くも、経験上知っている。
「禅よ、おそらくお前は間違ってはおらんぞ。ただ、姜君にはまだ時間が必要なのだろう。待ってやれ」
「秀才なのに、間違ってないって分かってくれないの? 時間って、どれぐらいですか?」
「秀才であったなら、テストの答案を書くように父上のことも理路整然と乗り越えられるのか? 待ってくれる友はいらんのか? どんな辛いことも一人で考えて悩み、一人で生きてゆけるのか?」
「……ひとりじゃ、無理だ、……っておもいます。母うえのこと、ぼくがそうだったし。姜くんにとって、その友達がぼくだと嬉しいけど……」
「うむ、それから時間のことだが、たとえば……母を亡くして一年余りのお前が、さきほどのお前の言葉を聞いたなら、直ちに心強くなったかな」
「……ぼく、まだその頃だめだった……です」
急に、アイスがおいしいのかどうかわからなくなってきながら、子息はもうひとかけらを齧った。
「時の薬の効き目は、人によっても違う。年上のお前が辛抱して、待ってやれ。そういったことが、だんだんと分かってくればよかろう。若き頃に立ち返り、弟分の気性を考え合わせ、じっと待つことも兄者の義務であるぞ。そして、無駄に歳ばかり食うておらんかったことを天に謝することができる、それも兄者ならでは味わえる喜びというものじゃ」
「……あと、もう二度と言わないからって謝ったらいいのかもしれないけど、ぼく、バカだから、また言うかもしれないから、それも言い出せなさそうで……」
彼は、子息の一見愚直でしかし誠実で驕らない考え方を好ましく思っている。「もう二度と」など、聞こえは良いが、往往にして、明日以降の将来の自分が今の自分よりも賢明で慎重に成長しているという無根拠な慢心が吐かせる無責任なたわごとにすぎない。
「お前が心から言える言葉で、謝ればよいではないか。バカな子が、こんなに人のことを思い悩んだりできると思うのか。自信を持て」
「でも、『じこまんぞく』っていうやつなのかな、……とか」
「お前は姜君を憐れんでなどおるまい。姜君の心の痛みを思う自分に酔ってもおらん。痛みを分かち合えるなら分かち合いたいのではないか。どうなのだ」
「姜くんがかなしいみたいだと、ぼくもかなしくなる……っていう気持ちです」
「そのような思いを自己満足で片付けてしまったら、友情も何も、始まらんではないか」
「そうかな……。ぼくなんかでも、『始まる』んですか」
「いま、お前以外に誰かおるのか。あの天水の秀才の繊細な気難しさを、待っていようとする者が」
「わからないんですけど……ぼく、姜くんのほうがずっと頭がいいって知ってるし、ぼくって取り柄なんてないけど、もしも大人になっても、父うえと叔父うえたちみたいに、ずっと仲良しだったらすごくいいなって思うんです。姜くんは優等生だから、すぐ妬まれてて。ぼく、妬むのって嫌い。妬んでいじめても、羨ましいものが手に入るわけじゃないのに。姜くんが転校してきたときからなんか放っておけなくて……」
「弟みたいなものか」
「うーん、よくわかんないんですけど、弟って、もし居たら、こんなふうかなって思います。ただの友達よりずっと気になるんです」
「ははは、ならばお前も、一人前の兄者ではないか」
彼は小さな背を大きな掌でぽんぽんと叩いて景気をつけた。
密かに憧れの「兄者」という言葉を聞いて、少し照れくさく、目のやり場に困って、子息は食べ終えたアイスの棒を弄ぶ。
「! あっ、父うえ! 『あたり』! 出てました!」
「儂もじゃ」
「これなかなか当たらないんですよ! 父うえの引きの強さ! いつもですけど、やっぱりすごい!」
子息は声をはずませた。姜少年のことがあって以来、初めて心楽しく嬉しいラッキーだった。
「幸先がよいではないか。西涼乳業もどうやらお前を応援しておる。今度のプールの日に、普段通りに姜君を誘いにゆけ。きっと仲直りできようぞ。仲直りできたら、ほれ、帰りに二人でアイスバーを齧れ。腹を壊すなよ」
彼は気前よく「あたり」の棒を子息に差し出したのだった。
先生が長椅子で読書に耽っていると軽いノックの音がした。
「どうぞ」
「読書のきりはよいか」
「公叔」
きりも何も、当然のように本を伏せて立ち上がり、先生は扉へ近寄った。
「少し、夏痩せしたのではないか」
眠っている先生ばかり見ている忙しい毎日が続くと、できなくなることを彼はしてみようと、長い腕を伸べた。
「人は皆、夏痩せするものでございます」
「外は随分と風が出てきて涼しい。鈴虫の声でも聞かぬか……ああ、そうじゃ。虫除けをしてからな」
彼は長い腕をほどいて、先生を庭へと誘った。
風の中に秋が訪れても都会の空気は淀みがちで、そこへまるい月を加えて三等星ぐらいまでがやっと見える夜空のもとで芝生を踏みながら、彼はいましがたの公園での出来事を話して、まず先生のちいさな安心を誘った。
次いで、半月前の先生の占いの内容を大雑把に思い起こして、頭の中で反芻してから
「お前の占いは当たった。良い知らせと悪い知らせがあってな。どちらかだけを知らせるわけにはゆかん。驚かないようにな」
丸木を磨いて横に渡した腰掛けに先生を座らせ、月のもと、ゆっくりと話し始めた。
「数年前から行方不明であった孫呉海運の前の当主が生還した」
考古学界の小覇王という異名をとっていた若き博士・孫伯符である。
「亀茲王国の遺跡調査で、砂漠に忽然と消えた御方……」
「そうだ。二週間ほど前に、ちょっとしたニュースになっておった。遭難後、中東の探検隊に救われたらしきものの、あのあたりは未だに、民族や国境について何かと難しいであろう、こたびようやく消息が知れて、めでたく帰国となったようだ」
「それでな、この話には続きがある。魯子敬どのの筋の消息でな。帰ってきたのは孫博士だけではなかった」
先生は、星が何を告げていたのか、いま可能性が急速に絞られてゆくのを感じたのか、全身を耳にして聞き入っている。
「もうおひとり生還した人がいた。通訳として行動を共にしていた人だ」
「……その人の、お名は」
早く聞きたいような、聞くのが怖いような、先生は月の海のように複雑な陰影を浮かべていた。
「姓はお前と同じ。名は子瑜」
「公、叔」
「本当だよ。帰国後の会見には孫博士と弟御だけが臨んで、世間は知らん事だが、魯大人は信頼できる。珍姓であるし、まず、間違いなかろう」
驚きと嬉しさと、失ったとさえ思った日々を取り戻せるかもしれない期待と、言い尽くせぬ感情で胸が一杯で、先生は言葉もなく、朗報をもたらしてくれた彼の懐に飛び込むことしかできなかった。
「ただ、言いにくいのだが……病を得ておいでのようなのだ。どうやら、おまえ一人では会わぬがよい。明日の午後、ともに兄上の見舞いにゆかぬか」
<音階七音で七題 全8話>全話一気読みへのショートカットは → こちら