音階七音で7題  【E】 Ecstasy

2007/01/29

21C(パラレル音階七題) 劉公叔の物語(21世紀)

 蝉が鳴き止んだ真夏の夜、アジアの某都市の郊外にある公叔邸の寝室では、天井の四枚羽のファンが緩く回り、寝台のまわりを巡る白いモスキートネットを揺らしていた。

 ベッドサイドのテーブルには、アロマライトが微かにともり、ユーカリとレモングラスが和した暑気も虫も払う薫りが、寝室の空気を淡く染めている。邸に住まう天才ピアニストは喉が弱いので、蚊取り線香の煙も、近頃では主流の液体方式の薬剤も不向きなのだ。

 モスキートネットが揺れているのは、微風のためだけではないかもしれない。
五十がらみの男の寝室にしては、季節のうつろいと共に繊細さを増してゆくしつらいの中で、部屋の主たる彼はまだ眠りに落ちもせず、傍らに臥する人と密やかに語らっていた。

 先生は涼しい楊柳の襦袢を身につけて、透けるほど薄い柔らかなガーゼ地の、マオカラーの珍しい寝間着を纏っている。先生が長年愛用していた寝巻着から型を起こさせ、彼が命じてこの夏に何枚か新調させたものである。たとえば映画によく出てくる、古き良きヨーロッパの寄宿舎の子弟が着ている丈の長いパジャマのような趣は、若く中性的な貌だちの先生によく似合う。

「……。おや、耳を咬まれたのか」
 彼は、白い耳朶に熟れた桃のような色を呈する箇所を見とがめた。返事がないのは、いましがた鬢に唇を寄せられたばかりで、先生はそれだけでどきどきとしてしまっているからであろう。
「書庫の隅などには、どうしても潜んでいるものだ。書庫に入るなとは言わん。虫除けを忘れぬようにせねば。誰が甜いか、知っておるのだ。……しばらくは、お預けではないか。ん?」

 彼は、先生のどきどきを知ってか知らずか、痒みを誘発しないように、蚊が咬んだ跡を避けて、耳の後ろの髪の生え際のあたりをそっと撫でながら、象牙細工のような耳のすぐそばで囁きかけた。
 先生は彼が醸す甘さに、いまだにどう応じてよいかわからず
「日本の怪談を思い出しました」
 このあいだの熱帯夜に、彼に聞かせた怪談の題名を色気もなく呟いた。
 怨霊に魅入られた琵琶法師が、全身に経文を書き付けてその法力で難を避けようとしたところ、惜しいかな耳にのみ書き忘れ、両耳を冥界に持ち去られてしまったという話である。
 語っていたはずの先生が途中で眠ってしまったので、二夜連続前後編になった記憶は彼の脳裏に新しい。
「ああ、あれはまずまずに、怖かった」
 と言いながら、彼は巨きな耳を引っ張って見せたが、歴史的に「耳削ぎ」という刑罰を持っていた国の彼らにとっては、あまり怖くもなかったのかもしれない含み笑いを続けて
「そうじゃ、休みの日は、儂が虫除けを塗ってやることにしようか……今でも良いのだが」
 おもに日差しと冷房の底冷えを嫌って、夏でも袖と裾の長い装束を好む先生は、手や耳にかぎらず、額なども蚊に狙われやすい。劉家の常備薬の箱のなかには、一般に広く市販されているスプレー式の虫除けに加え、乳幼児の全身に使えるジェルタイプも備えられるようになっている。彼は、少し良からぬ思いつきを、わざと仄めかした。

 先生が「塗ってください」と言えるわけもなく絶句したその隙に、彼は軆を寄せると、あっという間にガーゼの寝巻着から先生の白い肩を露にしてしまう。肩に吐息と口髭の感触を得るや、先生はこぼれそうになった小さな聲を、ほっそりとした五指を揃えた両手で遮って、そのあと至近距離で彼と目があってしまい、たまらず
「ご覧にならないで、くださいませ」
 そのまま両手で白皙を覆って震えた。
「どうしたのだ? ……儂しか居らんのだから、何を言うてもよいのだぞ。言うてご覧」
 涙も聲もこらえようとしてすすり泣きを始めた先生の髪をあたたかに撫でて、彼は温雅な聲をかけた。
 なぜ泣いているのか、いつでもその答えはひとつきりではない。いつも泣かせてしまうことは分かってはいても、彼はやはり、先生の膚を許されることをやめられない。
「……分からないのです」
 蚊のなくような聲で、先生は俯く。

 先生は軆が痛もうことよりも心が痛んでやまない。
 生殖を伴い得ないことについて、軆が異を唱えているようで、そしてそれは、彼を倫に背かしめていることへの良心の呵責にも思えることがあり、息を怺えて何もかも耐えようとしてしまう。
 それならば、彼への深い想いにも蓋をして身を引くべきではないかとさえ思い詰めて、また自分で自分を責め苛むのだ。
 そして、そのような情感とは別に、きっとこのような時、ねだるような表情をしているのではないか、このはしたなさに消え入りたくもなってしまう。
 それらばかりではない、言葉に尽くしがたいほどに湧きいでるあまたの感情が、先生を混乱させて涙に暮れさせる。
 このような感情も、このような混乱も、彼以外の者に対しては全くと言ってよいほど感じないということが、また先生を困らせる。先生の涙を一番の憂いに数えてくれる彼に、理由不明ともいえる涙をこうして不用意に見せてしまう自分に対しても、遣り場のないような思いをいだくばかりである。

「そなたが分からぬとは……だ。それは蓋し、難問であるな」
 彼はいつでも余裕たっぷりで、先生が胸の内で張り裂けそうなほどの想いを募らせてやまないことを知らないかのようで、知性だけでは埋めることのできない廿年分の心の寬さと気の長さが、時に憎らしいほどである。

 先生はこのようなことに淡く生まれついているために分かっていないが、男というものは、このような時に泣きじゃくられでもすると、無理矢理に行為を遂げてしまうか、憮然として背を向けて寝るか、寝室を出てゆくものである。
 しかるに彼は、年の功というべきか、それとも彼自身の性格が為さしめるのか、細い肩におっとりと寝間着を着せなおすと、先生の華奢な軆をぎゅっと抱きしめて、血の繋がりもありもせず、歳も廿も違い、そして法的に結ばれることも望めぬことなど、先生の不安を招いているであろう問題のうち、大きいと思われることをいくつか数えてから
「だがな、そのようなことを全て忘れるほどに、そなたが心にかかって止まぬのは……そなたが美貌だからでも、その若い軆から離れがたいからでもない。ましてそなたがこの世で最も賢く、世界一のピアニストだからでもない。そんな、単純なことではないのだぞ」
 ハッピーエンドのおとぎ話を紡ぐように、優しげにゆっくりと白い耳に囁いて聴かせた。

 理解されないことに慣れてしまったことと、理解されなくても良いことはおのずから別で、長らく誰にも理解されなかったからこそ、彼が先生をありのまま理解しようと心を砕き、今のように往々にして正鵠を射ていることが、怖い以上に、かなしいほどに嬉しくて、そして、怖いほどのこの嬉しさと、遠い将来にいつの日か別れねばならない人の世の儚さとに、先生はまた言葉にすらできず、一筋の涙をこぼした。

「それでな、もう目をあけてもよいかな」
 先生が、あたたかな長い腕の中でハッと白皙をあげると、彼はじっと目を瞑って笑んでいた。
「見るなというたであろう」
「あ……」
 実際にいつから見ていなかったのかは今となってはわからないが、彼は先生を深刻に陥らせない状況のつくりかたをよく知っている。その証拠に、口髭の下の唇は、頗る機嫌のよさそうな弧をえがいていた。
 かといって「どうぞ」と言えば、「どうぞ続きを」とねだっているようで、これもまた先生に言えるはずもなく
「今夜も……おとぎ話をお聞きくださいますか」
 掠れた聲でそう言うのが精一杯なのだった。
「そうじゃな、『めでたし、めでたし』の話なら聞こうか」
 彼は先生の許しがないので、笑みを含んで目を閉じたまま、そう応じてみた。
「……むかしむかし、小さなお城のお殿様にはうつくしいお姫さまがありました。肌は雪のように白く、黒黒とした豊かな髪を持ち、白雪姫と呼ばれていました」
 先生はこの話をどこまで続けるつもりだろうか。
 もしかしたら今夜も途中で寝落ちしてしまうのかもしれず、そして毒林檎のあとの展開は底本によって異なるのではあるが、王子が登場するまで彼は辛抱強く待ってみることにした。
(だとすれば、随分と姥桜の白雪姫ということになるがな。白雪婆……、いや、爺か)

 軆にものを言わせてもおらぬのに、この聡明な頭脳を彼のことで一杯にしている先生が今たしかに傍らにいることが、彼にとってこの世の奇跡のひとつであり、何もかも忘れてしまうほどの官能にまさる至福なのである。


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