今上の叔父と呼ばれてはや廿余年を数える彼は、元宵を過ぎた夕暮れの書房で一息いれながら、その巨きな右の耳朶に手を遣った。
「我が君」
天井が高く広いしつらいの、益州刺史の書房は昼なお暗いために、点されている灯火が音もなく揺らぐ中で、斜め向かいに端座している白皙が、この所作に小さく彼を呼んだ。
「いや、もう治っておる。癖になってしまっておったな。しばらく痒うて、皮も剥けたのでな。悪餓鬼の頃以来じゃ。折角そなたが、大雪を予見しておったのに。不覚であった」
彼は笑って双眸を細めて、我が龍をねぎらうことを忘れない。
それを受けて、龍は無言で微笑で応じた。謙遜の言葉を述べてしまうと、彼がまなざしを深めて更に龍を褒めることが分かっているからである。こうして微笑みを交わすだけで、つね日頃いかに彼からひとかたならぬ君恩を注がれているかが、何かの形をとって目に見えるのではないかと思うほどであった。
まだ水もぬるまぬこの頃、彼は駱駝色の分厚い衣に毛の臙脂の袍をまとって、いささか垢抜けぬ爺むさいなりをしていたが、我が龍は日頃愛用の黒い羽織の下に丁子色の襟を深く合わせて、相も変わらず清らかにして品良く且つあたたかみを帯びた色合いを着こなしており、彼は白梅の香をふと感じていた。
彼の動作は、余寒の厳しさに見舞われてこしらえてしまった凍傷の痕を気にする一時的な癖であった。
天府の国はその名のとおり稔り豊かで、夏季はもちろん、冬季も過ごしやすかった。先年は五月まで陣中で気を張っており、益州の首座に就いて初めて梅を見たあとに、これほど冷え込む日があろうとは思いもよらず、彼は本当に四十年ぶりと言えるほど久しぶりに、その巨きな耳朶に軽い凍傷を患ったのだった。
「山沿いは知らず、成都はあまり積雪が残らぬと聞きますのに」
「だが、大雪の年はおおむね豊作だと、亡母が言うておった。まず、喜ぶべしじゃ」
「まことに」
「かしこの峨眉山には、白き鳳まであらわれたほどだったそうな」
「はや、お耳に達しておりましたか」
「伊達にでかくはないぞ」
成都の南方の郊外には、いにしえから崇敬をあつめ、歌にも歌われ、詩にも賦され、絵にも描かれてきた峨眉山が霞を纏うて聳えている。佛の道を求めるものや、花鳥風月を好む酔狂人や、高きを極めることを好む者など、限られた者しかその頂上の眺めを知らぬ仙境であるが、そこにわずかでも人が住み往来する以上は、その用に応じて物資を商う者や道案内の民草たちがそこで生計をたてている。そんな名もなき者たちから、口承で流布してきた話である。
成都は民心善良で、小洛陽ともいえる繁華と風格を備えている。庶民の住まう胡同でさえも皆がおのれの門口をまめに清掃するので、街並みが整然としているのはもちろんのこと、凶悪な犯罪も自然と少ない。
このような天府の都の大街の今の景色は、南は薄く北は分厚く甍に雪がのこり、軒下には落ちた雪が集められてところどころ山をなし、つらなる商舗や民家の門口にはめでたい聯が左右に飾られ、鮮やかな色合いの布の装飾品や土産物、蒸籠からたちのぼる香気と蒸気や、客寄せの売り声と平和な雑踏の喧騒と子供らが戯れる歓声に満ちて、桃の花も少し早めに咲こうとするのではないかと思うほどにめでたい雰囲気である。
元宵のあと、街なかで人々が寄り集まると、このところ決まって、飽きもせず件の峨眉山の白鳳の話でひとしきり盛り上がる情景が見られた。
たとえば、廉くて美味いと評判の茶館の中では
「聞いたか? 峨眉のお山の老松に、おおとりが出たって話」
「聞いた聞いた! 腰抜かすぐらいデカくて、まぶしいぐらい真っ白だって」
「その話、続きがあったんだってよ。知ってるか?」
「え? ほんとかよ」
「どんな続きだよ」
「へへ、聞きたいかあ?」
「なんだよー、もったいぶるなよ」
「早く聞かせろよ」
「あれはな、でっかい松の木に積もった雪の形と垂れ下がった氷柱の具合が、まるで松にとまったおおとりみたいだった、って、オチらしいぜ」
「みたいだった?」
「なあぁーんだ、生きてる鳥じゃなかったのかい」
「でも、よかったんじゃねえのか。珍しい獣とか、とくに白いヤツってのは、捕まえられて見世物にされたりするじゃないか。かわいそうだ」
「羽根、ひっこぬかれて売られたりしてな」
「羽根ぐらいならよかろうけど、血を見るのはヤだな」
「あるある。『不治の病に効く』とかでな」
「雪でよかったよな」
「んだよ」
「まったくだねえ」
「九尺? ……十尺か?」
「いや、もっとだろうよ」
「そんなにでかいのか! 正体が雪でも、見てみたいねえ」
「春まではしばらくそのまんまだろうけどよ、どうも、ずいぶんと上の方らしいぜ」
「そうかい。行ったら帰ってこにゃいかん。話だけでいいやな」
「誰か絵でも描かねえかなぁ」
「だな。おおとりなんて、見たこともねえ」
「いるのか? ほんとに」
「知らんよ。でも、なんか、いいことのお告げなんだろ」
「龍と一緒で、お情け深い王様があらわれるときだけ出る、って話じゃなかったっけか?」
「そうなのか? おめえ、よく知ってるな」
「学問好きだった爺様がよく言ってたんだ。受け売りさ」
「じゃあ、おいらたちの暮らし向きもよくなるかねぇ」
「すぐにどうこうってことは、ないかもしれんけど」
「そうさ、雪でも、姿を現した、ってのは、めでてえんじゃねえの?」
と、話す口と飲み食いする舌が同じ数なのかどうか、怪しいほどに矢継ぎ早の会話が連なる上に、茶も軽食もみるみる消費されているという具合である。
賑やかな噂話に遭遇する文士の趣の者らは、この話題の落ちの前に少し微笑む。連れが居れば顔を見合わせて目で笑う。白い鳳が梧桐ではなく松に降り立ったと聞かば、それが生きている鳳ではないと察するからである。だが、無学に対しての笑いではなく、安堵を含んだ笑みなのだ。本当に生きた鳳であったら、なるべく捕えて帝の御覧に献ずるべきであろう以上、捕らえる労や、献ずる先の丞相が誰であるかを考え合わせると、やはり雪であってよかったということになる。そうではあってもこの瑞兆を喜び、乱世に一筋の希望を見出したい気持ちは無学な庶民らとあまり変わりはない。
「てことは」
「もしかして」
「そうだともよ」
「やっぱり」
「おいらたちの殿様?」
成都の民たちは、彼が当然王座に就き、いつの日か帝に禅譲を受けるのであろう明るい予感と晴れがましさとに、なんとなく幸先の良い初春を感じていたのだった。
もとより彼には功成るまえに物見遊山をしようなどという気など露ほどもなく、また、噂好きというわけでもない。白鳳の話題の中に時勢を見、我が龍の意見に耳を洗い、また明日もともに王道を歩みたいと思うがゆえに、こうして茶を喫しながら相もかわらずこの白皙と差し向かっていたいのである。
「先年から……。畏くも帝にあらせられては、皇后陛下の御事、どれほど御心をお痛めであろうか」
今上は幼い日に父帝と母后を相次いで亡くし、政争の中で兄帝にも先立たれた。その後、心を許せる者などいくたり居ようかというお暮らしの中で、連れ添うてきた伏皇后を奪われるとは、世のいただきに立ちながら何と過酷な定めであろうか。もしもご親政を為し給うていたなら、百年大計となる長期的な改革にもお取り組みあそばしておられたであろう、気力満ちつつある三十路の頼もしきお年頃であらせられる。
今でも彼を「皇叔」と、信ずるに足る眷属と思し召し給うているだろうかと、彼は嘆きのため息をつくばかりである。
彼が峨眉山の瑞兆を、おのが予兆に利用する気などないことを、龍は察していた。いまは、彼が既に益州の民心を掌握しているという裏付けが、この瑞兆にともなう民意に確かに醸されているだけで今は充分だった。
そして、白鳳のことで、まず宸襟を安んじ奉りたいということを、ただ息をするかのごとく思い参らせることができる、尽きることのない忠心耿耿たるが、彼に備わり続けていることを思えば、彼がこの世の何を見ているのかを改めて感じ、この君を戴いている巡り合わせを天に謝するばかりである。帝の御事を語らっているというのに、彼の聲音は、彼の心の中にやどるこの世への優しさという如きものが溢れいでて、聴く者の耳に柔らかに触れるかのようである。
隆中を出て以来、龍はこの穏やかな聲音に何度も救われ続けてきた。叱られたことは数え切れないが、その際にも荒い言葉を使われたことなど、一度たりともない。
時に梟雄と囁かれるほどの腹芸を見せることも確かにあるものの、おそらく彼の、人に忍びざるといえよう深い心ばえは、草莽の頃からそう変わりはないに違いない。戦塵と権謀に塗れて、ただ薄穢い黒さを身につけてゆくことなど容易いが、清濁ともに呑んで黒も白も合わせ持つとは、よほどの器量がなければ叶わない。久しく遠く隔たろうとも、おそらく帝がいまだに一縷の望みとして彼を御心のうちにお留めであろうことは想像に難くない。
沈みがちな彼を励まそうとか、足元に据えられた火鉢の中で、パチリと爆ぜた音が鳴った。その音は、書房をいま少し暖めようとするような、小さくも力の限りの健気さがあった。
「峨眉山に登ってから荊州に帰りたいと、鳳兄はご出立の前におおせでありました」
「はや、おととしのことか」
「はい」
「歳月は人を待たぬ。早いのう」
彼は荊州の城を懐かしむとともに、大事な留守を預けている次弟の長髯を思った。次弟は武勇の名声も高く思慮深く、荊州の印綬を預けるに足るが、荊州を保つに足る軍師、すなわち鳳を欠いている現状は否めなかった。
「鳳兄は放浪をお好みでありました。人跡未踏の秘境がお好きで、中でも登山を好まれました」
「ほう、人嫌いのあやつらしいな。酒とともに一人深山に分けいる、か」
微かによぎった不安を、鳳の噂供養に救われた。
「今にして思えば、鳳兄が人嫌いであったとは思えぬことがございます」
白い羽扇を繰って、想い出を集めるような風情で龍は語り始めた。
「なぜ、辛く苦しく、登ったなら必ず降りねばならぬ登山を好むのか、聞きましたなら」
「あやつは、何というた」
「以前に通った者の気遣いが残っている箇所を辿るのがお好きだったそうです」
「ほほう。あやつめ。お前にはそのような、心憎いことを」
『あのツラで』というのを、彼は飲み込んだ。あの容貌に既に親しみ、懐かしく思う今、あの容貌こそ鳳雛である。あの不細工をではなく、あの常にものぐさそうな表情を言いたかったのだが、あの容貌に騙されて危うく賢を逸するところだったおのれの過去の愚を戒めたのだ。
同時に、あの不細工な賢者の謙虚を今更に垣間見た気がして驚いた。
人跡未踏と思われる難所にすら、手をかけたいところにちょうど手がかりが、足をかけたいところに足がかりが、あきらかに人工的に補われている、そんな山道を好むとは、決しておのれひとりのみが立ち尽くしている辛苦な境地などないと、信じる者が見いだす道であろう。名も知らぬ誰かが先に立ち、そしていつ何時、誰とも知らぬ者があとに必ず続くことを慮って、道中を助ける心遣いを残していく、それが言葉もなく時を超えて形に残っていることを床しく思い、その心遣いを受けて連なる素直さは、あの容貌であればこそ、余計にうるわしかった。
そして、はじめてこの地に踏み入り、狭隘な山道を辿った道すがら、鳳雛が言うたことを思い出していた。
『道中こそが楽しく、目的の地にたどり着くか否かは、おまけのようなものでございます』
漢室を復興する日を迎えるという終着も大事であるが、「王道を踏み誤らなかったか」という一事も忽せにできない彼としては、鳳雛の言うたこの言葉を良しとしたのだが、その後ながらくこの言葉は本意ではなかったのではと誤解していた。益州攻略の都合上、軍旅にことよせて、彼の考えにわざと阿るような言葉を使ったに過ぎないと思っていた。
鳳雛は、道中こそが目的で、誰もが意識し心配を重ねるおのが終着について、驚くべきことに、おそらく拘泥していなかったのであろう。あるいは、おのれは終着せずともよいとさえ考えていたのかもしれない。生きて酒を嘗め月を賞で、面倒くさそうにときどき謀り
「殿、ではのちほど」
と最後に一声啼いて儚くなった。
ふたり揃って鳳雛のおもかげを描いて沈みながら、洟水をごまかすように彼が茶を喫すると、龍もそれに傚った。益州銘産の黄茶の類で、緑でもなく褐色でもなく、柔らかな色合いと香りの高さは天府の国に似つかわしいが、このような日には、鳳雛はおそらく燗酒を好むであろう。
侍従どもは、ふたりの茶のすすみ具合と、足元の炭火の具合にそれとなく気を配りながら、誰が見聞きしているわけでもないというのに、この天府の国の領有に浮かれもせず、今上を思い奉り、亡き賢者を偲ぶふたりの姿にもらい泣きをしそうな表情で低頭している。
倹約しつつも広さに見合った数を数える灯火の芯は、懸命にわずかに背伸びをしているようで、どれもが呼応して明るい瞬きをひとしきり繰り返した。それは偶然の風景であるかもしれなかったが、その光は卓の艶を引き立て、花瓶に活けられた花の陰影を強め、彼らが身に帯びる少ない貴金属を照らし出し、まるで心があるかのような振る舞いである。
このようなありようは、彼の部屋では往往にして起こることで、すでに偶然ではなく、この灯火のことにさえも侍従どもはまた涙催す心地がしてならない。峨眉山にあらわれたのが、生きた鳳であったとしたら、日日この君臣を見ている者どもは、またひとつ彼が招き寄せる偶然に恵まれたという見方をするのかもしれなかった。
龍も若き頃には放浪に似た旅に出ることがあったが、傍目には気ままな長旅に映ったとしても、頭脳の中ではつねに計算と効率を優先した旅程が組まれていた。とくに、丈夫なほうではないおのが軆の不可測の部分を計算に入れ、重点よりはなるべく広範に地理を把握することを目的として、土地の高低差を無駄遣いしないことを選んでいた。霊峰ひとつに何日も費やすなど、龍の旅にはあり得なかった。
「そのような旅をお好みである鳳兄には、生まれ持った気質のほかに、許された壽が長かろう故かとも……推し量っておりました」
天文が急を告げたのは、一昨年の七月だった。実際にそれまでは、鳳の星は煌煌として何の翳りもなかったのだ。
「我が君の御身の上のことでなくて良かったと、鳳兄は九泉でお思いのことでしょう。そして……。わたくしもそう考えていることを、、鳳兄は許してくださっているのだと信じようと思うのです」
龍は語尾に涙聲を滲ませた。
「孔明。儂は」
彼はかけるべき言葉が直ちには見つからず、我が龍と視線を絡めたまま口を噤んだ。彼だとて、もしも先の戦の落鳳坡で射られたのが我が龍であったら、こうして気を引き立てて益州の刺史たり得ていたか、甚だ疑問であった。益州攻略について鳳雛がなぜ付き従い、ときに執拗に彼に逼り、また性急で露骨な操作すら見せたのか、日を追うごとにその真意がいくつも明らかになり、そして今、大きな理由がまたひとつ察せられた。
いつの日か彼が壽を全うしたあと、この世に一条の龍を支え得るのは鳳であったかもしれないというのに、きっとそうと知った上で、鳳の選んだ道はこうであったのだろう。
ゆらゆらとする灯火に、ふたりのまなざしは実際よりも潤んでいるように見える。
「あやつは儂らにそう知らせるために、春になれば跡形もなく消える雪を使うて、あらわれたのかもしれぬ。面倒臭うて、今になったのであろうかな」
彼は、我が身の果報を喜ぶべきか悲しむべきか、眉を下げて沁み入るような表情をしていた。
その時、頭上でみしりと軋む音が鳴り、続いて徐徐に滑り早まるような気配とともに軒先からどさりと重たい音が外の石敷の廊のあたりに渡った。
「ハハ、どうやら、聞こえておったようじゃ。あやつらしいではないか」
一堆の雪が落ちて彼らに応じたこの機に
「どれほど落としてゆきおったか、見てやろうぞ。あるいは、瓠の形か」
彼は立ち上がって長い腕を差し伸べると、我が龍の冷たい手が掌に縋るのをおっとりと待った。
「儂は、今年の雪をずっと忘れ得ぬことだろう。隆中の雪景色とともにな」
何ということもないこのような時ですら、彼はいつの日かこの世に遺して我が龍のために、時を超える手がかりと足がかりに似たものを、そこかしこにそっと置いてゆくのだった。
「我が君」
天井が高く広いしつらいの、益州刺史の書房は昼なお暗いために、点されている灯火が音もなく揺らぐ中で、斜め向かいに端座している白皙が、この所作に小さく彼を呼んだ。
「いや、もう治っておる。癖になってしまっておったな。しばらく痒うて、皮も剥けたのでな。悪餓鬼の頃以来じゃ。折角そなたが、大雪を予見しておったのに。不覚であった」
彼は笑って双眸を細めて、我が龍をねぎらうことを忘れない。
それを受けて、龍は無言で微笑で応じた。謙遜の言葉を述べてしまうと、彼がまなざしを深めて更に龍を褒めることが分かっているからである。こうして微笑みを交わすだけで、つね日頃いかに彼からひとかたならぬ君恩を注がれているかが、何かの形をとって目に見えるのではないかと思うほどであった。
まだ水もぬるまぬこの頃、彼は駱駝色の分厚い衣に毛の臙脂の袍をまとって、いささか垢抜けぬ爺むさいなりをしていたが、我が龍は日頃愛用の黒い羽織の下に丁子色の襟を深く合わせて、相も変わらず清らかにして品良く且つあたたかみを帯びた色合いを着こなしており、彼は白梅の香をふと感じていた。
彼の動作は、余寒の厳しさに見舞われてこしらえてしまった凍傷の痕を気にする一時的な癖であった。
天府の国はその名のとおり稔り豊かで、夏季はもちろん、冬季も過ごしやすかった。先年は五月まで陣中で気を張っており、益州の首座に就いて初めて梅を見たあとに、これほど冷え込む日があろうとは思いもよらず、彼は本当に四十年ぶりと言えるほど久しぶりに、その巨きな耳朶に軽い凍傷を患ったのだった。
「山沿いは知らず、成都はあまり積雪が残らぬと聞きますのに」
「だが、大雪の年はおおむね豊作だと、亡母が言うておった。まず、喜ぶべしじゃ」
「まことに」
「かしこの峨眉山には、白き鳳まであらわれたほどだったそうな」
「はや、お耳に達しておりましたか」
「伊達にでかくはないぞ」
成都の南方の郊外には、いにしえから崇敬をあつめ、歌にも歌われ、詩にも賦され、絵にも描かれてきた峨眉山が霞を纏うて聳えている。佛の道を求めるものや、花鳥風月を好む酔狂人や、高きを極めることを好む者など、限られた者しかその頂上の眺めを知らぬ仙境であるが、そこにわずかでも人が住み往来する以上は、その用に応じて物資を商う者や道案内の民草たちがそこで生計をたてている。そんな名もなき者たちから、口承で流布してきた話である。
成都は民心善良で、小洛陽ともいえる繁華と風格を備えている。庶民の住まう胡同でさえも皆がおのれの門口をまめに清掃するので、街並みが整然としているのはもちろんのこと、凶悪な犯罪も自然と少ない。
このような天府の都の大街の今の景色は、南は薄く北は分厚く甍に雪がのこり、軒下には落ちた雪が集められてところどころ山をなし、つらなる商舗や民家の門口にはめでたい聯が左右に飾られ、鮮やかな色合いの布の装飾品や土産物、蒸籠からたちのぼる香気と蒸気や、客寄せの売り声と平和な雑踏の喧騒と子供らが戯れる歓声に満ちて、桃の花も少し早めに咲こうとするのではないかと思うほどにめでたい雰囲気である。
元宵のあと、街なかで人々が寄り集まると、このところ決まって、飽きもせず件の峨眉山の白鳳の話でひとしきり盛り上がる情景が見られた。
たとえば、廉くて美味いと評判の茶館の中では
「聞いたか? 峨眉のお山の老松に、おおとりが出たって話」
「聞いた聞いた! 腰抜かすぐらいデカくて、まぶしいぐらい真っ白だって」
「その話、続きがあったんだってよ。知ってるか?」
「え? ほんとかよ」
「どんな続きだよ」
「へへ、聞きたいかあ?」
「なんだよー、もったいぶるなよ」
「早く聞かせろよ」
「あれはな、でっかい松の木に積もった雪の形と垂れ下がった氷柱の具合が、まるで松にとまったおおとりみたいだった、って、オチらしいぜ」
「みたいだった?」
「なあぁーんだ、生きてる鳥じゃなかったのかい」
「でも、よかったんじゃねえのか。珍しい獣とか、とくに白いヤツってのは、捕まえられて見世物にされたりするじゃないか。かわいそうだ」
「羽根、ひっこぬかれて売られたりしてな」
「羽根ぐらいならよかろうけど、血を見るのはヤだな」
「あるある。『不治の病に効く』とかでな」
「雪でよかったよな」
「んだよ」
「まったくだねえ」
「九尺? ……十尺か?」
「いや、もっとだろうよ」
「そんなにでかいのか! 正体が雪でも、見てみたいねえ」
「春まではしばらくそのまんまだろうけどよ、どうも、ずいぶんと上の方らしいぜ」
「そうかい。行ったら帰ってこにゃいかん。話だけでいいやな」
「誰か絵でも描かねえかなぁ」
「だな。おおとりなんて、見たこともねえ」
「いるのか? ほんとに」
「知らんよ。でも、なんか、いいことのお告げなんだろ」
「龍と一緒で、お情け深い王様があらわれるときだけ出る、って話じゃなかったっけか?」
「そうなのか? おめえ、よく知ってるな」
「学問好きだった爺様がよく言ってたんだ。受け売りさ」
「じゃあ、おいらたちの暮らし向きもよくなるかねぇ」
「すぐにどうこうってことは、ないかもしれんけど」
「そうさ、雪でも、姿を現した、ってのは、めでてえんじゃねえの?」
と、話す口と飲み食いする舌が同じ数なのかどうか、怪しいほどに矢継ぎ早の会話が連なる上に、茶も軽食もみるみる消費されているという具合である。
賑やかな噂話に遭遇する文士の趣の者らは、この話題の落ちの前に少し微笑む。連れが居れば顔を見合わせて目で笑う。白い鳳が梧桐ではなく松に降り立ったと聞かば、それが生きている鳳ではないと察するからである。だが、無学に対しての笑いではなく、安堵を含んだ笑みなのだ。本当に生きた鳳であったら、なるべく捕えて帝の御覧に献ずるべきであろう以上、捕らえる労や、献ずる先の丞相が誰であるかを考え合わせると、やはり雪であってよかったということになる。そうではあってもこの瑞兆を喜び、乱世に一筋の希望を見出したい気持ちは無学な庶民らとあまり変わりはない。
「てことは」
「もしかして」
「そうだともよ」
「やっぱり」
「おいらたちの殿様?」
成都の民たちは、彼が当然王座に就き、いつの日か帝に禅譲を受けるのであろう明るい予感と晴れがましさとに、なんとなく幸先の良い初春を感じていたのだった。
もとより彼には功成るまえに物見遊山をしようなどという気など露ほどもなく、また、噂好きというわけでもない。白鳳の話題の中に時勢を見、我が龍の意見に耳を洗い、また明日もともに王道を歩みたいと思うがゆえに、こうして茶を喫しながら相もかわらずこの白皙と差し向かっていたいのである。
「先年から……。畏くも帝にあらせられては、皇后陛下の御事、どれほど御心をお痛めであろうか」
今上は幼い日に父帝と母后を相次いで亡くし、政争の中で兄帝にも先立たれた。その後、心を許せる者などいくたり居ようかというお暮らしの中で、連れ添うてきた伏皇后を奪われるとは、世のいただきに立ちながら何と過酷な定めであろうか。もしもご親政を為し給うていたなら、百年大計となる長期的な改革にもお取り組みあそばしておられたであろう、気力満ちつつある三十路の頼もしきお年頃であらせられる。
今でも彼を「皇叔」と、信ずるに足る眷属と思し召し給うているだろうかと、彼は嘆きのため息をつくばかりである。
彼が峨眉山の瑞兆を、おのが予兆に利用する気などないことを、龍は察していた。いまは、彼が既に益州の民心を掌握しているという裏付けが、この瑞兆にともなう民意に確かに醸されているだけで今は充分だった。
そして、白鳳のことで、まず宸襟を安んじ奉りたいということを、ただ息をするかのごとく思い参らせることができる、尽きることのない忠心耿耿たるが、彼に備わり続けていることを思えば、彼がこの世の何を見ているのかを改めて感じ、この君を戴いている巡り合わせを天に謝するばかりである。帝の御事を語らっているというのに、彼の聲音は、彼の心の中にやどるこの世への優しさという如きものが溢れいでて、聴く者の耳に柔らかに触れるかのようである。
隆中を出て以来、龍はこの穏やかな聲音に何度も救われ続けてきた。叱られたことは数え切れないが、その際にも荒い言葉を使われたことなど、一度たりともない。
時に梟雄と囁かれるほどの腹芸を見せることも確かにあるものの、おそらく彼の、人に忍びざるといえよう深い心ばえは、草莽の頃からそう変わりはないに違いない。戦塵と権謀に塗れて、ただ薄穢い黒さを身につけてゆくことなど容易いが、清濁ともに呑んで黒も白も合わせ持つとは、よほどの器量がなければ叶わない。久しく遠く隔たろうとも、おそらく帝がいまだに一縷の望みとして彼を御心のうちにお留めであろうことは想像に難くない。
沈みがちな彼を励まそうとか、足元に据えられた火鉢の中で、パチリと爆ぜた音が鳴った。その音は、書房をいま少し暖めようとするような、小さくも力の限りの健気さがあった。
「峨眉山に登ってから荊州に帰りたいと、鳳兄はご出立の前におおせでありました」
「はや、おととしのことか」
「はい」
「歳月は人を待たぬ。早いのう」
彼は荊州の城を懐かしむとともに、大事な留守を預けている次弟の長髯を思った。次弟は武勇の名声も高く思慮深く、荊州の印綬を預けるに足るが、荊州を保つに足る軍師、すなわち鳳を欠いている現状は否めなかった。
「鳳兄は放浪をお好みでありました。人跡未踏の秘境がお好きで、中でも登山を好まれました」
「ほう、人嫌いのあやつらしいな。酒とともに一人深山に分けいる、か」
微かによぎった不安を、鳳の噂供養に救われた。
「今にして思えば、鳳兄が人嫌いであったとは思えぬことがございます」
白い羽扇を繰って、想い出を集めるような風情で龍は語り始めた。
「なぜ、辛く苦しく、登ったなら必ず降りねばならぬ登山を好むのか、聞きましたなら」
「あやつは、何というた」
「以前に通った者の気遣いが残っている箇所を辿るのがお好きだったそうです」
「ほほう。あやつめ。お前にはそのような、心憎いことを」
『あのツラで』というのを、彼は飲み込んだ。あの容貌に既に親しみ、懐かしく思う今、あの容貌こそ鳳雛である。あの不細工をではなく、あの常にものぐさそうな表情を言いたかったのだが、あの容貌に騙されて危うく賢を逸するところだったおのれの過去の愚を戒めたのだ。
同時に、あの不細工な賢者の謙虚を今更に垣間見た気がして驚いた。
人跡未踏と思われる難所にすら、手をかけたいところにちょうど手がかりが、足をかけたいところに足がかりが、あきらかに人工的に補われている、そんな山道を好むとは、決しておのれひとりのみが立ち尽くしている辛苦な境地などないと、信じる者が見いだす道であろう。名も知らぬ誰かが先に立ち、そしていつ何時、誰とも知らぬ者があとに必ず続くことを慮って、道中を助ける心遣いを残していく、それが言葉もなく時を超えて形に残っていることを床しく思い、その心遣いを受けて連なる素直さは、あの容貌であればこそ、余計にうるわしかった。
そして、はじめてこの地に踏み入り、狭隘な山道を辿った道すがら、鳳雛が言うたことを思い出していた。
『道中こそが楽しく、目的の地にたどり着くか否かは、おまけのようなものでございます』
漢室を復興する日を迎えるという終着も大事であるが、「王道を踏み誤らなかったか」という一事も忽せにできない彼としては、鳳雛の言うたこの言葉を良しとしたのだが、その後ながらくこの言葉は本意ではなかったのではと誤解していた。益州攻略の都合上、軍旅にことよせて、彼の考えにわざと阿るような言葉を使ったに過ぎないと思っていた。
鳳雛は、道中こそが目的で、誰もが意識し心配を重ねるおのが終着について、驚くべきことに、おそらく拘泥していなかったのであろう。あるいは、おのれは終着せずともよいとさえ考えていたのかもしれない。生きて酒を嘗め月を賞で、面倒くさそうにときどき謀り
「殿、ではのちほど」
と最後に一声啼いて儚くなった。
ふたり揃って鳳雛のおもかげを描いて沈みながら、洟水をごまかすように彼が茶を喫すると、龍もそれに傚った。益州銘産の黄茶の類で、緑でもなく褐色でもなく、柔らかな色合いと香りの高さは天府の国に似つかわしいが、このような日には、鳳雛はおそらく燗酒を好むであろう。
侍従どもは、ふたりの茶のすすみ具合と、足元の炭火の具合にそれとなく気を配りながら、誰が見聞きしているわけでもないというのに、この天府の国の領有に浮かれもせず、今上を思い奉り、亡き賢者を偲ぶふたりの姿にもらい泣きをしそうな表情で低頭している。
倹約しつつも広さに見合った数を数える灯火の芯は、懸命にわずかに背伸びをしているようで、どれもが呼応して明るい瞬きをひとしきり繰り返した。それは偶然の風景であるかもしれなかったが、その光は卓の艶を引き立て、花瓶に活けられた花の陰影を強め、彼らが身に帯びる少ない貴金属を照らし出し、まるで心があるかのような振る舞いである。
このようなありようは、彼の部屋では往往にして起こることで、すでに偶然ではなく、この灯火のことにさえも侍従どもはまた涙催す心地がしてならない。峨眉山にあらわれたのが、生きた鳳であったとしたら、日日この君臣を見ている者どもは、またひとつ彼が招き寄せる偶然に恵まれたという見方をするのかもしれなかった。
龍も若き頃には放浪に似た旅に出ることがあったが、傍目には気ままな長旅に映ったとしても、頭脳の中ではつねに計算と効率を優先した旅程が組まれていた。とくに、丈夫なほうではないおのが軆の不可測の部分を計算に入れ、重点よりはなるべく広範に地理を把握することを目的として、土地の高低差を無駄遣いしないことを選んでいた。霊峰ひとつに何日も費やすなど、龍の旅にはあり得なかった。
「そのような旅をお好みである鳳兄には、生まれ持った気質のほかに、許された壽が長かろう故かとも……推し量っておりました」
天文が急を告げたのは、一昨年の七月だった。実際にそれまでは、鳳の星は煌煌として何の翳りもなかったのだ。
「我が君の御身の上のことでなくて良かったと、鳳兄は九泉でお思いのことでしょう。そして……。わたくしもそう考えていることを、、鳳兄は許してくださっているのだと信じようと思うのです」
龍は語尾に涙聲を滲ませた。
「孔明。儂は」
彼はかけるべき言葉が直ちには見つからず、我が龍と視線を絡めたまま口を噤んだ。彼だとて、もしも先の戦の落鳳坡で射られたのが我が龍であったら、こうして気を引き立てて益州の刺史たり得ていたか、甚だ疑問であった。益州攻略について鳳雛がなぜ付き従い、ときに執拗に彼に逼り、また性急で露骨な操作すら見せたのか、日を追うごとにその真意がいくつも明らかになり、そして今、大きな理由がまたひとつ察せられた。
いつの日か彼が壽を全うしたあと、この世に一条の龍を支え得るのは鳳であったかもしれないというのに、きっとそうと知った上で、鳳の選んだ道はこうであったのだろう。
ゆらゆらとする灯火に、ふたりのまなざしは実際よりも潤んでいるように見える。
「あやつは儂らにそう知らせるために、春になれば跡形もなく消える雪を使うて、あらわれたのかもしれぬ。面倒臭うて、今になったのであろうかな」
彼は、我が身の果報を喜ぶべきか悲しむべきか、眉を下げて沁み入るような表情をしていた。
その時、頭上でみしりと軋む音が鳴り、続いて徐徐に滑り早まるような気配とともに軒先からどさりと重たい音が外の石敷の廊のあたりに渡った。
「ハハ、どうやら、聞こえておったようじゃ。あやつらしいではないか」
一堆の雪が落ちて彼らに応じたこの機に
「どれほど落としてゆきおったか、見てやろうぞ。あるいは、瓠の形か」
彼は立ち上がって長い腕を差し伸べると、我が龍の冷たい手が掌に縋るのをおっとりと待った。
「儂は、今年の雪をずっと忘れ得ぬことだろう。隆中の雪景色とともにな」
何ということもないこのような時ですら、彼はいつの日かこの世に遺して我が龍のために、時を超える手がかりと足がかりに似たものを、そこかしこにそっと置いてゆくのだった。