輕舟已過南屏山 (けいしゅうすでにすぐ なんぺいざん)

2010/01/01

3世紀被害譚SS

ああやはり、殿に頂戴する御酒がこの世で一番旨い。
ありがたいことだ。
殿の御為に槍働きできるだけでも充分であるのに、
こうして宴を張って小功をお労いくださるとは、何たる君恩。

しかも今宵は、特に拙者ひとりを
お招きくださり、感慨無量だ。
嬉しいが、度を過ぎぬように心せねば。
殿は、
  ”第一の功は、孔明を無事に我が手に還したこと”
と、繰り返し仰せになる。
どこまでも公正な御方だ。
公子のことは、私情だとお考えなのであろう。

たとえ、軍功に数えられずとも、
あの時に賜ったお言葉、涯忘れるものではありませぬ。

おっと、いかん。
思わず目頭が熱くなってしまった。
あれを思い出すと、駄目なのだ。落ち着け。

そういえば、あの大戦後、いままで、
ゆっくりとこうしてお話をする暇もなかった。
本当に、差し向かって居るだけで、
この御方にお仕えしてよかったという思いが
こみ上げてくる。

ああ、いかん。
またあのお言葉を思い出しそうだ。平常心だ、平常心。

其の第一の軍功について、
殿にしては、お珍しく、詳しい話をお求めだ。
これは。
もしや。
軍師は、江東での自らの功を誇ったりなさらないので、
その軍功をお確かめあって賞すべく、
聴聞をかねた宴なのではないか?

其の証拠に、いつも影のようにぴったりとついておられる
軍師殿のお姿もないし、いつまでも仲のおよろしい
両将軍が居られないのも、頷ける。

おお、もしそうならば、
なるべく正確にお伝えせねばなるまい。
酒の旨さに酔っている場合ではないぞ。


 そうなのです、詳しい打ち合わせもないままに、
 果たして軍師は、どこからどうやって拙者の船と
 落ち合うおつもりか、わからないままに、
 まずは、沖に早船を停泊して、
 様子をみていたのです。

 すると、小船がこぎ寄せてくるので、
 てっきり軍師かと思って迎えてみると、
 一人の童子でした。

 小童と見くびって、これが江東に悟られた罠なら
 何としようかと、思わず強く誰何しますと、
 童子は、軍師の使いであることと、
 軍師の伝言を利発そうに、はきはきと話し、
 我等の不安をひといきに拭い去ったのでございます。

 しかも。
 軍師は、はじめから其のお心積りだったのでしょう、
 この童子は、我が配下の者どもをよく見知っており、
 船を移るときには、はっきりと拙者の船だと
 確信していた様子でありました。

 童子の荷物には、軍師ご愛用の衣冠や扇が
 包まれており、伝言からも、見慣れたお姿で
 現れるのではないことが分かり、
 不安は去ったながらも、一同、依然として緊張して
 風を待っていたのでございます。
 
 ”小舟を岸辺につけて待て。
  岸に物見の兵などは一切出さずに只管待て”
 という旨のご指示に従い、
 これを余の者に任せられましょうや、拙者、
 童子と小者ひとりを乗せて、岸にこぎ寄せて
 お待ちしておりました。

 待つことさらに一刻、
 風が明らかに変わり、今か今かとお待ちしておると、
 忽然と、山のほうから、長い髪と白い衣を風に踊らせながら、
 そぞろ歩いてくる人影を認めました。
 
 遠目にはわかりませんでしたが、
 だんだんと近づくその人影の足取り、佇まい、
 まるで、杖を忘れた、うら若い仙人のような風体を
 なさってはいましたが、
 軍師に相違ございませんでした。

 お待ち焦がれの、殿のお気持ちを思うと、拙者、
 飛び出していって
 早く舟にお乗せしたい気は逸りましたが、
  只管待て 
 のご指示に、じっと身を伏せながら、
 見守っておりました。

 この風の荒れる中、散歩でもするように、
 岸へ近づくにつれて、足の運びが緩やかになっているのではないか
 と思えるような、暢気なご様子で、
 死中に活を求めるための敢えての緩慢な足取りと
 お見受けしながらも、拙者、
 忍耐力の限界を、試されているかのようでありました。

 ”先生!”
 ようやく水辺まで至った軍師が、
 童子に手をとられて、舟に乗られたのを
 目の当たりにして、拙者、急いで舟を漕がせ、
 ”軍師、お久しゅううござる。殿がお待ちかねでございます。”
 ご挨拶を申し上げると、
 ”やはり、御辺が、ここまで自らお越しであったか”
 と、目元に微笑をたたえて、お褒めのお言葉をくださると、
 童子にも、お優しい口調で、功を労っておいででした。

 あの東南の風については、
 軍師殿はお見通しだったというお話でしたが、
 あの時のお姿を思い出すと、拙者には
 どうしても、やはり軍師殿が風を呼んだように
 思えてならんのです。
 やはりご謙遜ではないのかと。

 
 江東を背にして、たったお一人で舟まで歩いてお越しになるお姿と、
 いままでの軍師殿の戦場を表すかのようなその情景に
 夏口の我等が知らぬ数々の功績を感じて、拙者、
 背が冷たくなる思いでありました。
 
 沖の早舟に漕ぎ寄せながら、そんな話をしている間に、
 童子は、てきぱきと、軍師殿の髪を
 手際よく梳いて、あの見慣れた様子に櫛目も正しく
 結い上げたりと、甲斐甲斐しくお世話をしておりました。
 この童子の功績も、小さからぬものがございます。

 童子が、沓を取り出して、
 軍師の足元に揃えたのを見て、拙者、
 そのときようやく、軍師がいままで
 裸足でいらした事に、気付いたのです。

 山の上から其処まで、まさか裸足でお越しだったとは。
 案の定、あまたの小石や小枝をお踏みになったご様子で、
 童子に布を取り出させて、少しお顔を顰めながら、
 おみ足を拭っておられました。

 軍師殿は、逃走のための履物すら懐中なさらず、
 さきほどまで江東のただ中に、たったお一人で
 いらしたかと思うと、
 この時、また再び、背筋が寒くなるような心地が
 いたしました。

 殿?

”子龍よ、役得であったな”
(はて、ここはお笑いになるところではないと思うが)
役得?
なんであろう、どのことであろう。役得とは。

”そうか、あれは、そういうことであったか。孔明め、誤魔化しおって”
はい、そうです。軍師は裸足で。
はい。其の時の……。

えっ?
”あれは”
とは?
あれって。
あれですか。

どうして殿が、軍師殿のおみ足のことなど、
御存知なのであろうか。
他ならぬ軍師殿のことならば、拙者が
知らないことを、殿が御存知でも不思議はないが、
臣の。
足の裏の事情をとは?
しかも、朗朗と、愉快そうに笑っておられる。

あっ、この御顔は、いかにも殿らしい、
無邪気な悪戯の類を思いつかれたときのお顔ではないか。

”御辺ならばと思うて、わたくしは……”
よく、軍師殿が仰せの、謎の言葉のひとつを不意に思い出して、
ああ、もしや、拙者、やってしまったのか と、
理由はよく分からなかったが、軍師殿に悪い気がする。

殿が、殿が聞き上手でおいでなのだ。
なんだか訳がわからんが、心の中で、先に謝罪しておこう。

お許しくだされ、軍師殿。