音階七題 【C】 CANON‐カノン-

2007/01/29

21C(パラレル音階七題) 劉公叔の物語(21世紀)

春まだ浅い夕方のこと、劉家のちいさな邸の屋上で、先生は古い横笛を吹いていた。

この笛を見つけた書庫の書架を探すと、古筝曲の譜面がたくさん出てきたので、その旋律の部分だけを拾って笛の音域にあわせて、適当に吹きこなしてしまう。

88鍵を誇るピアノで、七色の音を自在に操るのも楽しいが、最近覚えたこの横笛には、一筋の音色に託して、想いを千里に伝えんとするかのような、
また格別の楽しみがある。

気温も湿度もこころよく、中国の笛の最たる特徴である、響きのために穿たれた指で塞がない孔、すなわち共鳴孔に貼った薄い笛膜の具合が、實にしっくりと大気に馴染んでいた。

仙人が乗る雲さえ呼べそうな好音を醸していたところ、先生の脳裏に先週末の夕方の出来事が不意によぎり、ふと、音色が掠れた。
この邸のあるじであり、笛の持ち主でもある彼は、休みの日に笛の音を所望することが多くなり、余暇に先生の演奏を聴いて、決まって
「ちょっと儂も吹いてみよう。教えておくれ」
と、先生に請うては、先生の旧宅のピアノ教室に個人レッスンに通っていた頃よりも熱心なひとときを過ごすようになったのである。

「管尻はおあげにならぬように……。胸をお張りになって。細く一定に、針の穴を通すように。ああ、その一点をおのがしになりませんよう、……息を無駄づかいなさらないような気持ちです」

横並びにならざるを得ないピアノの練習と違って、先生の白皙をすぐ目の前にして、姿勢を修正するほそい指先を感じながら、先生とおなじ歌口に唇を寄せることに、密かに胸が高鳴る彼なのであった。
なぜそうなのかといえばもちろん、まるで、先生と口づけをしているところを、先生に見せているような気分になって、密かに愉しいのである。

(いやらしい生徒ですまん)
という本音は寬い胸にたたんで、
「なかなか、楽しいのう。気分転換によい。まだまだ、だがな」
構えない喉の太さが幸いして、低音部は乙な音が出始めたので、秘密の愉しみはさておき、いささか興味が湧かぬでもない。

なにより、ピアノと違って、単旋律でよいところは手をつけやすく、そのうち
「十八番」
のひとつも身に付こうかという趣である。

「きっとこの笛はよい笛なのでございましょう。鳥が笛の姿をしているようでございます。……公叔、お稽古用に一本、お求めになってはいかがでございますか。ご一緒に吹けますし、例えば、お手にあわせてもう少し長めの……」
「これ孔明」
「はい」
「儂は、お前に借りて吹くのが気に入っておる」
「わたくしが、お借りしているのでございます」
「同じことじゃ。笛は買わん。お前も、余の者に教えてはならん」
いかに疎い先生も、こうまで言われては、何を意味しているのか、少しは察して絶句した。

しかし、先生は笛の歌口を意識してしまっただけに過ぎず、彼が心の中で考えていることにまでは思い至りもしない。
とはいえ、こうして日を措いても、先生の笛の音を掠れさせるには、充分な出来事ではあった。


「……せんせい、おじゃましてもいいですか」
不意に、背後に小さな声を聞いて、先生は頭の中を彼で一杯にしていたことを
見透かされてしまったように思いながら
「禅さま、お珍しい。今日は野球はなさらなかったのですか」
先生は、頬を淡く染めつつも、努めて普段通りに接した。

世の親たちが決まっていう言葉のひとつ
『宿題は?』
を言ったことがない先生の白皙をみあげて、彼の子息は相談をもちかけた。
「あの……。先生、こんど、音楽の時間に、発表会があるんです」
「そうなのですか」
勉学もスポーツも音曲も、あまり得意ではない、しかし気立てのよい子息の浮かない顔を見て、課題曲が上手にできていないのであろうことを、先生は察した。
「お歌ですか」
「ううん、楽器……なんです。リコーダーとか、ピアニカとか。あ、でも、お稽古してて特別に上手なのは使っちゃダメって。曹家の子とか、『バイオリンなら超自信あるのに』って言ってました……」
子息は、劣等感を増幅させるようなことを更に思い出して、心の中にためておくことができず、ついでに言ってしまった。

先生は、問題点を明確にしようと、励ます口調でつづける。
「何の曲ですか。力量に曲をあわせれば、練習次第で必ずできますよ」
「自由に選んでいいんですけど……。二人ひとくみで、姜くんと一緒なんです」
仲良しの姜少年の名を、子息は俯くようにして言いにくそうであった。

姜少年の名は、先生の問いの答えになっていないが、先生は子息の混乱を解きほぐすように、おだやかに笑んだ。
「よかったではありませんか。合奏は、気心の知れたお友達との方が、ずっと上手にできますよ」
「先生、あのね……、姜くんは『しゅうさい』ですから、笛もどんどん上手になるんです。手がまだちいさいから、ハーモニカでもいいのに、横笛のファイフで。
リコーダーよりも、ずっと難しいのに。姜くんは優しいから、『きらきら星にしようよ』って言ってくれるんですけど……」

ドドソソララソソファファミミレレド。
平易で有名で、当たりさわりない曲名に、先生も妥当なものを感じて
「きらきら星は、お嫌いですか?」
と、ここに居ない姜少年に賛同した。
「先生、姜くん、教科書の一番最後のページの、『かのん』っていうのが、すごく上手なんです。姜くんと『かのん』が吹けたら、すごくいいな、って思って、練習するんですけど、やっぱり僕、できなくて……。まんなかが、すごく難しくて……。姜くんの『かのん』を聞いたら、みんな絶対びっくりするのに。……でも僕ができなくて」
ひとり背伸びをしたいのではなく、姜少年の隣に堂堂と立って引き立てたい。
それは、同義のようで、實はかなり違う。
思いに力がついてこない歯がゆさに、悔し涙を浮かべた子息を見て、何でもできてしまって妬まれてばかりだった少年時代を思い出し、
(もしあの頃、こうして隣に居ようとてくれる友があったならば)
と、この子息の、時に一途とも思える心情を先生は眩しく思った。

「まず、どの『カノン』でしょう。……これですか?」
先生は、
(小学校の教科書ですから、きっと、最も有名といえる……)
と、パッヘルベルのカノンの中ほどを、かろやかに吹いて聞かせた。
「あっ、それ。それです!」
子息の瞳が、ぱっと輝いた。
「姜くんは、たしかにお上手ですね、この辺は、指が忙しくなりますから」

しかも、本来は弦楽用に作曲されたこの曲は、管楽器の息継ぎの都合など、全く考慮されていない。
「そこで、僕、だめなんです。……できないんです」
ふたたび子息は俯いて、青色の溜息を吐くのだが、先生はクスリと、安堵に似た笑いをもらして問いかけた。
「発表会は、いつなのですか」
「来週の……金曜日」
先生が楽観的な笑みを含んだ理由がまだ分からない子息は、
ふてくされたような語尾で、ぶっきらぼうに答えるばかりである。
「禅さま。あと一週間もありますよ。大丈夫ですよ」
先生は、すこしかがんで、子息を横笛ごと抱きしめた。

いつでも春風のように優しい先生に縋って、子息は涙をぐっとこらえて、これ以上涙が湧かないように必死である。
(泣いたってダメなのに。泣いてもリコーダーがうまくなるわけじゃないんだから。先生に甘えて、先生の音楽のちからが貰えるわけじゃないんだから。僕のバカ)

後ろ手にしていたリコーダーを握った小さな拳が背におずおずと伸びるのを感じて、先生は再び静かに励ます。
「最初の四小節はできますか、禅さま」
「はい。何度も練習して、出だしはゆっくりだし、大丈夫なんです。でも……」
「その四小節だけ、試しに5回繰り返してみてごらんなさい」
「え? ……そんなの、つまんないし、曲じゃないし……」
先生は微笑んで立ち上がり、横笛を構えながら、有無を言わさず促す。
「吹いてみてください。すぐ分かりますよ。よろしいですか、いち……に、さん……、はい」

子息は、さすがに覚えてしまった導入部を言われるがままに吹き始める。
拍子をとった先生はすぐに追いかけて、主旋律をその上にあわせ、
単なる合奏ではなく、「重奏」の楽しみを伝える。

横笛の音とリコーダーの音は、ときどき共鳴して、はっとするようなうるわしさを醸して、曲の中ほどで、さすがに子息も理解した。
そして、先生から何も教えられなかったというのに、本来のテンポを適度に無視して、先生が曲の一番難しいくだりを吹きながら息を継ぐ都合を、無意識に助けるのだった。

「先生……! 僕っ、僕もこれならできます!」
「そうですよ、二人の心と力をあわせることが合奏です。心が揃っていれば、必ずしも力は同じである必要はありません。姜くんとなら、もっと楽しいですよ」
「先生、僕、いままで音楽の時間すごくイヤでした。でも、上手じゃなくても、こういうのもありなら、なんか……うまくいえないけど、うまく言えないことがうまく言えるような気がします。……ありがとうございました!」
「禅さま」
「はい」
「禅さまが、諦めなかったから、このようにできたのです。お一人でじっとお悩みで、誰にも言わず、『できない』と諦めておしまいになっていたら、今のことはありません。……わたくしは、とても嬉しいです」
「僕は、きっと先生よりもっと嬉しいです!」
子息は、先生のほそい腰のあたりにしがみついて、力の限り抱きしめると、
笛を持っていない方の先生の手をとって、思わずその白い甲に柔らかな頬を
衝動的に押し付けてしまってから、顔を真っ赤にして飛び退き、
「せんせ……ぁ、りがとうございましたっ!」
照れ隠しに大きな声で礼を叫んで、屋上から走り去っていった。
「禅さま、お礼は、わたくしにではなくパッヘルベルに……!」
と、先生は慌てて言い添えようとしたが、おそらく子息の耳には「パ」までしか届いていないほどの逃げ足であった。

先生は、あのまま旧宅にひとりで暮らしていたならば、ついぞ味わうことのなかった親心のようなものと、この場合、厳格なバロックならではの隠れた柔軟さを含んだ形式を世に残した作曲家の偉大さにも、胸をいっぱいにして、うるわしい夕焼け空を眺めた。

子息は器用でもなく、要領もよいほうではない。
だが、自分のための努力は苦手でも、心にかかる人のための努力は惜しまない、意外な一面を持っている。
こうして今、その一念で、ほんの少しの知恵を助けに、苦手をひとつ乗り越えてしまった。
まだ幼い子息に、知られざる彼の少年時代を重ねて見ていることに気づいて、先生は少し狼狽し、
(今日のことをお話ししたら、公叔は、笛をもう一本お求めくださるでしょうか)
横笛の歌口に、そっと唇を寄せた。

先生の大の苦手は、「おねだり」である。



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