魯府の二階の書庫の隣の部屋で、諸葛子瑜は仕事をしていた。魯子敬のノックに、存外に明るい声が応じた。
「先生、お客様です。例の、トルコ語翻訳のご依頼で」
「ああ、昨日おうかがいした、動画の」
大きなデスクから立ち上がり、木目の美しい床をコツコツと踏んで、諸葛子瑜は扉に近づいた。先生は胸の高鳴りが止まらない。耳元に心臓があるようだった。
諸葛子瑜の眉間のあたりには幼い頃の面影があり、優しく思慮深そうなまなざしが懐かしい。何より、セピア色の写真の中の父とそっくりな面長な顔立ちは、兄に間違いなかった。兄上、と叫んで、兄をだきしめたい気持ちを抑えるのに必死だった。
「ご紹介します。わたしの取引先のトップにして友人の、劉公叔です」
「はじめまして。劉です」
「初めまして。……あの、魯大人、私のことは」
「ええ、かいつまんでお話してありますよ」
諸葛子瑜は、素直にほっとした表情を見せた。
「ご高名はかねがね、というべきなのだと思いますが、覚えていないのに実のないことはどうも言い出せません。失礼をお許しください」
「いや、ご率直に、こちらこそお気遣いいたみいります」
ふたりは力強く握手をかわした。
「子瑜先生、えー……と。こちらのおかたは」
魯子敬は、わざとゆっくりと言葉を継ぎ、先生の兄上が血を分けた弟に気づくことを祈った。
「公叔の……懐刀と申し上げては、ちょっと物騒ですが」
先生の兄上は、魯子敬の顔に視線を移して耳を傾ける。無理もない。幼い頃に生き別れで、互いに写真の中の幼い姿しか知らないのだから。だが、眉や目元口元、耳の形などには、おもかげがあるものだと、魯子敬は念じる。
「ご専属のピアニストで、外遊の際には通訳業務をなさっておいでの」
先生は兄上を瞬きもせずに見ていたが、先生の兄上は魯子敬の長い長い紹介の口上を聞いて相槌を打ちながら、先生を注視することはなかった。初対面の人間に対する礼儀とも受け取れた。
「……伏龍先生です」
魯子敬は、さいごに先生の号を付け加えてみた。先生のおもだちに今すぐ何かを見つけられなくても、天才伏龍の名に、何かを期待した。
「……先生の語学のご造詣を承り、今日は楽しみに参りました。お会いできまして嬉しく存じます」
「光栄です。……えーと、もしかして第何次かの、探検隊でご一緒だったかな」
力なく型通りの挨拶を口にした先生は、兄上の言葉にハッと白皙をあげた。
(兄上は、何かを感じ取って下さった)
救いを求めるように兄上の顔を見つめるが、兄上の表情にはかわりがなかった。
「すみませんね……。第何次だったかうかがっても、ああ君か、と言えるわけでもないんですが……。初めて会った気がしなかったので。つい、愚問を」
「いいえ。そんな」
魯子敬は、
(現段階では、上上)
と、今の微かな反応に満足していたが、あまりに微かな希望に先生が落胆している様子が手に取るように分かる彼は、隣で、内心はらはらとしていた。
「ご依頼の内容を詳しくお聞かせ願います。どうぞ」
先生の兄上は、気さくな動作で応接セットへ彼らをいざなった。
「では子瑜先生、わたしはお茶など運ばせましょう。ごゆっくり」
「いつも恐縮です、魯兄」
「なんの」
おだやかで人懐っこい笑顔を残して、魯子敬は扉を閉めた。
それからおおむね週に一度、先生は魯府の寄越す迎えの車に乗って、兄上の書斎へ通うことになった。表向きは、彼と魯子敬のビジネスの一環の業務のためである。
いつぞや世界を震撼させ、伝統的建築物に無情な罅を入れたトルコ大地震の復興の模様について全世界に発信し、寄付を募ることはもちろん、何かと不穏になりがちなこの国の界隈への観光誘致に資するため、孫呉海運公式動画を作って配信しようというのだ。現地取材映像の口語のトルコ語部分に、中国語をはじめとするおもな言語の字幕をつける仕事である。文字から文字ではないため、地味だが高度なヒアリング能力が要求される。
孫呉海運は、日本へのクルーズ船就航の成功を切欠に、中華資本100%としては初の、現地発・地中海クルーズ船の定期就航を計画している。アジアの果てとヨーロッパの入口を擁するイスタンブールは外せない。加えて、慈善団体『腕長おじさん』の理事長として、世界中の児童保護施設にほそぼそと支援を続けている彼としても、結果的に被支援国に金が落ちる仕組みは望むところで、互いに利害が一致している。
先生はトルコ語は嗜まないが、翻訳後の語感について、依頼主たる彼や魯子敬の意図を含むよう助言を行うという立場で、推敲を言葉少なく補佐するのが仕事である。先生の兄上も凝り性なところがあるので、先生の鋭いコメントに
「君は……凄い人だな。しかも、どの外国語の語彙もエレガントだ。その若さで」
と、たびたび感嘆して、楽しそうであった。
何週目かを数えたこの仕事の間、お茶の時間に一息入れながら、先生は兄上と雑談していた。雑談といっても、先生は心にかかることを飲み込んだまま、もともとの寡黙に輪をかけて、兄上の話をひたすら聞いて相槌を打つだけといえば、だけではあった。
「……西夏文字、ですか」
「そう。西夏文字。あれに出会わなかったら、探検隊にも加わらなかったかもしれない。そこのそれが、一番のお気に入りでね」
先生の兄上は、先生の背後の壁にかけてある大きな拓本の額を指差して笑んだ。
「全くねえ、この、ゴージャスな画数の多さといったら。そこが魅力なんだけど。初めから装飾性を意図して作ったとみえなくもない。漢字への対抗意識なのだか、こう、いじらしくて、かわいいんですよ。一目惚れだった」
何と答えるべきか、答えに窮して、先生は淡い微笑を返すのみである。
「思い出せないことは仕方がないことでね。幸い、語学は忘れていないらしいから、メシの種もある。元の人脈に慣れるまでは、こうして翻訳などさせていただきながら、ゆっくり自分の居場所を取り戻していこうと思いますよ」
ふたりは茶を喫し、茶器の音のみが書斎に渡った。
「毎週、こうして君を見ていると、なんだか安心するよ」
「安心、ですか」
無意識下に、家族のおもかげを感じてくれているのだろうかと、先生は淡く期待して、言葉少なく応じた。
「多分、君のまわりは、ほかの人が見ている景色と同じだ」
先生の兄上は、本音を言っている時の昔からの癖で、言い終えたあとに目を瞑った。
黒地に白い西夏文字を連ねた大きな額を背景にした、先生の好む無彩色のいでたちと黒髪と白皙。そのモノクロの世界に兄上は安堵を呟いた。
先生は涙を堪えるより他はない。
これが黒鍵と白鍵であったなら、兄上の心の扉を開くことができるのだろうか。しかし、世にあまた存在する名曲のうち何を弾いたら、兄上の心に届くのかわからない。音楽は時に人の心の傷をすら癒せるはずが、兄上の心には一向に届かないかもしれない予感で一杯になり、天才伏龍などと謳われていたのは、一体、何を指してそう称されていたのか、底なしの空虚に足元が崩れるかのようだった。
「君はお若いのに本当に気のつく優しい人だ。気休めを言われるよりも、こうしているとずっと気が楽だよ。……ありがとう」
「いいえ、わたくしは、そんな」
先生は、兄上の心や記憶ばかりが気になって、いま兄上の眼に世界がどう映っているかを後回しにしていた自分に気がついて、余計に滅入りそうだった。
その夜、公叔邸の二階の主寝室の灯りは、日付がかわっても消えなかった。
普段なら、彼が仕事で遅い日はフットライトだけを点けて先生は先に眠るのだが、彼を待っていた。もう魯府へゆきたくないと、涙ながらに訴えるためである。 昼間の出来事を事細かに話せるほどなら、先生はこのようなことを願い出ない。先生の細い神経が耐えられないことが、昼間に穏やかに起こったのであろうことを、彼は大雑把に理解すると、具体的な理由を問い質すことを慎み
「そうじゃな、続きはだな……ホットミルクを飲んでから、だな」
行け、行かない、という不毛な口論を招くことを恐れていちど先生から離れた。
先生をこの寝室に迎えた年の冬至のころ、彼は、寝室に続く洗面室の改装を行った。洗面台と向かい合わせに、小さな冷蔵庫とIHコンロと電子レンジが収まった、簡易キッチンのようなものを設えたのだ。もちろん、軆が丈夫ではない先生のためのもので、微熱のときは氷枕を、服薬のときの湯冷ましを、邸の一階に気兼ねをせずに、いつでも供するためにである。
電子レンジにはホットミルクの自動コースがあるが、猫舌の先生には熱すぎるので、冷蔵庫から西涼乳業の無調整牛乳を取り出してカップに注ぎ、きっちりと秒数をダイヤルして加熱する。
その間に、グラス類を二個ずつ並べてあるガラス戸の中を見やった。
このあいだ公孫ティーサロンから贈られた、瀟洒な細い円筒形の瓶に詰まったジンジャーエッセンスが目に止まったが、その隣のラム酒の小瓶を手にとった。
彼はやや思案して、グラスにラム酒を少し注ぎ、良い加減になったホットミルクに一筋たらしてから、残りを飲み干した。グラスは持ってゆかない。持っていったなら、先生はわざと酒をねだるに違いない。酒が欲しいのではなく、酒を巡ってわざと諍いを起こして辛い思いをしたいだけなのだ。彼は、先生が自虐的に自分を追い詰めようとする状況を未然に防ぐすべをいくつも知っている。
彼に見透かされたのを悟ったのか、先生は大人しく、差し出されたホットミルクにくちづけた。かなしくなるほどに、よい加減に温まっている。
「眠れないお前に睡眠薬を与えるのは容易いが、儂はホットミルクを選ぶ。なぜかわかるか」
「直ちに効いたなら。薬ではなく毒とお考えだからでございます……」
「そうじゃ。遅効性でよいではないか。往々にしてあとが怖いものだぞ。お兄上に毒を盛ることはない。……たとえば……」
寝室は甘い薄明かりの中、沈黙に沈んだ。時計の中の電池が電気を供給するる音すらも聞こえてきそうだった。ナイトテーブルに飾られた花でさえも、今、うかつに花びらを落としたりしてはいけないと、営みを止めているような風情である。
ちゅ、という、子供じみた音とともに、彼は先生の唇をようやく解放した。先生は、たったこれだけで動悸がして、口移しにあらたに与えられたほんの微量のラム酒が、白い軆をぐるぐると巡るのを感じる。
彼は、危うさを消して、眠たげに潤んだ眸をした先生を間近でみとめ、喉の奥でふふ、と笑って、先生の唇の端に残ったラム酒の薫りを拇指の腹で優しく拭うと、ほそい肩をだきなおす。
「三つ数えるうちに、もう眠くなろう。……む、そなたには即効性であったな、これは。『たとえば』にならなかったな」
彼がいつ数を数え始めるのか、先生はぼんやりと待ち、次第に彼の肩に寄りかかって、瞼の落ちかけた白皙をあずけた。
「……ひとつ確かなことがある。お前はお兄上に必ず必要な癒しをあたえ続けることができよう。いまここにある酸素のようにだ。諦めてはならん」
たとえ兄上が記憶を取り戻すことがなかったとしても、彼から見ればそれは疑いのないことであったが、このもうひとつの確かなことを伝えたがために、聡明すぎる先生の情緒不安定を招くことを恐れて、彼は言葉なかばでひとつを結んだ。
大きな掌で、先生の髪をゆっくりと撫でて、サブリミナル効果的な「一」を数えて聞かせ
(一滴の酒に酔うて安心して寄りかかるそなたを、儂は嬉しく思うのだぞ)
先生の悩みの重さと反比例するその軽い軆を抱き上げて、彼は温室育ちの花束を扱うように寝台へと運んだ。
<音階七音で七題 全8話>全話一気読みへのショートカットは → こちら
「先生、お客様です。例の、トルコ語翻訳のご依頼で」
「ああ、昨日おうかがいした、動画の」
大きなデスクから立ち上がり、木目の美しい床をコツコツと踏んで、諸葛子瑜は扉に近づいた。先生は胸の高鳴りが止まらない。耳元に心臓があるようだった。
諸葛子瑜の眉間のあたりには幼い頃の面影があり、優しく思慮深そうなまなざしが懐かしい。何より、セピア色の写真の中の父とそっくりな面長な顔立ちは、兄に間違いなかった。兄上、と叫んで、兄をだきしめたい気持ちを抑えるのに必死だった。
「ご紹介します。わたしの取引先のトップにして友人の、劉公叔です」
「はじめまして。劉です」
「初めまして。……あの、魯大人、私のことは」
「ええ、かいつまんでお話してありますよ」
諸葛子瑜は、素直にほっとした表情を見せた。
「ご高名はかねがね、というべきなのだと思いますが、覚えていないのに実のないことはどうも言い出せません。失礼をお許しください」
「いや、ご率直に、こちらこそお気遣いいたみいります」
ふたりは力強く握手をかわした。
「子瑜先生、えー……と。こちらのおかたは」
魯子敬は、わざとゆっくりと言葉を継ぎ、先生の兄上が血を分けた弟に気づくことを祈った。
「公叔の……懐刀と申し上げては、ちょっと物騒ですが」
先生の兄上は、魯子敬の顔に視線を移して耳を傾ける。無理もない。幼い頃に生き別れで、互いに写真の中の幼い姿しか知らないのだから。だが、眉や目元口元、耳の形などには、おもかげがあるものだと、魯子敬は念じる。
「ご専属のピアニストで、外遊の際には通訳業務をなさっておいでの」
先生は兄上を瞬きもせずに見ていたが、先生の兄上は魯子敬の長い長い紹介の口上を聞いて相槌を打ちながら、先生を注視することはなかった。初対面の人間に対する礼儀とも受け取れた。
「……伏龍先生です」
魯子敬は、さいごに先生の号を付け加えてみた。先生のおもだちに今すぐ何かを見つけられなくても、天才伏龍の名に、何かを期待した。
「……先生の語学のご造詣を承り、今日は楽しみに参りました。お会いできまして嬉しく存じます」
「光栄です。……えーと、もしかして第何次かの、探検隊でご一緒だったかな」
力なく型通りの挨拶を口にした先生は、兄上の言葉にハッと白皙をあげた。
(兄上は、何かを感じ取って下さった)
救いを求めるように兄上の顔を見つめるが、兄上の表情にはかわりがなかった。
「すみませんね……。第何次だったかうかがっても、ああ君か、と言えるわけでもないんですが……。初めて会った気がしなかったので。つい、愚問を」
「いいえ。そんな」
魯子敬は、
(現段階では、上上)
と、今の微かな反応に満足していたが、あまりに微かな希望に先生が落胆している様子が手に取るように分かる彼は、隣で、内心はらはらとしていた。
「ご依頼の内容を詳しくお聞かせ願います。どうぞ」
先生の兄上は、気さくな動作で応接セットへ彼らをいざなった。
「では子瑜先生、わたしはお茶など運ばせましょう。ごゆっくり」
「いつも恐縮です、魯兄」
「なんの」
おだやかで人懐っこい笑顔を残して、魯子敬は扉を閉めた。
それからおおむね週に一度、先生は魯府の寄越す迎えの車に乗って、兄上の書斎へ通うことになった。表向きは、彼と魯子敬のビジネスの一環の業務のためである。
いつぞや世界を震撼させ、伝統的建築物に無情な罅を入れたトルコ大地震の復興の模様について全世界に発信し、寄付を募ることはもちろん、何かと不穏になりがちなこの国の界隈への観光誘致に資するため、孫呉海運公式動画を作って配信しようというのだ。現地取材映像の口語のトルコ語部分に、中国語をはじめとするおもな言語の字幕をつける仕事である。文字から文字ではないため、地味だが高度なヒアリング能力が要求される。
孫呉海運は、日本へのクルーズ船就航の成功を切欠に、中華資本100%としては初の、現地発・地中海クルーズ船の定期就航を計画している。アジアの果てとヨーロッパの入口を擁するイスタンブールは外せない。加えて、慈善団体『腕長おじさん』の理事長として、世界中の児童保護施設にほそぼそと支援を続けている彼としても、結果的に被支援国に金が落ちる仕組みは望むところで、互いに利害が一致している。
先生はトルコ語は嗜まないが、翻訳後の語感について、依頼主たる彼や魯子敬の意図を含むよう助言を行うという立場で、推敲を言葉少なく補佐するのが仕事である。先生の兄上も凝り性なところがあるので、先生の鋭いコメントに
「君は……凄い人だな。しかも、どの外国語の語彙もエレガントだ。その若さで」
と、たびたび感嘆して、楽しそうであった。
何週目かを数えたこの仕事の間、お茶の時間に一息入れながら、先生は兄上と雑談していた。雑談といっても、先生は心にかかることを飲み込んだまま、もともとの寡黙に輪をかけて、兄上の話をひたすら聞いて相槌を打つだけといえば、だけではあった。
「……西夏文字、ですか」
「そう。西夏文字。あれに出会わなかったら、探検隊にも加わらなかったかもしれない。そこのそれが、一番のお気に入りでね」
先生の兄上は、先生の背後の壁にかけてある大きな拓本の額を指差して笑んだ。
「全くねえ、この、ゴージャスな画数の多さといったら。そこが魅力なんだけど。初めから装飾性を意図して作ったとみえなくもない。漢字への対抗意識なのだか、こう、いじらしくて、かわいいんですよ。一目惚れだった」
何と答えるべきか、答えに窮して、先生は淡い微笑を返すのみである。
「思い出せないことは仕方がないことでね。幸い、語学は忘れていないらしいから、メシの種もある。元の人脈に慣れるまでは、こうして翻訳などさせていただきながら、ゆっくり自分の居場所を取り戻していこうと思いますよ」
ふたりは茶を喫し、茶器の音のみが書斎に渡った。
「毎週、こうして君を見ていると、なんだか安心するよ」
「安心、ですか」
無意識下に、家族のおもかげを感じてくれているのだろうかと、先生は淡く期待して、言葉少なく応じた。
「多分、君のまわりは、ほかの人が見ている景色と同じだ」
先生の兄上は、本音を言っている時の昔からの癖で、言い終えたあとに目を瞑った。
黒地に白い西夏文字を連ねた大きな額を背景にした、先生の好む無彩色のいでたちと黒髪と白皙。そのモノクロの世界に兄上は安堵を呟いた。
先生は涙を堪えるより他はない。
これが黒鍵と白鍵であったなら、兄上の心の扉を開くことができるのだろうか。しかし、世にあまた存在する名曲のうち何を弾いたら、兄上の心に届くのかわからない。音楽は時に人の心の傷をすら癒せるはずが、兄上の心には一向に届かないかもしれない予感で一杯になり、天才伏龍などと謳われていたのは、一体、何を指してそう称されていたのか、底なしの空虚に足元が崩れるかのようだった。
「君はお若いのに本当に気のつく優しい人だ。気休めを言われるよりも、こうしているとずっと気が楽だよ。……ありがとう」
「いいえ、わたくしは、そんな」
先生は、兄上の心や記憶ばかりが気になって、いま兄上の眼に世界がどう映っているかを後回しにしていた自分に気がついて、余計に滅入りそうだった。
その夜、公叔邸の二階の主寝室の灯りは、日付がかわっても消えなかった。
普段なら、彼が仕事で遅い日はフットライトだけを点けて先生は先に眠るのだが、彼を待っていた。もう魯府へゆきたくないと、涙ながらに訴えるためである。 昼間の出来事を事細かに話せるほどなら、先生はこのようなことを願い出ない。先生の細い神経が耐えられないことが、昼間に穏やかに起こったのであろうことを、彼は大雑把に理解すると、具体的な理由を問い質すことを慎み
「そうじゃな、続きはだな……ホットミルクを飲んでから、だな」
行け、行かない、という不毛な口論を招くことを恐れていちど先生から離れた。
先生をこの寝室に迎えた年の冬至のころ、彼は、寝室に続く洗面室の改装を行った。洗面台と向かい合わせに、小さな冷蔵庫とIHコンロと電子レンジが収まった、簡易キッチンのようなものを設えたのだ。もちろん、軆が丈夫ではない先生のためのもので、微熱のときは氷枕を、服薬のときの湯冷ましを、邸の一階に気兼ねをせずに、いつでも供するためにである。
電子レンジにはホットミルクの自動コースがあるが、猫舌の先生には熱すぎるので、冷蔵庫から西涼乳業の無調整牛乳を取り出してカップに注ぎ、きっちりと秒数をダイヤルして加熱する。
その間に、グラス類を二個ずつ並べてあるガラス戸の中を見やった。
このあいだ公孫ティーサロンから贈られた、瀟洒な細い円筒形の瓶に詰まったジンジャーエッセンスが目に止まったが、その隣のラム酒の小瓶を手にとった。
彼はやや思案して、グラスにラム酒を少し注ぎ、良い加減になったホットミルクに一筋たらしてから、残りを飲み干した。グラスは持ってゆかない。持っていったなら、先生はわざと酒をねだるに違いない。酒が欲しいのではなく、酒を巡ってわざと諍いを起こして辛い思いをしたいだけなのだ。彼は、先生が自虐的に自分を追い詰めようとする状況を未然に防ぐすべをいくつも知っている。
彼に見透かされたのを悟ったのか、先生は大人しく、差し出されたホットミルクにくちづけた。かなしくなるほどに、よい加減に温まっている。
「眠れないお前に睡眠薬を与えるのは容易いが、儂はホットミルクを選ぶ。なぜかわかるか」
「直ちに効いたなら。薬ではなく毒とお考えだからでございます……」
「そうじゃ。遅効性でよいではないか。往々にしてあとが怖いものだぞ。お兄上に毒を盛ることはない。……たとえば……」
寝室は甘い薄明かりの中、沈黙に沈んだ。時計の中の電池が電気を供給するる音すらも聞こえてきそうだった。ナイトテーブルに飾られた花でさえも、今、うかつに花びらを落としたりしてはいけないと、営みを止めているような風情である。
ちゅ、という、子供じみた音とともに、彼は先生の唇をようやく解放した。先生は、たったこれだけで動悸がして、口移しにあらたに与えられたほんの微量のラム酒が、白い軆をぐるぐると巡るのを感じる。
彼は、危うさを消して、眠たげに潤んだ眸をした先生を間近でみとめ、喉の奥でふふ、と笑って、先生の唇の端に残ったラム酒の薫りを拇指の腹で優しく拭うと、ほそい肩をだきなおす。
「三つ数えるうちに、もう眠くなろう。……む、そなたには即効性であったな、これは。『たとえば』にならなかったな」
彼がいつ数を数え始めるのか、先生はぼんやりと待ち、次第に彼の肩に寄りかかって、瞼の落ちかけた白皙をあずけた。
「……ひとつ確かなことがある。お前はお兄上に必ず必要な癒しをあたえ続けることができよう。いまここにある酸素のようにだ。諦めてはならん」
たとえ兄上が記憶を取り戻すことがなかったとしても、彼から見ればそれは疑いのないことであったが、このもうひとつの確かなことを伝えたがために、聡明すぎる先生の情緒不安定を招くことを恐れて、彼は言葉なかばでひとつを結んだ。
大きな掌で、先生の髪をゆっくりと撫でて、サブリミナル効果的な「一」を数えて聞かせ
(一滴の酒に酔うて安心して寄りかかるそなたを、儂は嬉しく思うのだぞ)
先生の悩みの重さと反比例するその軽い軆を抱き上げて、彼は温室育ちの花束を扱うように寝台へと運んだ。
<音階七音で七題 全8話>全話一気読みへのショートカットは → こちら