歳歳有花黄 

2013/05/15

3世紀被害譚SS

「ちょーしょーぐーん」

 何やら、花壇の向こうから私を呼ぶ声がする。
 女の声だ。ちょっと年増の。聞き覚えがある。
「ちょーしょーぐうーん、タスケテ。ちょっと、行っちゃわないで。ワタシ、ワタシです」

 この花壇の向こうは後園につづく小径に出ることができる。御用もなく立ち入るのは無礼だが、名指しで救いを求められて素通りできるほど、私は事なかれ主義ではない。

「御免ッ」
 殿がお聞きになっているわけもないが、大声で無礼を詫びて花壇の向こうに立ち入った。

 左右を見回し、救いを求めている者を探したが、見当たらない。
「あー助かった。ここです、ここ。頼みます、ちょっと起こしてくださいましな」
 足元の、小径から外れた草の上に、泣く子も黙る張将軍のご妻女が転んでおいでだった。

 長坂橋以来、ながらくお目にかかる機会がなかったが、相変わらず張家で毎日美味な料理を作っては食されているご様子、「おふくろさん」がぴったり来るような丸顔と福福しさにおかわりなかった。いや、おふくろさんは失礼だろう。何といっても張将軍の恋女房だ。姐さん、ぐらいにしておかねば。とにかくまずしゃがみ込んで
「どうなさったのですか。大丈夫ですか? 足を?」
 状況を把握しようと、話しかけた。戦場でもなし、不用意に婦人に触れてはならん。

「お恥ずかしいわ。ぎっくり腰かしらね、急に腰が。ずっと誰も通らなくて、さっきそっちの植え込みの隙間から、将軍の外套がチラっと見えたので」
「よく私だとわかりましたね」
「だって、武将がたのなかで、趙将軍は目立ちますもん」
「はは、ご冗談を。とにかく誰か呼んで、担架でそっと……」
「えーっ、ちょ、待って。誰か呼ぶなんて、恥の上塗りですよ」
「しかし、おみ足ならともかく、あまり動かさない方がよろしいです。……そうだ、お邸に使いを出しましょう」
「ありがとうございます、でもっ、お願い、どうかこの場所から、怪しくない場所まで、何とか、なんとか移動を……ッ!」
「怪しい……? ご主君の三妹が後園におられても、構いますまい」

 さっと立ち上がろうとすると、外套をガッと鷲掴まれた。口より先に手が出ると、張将軍からお噂はかねがねうかがっているが、このかたが敵の武将でなくて良かったかもしれない。

「ダメダメダメ。頼みます。せめてホラあそこの、石灯籠の蔭のあたりまで」
「……困りましたね……」

 私に負けぬほどの胆っ玉姐さんだというこのご妻女が慌てておられるので、何かお差し支えがあるのだろうとは察して、腰のご負担も少なく、居場所をお移しする方策を考えた。
「ちょっと手荒い方法ですが、構いませんか」
「お姫様だっこ以外なら耐え忍ぶわ。それやられて誰かに見られでもしたら、荊州中の女から妬み殺される」
「ハハハ。まさかそのような。私のほうが張将軍に斬られます」

 私は外套をほどくと、地に広げ、その上にご妻女が尺取虫のように注意深くにじってお乗りになるのを辛抱強く待った。
「しっかり掴んでいてください。御免」

 なるべく凸凹を避け、ご妻女ごと外套の左右の端を引っ張って、後ろ向きに走る。他に道具や人手がない緊急時に、重症の者をすみやかに搬送する手法のひとつだ。おもに建物の中で有効で、階段がある場合は難しい手法だが。ここが割合に平坦でよかった。荒削りの飛び石でもあったらお手上げだ。

「迎えが来るまでおひとりではいけません。侍女はどちらです?」
「連れてきてません」
 当然のようにおおせだ。似たもの同士のご夫妻といえよう。
「お一人ですか」
「だって、ひとりが気楽なんですもーん」
 丸い頬をぷっと膨らませて、縁日に見かけるお面のようで愛嬌がある。
「誰か手の空いている者をつけましょう」
「ひとりで平気ですよ。この前の戦まで、野宿だってしてたワタシですよ」
「今は張将軍の、歴とした正夫人ではありませんか」
「そうだけど……さ」
「適当な者を探してきます。しばしご辛抱ください」

 私が立ち去ろうとすると、手に持った外套が、またムズと鷲掴まれた。手弱女とは思えん。
「せめて外套置いてって。お洗濯してお返しするわ」
「ご妻女。お気遣いは無用です。私は野戦の折折、何度も美味い食事にありつかせていただき、ご恩を蒙ってきたのは私のほうです。また、お差し支えの証拠品は残さぬ方がよろしいです」

 下女にさせるにしても、ご妻女に外套を洗濯していただくなどもってのほかだ。ご妻女があのころと変わらず、ご親切なご性分だったとしてもだ。そして、もしお変わりないならば、ご妻女はきっと手づから洗濯をなさる。
 このような時に、意志の堅さを示す笑顔を送ると、なぜかご婦人がたはそれ以上何も請わなくなるので、経験にかんがみてそうしてみたが、意外にその先があった。
「お使いだてして申し訳ないんですけど、さっきの植え込みに四角い二段の食盒があるので、それもお願いします。本当は、奥方にお菓子を献じに来たんです」
「心得ました」

 タッと走って、簡素な塗りの手提げつきの食盒を見つけ、話を早くするために、それを持って人手を探しに行った。奥方様のご下命に事寄せれば、おそらく何かと都合が良い。

 階をあがって廊をめぐると、茶器を運ぶ少年たちと行き合った。
「趙将軍」
 五名の少年たちはさっと廊の端側にそろって立ち、礼儀正しく会釈を寄越した。殿のお小姓とみえる。
「御用中に悪いが、後でこれを奥方に届けてくれ。三の将軍のご妻女からことづかった。ご下命の菓子だそうだ」
「かしこまりました」
「すまんが、誰か二、三人、手はあかぬか。至急、張将軍のお邸に使いを頼みたい。殿にはあとで言上する」


 胆っ玉将軍のおかげで、急にぎっくり腰でという感じでワタシは無事に帰宅しました。

 うちの人ったら
「おいおい、太りすぎのせいじゃねエのか? ちょっとは俺を見習って鍛えておけよ。……おーい、医者だ。医者呼んどけ!」
 と、いつものちょっとしたからかいを混ぜたふりをしながら、とても心配していました。

 ゴメン。なんかアンタには今更って感じで、言いにくかった。このワタシとしたことが、腰ぬかしちまったんだよ。

 今日のことだけど、本当は、表からうかがって、お取次ぎの女官たちがいる詰所に連絡してもらって、迎えに来ていただいて、奥方様におめもじするってのが決まりなんだけど、めんどくさいじゃない。何度も何度も何度も、ガラにもなくお上品な言葉遣いとお上品そうな裏声で
「奥方様からご下命の菓子を献じに参上いたしました」
 ってこと言うの。そういうわけで、あの小径って、後園に行く近道だから、こっそり利用しちゃうわけなんです。全力疾走で、途中の小亭を越えて蓮池を巡ってしまえば、人目にもつかずに後園の井戸のそばにでるって寸法よ。そこで、見慣れた女官を掴まえて
「実は奥方様のお召しで、ちょっとお待ちしてたの」
 って、世間話に混ぜて言えば
「あらあ、わたくしったら。お引き止めしちゃって申し訳ございません」
 という調子で、なんとなく取り次いでいただけちゃうから楽ちんなのよ。甘夫人がみまかられたあと、しばらく、阿斗様のお世話でよく出入りしていたから、勝手知ったるってやつです。

 今は、すっかり奥方様になついておしまいになって、ちょっとだけ寂しくもあるけど、でも、きっとこれでよかったのよね。奥方様も、阿斗様に慕われるようになって、どんなに心丈夫なことか。うちの人なんて、まだ間諜扱いしてますから。思い込み激しいところあるから。すいません。

 なんてことを心に浮かべながら、今日に限って見事に満開の黄色い蔓薔薇に思わず見とれてたら、またまた今日に限って人の声が近づいてきちゃったんです。ヤバイ、怒られる! しかも、あの張の野郎の嫁だってわかったら、怒った人は悪くないのに平謝りする! でもって、家かえったら、アイツにバカヤロウって怒鳴られる! そんなの口惜しいもん。ヤダ! 
 という理由で、さっとしゃがみこみました。

 だけど、だんだん近づいてくるこの聲の主は。

 うちの人の兄者の聲じゃありませんか。

 ああよかったぁ。兄者ならお怒りになんてならないわ。ホッとし……?

「もう言うな。このことが、王道に障るとは思えん」
 え? 喧嘩? でもそんなに怖くない雰囲気だけど。
「お言葉ではございますが、我が君」
 あら。軍師様じゃないの。うちの人たちが嫉妬するのももう飽き飽きしたほどに、お仲がおよろしいはずなのに、実は不和? やだ、劉家の重要機密を知ってしまった気分だわ。
「儂の心はあの日から少しも変わらん。この先も然りだ。今さら奥に誰が居ろうともだ」

 兄者ってカッコイイわ……。普段、おっとりしてらっしゃる分、ここ一番に男気見せられちゃうと、三倍カッコイイって感じする。
 最近、おぐしに白髪も混じってきたけど、日に日に貫禄がついておいでだし、眉やお髭の感じが、こう、男らしいってだけじゃなくて、これが王の風格ってやつかしらね、ますます頼もしい重みが増して。決して美男子っていうご容貌じゃないんだけど、こうして遠目にもハッとすることがあるわ。

 それと、みんなこのあとの自分の気持ちとか簡単に誓って、簡単にたがえたりするけど、兄者って大抵それ本気で本当にしちゃうからね。見てきてますからね。桃園の頃から。ワタシ。

 現に、あのろくでもない呑んだくれを、あれからずっと三弟としてそばに置いてくださってるじゃないの。普通、できないわよ。酒の上の失敗で城までなくしたことがある天下一のダメ男を、そんな。何を言い合ってたか知りませんけど、心配ないんじゃないんですか軍師様。

 なんてことをぐるぐる心の中で思っている視線の先では、おふたりが時も忘れて、たった一歩離れているぐらいの近さで、じっと見つめ合っていらっしゃるじゃありませんか。軍師様がお持ちの扇の位置がだんだん下がってくるほどに、長い長い時間です。どれぐらいって、こうして三人も人がいるのに気づきもせずに、小鳥たちが梢に咲く花の蜜をのどかに吸い渡って、枝をおのおの数十回は蹴ったでしょうというぐらいです。

 固唾をのんでいると、さわさわと木立が囁き、蔓薔薇が揺れ、初夏の薫風が強くわたりました。小鳥たちが去り、風がやむと
「孔明」
うちの人の兄者は、水の軍師様を低くお呼びになりました。

 なんかもう、万感こもっちゃってる感じですよ。もしうちの人にこんな風に呼ばれちゃったらワタシ、どうしようか。さめかけた百年の戀も、一気に千年に燃え上がりそうだわ。呼ぶわけないけど。うわ、なんか、急に腰にキたよ。

 へなへなとその場にヘタりこみながら、視線だけは釘づけになっておりますと、うちの人の兄者は、人差し指の甲のあたりを、ゆっくり、そっと、水の軍師様の頬へお寄せになって、微かに触れると、黒いツヤっとしたおぐしに手をお伸べになりました。

 水の軍師様は、白皙を背けるでもなく、でも伏し目がちに、それとも目を瞑ったのか、睫の深さが遠目にも見えるような錯覚に陥ります。観念したような? 誘うような? 困ったような? わかんないけどこの流れって、もしかしてだけど、額に接ぷ……! 

 ……違った。撫で撫で? いや、撫で撫でにしてはあっさりした感じだったけど。おや、ご自分の懐中をごそごそしていらっしゃるわ。うわあ、水の軍師様が俯いてらっしゃる! なんか、間を持て余して所在なげに、もじもじしてらっしゃらない? ご愛用の扇であの白皙を半分隠して、柄に下がった房をいじっていらっしゃるわ。ちょっと、かっわいい……みたいな。うちの人が恐れる水の軍師様って、本当はあんなに内気そうな感じなわけ? 兄者の前で猫かぶってるの? いや、もしかして、ワタシたちの前で猫かぶってるってこと? 女の直感ってやつだけど。なんかこう、母性本能くすぐられちゃうんですけど。うちの人と違った意味で。 

「この話は仕舞いじゃ。さあ、梔子の香を聞きにゆこうか」

 手をとりましたよ。新野の時から見かけて慣れてたつもりですけど、久々にこうやって花園の木陰で見るともう、なんなんでしょうこの気持ち。イケナイものを見てしまったような。そっとしておかなきゃいけないような。でも、でも言っちゃいたいような。……動悸がするわ。

 そうだわ、梔子ってどこに咲いてるの? このへんは香らないから平気よね。こっち来ないわよね。でも一応、この食盒だけは茂みの方に押しやって、わたしもこの迷迭香の叢に紛れて横になって隠れとこ。伊達に、黄巾の頃から逃げ延びてませんよワタシ。

 ……ってな訳でしたって、胆っ玉将軍に言えるはずないでしょうが。長長と話したって
「ハハハ。左様でしたか」
 ぐらいで終了の、淡白な反応に決まってるって。いい男なのに、朴念仁なのが唯一の欠点ってやつだわね。

 ところで翌日、奥方様ではなくて、うちの人の兄者からお呼び出しがありました。やっぱり、バレちゃったのかな、横から後園に入ろうとしちゃった不調法が。でも、胆っ玉将軍は口が固いと思うし、バレたとも思えないんだけど、やっぱりお叱りだろうか、とほほ。

 と思って、神妙に広間に向かいましたところ。
「三妹。腰の具合はどうか」
 お優しいまなざしで、お見舞いのお言葉をくださいました。すいません、腰抜かしただけです。なんて言えやしないから、年はとりたくないものですってお答えしといたわ。

「大事にせよ。……早速だが。花弁をな。しばしその姿をとどめて愛でるための方法を知らぬか」
「花びらを、でございますか?」

 ありますとも。陰干しで、色が褪せるよりも先にうまく乾燥させることです。もちろん、色が鮮やかな花のほうが、色のとまりはよく、かなり縮むので大輪が向いています。お好みによって、香木や香草をあわせて、香炉のような蓋物に納めると調度としてもいい感じです。

 でも、そういうのって、なんでも知ってる軍師様が知らないわけないじゃありませんか。知ったかぶって申し上げるのも気が引けるわ……。

「孔明は、なぜか教えてくれぬのでな」
 兄者は、チラと軍師様へご慈愛たっぷりの、しかも甘い視線をなげかけました。

 おや。お隣で、水の軍師様が、耳まで真っ赤におなりですよ。それを見て、兄者は喉の奥で渋くお笑いになっています。ワタシの脳裏を、きのうの花園の秘密の光景がよぎりました。

 あ、そっかあ。わかった。なるほどね、それって、絶対、黄色い薔薇の花びらでしょ。
「拙い腕前ではございますが、幾年か保てる方法を存じております」
 わざと畏まってお答えしちゃいました。

 あれって、撫で撫でじゃなくて、舞い落ちた花びらをとってあげてたのね。でもね、普通はそういうのって、ぱっぱっ、って払ってあげるものだわよね。

 はっ。

 すると、あのあと、夕方か夜か今日かわかんないけど、あの花びらについて、軍師様のお知恵を借りようとなさったら教えていただけなくて、午まえにはこうしてお暇を捻出してワタシをお呼びになって直直にご下問だなんて。

 ……もしかしてだけど、昨日に限らないってこと? いままで何度もああいうことあって、そのたびに密かに大事に懐中した花びらが、毎度ことごとく茶色くなってしまって、更にもしかしたら、捨てるに捨てられずどこかに溜まっているとしたら……? 

 兄者。

 ワタシも心の中で言わせてもらいます。新野の頃、うちの人がよく言ってたこと。

『兄者……。どんだけー!』







(王道に障りますかどうか、関連作品はこちらです→閨中君王想臥龍