『年始の餃子パーティーをご一緒にいかがですか』と、劉公叔邸へ魯府から招きがあったのは、クリスマスのあとだった。公務に忙しい当主に配慮した雨水に近い頃の日取りでもあり
「では午後から、愚息と孔明を先に伺わせて手伝わせましょう。儂らは仕事が終わり次第、うかがいます。署名の日でして、時間が読めまして、好都合です」
と、当主である彼は、もちろん諾った。
先生の兄上との仕事も終盤に差し掛かると同時に、毎週毎週、先生の気が塞いでゆく様子を魯子敬も察知していた。このあたりで、仕事以外に何かつながりを保ってゆけないかという模索でもあろうか。先生の兄上と先生のために、彼らが示し合わせたと見えなくもない。
「では午後から、愚息と孔明を先に伺わせて手伝わせましょう。儂らは仕事が終わり次第、うかがいます。署名の日でして、時間が読めまして、好都合です」
と、当主である彼は、もちろん諾った。
先生の兄上との仕事も終盤に差し掛かると同時に、毎週毎週、先生の気が塞いでゆく様子を魯子敬も察知していた。このあたりで、仕事以外に何かつながりを保ってゆけないかという模索でもあろうか。先生の兄上と先生のために、彼らが示し合わせたと見えなくもない。
春節が過ぎてから、先生はますます曇りがちな表情をしていた。いつもなら、たやすく風邪をひいてしまうのに、気は重くもなぜか体調は可なくも不可もなかった。このままでは魯府の餃子パーティーに行けない理由など何もない。
先生が、どのような条件下で自分の軆の調子が崩れるかをよく知っている以上に、彼は先生を悉知している。わざと夜ふかしをしたり、加湿器を忘れて就寝したりすれば、それらは故意だと彼に必ず見破られる。彼は先生を責めはしないであろうが、行きたくない理由に直面したくない弱い心を彼に露呈するのは嫌だった。
先生が、どのような条件下で自分の軆の調子が崩れるかをよく知っている以上に、彼は先生を悉知している。わざと夜ふかしをしたり、加湿器を忘れて就寝したりすれば、それらは故意だと彼に必ず見破られる。彼は先生を責めはしないであろうが、行きたくない理由に直面したくない弱い心を彼に露呈するのは嫌だった。
この問題については、行くか行かないかの二つに一つである。どちらも先生は気が引けて、どうすればよいのか分からなくて、夜空を仰いでいた。天文は何も答えなかった。吉とも凶とも、選択次第で如何様にも変化する様子を少しも変えずに冷然としていた。不可抗力で行くことができなければよいのにと、むなしく白い吐息をつくばかりである。
「先生、お月様出てるから、明日もお天気ですか?」
夜の庭先に、ひょっこりと子息があらわれた。
「はい。おそらく晴れ時々曇り、といったところです」
「よかった! もしいつかみたいに大雪だったら、魯大人のお邸に行けないかもしれないと思って」
夜の庭先に、ひょっこりと子息があらわれた。
「はい。おそらく晴れ時々曇り、といったところです」
「よかった! もしいつかみたいに大雪だったら、魯大人のお邸に行けないかもしれないと思って」
子息の無邪気な笑顔に、先生は翳のある笑みを無言で返した。その表情を見て、子息はあらたまって先生に語りかけた。
「ねえ、先生。まえ、屋上で笛を教えてくださったときのこと、覚えていらっしゃいますか」
「覚えていますとも」
「先生は、とっても喜んでくださいました。ぼくがひとりで『できない』って決め付けて、諦めて、先生に相談しなかったら、『今日のことはなかった』、って」
また音楽のテストがあるにしては、子息には思いつめた様子もない。
「ねえ、先生。まえ、屋上で笛を教えてくださったときのこと、覚えていらっしゃいますか」
「覚えていますとも」
「先生は、とっても喜んでくださいました。ぼくがひとりで『できない』って決め付けて、諦めて、先生に相談しなかったら、『今日のことはなかった』、って」
また音楽のテストがあるにしては、子息には思いつめた様子もない。
「ぼく、あのあと、夏休みに姜くんとちょっと気まずくなっちゃったんだけど、今は前より仲良くなれたような気がするんです。ぼくバカだから、また間違えたことしちゃうかもしれないけど……」
「禅さまはお心優しく、姜くんは賢い子です。きっとご生涯の友となることができます」
「あのう……先生」
「はい」
「先生は、お兄うえとあうのがもういやですか?」
「いやではありません。……辛いのです」
率直な子息を前に、先生は短く本心を明かした。
「禅さまはお心優しく、姜くんは賢い子です。きっとご生涯の友となることができます」
「あのう……先生」
「はい」
「先生は、お兄うえとあうのがもういやですか?」
「いやではありません。……辛いのです」
率直な子息を前に、先生は短く本心を明かした。
「先生には、父うえも、叔父うえたちも……なにもできないけど、ぼくもついてます。だから、先生の兄うえには、先生と父うえと叔父うえたちとぼくがついてます。すぐに何かできないかもしれないけど、先生の兄うえはいつかきっと先生のこと思い出すって、ぼくはおもいます。証拠なんて、ないけど」
いつになく、子息は口数が多かった。
いつになく、子息は口数が多かった。
「家ぞくは、お医者さんやお薬ができないことができるって、ぼくは信じてます。ぼくの母うえも、今でもときどきぼくを助けてくれてるのが分かるからです。……ぼく、バカだから、いつも後からわかって、その時お礼をいうのが間に合わないんですけど……」
天才臥龍を前に、まるで説得を試みるような格好になった不利に、子息は口ごもりかけたが、思えば自分より皆が優れていることになど慣れっこで、自分の考えに誠実であろうとする信念を通すことを選び、幼くも生きることの困難さに怯みそうになったときには必ず思い出している、父たる彼の教えを口にして勇気をふるった。
天才臥龍を前に、まるで説得を試みるような格好になった不利に、子息は口ごもりかけたが、思えば自分より皆が優れていることになど慣れっこで、自分の考えに誠実であろうとする信念を通すことを選び、幼くも生きることの困難さに怯みそうになったときには必ず思い出している、父たる彼の教えを口にして勇気をふるった。
「父うえは、お水をとても大切にします。水道の蛇口をひねるときは、水道をひいてくれた人に感謝して、おろそかに使ってはならん、といいます。それから、井戸を掘る人が『あと1mm』を頑張れなかったら、永遠に水は来ないから、諦めてはならん、っていいます。井戸はたとえで、家ぞくや友だちがいてくれるから、人は諦めないで何かを全うするんだ、って。……母上が、水の事故で亡くなったあとも、それとこれとは別儀じゃ、って。死生は天にあるものだから、水をうらむでない、って」
子息の言葉は散漫で、まだ借り物の部分はあるにせよ、子供が語るにしては、ままならぬ人生というものについての示唆に富んでいた。
「だから、ぼくも一緒に行きますから、先生、行きましょう。あとで先生の兄うえが、『あのときもずっと一緒にいてくれた』って、思ってくださったら、あとで百倍も嬉しい日になると思うんです」
「だから、ぼくも一緒に行きますから、先生、行きましょう。あとで先生の兄うえが、『あのときもずっと一緒にいてくれた』って、思ってくださったら、あとで百倍も嬉しい日になると思うんです」
自分の力を過信せず、しかし本質を見失わず、人として世に経るために信じるべき信じるに足るものを、子息は既に信じていた。この信念は生涯に渡って覆らないのであろう、拙くも強さがあった。
子息には一を聞いて十を知る才はないものの、一を聞かばその一を行わんとする意思はあった。そして、それはおのれ一人が為ではない場合に顕著でもある。それは時に、理を情で解決せんと勇み足になり、姜少年と行き違いを生じるのであろうが、では十を知るであろう姜少年の如きは十を行えているかといえば、それはまた別の話といえよう。
先生は子息の、熱心で賢愚を超えたまっすぐな瞳が羨ましく、ますます何も言えなくなり、子息の言葉に折れて、とうとうこっくりと頷いた。
誰も明日を決めてくれない以上、今はこの小さな手にすがって、明日を迎える他はなかった。
誰も明日を決めてくれない以上、今はこの小さな手にすがって、明日を迎える他はなかった。
魯府の車寄せに車が止まって、子息と先生の二人が玄関の扉の前に立ち、呼び鈴を押そうとしたまさにその時、扉がひらいた。
「おや、劉家の」
白いコートの襟元の、高価なグレイのファーすら霞むほどの、俳優のような容貌の男が玄関先にあらわれた。
「おや、劉家の」
白いコートの襟元の、高価なグレイのファーすら霞むほどの、俳優のような容貌の男が玄関先にあらわれた。
先生は思わず息を呑んだが、子息はこんな時にこそ「子供の無邪気」はまだ通用する年齢であることを瞬時に思いつき、先生を庇うように挨拶で先制した。場の空気を読む才能は、父譲りである。
「新年おめでとうございます! 周さま」
「おめでとう。外は寒い。早く入って、魯大人にご挨拶して加勢したまえ」
「はい」
「新年おめでとうございます! 周さま」
「おめでとう。外は寒い。早く入って、魯大人にご挨拶して加勢したまえ」
「はい」
子息は、先生とこの美男との軋轢について詳しくは知らないが、仲が良いわけではないらしいことは薄薄察している。心配そうなまなざしを先生に注いでみたが
「少しお話をして、すぐ参ります」
先生が視線で諾ったので、子息は素直に玄関へと進んで案内を乞うた。
「少しお話をして、すぐ参ります」
先生が視線で諾ったので、子息は素直に玄関へと進んで案内を乞うた。
先生はといえば、先生を言葉の刃で傷つける者の到来に喜びすら感じていた。この男の激しい気性に鑑み、子供の前では憚られることも言えるようにお膳立てをしてやったのだ。
周家の御曹司は、うるわしい眉を吊り上げた険しい表情を変えもせずに、先生に相対して、しばらくの沈黙ののちに口を開いた。
周家の御曹司は、うるわしい眉を吊り上げた険しい表情を変えもせずに、先生に相対して、しばらくの沈黙ののちに口を開いた。
「餃子に、メイプルリーフ金貨を仕込んできた。そのためだけに来た」
「……え……っ?」
「十分の一オンスだが、必ず貴様が引き当てろ」
「……え……っ?」
「十分の一オンスだが、必ず貴様が引き当てろ」
先生は、面罵に耐えよう、あるいは甘んじて受けようと思い込んでいたため、拍子抜けして、珍しくぽかんとした。今は廃れつつある倣いだが、硬貨入りの新年の餃子を食べた者には一年の幸運が舞い込んでくるといわれている。その幸運を引けと、周公瑾は確かに言った。
「わたしは」
周公瑾は、それこそ金属を噛んだような表情で続けた。
「伯符のために、貴様が子瑜どのの記憶を取り戻すことができるよう、夜毎に祈りながらピアノを弾いている。弾いているのは……ゴルドベルク変奏曲のようなものばかりだ。このわたしが、だ」
周公瑾は、それこそ金属を噛んだような表情で続けた。
「伯符のために、貴様が子瑜どのの記憶を取り戻すことができるよう、夜毎に祈りながらピアノを弾いている。弾いているのは……ゴルドベルク変奏曲のようなものばかりだ。このわたしが、だ」
怒っているような口ぶりとは裏腹に、先生の味方である者しか言い得ないことをはっきりと言い切った。先生はその曲目にも耳を疑い、言葉を忘れた。
『チェンバロのための曲など、ピアノで弾いて何になる』と、かつて周公瑾が一顧だにしなかった曲目である。
『チェンバロのための曲など、ピアノで弾いて何になる』と、かつて周公瑾が一顧だにしなかった曲目である。
「恨みからは何も生まれないことを、わたしは伯符の生還で知った。貴様を恨んでいたのではない。わたしから伯符を奪った見えない運命を呪うために、最も天に近かった貴様を標的に恨みをぶつけていただけだ。天への呪詛を吶喊するための演奏など、貴様に会わずとも早晩行き詰ったに相違ない。そこには暗黒の力はあっても、無限の光はない」
詳しく語っても詮無いことだが、このたびの孫博士の生還ののち、孫博士が好んだポロネーズの類を弾いて元気づけようとしたのに、いざ鍵盤に向かうと、周公瑾は弾けなくなった。指が勝手に譜面を再現するほどに覚えている曲ですら、どう弾いたらよいのかわからなくなったのだ。
十五分あまりも呻吟してようやく弾き始めたのは、ショパンの子守歌ただ一曲だった。それ以来、おだやかな癒しと祈りを込められた曲しか、弾く気にならないでいた。
「……次に会うときまでに、貴様を貴様ではなく、何と呼ぶか考えておく。子瑜どのの記憶が戻ろうと、戻るまいとだ。……わたしは今日はこれで失礼する」
「……次に会うときまでに、貴様を貴様ではなく、何と呼ぶか考えておく。子瑜どのの記憶が戻ろうと、戻るまいとだ。……わたしは今日はこれで失礼する」
周公瑾は、白い息のなごりと先生を魯府の玄関先に残して、爪先の尖ったイタリア製の靴の音をゆっくりとたてながら徒歩で門扉へ向かった。どこへでも派手な外車で乗り付ける、以前の周公瑾ではなかった。
先生が、扉の開閉音も微かに、勝手知ったる居間へ向かおうとすると、廊下で兄上に出会った。兄上はダウンの丈長のコートを着て、手袋を嵌めていた。
「やあ、新年おめでとう」
「おめでとうございます」
「やあ、新年おめでとう」
「おめでとうございます」
いましがた、周公瑾とありえない会話をかわしたためか、先生は兄上を前にして苛まれる無力感という懊悩が薄くなっていた。にこやかな兄上の笑顔につられて、先生は久しぶりに無心で笑みを返すことができた。
「周郎、まだおいでかな?」
「いいえ。お帰りになりました」
「風のような男だな。さっき来たばかりなのに。ちょうどよかった。ちょっと買い物に行くんだけど、つきあってくれるかな? すぐそこの、スーパーなんだけど」
「はい」
「歩いていきたいんだけど、いいかい? 散歩したい気分だったんだ。誰かと一緒じゃないと、心配かけるからね」
「いいえ。お帰りになりました」
「風のような男だな。さっき来たばかりなのに。ちょうどよかった。ちょっと買い物に行くんだけど、つきあってくれるかな? すぐそこの、スーパーなんだけど」
「はい」
「歩いていきたいんだけど、いいかい? 散歩したい気分だったんだ。誰かと一緒じゃないと、心配かけるからね」
心配とはもちろん、兄上が今、色がわからないことに起因して、不測の事故を招く可能性である。 先生は、何を思いめぐらすこともなく、兄上に誘われるままに魯府を出た。
徒歩13分のアジア系スーパーは、賑わっていた。 中華用の食材はもちろん、日本・韓国・ベトナム・タイ、各国の食材や調味料が犇めいている。胡麻油系の香ばしさや、キムチに代表される香辛料の香りが、渾然としていた。
「おいしい水餃子いかがですかー。凍ったまま熱湯に入れてたったの10分です! 新春大安売り、三パックで二パックのお値段です! お味見どうぞー!」
「おいしい水餃子いかがですかー。凍ったまま熱湯に入れてたったの10分です! 新春大安売り、三パックで二パックのお値段です! お味見どうぞー!」
スーパーの自動扉の脇には、販促用の紅いのぼりがはためき、実演販売の売り声が賑わしかった。
買うものは決まっていた。孫呉海運の社名の透かしとロゴマークが入ったメモ用紙に書かれた五品目だった。メモの文字は、兄上の筆跡でも魯大人の筆跡でもない。
「何か、忘れてる気がするんだが……」
「強力粉、生姜、醤油、五香粉、鎮江香醋。全て揃いました」
「何か、忘れてる気がするんだが……」
「強力粉、生姜、醤油、五香粉、鎮江香醋。全て揃いました」
兄上は、先生と一緒に買い物かごを覗きながら、釈然としない。私用で、スーパーで買いたかったものを失念しているのかも知れなかった。
しかし、一体、あの周到な魯子敬が、いま皆で包んでいるはずの餃子の材料を充分に用意していなかったかに見えるこのメモこそ不思議でもある。
「うーん、確かにそうだな」
「買い忘れがありましたら、また参りましょう」
「うーん、確かにそうだな」
「買い忘れがありましたら、また参りましょう」
レジを前にして兄上は得心したように
「そーか、多分、忘れたのはこれだな」
と、呟きながら、レジ脇のレジ袋を一枚取って、買い物かごに加えた。
「そーか、多分、忘れたのはこれだな」
と、呟きながら、レジ脇のレジ袋を一枚取って、買い物かごに加えた。
「いらっしゃいませ、ポイントカードはお持ちですか」
レジのバイトの娘が溌剌と問いかけながら、てきぱきと買い物かごを引き寄せ、まず重たい香醋に手を伸ばす。
「いや、カードは持ってません。現金でお願いします」
「カードお作りしますか?」
「いや、結構」
レジのバイトの娘が溌剌と問いかけながら、てきぱきと買い物かごを引き寄せ、まず重たい香醋に手を伸ばす。
「いや、カードは持ってません。現金でお願いします」
「カードお作りしますか?」
「いや、結構」
兄上とバイトの娘のやりとりの向こうに、会計を済ませた家族連れの姿が淡い背景として加わる。
父と母と、小さな三人姉妹の家族だった。末の妹が、買ったばかりの菓子の食玩を開封したいと駄駄をこねて母に叱られ、お仕置きに置き去りを装われようとしている。要領のよい次女は黙って父母に続き、長女が三女をなだめながら、手を引いて強引に連れてゆく。巷ではありふれた光景である。
「あっ、しまった。皮蛋!」
二人は、自動ドアの付近で、はっと立ち止まった。
二人は、自動ドアの付近で、はっと立ち止まった。
店内に流れる音楽も、客の足音も、カートを押す音も、レジでバーコードを読み取る電子音も、小銭の音も、レジ袋の擦れる音も、何も聞こえない。
水餃子の中に皮蛋を入れるのは、二人の末の弟の均の好みなのだ。
水餃子の中に皮蛋を入れるのは、二人の末の弟の均の好みなのだ。
「皮蛋……」
諸葛子瑜はスーパーの袋を思わず取り落としたが、幸い、醋の分厚い瓶は割れもせずに鈍い音を立てただけだった。諸葛子瑜の頭の中で、白萩が満開の頃に魯府を訪れたこの白皙と、記憶の中の弟のおもだちがよみがえって重なった瞬間であった。諸葛子瑜には、先生の襟元の濃いブルーの襟巻きが、やけに鮮やかに感ぜられた。
諸葛子瑜はスーパーの袋を思わず取り落としたが、幸い、醋の分厚い瓶は割れもせずに鈍い音を立てただけだった。諸葛子瑜の頭の中で、白萩が満開の頃に魯府を訪れたこの白皙と、記憶の中の弟のおもだちがよみがえって重なった瞬間であった。諸葛子瑜には、先生の襟元の濃いブルーの襟巻きが、やけに鮮やかに感ぜられた。
先生は、成人後はじめて兄上の声で名を呼ばれた。兄上と呼び返したかったのに、涙に咽んで呼べなかった。
そんな二人を隔てて、背の高い合成繊維の紅色ののぼりをたてた傍らでは、実演販売の店員が、冷凍食品の水餃子を呑気に茹でながら、彼らが入店した時と何もかわらぬ客寄せの声を張っているのだった。
脳科学の分野では、嗅覚を感知する領域と記憶を司る領域は近接している事実に基づく臨床での応用例の報告が目新しくなくなっているが、果たして、秋のうちに餃子パーティーがあったなら、兄上は直ちに記憶を取り戻していたといえるかどうかは断じかねる。いつぞや彼が子息に言ったという「あと1mm」の辛抱を積み重ねていなければ、今日のことはなかったのかもしれない。
先生の脳裏を、俳優のような面立ちがよぎった。周公瑾の細君は、アロマテラピー研究所「二名花」取締役の妹だ。もしかしたら、兄上の胸ポケットに戻ったメモ用紙の文字の主も、周公瑾であるかもしれなかった。
「お前がこのところずっと、こんな状態のわたしを気にかけ続けるなど、お前ひとりの力で持ったはずがない。あのおかた……。公叔のおかげなのではないか」
いままで、柔和でおだやかな言語学者の風情だった諸葛子瑜は、にわかに「兄」という記憶に責任や立場を加えた重みをまとい、先生のセピア色の写真の記憶から、生き生きと抜けいでて、先生に強い語調で迫った。
「お邸に連れてゆけ。今すぐにだ。御礼を申し上げねば。この、頑ななくせに甘ったれで御しがたい弟を、幾久しく末永くお傍においてくださるように。ご挨拶から、お前の兄を始めねば」
「でも、兄上。餃子が」
「お前は馬鹿か。餃子など、待たせておけ」
と言いながら、諸葛子瑜は片手にスーパーの袋を掴み、片手で弟の腕を掴んで車道のそばへ走り出て、迷わず黄色い車を招いて停めた。兄上が色彩を取り戻した証拠でもある。
「でも、兄上。餃子が」
「お前は馬鹿か。餃子など、待たせておけ」
と言いながら、諸葛子瑜は片手にスーパーの袋を掴み、片手で弟の腕を掴んで車道のそばへ走り出て、迷わず黄色い車を招いて停めた。兄上が色彩を取り戻した証拠でもある。
「恩賜公園の近くの、劉公叔邸へ」
兄上は、人生のゆきさきすら決まったかのように、運転手に早口に告げた。
車内から恩賜公園の植え込みを望んで、先生は今、もう秋が遠くに去り、冬であったことにようやく気づいた。
兄上は、人生のゆきさきすら決まったかのように、運転手に早口に告げた。
車内から恩賜公園の植え込みを望んで、先生は今、もう秋が遠くに去り、冬であったことにようやく気づいた。
夏が終わろうとする頃、艶艶としてきた公園内の金木犀の葉を見て
(公叔は、金木犀が終わったあと、樹の下の地に橙色の名残が鮮やかに落ちているのをご覧になるのがお好きなのだから)
と、薫りのさかりが終わりかけてきたなら注意して、必ず彼を散歩に誘い出そうと思っていたのに、すっかり忘れていた自分が遣る瀬無かった。
諸葛子瑜がアポなしで取り急ぎの礼を述べて、黄色い車で魯府へ帰った数時間後、劉家の黒いハイブリットカーは三人の人影をのせて暮れゆく道を走った。ハンドルを握っているのは何と常山の好漢だった。
劉家のハンドルを誰にも譲らないはずの彼の末弟が、諸葛子瑜の記憶が戻ったことに号泣して
「ダメだ、嬉し涙と水っぱなが止まらねえ! 前が見えねえ! 今日だけはムリでス。運転ッ!」
という、前代未聞な事態に至ったのだ。末弟は留守番には不向きな気性で、もしも飲み始めた場合の抑えの為にも、必然的に次弟が残った。
赤信号で恩賜公園の脇に停車したところで、先生は去年の金木犀を見逃したことを彼に小声で詫びた。
「金木犀は、今年もまた咲くではないか。そして、今年は、お兄上ともご一緒に見れば良い。儂はな……」
彼は、隣の先生の白い手を膝の上で握りしめて、白い耳元で囁いた。
(公叔は、金木犀が終わったあと、樹の下の地に橙色の名残が鮮やかに落ちているのをご覧になるのがお好きなのだから)
と、薫りのさかりが終わりかけてきたなら注意して、必ず彼を散歩に誘い出そうと思っていたのに、すっかり忘れていた自分が遣る瀬無かった。
諸葛子瑜がアポなしで取り急ぎの礼を述べて、黄色い車で魯府へ帰った数時間後、劉家の黒いハイブリットカーは三人の人影をのせて暮れゆく道を走った。ハンドルを握っているのは何と常山の好漢だった。
劉家のハンドルを誰にも譲らないはずの彼の末弟が、諸葛子瑜の記憶が戻ったことに号泣して
「ダメだ、嬉し涙と水っぱなが止まらねえ! 前が見えねえ! 今日だけはムリでス。運転ッ!」
という、前代未聞な事態に至ったのだ。末弟は留守番には不向きな気性で、もしも飲み始めた場合の抑えの為にも、必然的に次弟が残った。
赤信号で恩賜公園の脇に停車したところで、先生は去年の金木犀を見逃したことを彼に小声で詫びた。
「金木犀は、今年もまた咲くではないか。そして、今年は、お兄上ともご一緒に見れば良い。儂はな……」
彼は、隣の先生の白い手を膝の上で握りしめて、白い耳元で囁いた。
「お前が辛い時にこそ、お前を待っていられたことを、幸せに思うのだよ。お前とはもう家族だ。パトロンの機嫌を取ろうなど、露ほども考えておらなかったであろう。どうじゃ」
先生は、その言葉に、頬を赤らめて微かに頷いた。
先生は、その言葉に、頬を赤らめて微かに頷いた。
「白状するがな、儂とて悩んだ。普浄和尚にお教えを請うて、おのれの選択を信じなおす気になった」
「和尚は……。何とおおせだったのでございますか」
「高僧の言葉をおおせになった。『川でなくしたものは、川でみつかる』とな」
先生は、金貨の入った餃子を彼が必ず引くようにと願わずにはいられなかった。
音階七音で七題(了)
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※この作品に関連して、ほのぼのと心温まる創作三国イラスト連作のご発表がありました。
皆様と嬉しさを分かち合いたく、お作品へリンクしてご紹介申し上げます。(画像クリックでジャンプします)

��pixiv内お作品 ねむりねこ さま)
「和尚は……。何とおおせだったのでございますか」
「高僧の言葉をおおせになった。『川でなくしたものは、川でみつかる』とな」
先生は、金貨の入った餃子を彼が必ず引くようにと願わずにはいられなかった。
音階七音で七題(了)
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