春爛漫の、日本の用務先で手配されていたホテルの客室の居間で、彼は分厚い指先で、数字のボタンを押し、国際電話をかけていた。
「おはようございます。吉クリニックです。診療は9時からですが、急病はこの限りではありません。どうなさいましたか」
若い、きびきびとした女性の声がした。吉平先生の長女である。
「おはようございます。いつもお世話になっておる劉です。朝早く申し訳ございません」
「あっ、おはようございます、公叔殿下でいらっしゃいますか。父でございますね」
「はい」
「少々、お待ちを……。今……、ただいま、おかわりします」
彼はその間に思いついて、部屋に供されていた桜の塩漬けを少し碗にとり、
ポットから熱湯を注いで蓋をかぶせた。
「もしもし、お待たせいたしました」
「吉先生、お早うございます、劉です。朝早く失礼、時差が待てませんで」
「おお、日本にご用務でしたな」
日本とは一時間の時差がある。
吉先生は腕時計が7時30分過ぎを指しているのをチラと見て
「お大事な先生が、お風邪でも召しましたかな」
さすがに劉家のホームドクター、長年の経験と勘で、ずばりと言い当てた。
「……という具合でです、微熱だけなら、普段のとおりに安静にして辛抱すればよかろうと思うのですが、外国のことゆえ少々心配でして」
このたび、例の震災の復興支援の事業の協力者として、彼は、日本に招かれていた。
孫呉財閥が、かねてから計画していた旅客運輸業への参入の試みの初事業である、東アジアクルーズについて、ブレーンの周家との確執はさておき、
魯という男に請われて、船内の娯楽コンテンツや、寄港地周辺におけるプランの充実などに、人脈を発揮したのだ。
もちろん、彼の人脈を武器に、被災地支援に繋がる知恵を絞ったのは先生である。
このクルーズの旅行案内パンフレットには、日本の観光庁が配布している
「がんばろう! 日本」の、桜のロゴと、「がんばろう! 東北」があしらわれ、
一見、他の豪華クルーズと変わらない風であるが、ページを繰れば、有名百貨店や電気店で買い漁りをし、マグロを大量消費する如き陳腐さを払拭し、
今までになく華僑富裕層の心をとらえる内容を呈している。
この歴然とした違いは売上の順調な伸びを招き、早くも、夏までの三回のクルーズは完売であった。
日本に関心のある者は、かの震災にも関心があると同時に、おのずと日本の地理的特色にも一定の理解と知識を持っている以上、消費者の慎重な本音を汲んだ航路に落ち着き、当面の寄港地は、博多港のみにとどまった。
だが、ゆくゆくは、島影の明媚な瀬戸内海を通り、東京横浜を経てさらには北日本航路への就航も見込んで、魯は、東北の名刹に住まう普浄和尚の意見の聴取の継続をもとめ、今後も彼の助力を望んでいる。
仔細はさておき、彼は、今回の、日本への初寄港の船上レセプションへの出席と、翌日からの日本側との意見交換のため、日本語も堪能な先生を、通訳兼臨時秘書として伴い、円滑なビジネスはもちろんのこと、ひそかに、つかの間の、先生と四六時中一緒である日々を楽しんでいたのであった。
昨日、スケジュールをこなし終えて、予備日としていた今朝、先生の具合がいつになく優れずに、心配で居てもたってもいられなかった。
「ふむ。熱は37.2度、喉の痛み、倦怠感あり、食欲なし、吐き気はなし、……そこへ発疹」
「はい。もしも何か伝染病であったなら、病院へのかかりかたや帰国について
も慎重にせねばなりませんが、まず、大事には至らぬのか不安でして」
「落ち着かれよ。問診では、先生は、はしかの類は済ませたというご記憶でご
ざいましたよ……。それに、日本は公衆衛生のよく行き届いた国の一つ、そう
おいそれと……それは痒いのですか」
「いえ、何ともないようです」
「大きさや分布はいかがか。虫刺されのように腫れていますか。水泡のような
ものを伴っていますか」
「小さく、まばらに、針で刺したように赤い点です。顔にはあまり出ず、胸や
肘の内側や腿のあたりなどに多く……腫れも水泡もありません」
吉先生は、アラフォー独身のひとり娘の耳に入ることを憚りもせず、重ねて問
うた。
「……公叔、これは医師として伺いますが、昨夜は房事はあったのですかな」
「ありました」
昨夜というより、今日に日付が変わる頃、彼は、花もはじらうほどの先生の膚を、隈なくみがくように酔うて、あらん限りの情を注いで、春宵の短きを惜しんだのだった。
その回数も申告するべきなのだろうかと迷いながら、心配の募るあまり、我知らず電話口の聲が大きくなっていることに気づいて、寝室の先生に聞こえないよう、問われたら答えることにした。
「ふむぅ、もし湿疹がないとしたら、お具合はいつもの通りなのですかな」
「そう見えます」
「昨日一日、何か変わった料理などを口になさいましたか」
「変わった……。そうじゃ、日本料理は淡くて口に合うようで、湯葉とか申す
物を好んで食べておりました」
「湯葉。象牙色のふにゃっとした、あれですか」
「はい」
「日本のハーブ類と一緒にですかな。緑の」
「はい、しかし、用心して加減しておったようですが」
「フムゥ」
ちょっとぉ、お父様、写メ送ってもらっちゃったらぁ?
と、向こうから吉先生の長女の、遠慮のない声が洩れ聞こえた。
吉先生の手が即座に受話器を塞いで、やかましいわい、黙っとけ、と、怒鳴った声が微かに響く。
「ゥオッホン。失礼しました。そちらは東京でしょうか」
「いや、ハカタです」
「いまご滞在のお宿の住所をうかがえましょうか?
先生のカルテの写しを渡してよろしいというご承諾がいただけるなら、ちょっと同窓生をあたってみますので、ご心配なら往診を」
「先生、ありがたい。もちろんです。……ええと」
「はい、Hotel Three Kingdoms Hakata、はい、玄界区、はい、御濠3丁目……」
メモを取る老父の白髪頭ごしに、記された文字をひょいとのぞいて、吉先生の娘は
「お父様、そこって。『二名花』の? ちょっと。聞いてる?」
活発な調子を潜めもせずに吉先生に意見した。
「なんじゃ。今、大事な話を」
「あたしだって大事な話よ。そこのアメニティグッズの、芳香植物成分とかは?
もしかして、バスオイルとか、歯磨き粉とか、うがい薬とか?」
吉先生は、経口の可能性があるアイテムを聞きとがめた。
「うがい薬? ……ホテルでか?」
「若い女の子達にすごく人気の、あの、喬姉妹プロデュースの、『二名花』の。
ラグジュアリーアロマコフレ、今月だけ春限定パッケージで、三国グループ
のホテル全室に置いてるって。レアできれいなうえに、すごいラインナップ。
スチュワーデスやってる友達の、ブログで見たわよ」
植物精油製品で、健康とアンチエイジングを売りに世界進出をしている、人気化粧品メーカーの名を聞いて、吉先生もピンと来た。
植物研究所も併設していて、アロマテラピーの薬効について、さかんに論文発表も行なっている企業で、かねてから目にとまってはいた。
「……シオネールか」
「うん」
「だが微量だろ。娘どもに飛ぶように売れておろうに、症例は聞かん」
「えー、漢方薬があんなに効きやすい、先生の軆を知ってるドクターの発言と
思えないわ。巷の頑丈な娘どもと、先生は違うわよ。もし高濃度だったら、精油も疑っとくべきじゃない?」
いつもは、臨床経験の多寡を理由に、娘の口出しなど耳をかさない頑固親父が、なぜかこの時ばかりは
(そちらのアレルギーの発想はなかった)
と、医師としての直感から閃くものがあり、同時に娘に対する考えを少しあらためた。
「あー……、ごほん。失礼しました、公叔、参考にうかがいますが、お泊りのお部屋の洗面所に、洒落た、うがい薬や……入浴剤などの類はございましたかな」
「ありましたぞ。うがい薬が」
「ボトルですかな。お使いになりましたか」
お父様、バカ。ボトルなわけないじゃん。採算とか衛生ってものがあるでしょ! と、老父の世間知らずを嘆く、ぶつぶつ声が聞こえた。
「こう、一回分ずつ小分け袋に密封されておりまして……。雀の涙ほどでしてな。コップにあけて水で薄めて使う物ですな。昨日は風が強うて、黄砂も来たそうで、儂もともに使ってみました」
(恐るべきは、女の直感と……)
吉先生は、電話口でひやりとした。
「公叔、ひとつの可能性ですが、今日以降は、喉が痛んでもご辛抱いただいて、うがい薬はお控えあって、一日、ご様子をみてもよろしいかもしれませんな」
「うがい薬、が? 儂も使うたが、なんともないですぞ。しかも、飲んだわけではない」
「はい。おおせの通りですが、人体とは、機械のようにはできていませんうえに、個人差というものが大きいものであります。……いままで往診していて思いますに、先生はじつに、繊細で素直なお軆をしておいでで、薬もちょっと控えめでなければ、効き過ぎる傾向がございます」
繊細で素直な軆。
吉先生がホームドクターの意見として述べたに過ぎないこの言葉を、他の男の口から不意に聞いて、彼の頭の中では様々な意味が加わってしまって、駆け巡る。
(それは、この儂が一番よう知っておるというに)
朝から、いつになく血圧が上がりそうになりながらも、おとなしく口を噤んで、受話器に巨きな耳を傾けた。
「念のため、ハカタ近郊の友人に連絡をつけておきます。お熱が上がるなど、
普段と違う様子がありましたら、またお知らせください。わたしか、娘が居るようにいたしますので、ご安心ください。お大事なくば、ご帰国後に、往診にうかがいます」
「孔明」
金色の金具が映える、渋い黒の、艶のある桜材の扉を小さくノックしてから開き、落ち着いた木目調の家具に囲まれて、淡いシャンパンゴールドのベッドカバーの中、起き上がっていた品の良い貌を視界に映して、彼は安堵の笑みを投げかけた。
吉先生の所見を伝え聞いて、何か流行病がうつったのではなく、いわば薬疹の疑いが強いことに、先生はかえって安心したようだった。
「儂が、迂闊であった」
「いいえ。公叔はわたくしに、よかれと思し召して。……痛くも、痒くも、ないのでございますし」
どちらからともなく手を取り合い、疑惑のうがい薬は、かえって二人の心をさ
らに結びつけるばかりである。
「病であったなら、自分のことより、儂を心配していたのではないのか」
彼に、やわらかに問われて、先生はハッと白皙をあげた。
もしも病であったなら、彼にうつる前に何とかせねばと、聡明な頭を一杯にしていたのだ。
何も言わずに、こうしてベッドに埋もれていただけであったのに、なぜ彼には分かってしまうのだろう。
先生は、胸が一杯で、否定も肯定もできず、はぐらかすように言った。
「……お食事を、お召し上がりください」
「そなたを置いて、ひとりでか」
「わたくしは、おそらく今日は喉を通りません」
「食えずともよい。果物か何か、軽いものを持ってきてもらうとしよう」
「……今日は良いお天気ののち、夕方からはまた風が出るはず。お濠の桜も、
きっと見納めでございます」
先生は暗に、彼に桜を見逃さないように勧めた。
「お前は、賢いのに、誤解をしておる」
ベッドサイドの椅子に腰掛けようとして、思い出したように彼は居間へ移動して、先ほどの茶碗を手に戻ってくる。
「確かに日本のお濠の桜は惜しい。またいつ見に来られるかわからん。
だが、儂には、誰と、が常に重要なのだよ」
と、春の光のように微笑みかけた。
白湯でもよいが、このような場合は、ひとつまみほどの塩気があるとなおよい。
彼の亡母の知恵である。そして、猫舌の先生のために、しばらく冷ましていたのだ。
「食わずとも、茶ぐらいは飲まねばなるまい。病めるときは尚更に、お前の傍に
居りたいのだよ、儂は。たとえ代わってやれずともな」
遠い幼き日に、同じ意味の言葉を聞いたことがあるような記憶をたどり、そればかりか、決して親心の如きのみにとどまらない彼の言に、先生はその身が、たちどころに癒えてしまうほどの心地でいた。
慕わしい人の傍で、軆のつくりも、心の動きも、生まれ持ったそのままで居て許されるという、おのれ一人きりでいては到底、めぐまれるべくもない確かにここにある奇跡を、先生はまばゆさひとしおに感じ入ってならない。
「もうよかろうか。おあがり」
彼の手から差し出されたものは疑いもなく口にしてしまうこの世で一番の賢者は、加減のよい桜湯を受け取った。
吉先生が恐れたもののひとつは、この疑いのなさである。
<音階七音で七題 全8話>全話一気読みへのショートカットは → こちら
「おはようございます。吉クリニックです。診療は9時からですが、急病はこの限りではありません。どうなさいましたか」
若い、きびきびとした女性の声がした。吉平先生の長女である。
「おはようございます。いつもお世話になっておる劉です。朝早く申し訳ございません」
「あっ、おはようございます、公叔殿下でいらっしゃいますか。父でございますね」
「はい」
「少々、お待ちを……。今……、ただいま、おかわりします」
彼はその間に思いついて、部屋に供されていた桜の塩漬けを少し碗にとり、
ポットから熱湯を注いで蓋をかぶせた。
「もしもし、お待たせいたしました」
「吉先生、お早うございます、劉です。朝早く失礼、時差が待てませんで」
「おお、日本にご用務でしたな」
日本とは一時間の時差がある。
吉先生は腕時計が7時30分過ぎを指しているのをチラと見て
「お大事な先生が、お風邪でも召しましたかな」
さすがに劉家のホームドクター、長年の経験と勘で、ずばりと言い当てた。
「……という具合でです、微熱だけなら、普段のとおりに安静にして辛抱すればよかろうと思うのですが、外国のことゆえ少々心配でして」
このたび、例の震災の復興支援の事業の協力者として、彼は、日本に招かれていた。
孫呉財閥が、かねてから計画していた旅客運輸業への参入の試みの初事業である、東アジアクルーズについて、ブレーンの周家との確執はさておき、
魯という男に請われて、船内の娯楽コンテンツや、寄港地周辺におけるプランの充実などに、人脈を発揮したのだ。
もちろん、彼の人脈を武器に、被災地支援に繋がる知恵を絞ったのは先生である。
このクルーズの旅行案内パンフレットには、日本の観光庁が配布している
「がんばろう! 日本」の、桜のロゴと、「がんばろう! 東北」があしらわれ、
一見、他の豪華クルーズと変わらない風であるが、ページを繰れば、有名百貨店や電気店で買い漁りをし、マグロを大量消費する如き陳腐さを払拭し、
今までになく華僑富裕層の心をとらえる内容を呈している。
この歴然とした違いは売上の順調な伸びを招き、早くも、夏までの三回のクルーズは完売であった。
日本に関心のある者は、かの震災にも関心があると同時に、おのずと日本の地理的特色にも一定の理解と知識を持っている以上、消費者の慎重な本音を汲んだ航路に落ち着き、当面の寄港地は、博多港のみにとどまった。
だが、ゆくゆくは、島影の明媚な瀬戸内海を通り、東京横浜を経てさらには北日本航路への就航も見込んで、魯は、東北の名刹に住まう普浄和尚の意見の聴取の継続をもとめ、今後も彼の助力を望んでいる。
仔細はさておき、彼は、今回の、日本への初寄港の船上レセプションへの出席と、翌日からの日本側との意見交換のため、日本語も堪能な先生を、通訳兼臨時秘書として伴い、円滑なビジネスはもちろんのこと、ひそかに、つかの間の、先生と四六時中一緒である日々を楽しんでいたのであった。
昨日、スケジュールをこなし終えて、予備日としていた今朝、先生の具合がいつになく優れずに、心配で居てもたってもいられなかった。
「ふむ。熱は37.2度、喉の痛み、倦怠感あり、食欲なし、吐き気はなし、……そこへ発疹」
「はい。もしも何か伝染病であったなら、病院へのかかりかたや帰国について
も慎重にせねばなりませんが、まず、大事には至らぬのか不安でして」
「落ち着かれよ。問診では、先生は、はしかの類は済ませたというご記憶でご
ざいましたよ……。それに、日本は公衆衛生のよく行き届いた国の一つ、そう
おいそれと……それは痒いのですか」
「いえ、何ともないようです」
「大きさや分布はいかがか。虫刺されのように腫れていますか。水泡のような
ものを伴っていますか」
「小さく、まばらに、針で刺したように赤い点です。顔にはあまり出ず、胸や
肘の内側や腿のあたりなどに多く……腫れも水泡もありません」
吉先生は、アラフォー独身のひとり娘の耳に入ることを憚りもせず、重ねて問
うた。
「……公叔、これは医師として伺いますが、昨夜は房事はあったのですかな」
「ありました」
昨夜というより、今日に日付が変わる頃、彼は、花もはじらうほどの先生の膚を、隈なくみがくように酔うて、あらん限りの情を注いで、春宵の短きを惜しんだのだった。
その回数も申告するべきなのだろうかと迷いながら、心配の募るあまり、我知らず電話口の聲が大きくなっていることに気づいて、寝室の先生に聞こえないよう、問われたら答えることにした。
「ふむぅ、もし湿疹がないとしたら、お具合はいつもの通りなのですかな」
「そう見えます」
「昨日一日、何か変わった料理などを口になさいましたか」
「変わった……。そうじゃ、日本料理は淡くて口に合うようで、湯葉とか申す
物を好んで食べておりました」
「湯葉。象牙色のふにゃっとした、あれですか」
「はい」
「日本のハーブ類と一緒にですかな。緑の」
「はい、しかし、用心して加減しておったようですが」
「フムゥ」
ちょっとぉ、お父様、写メ送ってもらっちゃったらぁ?
と、向こうから吉先生の長女の、遠慮のない声が洩れ聞こえた。
吉先生の手が即座に受話器を塞いで、やかましいわい、黙っとけ、と、怒鳴った声が微かに響く。
「ゥオッホン。失礼しました。そちらは東京でしょうか」
「いや、ハカタです」
「いまご滞在のお宿の住所をうかがえましょうか?
先生のカルテの写しを渡してよろしいというご承諾がいただけるなら、ちょっと同窓生をあたってみますので、ご心配なら往診を」
「先生、ありがたい。もちろんです。……ええと」
「はい、Hotel Three Kingdoms Hakata、はい、玄界区、はい、御濠3丁目……」
メモを取る老父の白髪頭ごしに、記された文字をひょいとのぞいて、吉先生の娘は
「お父様、そこって。『二名花』の? ちょっと。聞いてる?」
活発な調子を潜めもせずに吉先生に意見した。
「なんじゃ。今、大事な話を」
「あたしだって大事な話よ。そこのアメニティグッズの、芳香植物成分とかは?
もしかして、バスオイルとか、歯磨き粉とか、うがい薬とか?」
吉先生は、経口の可能性があるアイテムを聞きとがめた。
「うがい薬? ……ホテルでか?」
「若い女の子達にすごく人気の、あの、喬姉妹プロデュースの、『二名花』の。
ラグジュアリーアロマコフレ、今月だけ春限定パッケージで、三国グループ
のホテル全室に置いてるって。レアできれいなうえに、すごいラインナップ。
スチュワーデスやってる友達の、ブログで見たわよ」
植物精油製品で、健康とアンチエイジングを売りに世界進出をしている、人気化粧品メーカーの名を聞いて、吉先生もピンと来た。
植物研究所も併設していて、アロマテラピーの薬効について、さかんに論文発表も行なっている企業で、かねてから目にとまってはいた。
「……シオネールか」
「うん」
「だが微量だろ。娘どもに飛ぶように売れておろうに、症例は聞かん」
「えー、漢方薬があんなに効きやすい、先生の軆を知ってるドクターの発言と
思えないわ。巷の頑丈な娘どもと、先生は違うわよ。もし高濃度だったら、精油も疑っとくべきじゃない?」
いつもは、臨床経験の多寡を理由に、娘の口出しなど耳をかさない頑固親父が、なぜかこの時ばかりは
(そちらのアレルギーの発想はなかった)
と、医師としての直感から閃くものがあり、同時に娘に対する考えを少しあらためた。
「あー……、ごほん。失礼しました、公叔、参考にうかがいますが、お泊りのお部屋の洗面所に、洒落た、うがい薬や……入浴剤などの類はございましたかな」
「ありましたぞ。うがい薬が」
「ボトルですかな。お使いになりましたか」
お父様、バカ。ボトルなわけないじゃん。採算とか衛生ってものがあるでしょ! と、老父の世間知らずを嘆く、ぶつぶつ声が聞こえた。
「こう、一回分ずつ小分け袋に密封されておりまして……。雀の涙ほどでしてな。コップにあけて水で薄めて使う物ですな。昨日は風が強うて、黄砂も来たそうで、儂もともに使ってみました」
(恐るべきは、女の直感と……)
吉先生は、電話口でひやりとした。
「公叔、ひとつの可能性ですが、今日以降は、喉が痛んでもご辛抱いただいて、うがい薬はお控えあって、一日、ご様子をみてもよろしいかもしれませんな」
「うがい薬、が? 儂も使うたが、なんともないですぞ。しかも、飲んだわけではない」
「はい。おおせの通りですが、人体とは、機械のようにはできていませんうえに、個人差というものが大きいものであります。……いままで往診していて思いますに、先生はじつに、繊細で素直なお軆をしておいでで、薬もちょっと控えめでなければ、効き過ぎる傾向がございます」
繊細で素直な軆。
吉先生がホームドクターの意見として述べたに過ぎないこの言葉を、他の男の口から不意に聞いて、彼の頭の中では様々な意味が加わってしまって、駆け巡る。
(それは、この儂が一番よう知っておるというに)
朝から、いつになく血圧が上がりそうになりながらも、おとなしく口を噤んで、受話器に巨きな耳を傾けた。
「念のため、ハカタ近郊の友人に連絡をつけておきます。お熱が上がるなど、
普段と違う様子がありましたら、またお知らせください。わたしか、娘が居るようにいたしますので、ご安心ください。お大事なくば、ご帰国後に、往診にうかがいます」
「孔明」
金色の金具が映える、渋い黒の、艶のある桜材の扉を小さくノックしてから開き、落ち着いた木目調の家具に囲まれて、淡いシャンパンゴールドのベッドカバーの中、起き上がっていた品の良い貌を視界に映して、彼は安堵の笑みを投げかけた。
吉先生の所見を伝え聞いて、何か流行病がうつったのではなく、いわば薬疹の疑いが強いことに、先生はかえって安心したようだった。
「儂が、迂闊であった」
「いいえ。公叔はわたくしに、よかれと思し召して。……痛くも、痒くも、ないのでございますし」
どちらからともなく手を取り合い、疑惑のうがい薬は、かえって二人の心をさ
らに結びつけるばかりである。
「病であったなら、自分のことより、儂を心配していたのではないのか」
彼に、やわらかに問われて、先生はハッと白皙をあげた。
もしも病であったなら、彼にうつる前に何とかせねばと、聡明な頭を一杯にしていたのだ。
何も言わずに、こうしてベッドに埋もれていただけであったのに、なぜ彼には分かってしまうのだろう。
先生は、胸が一杯で、否定も肯定もできず、はぐらかすように言った。
「……お食事を、お召し上がりください」
「そなたを置いて、ひとりでか」
「わたくしは、おそらく今日は喉を通りません」
「食えずともよい。果物か何か、軽いものを持ってきてもらうとしよう」
「……今日は良いお天気ののち、夕方からはまた風が出るはず。お濠の桜も、
きっと見納めでございます」
先生は暗に、彼に桜を見逃さないように勧めた。
「お前は、賢いのに、誤解をしておる」
ベッドサイドの椅子に腰掛けようとして、思い出したように彼は居間へ移動して、先ほどの茶碗を手に戻ってくる。
「確かに日本のお濠の桜は惜しい。またいつ見に来られるかわからん。
だが、儂には、誰と、が常に重要なのだよ」
と、春の光のように微笑みかけた。
白湯でもよいが、このような場合は、ひとつまみほどの塩気があるとなおよい。
彼の亡母の知恵である。そして、猫舌の先生のために、しばらく冷ましていたのだ。
「食わずとも、茶ぐらいは飲まねばなるまい。病めるときは尚更に、お前の傍に
居りたいのだよ、儂は。たとえ代わってやれずともな」
遠い幼き日に、同じ意味の言葉を聞いたことがあるような記憶をたどり、そればかりか、決して親心の如きのみにとどまらない彼の言に、先生はその身が、たちどころに癒えてしまうほどの心地でいた。
慕わしい人の傍で、軆のつくりも、心の動きも、生まれ持ったそのままで居て許されるという、おのれ一人きりでいては到底、めぐまれるべくもない確かにここにある奇跡を、先生はまばゆさひとしおに感じ入ってならない。
「もうよかろうか。おあがり」
彼の手から差し出されたものは疑いもなく口にしてしまうこの世で一番の賢者は、加減のよい桜湯を受け取った。
吉先生が恐れたもののひとつは、この疑いのなさである。
<音階七音で七題 全8話>全話一気読みへのショートカットは → こちら