音階7音七題 【F】 Fatherliness

2007/01/29

21C(パラレル音階七題) 劉公叔の物語(21世紀)

劉家の当主である彼は、土日は特に忙しい。

今年の父の日も、紫陽花を愛でる茶会に招かれており、郊外の日本庭園へ出かけていった。子息は去年と同じく、父の日の作文に頭を抱えて、メイドサービスの甘小姐に助け舟を請うて、常山出身の執事は書斎の前室で事務処理に励む、そんなありふれた日曜の午前中のことであった。

暖炉の部屋の長椅子で、先生が読書に没頭していると、軽いノックの音がした。10時のお茶には少し早かった。
「どうぞ」
先生が応じると、執事である常山の好漢が、コードレスホンの受話器を掴んで姿をあらわした。
「読書中のところ失礼いたします。……先生、水鏡先生からお電話なのですが、少々心配でして」
「心配、ですか?」
先生は栞も挟まずに本を置いて立ち上がり、執事が差し出すコードレスホンを受け取って耳を傾ける。

オレンジ色を発する小さなディスプレイには『水鏡先生(携帯)』の文字に続いて、電話番号が黒黒と表示されていた。通話時間を示すデジタル表示は無感情に一秒ごとに刻まれてゆく。

「もしもし、老師」
 水鏡老師の明朗で枯れた声は応答しない。
「……先生、それが、着信した時から無言電話なのです」
「無言?」
「間違って短縮ダイヤルのボタンが押された状態になっただけなのかもしれませんが、なにぶんご高齢ですので、何となく……」
「老師、水鏡老師」
先生がしばし呼びかけていると、執事の腕時計が十時を告げる電子音を短く発した。その約10秒後、先生は変事を察知した確信と動揺を白い面に浮かべて、かたわらの執事を見上げて、珍しく語気を強めた。
「子龍どの、申し訳ございませんが、タクシーを使わせていただけませんか。すぐ、老師のご自宅に参りたいのです」

先生は早口にそう言って、もう玄関先へ向かっている。
執事は胸ポケットから携帯を取り出し、電話帳から出入りのタクシー会社の名を選択してダイヤルしながら、先生と同じ手がかりを得ようと追いすがった。
「はい。……先生、なぜご自宅と?」
 先生の確たる判断の理由がわからないまま、執事は事態の深刻度を言葉短く測った。
「老師の携帯電話は旧式です。加えて、居間の鳩時計が鳴き終わったあとには、必ず口癖を仰せのはずなのです」
 口癖とは、いうまでもなく
『よき哉、よき哉』
 である。
「ご自宅に間違いありませんか」
「鳩の鳴き声と、声の間隔と、時計の扉の開閉音の軋みが。ご自宅に相違ありません」
 執事は先生の耳の良さに舌を巻きながら、これらのことのみで事態をおよそ飲み込んだ。

二つ折りの型の携帯電話は蓋を開かねばダイヤルできない。ちょうど10時を告げた鳩時計に応答していない。ダイヤルするときは何事もなく、誤ってダイヤルしたとしても、電話付近に居るであろうにも関わらず、10時を過ぎて口癖がないとは、たしかに変事の可能性を重く見るべきである。

四コール半で繋がったタクシー会社のオペレーターに手短に配車を要請して
「三分で参ります。先生、経費で落ちますのでこのタクシーチケットを。ご遠慮なさらず帰りもお使いください。それから、現金や細かい御用に足りるものは、だいたい入っております。公叔にはわたしから報告します。さあ、」
車寄せで待つような悠長はできずに、門扉まで走っていこうとする先生を玄関先で捕まえて、執事は黒い小さな肩掛け鞄と、書斎にあった当主の雨コートを持たせて送り出した。


「済まん、ワシとしたことが」
水鏡老師は自宅のベッドの上で、かかりつけ医が往診して施していった点滴を受けながら、細い眸を巡らせて、枕頭の愛弟子の白皙を見上げた。
「大事に至らず、ようございました。……お薬をお忘れになったのでございますね」
「バレたか」
「お膝元で、何年暮らしたとお思いですか」
「まったくじゃな」
ひとごとのようにわざと軽い調子で応じて、水鏡老師は詳しく語らず、続きを笑いに紛らわせた。
「お一人暮らしを止めはいたしません。せめて、ナースの巡回サービスぐらいはそろそろお考えください」
「まだそれほど耄碌はしておらんわい。それにワシ、面食いじゃろう。不細工なナースなら御免蒙る。ちゃんと、お前が来てくれたではないか」
「医療は容貌でするものではございません」
「わかった。薬はうっかりでも忘れんように気をつける」
吊り下がった透明な輸液バッグは、老師の生体としての不備を補うべく、音もなき滴りを続けている。

老師の持論は、「老人こそ都会生活が必要」で、交通至便なマンションに一人暮らしをしている。妻女は若い頃に他界し、子も居らず、天涯孤独であるが、寛容で闊達で、ときに無邪気な人柄からは、家族の縁の薄さなど、微塵も感じられない。

後漢帝大の非常勤講師を務め、華僑の名家で漢学の講釈をし、カルチャースクールで琴を教え、悠々自適である。 そんな老師には生来の持病があるが、人生の達人の領域を生きるようになってから、我が身がこの世か、この世が我が身か、わからぬほど心軽やかな日々が多く、うっかりと服薬を忘れることがある。
耄碌とは違い、年々円熟を遂げてゆくにつれて、服薬すら忘れるほどであるという、病人が聞けば羨ましいほどの境地ゆえの落とし穴ともいえる。

「ワシもまだまだ命が惜しいと見える。これはいかんと思った時には、公叔のお邸の、ほれ、「3」の釦を押しとった」
その時は床に転がったのであろう携帯電話を握って、短縮ダイヤルの釦を押す真似をして、老師はカラカラと笑い声を立てながら眉尻を下げてみせる。
「子龍どのが、老師からの無言電話を訝しんで、いちはやくお知らせくださったのです」
「まったくあの男は。動じんな。たいした男だ」
「また、人をお褒めになって誤魔化しなさる」
「バレたか」
目尻の皺に茶目っ気を漂わせる老師のベッドサイドに、先生は跪いて枕元に囁いた。
「老師はわたくしの恩師であり、祖父であり、父でございます。いつまでもお元気で長生きくださらねば、ご恩返しもできません。未熟なわたくしは、いつまでもお導きが必要でございます」
老師は照れるように鼻の奥で笑いを紛らわしながら訥訥と言葉を發した。
「……昔は、そのつもりであったがな。恩のことではないぞよ、お前の父祖がわりというところじゃが。今はな、もう、自慢の弟子を遠くで眩しくみつめる師というだけで、よいのだよ、ワシは」
「急に、どうなさったのですか、お気の弱いことを」
「お前は、祖父でもあり、父でもあり、そして父祖以上である公叔と、いつまでも元気で幸せに寄り添うておることが、ワシへの恩返しと思うてよいのだぞ。これ以上、何を望もう」 

天才らしくもなく、何と応じようか迷う十歳の子供のような表情の先生に老師は眼を細めて、なおもつづけた。
「……お前はあの頃、どう思ったかは知らぬが、お前の才とお前に出会うて、ワシは、もう少し生きてみようと思うた。お前が心から幸せに笑む日に、居合わせたいと思うた。それは叶うた。そして、それは公叔のご仁徳によって、今日も明日も叶いつづけるのだ。……ワシは今、この世がうるわしゅうてならん」
点滴の効果があらわれてきたらしく、老師は眠気を催して、瞑目して呟きつづけた。
「知っておるか。父の日とは、父としても世に経ることができる喜びを天に謝する日であるぞ。……きっと公叔も同じようなお心持ちであろうよ」
すやすやと血色も良く寝息をたてはじめた老師をしばし見守ってから、先生は、今日は老師の家に泊まることを考えて、徒歩1分のコンビニエンスストアで泊まりの準備を整えようと、鞄の中を検めた。

まず長財布らしきものを取り出すと、診察券のような白い紙片三枚が一列に差し込まれた、A4三ッ折りの大きさの透明なカード入れが、つられて床に落ちた。
それを拾い上げて見入り、先生は涙を滲ませて立ち尽くしてしまっていた。
カード入れに入っていたのは三枚とも彼の名刺で、その裏には、短文と署名が等しくしるしてあった。

『この者は我が子も同然の家族です。いま彼が必要な扶助が高額にのぼる場合も、後日の債務履行を誓約します。なにとぞご高配ください』



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