七曜7題+α Saturday night

2007/01/30

21c(パラレル七曜7題) 劉公叔の物語(21世紀)

年末の彼は殊に忙しい。
社交はもちろん、慈善事業も佳境である。
春節を過ぎるまでは、スケジュールは目白押しである。

夜、日付が変わった後に帰宅して、子息の寝顔を見て、通学鞄の上に「今日の格言」を書いたメモを置き、大きな寝台に戻ると、先生の純白の眠りを妨げぬように、そっと寄り臥して、また早朝に出かけてゆくという具合である。

先生は彼の邸に住まうようになってから二度目の師走を迎えて、いま彼がどんなに多忙であるか、よくよく弁えており、毎朝、隣に彼が眠った形跡を認めては、安堵しながらも切なげな溜息をつくことが常となっていた。

そのような日々を、十指に余るほど数えて久しい、ある土曜の晩のことである。

この日、彼の用務は翌日の日曜に備えて、早めに終わるはずであった。
が、しかし、夕方から降り始めた雪が、またたくまに降り積もり、あっという間に公共交通機関が止まりはじめた。
劉家では、子息が18になるまで、食事中のテレビは禁止である。
ラジオから流れるニュース速報に耳を傾けながら、
「父うえは、平気かなあ」
子息は心配顔を常山の好漢に向けた。
「禅さまがご心配でおいでのことは、きっとお察しです。おってご連絡がありますよ」
今日の降雪については、先生は趣味の気象予報で予測はしていたが、ところによる豪雪は想定の範囲外で、余計に気を揉んでいた。
「先生もですよ。これしきのアクシデントは、公叔は何度もご経験です。日頃から備えもなさっています。あの車の、見かけによらぬ装備をご存知ですか……?」
少年の憂い顔と、箸の進まぬ先生を前に、常山の好漢は、相も変らぬ爽やかな微笑をうかべて、まるで二人の兄のように慰めたのだった。

結局、23時を回る前ごろになってようやく、劉家の黒いハイブリットカーは、
都会では珍しく白くなった車道を、チェーンの音も厳かに危なげなく車寄せに停った。
「やれやれ、途中、バッテリーが上がった車を、何台助けたかのう。それから、チェーンもつけてやったのう」
彼は、白い息を漂わせながら、二人の義弟を労った。
「全く、車の免許とって、チェーン積んどきながら、タイヤにつけられねぇって、どゆことっスよ。……雪道走れねぇんだったら、車出すな、でス。ハンドル握る覚悟が足りねえ」
「そう言うな。皆、昨日と同じく平穏な今日があり明日がある、と思うてしまうのを、誰が責められようぞ」
「左様、そう思える平和を感謝せねばならん。昨日のような今日でないよう、
今日のようでない明日が来るよう願うほどならば、わしらなど出る幕はない。天を信じ、天に祈る他に術はない」
「へいへい」
「返事は一つでよい」
「へーい」
「そう不平顔をするな。お前のところにはきっと今年もサンタクロースが来る」
「え……、そ、そうかな」
「もちろんだとも。今日だけで軽く半年分の善行を積んだぞ」
「ちゃんと、見ていなさるかな。……サンタさん」
「見ているとも。わしの髯にかけて」
次弟は、自慢の長髯をしごいて請け合った。
末弟は、たちまちに、ジャイアントパンダのようにつぶらな瞳を輝かせると、
「俺さ、毎年、いつ、『もう大人』だってバレるかとヒヤヒヤしてるんでス」
いささか、頬を染めた。
末弟は既に四十路だというのに、サンタクロースの存在を信じている。
24日の夜は、
『今年も寒い中ありがとうございまス。家で一杯やってください。今夜は安全運転してください』
と、サイドテーブルに置いたミニボトルのワインにカードを添えたその横に、新品の赤い靴下を揃えて眠るのだ。
もちろん、このサンタクロースの真の姿は、白髯の老爺ではなく、耳の巨きな紳士であるのだが、それは言わぬが花である。
「ハハ、サンタクロースは千何百歳だと思っておるのか」
「そうか! そうだよな、サンタさんにとっちゃ、俺なんて、嘴の黄色いヒヨッ子でスよねっ」
「そうとも」
「えへへっ。兄者、兄貴、お疲れでシた。俺、車庫で明日の用心してから上がらせてもらいまス」
「ほどほどにな。 風邪をひくなよ」
「燗つけて待っとるぞ」
「うひゃー! ありがてえ!」
いつもながらに、三兄弟たがいに息のあったやりとりを玄関先でかわし、彼は、その足で二階へあがると、忍びやかに自室の扉を敲いた。

自室に入るというのに、先生とともに暮らし始めてから、彼はいつもノックをするのが習慣になっている。
先生に、何か差し支えることがあってはいけないと思うのだ。
それは例えば、マッチ棒で身の丈を越えるエッフェル塔を作っている最中であったなら、驚かせては気の毒だからである。
返事がないので、扉をそっとあけて
「……孔明、帰ったぞ」
久しぶりに、あの天才が何かをしている様子が視界に入ることに胸をときめかせて、彼は毛足の長い絨毯を足早に踏んだ。
長椅子に、見慣れた白い寝顔を見つけた。
彼の、おそろしく袖の長いガウンを着て、待ち疲れたような風情であった。
万一、うたたねをしてしまっても
『また薄着で』
と小言を言われることを封じるつもりのガウンであろうと思い至ると、彼は苦笑いを禁じ得ない。
「これ、孔……」
傍へ寄ってみると、その寝顔は、いつか見た表情であった。
いつぞやの黄昏の書庫の隅の長椅子で、何か夢を見て泣いていたその時のように、目頭のあたりに、涙がためらうように留まって揺れていた。
また悪い夢の中で、誰かが先生を泣かせているのだろうか。
誰であっても許しがたいと思っていると、先生が何かに頬を寄せている様子に気がついた。
(すると、泣かせておるのは誰あろう、儂ではないか)
彼は、たまらない思いで一杯になり、淡く眠った先生を覆うように抱きしめずにはいられなかった。
「……公、叔。朝ですか」
先生は寝ぼけたような聲を發した。
彼のぬくもりと、髪油の香りで、誰の腕の中に居るのかわかっているような、ごく平和な聲だった。
先生が身じろぎすると、その何かはするりと滑り落ちて、絨毯の上に音もなく弾んで転がった。
「今日は、まだ『今日』の夜だよ」
「おかえりなさいませ」
起き上がる先生を扶けながら、彼は久々に言葉を交わす。
「ただいま」
「……お久しぶりです。お元気でしたか」
「うむ。お前の傍で寝ておれば、毎晩が快眠であるが……お前は、そうではなかったようだな」
彼は、絨毯の上に転がった横笛を拾い上げ、寝起きとは思えぬ澄んだ貌を覗き込んで、それを先生に手渡した。
ローテーブルの上には、塗りの剥げかかった細長い木箱が紐を解かれて置いてある。


件の横笛は、先月のはじめごろ、先生が書庫で見つけたものだ。
毎月一度の署名作業のため、一日中書斎に缶詰になっていた彼の、その進捗を見計らったように、晩秋の黄昏時、ノックの音がした。
「お入り」
彼は眼鏡を外してデスクに置くと、目頭を押さえてから、扉へ目を移した。
「お邪魔ではございませんか」
滅多に、仕事中に扉を敲くことなどない、遠慮がちな先生の白い貌をみとめて、
「うむ、もう終わりは見えた。あと5件ものうなった。どうしたのだ」
彼は機嫌よく立ち上がると、戸口に立ったままの先生を長い両腕で迎えて、ついでに少し休もうと、窓際の椅子に誘うた。
「書庫で、お軸を拝見していて、見つけたのです」
先生は、抱いていた細い木箱を彼に差し出す。
「骨董かな」
「お差し支えありませんでしたら、しばらくお借りしたいのです。お許しを得たくて参りました」
「はは、よほど気に入ったのか。絵かな」
十五時もとうに過ぎたこの中途半端な時間に、そして、彼が書斎を出るのを待ちきれずに、書庫で見つけたその足で、ここへやってきたのであろうことを考え合わせて、彼はもちろん、許す気で木箱を開けた。
「笛、か」
「……ご愛蔵の、宝物ではございませんか」
彼が、初めて見たようなことを言うたので、先生は婉曲に念を押すように問いかけた。
「父も母も、そうじゃ、禅の母も、笛のたしなみはなかった。儂もだがな。どれ」
彼は、分厚い指で孔を塞ぎ、適当に横笛を構え、吹き口と思われるところに唇をあてて、口笛を吹く要領で、試みてみる。
だが、横笛は虚しく空気の通過音を醸すのみで歌う気配もなかった。
「……難しいのう。もっとも、そう簡単に吹けたなら、世の笛吹きたちの面目丸つぶれというものじゃ」
彼は、笛をとりあげて、奇妙なことに、修繕にしてはあからさまに、中ほどの孔がひとつ、皺の寄った紙のようなもので意図的に塞がれているのを不思議に思って、しげしげと眺めてから、惜しげもなく先生に渡した。
「許すも許さぬも。好きなだけ吹くと良い。この笛も喜ぼうぞ。何十年、眠っておったものか」
「ありがとうございます」
彼は、先生が欲しているのは音色であり、笛自体を愛玩したいのではなかろうことを察して、喉まで出かかった
『遣わす』
を言わなかった。
先生は、両手で受け取って、花が綻びるように、ひらりと笑んで立ちあがろうとした。
「おや、聞かせてはくれぬのか」
今日は一つ屋根の下だというのに、彼が名残惜しげに先生の肘のあたりを柔らかく捕まえると、先生はなぜか動揺したように応じた。
「横笛は初めてなのです。……上達したらお聞きくださいますか」
「それは、楽しみが増えたな」
そこで彼は、合点がいった。
この邸は、郊外の公園のそばにぽつんと建ってはいるが、もとより豪邸ではなく、ほかに人家がないわけではない。
近所迷惑にならない、まだ日のあるうちに、いま始めたくなり、この書斎に飛んできたのであろう。
「早速に練習したいのだろう。儂はその間にあの山を成敗するとしよう」
彼は立ち上がって、先生の薄い背と、大事そうに抱えられた細い木箱を淡く羨望しながら見送ったのだった。

さすがの天才も、初めての横笛には苦戦したのか、その日は笛の音色と思しき響きを耳にしなかったことを、彼は今、にわかに思い出した。
「あれから何週間か。そなたのことだ、もう随分と上手になったのではないか。聴かせてくれぬか」
「夜、笛を吹くと、蛇が出ます」
横笛を受け取った先生は、そう言って、俯いた。
近隣への遠慮なのか、謙遜なのか、どちらでもあり、どちらでもないような表情である。
彼は、はたと思い当たり、先生の肩をおっとりと抱いて、小声で戯れかかってみた。
「儂は、そなたを吹きたいのだが。……どこを吹いて欲しい」
あの日の黄昏時に、彼がこの笛を試みなかったとしても、寡欲なはずの先生は、笛の練習には遅すぎる時間に、この歌口に頬を寄せていたのだろうか。
ぜひにも確かめたく、彼は、そのような喩えを白い耳元に囁いて、先生を困らせることから始めることにした。


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