漢中慶功宴 (かんちゅうけいこうのえん)

2013/01/01

うをとみづ3世紀SS

 今上の叔父として世に隠れもなく、敢然と魏王に対抗する彼は、ついに漢中を手に入れた。こよいは、あらためて慶功の宴である。

「われらが漢室の弥栄を」
 と幾度も言祝ぎ、既に献の数を覚えている者もなく、宴の喧騒のなかで衣擦れの音もわずかにそっと退出しようとする彼をみとめて
「やや、殿。しばらく」

 白髯白髪、膚に刻んだ皺にそぐわぬ、隆とした肉体を戦袍に包んだ老将が、スクと立ち上がって拱手した。
「おそれながら第一の戦功の栄をたまわりましたそれがし、まだ酔うてなどおりませぬ。老骨へのご配慮のご中座ならば、お気遣いご無用に願い上げまする」
 持ち前の癇癪を額の青筋にかえて、老将は願いでた。

「黄将軍、無理を申すな。儂の酒量を、我が今廉頗と同じく数えてもろうては、ちと、酷じゃぞ」

 その癇癪をかろく受け流して、目尻に笑い皺をたたえた。しかもあの伝説の名将を引き合いに花を持たされては、さすがの老将とて白髪頭を掻きながら
「これは、かえって年寄り甲斐のなきご無礼を……」
 すごすごと座に就かざるを得ない。
「何の、黄将軍のますます盛んなること、若き武者どもも晩節はかくあるべしじゃ。皆、儂の分まで存分に杯を尽くすがよい。今宵は無礼講じゃ」
 高らかに宣言すると、満座はどっと沸き返り、一枚岩の結束はいや増すばかりである。

 彼は階を下りきってから、さざめきの中、次の座に涼しく座っている我が龍のあざなを低く呼ぶと、あとに従えて私室へ向かった。


 彼は胃の腑を休めるためにか、それとも食の細い我が龍を気遣ってか、あっさりとした蔬菜ばかりが色よく調理された軽食を運ばせていた。

「老将軍は酒が強い。あれは、あと十年は陣頭に立つ気であろう」
「まことに」
「頼もしき限りじゃ」
 漢中は、漢室にとって招運の地であるといえる。

 かつて項王に追われた高祖は、漢中に至ってわずか数年ののちに項王を垓下に滅ぼし、漢室のもといを築いたのである。歴史は繰り返す。しかも、この世に一条の龍が、漢が劉に復するように意図しているのだから、高祖の時とおなじく、ここ数年で天下の趨勢はまた激動するであろうことは火を見るよりもあきらかであった。

「長らく陣中で不養生のうえ、宴つづきではな。また髀肉の嘆をかこつことになる。付き合え」
「ご相伴に与ります」
「うむ」

 この二人が摂る餐といえば、この世で一条の龍が薬石の効を求めねばならぬ日が一日でも少ないようにと、龍のただひとりの弟が心をくだいて編み出した諸葛家の味である。賢弟は詳細を手づから春夏秋冬の四巻に編み、兄の主君にならんとする彼に跪いて託した。以来、彼はこの味を膳の掛の者に倣い覚えさせたので、この軽食も菜譜に拠っている。

「最近、そなたと語ろうていない気がする」
(少し、痩せたのう)
 そう気遣いながら、品のよい箸の上げ下ろしの様子で、食の進み具合を見計らって、彼は語りかけた。

「左様なことはございませぬ」
「そうか? 兵馬粮草のほかのことを聞いておらぬぞ」
 龍は、はっと打たれて白皙をあげた。

 曹軍を敗走させるまで、文官が詰めている幕舎の奥で就寝することを願い出て許されていた。

 頭脳の中で幾度も繰り返した兵のうごめきと、けたたましい軍馬のいななきを現実に帷幕の外に決して、その騒がしい反響がやまぬうちに、つい先ほどまで、武将どもの胆気と酒気に中てられ続け、軆はうつろななかにこだまばかりを抱えているようだった。

 灯火がおだやかにゆらぎ、焚きものの薫りもわずかに、数少ない侍従どもが慣れた様子でのびやかに呼吸している、そんな我が王の私室に匿われて、この龍は己の気がいかに張りつめ続け、軆を置き去りにしていたのかということに、ようやく気付いた。

 こたびの陣の勝算はかなり明らかではあったが、あの奸雄の陰にぴったりと従ってきたはずの司馬仲達に不測の要素を強く感じて、この龍は籌策をめぐらし、天文に問いかけ、九分九厘以上に勝てる確信を得るまで、珍しく夜中に何度もめざめた。

 ぐっすりと眠っているように見えた彼は、何ごとも怖いほどにお見通しなので、もしかしたら熟睡を装って内心で心配をしているのかもしれないと思うと、更に寝付かれなかったのだった。

 そして、本当は、彼がゆくゆく王たるにはこれがよい機で、おのれのみが寵臣であるという公然とした空気を少しずつ希薄にしてゆくべきだと、龍は長い夜のあいだじゅう、ずっと考えていた。

 定軍山の本陣に立つ彼は、帝の御前とはこのようではあるまいかと思われるほどに磨かれた帝王の器にあふれ、その気迫が陣に満つるさまは、もしかしたらあの奸雄以上の野心家なのではないのか、という疑すらよぎるほどであった。それぐらいでなければ、あの奸雄の宿敵に値しない。呉侯も一代の英雄といえど、江を擁する地の利もあり、みずから大軍を率いて魏王と正面から事を構えようとしたことなど、一度たりともない。

 既に五十の賀を過ごし、天が遺した寿の限りで、これからいよいよ王業を打ち立ててゆかねばならぬのに、この寡黙な龍から兵馬粮草以外のことをいまだに聞きたいと、双眸を和ませて巨きな両耳を傾けようとする彼に、龍は偽りを答えることなど、できなくなってしまうのだ。どうすれば己を偽らず、彼も傷つけずに済むだろうかと考えているうちに、この世で一番の賢者は、すぐに答えに窮してしまう。

 我が龍が答えを出す前に、彼がこの王者の腕の力に物を言わせて、懐にいだいてしまうのは、いともたやすいことである。あるいは、主命を嵩に着れば即座に済む話でもある。君命に否はない。

 しかし彼は、我が龍の前で単なる主君ではあり得なかった。それは、我が龍が単なる臣下ではないことと同じである。

 そして、この聡明な一条の龍が、我がことについて、なにゆえかこのように躊躇いのごときをしばしば含むことが、彼にとってはゆかしいことのひとつで、年をとるごとに、答えを急かす気になれないのである。

 龍はといえば、彼が王座への階をのぼるたびに、彼は龍ただひとりを軍師とし寵臣としていることは好ましいとは言えない懸念をいだきながらも、そう思うたびに、彼の傍を離れることはおのれの本意ではないことを身にしみて感じてしまう。しかも、龍は我が王のためにおのれを欺けても、彼を欺くことはできないのだ。

 彼はいつでも沈黙すら心地よい。

 このふたりが共に餐に就く様子を、微かに揺らめく灯火が見守っている。新野の頃に比すれば、いまの彼の私室の灯火は、倍してあまりあるといえた。

 その火影に眸を細めながら、彼はまた話をはじめる。寡黙な龍は、献策の場合をのぞいて、おのれから世間話のようなことを切り出すことができない。

「儂は倹約家ではあるが、吝嗇家ではない」
「はい」
 灯火が増えたことは、居室が広くなった必要に応じたことである。彼の視線の先とその言葉をあわせて、龍は正しく理解した。
「使うところは心得ているつもりだ。金も、兵も、時もじゃ」
 彼は、そこで箸を置いて、両袖をかろく持ち上げて背をただした。

「そなたと差し向かうておると、儂は、鏡を見る思いじゃ。おのれのよきところ、わろきところ、そなたは何も言わずとも、儂を映し出す。何で時を惜しもう」
 万感の思いを浮かべた双眸で、我が龍にほほえみかけた。

 それはこの龍とて同じなのだ。
 涙が湧いたので、灯火がぼやけて増して見えただけなのか、それとも、年年歳歳に居室の用に伴って灯火が数を加えてきた目に見える事実に涙を催したのか、にわかには判じかねた。

 彼のような君主など、この世に実在しないと思っていた。あの隆中を出てこうして彼の傍で暮らして、己のみが恐ろしいという自分の密かな恐怖を、国取りの道具に使わず、その恐怖にうすうす気づいて恐れもせず、時に言い当てながら、この身をこの恐怖ごといだいて王者の腕で鎮めてしまう。

 君臣の絆には忠で報いればよいものを、彼から日日おしげもなく注がれる鴻恩は、忠のほかの、あるいは忠という以上の何かで応じねば、心がおさまらないほどだった。

 容貌を映す鏡など、何面でも贖うことができる。我が王は、世の中のどんな賢者も見ることができないはずの後ろ姿さえも映し出すのだ。傍に居て、まざまざとおのれの心の中を映し出す鏡になど、この世で出会えることのほうが少ないのだ。その鏡を覗けば時に眩み、苦しいまでの思いをするというのに、家族や師のほかに、この変わり者を理解する赤の他人を心の底から欲していたおのれを偽りなくまざまざと見、その人が君としてここに居る、戦慄に近いような失いがたさを感じてやまない。彼と出会わなければ知らぬふりをしていたであろう心の一隅だった。

「よいか、王道を歩むためにそなたが必要なのではない。そなたとおるからこそ、儂はおそらく王道と思われるところを辛くも踏み誤らぬのだ。この因果は覆らぬ」

 このようなことをいとも簡単に言うてしまえる君主は、史書にはおらず、おそらく彼の後にも出ぬだろう。今たしかに目の前で呼吸をしている彼の、鬢に増え始めた白髪の一筋すらも、龍には慕わしくてならない。わずかあと十年隔たったなら、出会えなかったかも知れぬのだ。

「今宵から、もう余所に寝泊りするでない」

 あまりに応えがないので、繊細な我が龍がこの長すぎる沈黙を気まずく思わぬように
「孔明」
 と、特に何を求めるでもなく、呼び慣れたあざなをおっとりと口にした。
「我が君。……いますこし……」
「うん」
 彼は、もう少しだけ待ってやるのだったと、少し気の毒になった。聡明な龍はこの頭の中で、彼が思い至る以上のあまたのことを、めまぐるしく考えているに相違ないのだ。

「いますこし……。御酒を、頂戴できましょうか」
「よかろう。燗の具合に気をつけよ」
 それは承諾の意なのか、もう少し迷いたいのか、にわかには断じかねたが、もう一献の杯を重ねるいとまを、彼は惜しまなかった。