今上の叔父にして漢中の王を号する彼は、初夏の錦江の川霧のなか、小舟に遊んでいる風情であった。薄い霧に紛れて戴冠もせず、麻の衣を重ね着て、王には見えぬ装いである。ただその両の耳の驚くべき大きさが、彼こそこの益州の主であることを示している。
彼のうしろには、王城に香気を添えるような風情でこの世に一条の龍とうたわれる賢者の白皙が控えて、みずみずしい梧桐の一樹を膝に抱えていた。根の部分を藁で編んだ鉢に守られ、三歳の童のようである。夏めいてきた風がふと薫り、その夭い葉をさわさわと揺らす。
我が龍の纏う黒い鶴の羽衣は、単衣にあらたまったためであろうか、広い袖口から白い衣が涼しげに透け、そしてゆったりと川風を含む様子は、舟上にも音もなく湧きいづる清き水をたたえているかのようで、彼は、時節柄の蒸し暑さのはしりにさえ気づきもしないほどでいた。この君臣のたたずまいを邪魔せぬように、船頭は竿を注意深くそっと錦江に差し入れては引き上げる。
霧は、ここの地形が醸しだす成都の特徴のひとつであり、我が龍の天文には霧以外の確たる天候を望みたい場合にこそ頼るべしという位置づけに落ちついてきていた。今日のために彼が望んだことは、「まとまった雨のあとの霧の朝」であり、龍は見事に予測した。
今朝は早起きをして、王府の後園の水路から運河を通り、そっと錦江のほとりへ向かったのだ。錦江の孤舟は、墨一色でえがけそうな早朝の景色のなかを音もなく滑った。
龍がいだく梧桐は、あの場所のほど近くから運ばれたものだ。王位に就いた彼のもとに届いた時はまだ三寸ほどの頼りない苗であったが、ここ一年ほど日当たりの良い室内で丹精して、そろそろ風雨にも耐えようかというこのほど、忙中に閑を捻出して植えにやってきたのだ。
あの場所とは、落鳳坡である。
そこを下ったあたりには、成都まで流れくる江があった。のちに羅江と呼ばれることになる江で、彼の片翼の鳳はその流れをのぞむ小高いところに葬られた。
成都の廟堂には『靖侯』の文字を彫った位牌を安置してはあるが、彼も龍も心の痛みに耐えかねようと思われ、墓にゆくことは互いに言い出しかねていたし、行ったところで、おそらく鳳に『物言わぬなきがらをわざわざ訪ね来て感傷に浸る暇があるなら、さっさと天下を握られよ、握らせよ』と、そっぽを向かれそうでもあり、足を向けかねていた。
誰が言い出したか、それとも生きた鳳が実際に空を翔けていたときに知られたことか、 鳳の血には不老不死の効能があると信じられている。そして、鳳凰は梧桐の木にしかとまらないということも、古くから詩歌にも賦されて信じられている。
あの場所での凶報を聞いてあとから駆けつけた鳳の小者たちは涙にむせび、萬箭に斃れた鳳のなきがらから矢を引き抜き
「せめて、傷口を酒でおぬぐいしよう」
「おお、そうだ。そうしよう」
まるで生きている者の軽傷に当座の毒消しの手当をするように、鳳雛しぇんしぇえ、おおとりのしぇんしぇえ、と号泣しながらおびただしい白い木綿を血に染めて拭い清め、普段から気に入りだった衣服に装いをあらため、乱れた髪を梳き整えて、辛口の冗談を吐いてきた乾いた唇にも酒を含ませ、本当に飲み込まないことを目の当たりにしてまた哭したあと、その布と櫛と痛ましい穴だらけの衣を捨てるにしのびず、別に埋葬してひっそりと塚を作ったのだった。
年も年で、もう戦乱に嫌気がさした一人の小者が、塚の近くに畑を作り、江の魚を釣り、山で薪を採り、塚守のような生活をし始めて百日たった頃である。
「……? アオギリの葉じゃねえか? これは」
塚の卵型の石の横に、あおあおとした葉が小さく育っているのをみつけた。
「おおとりの先生ぇ」
男は、はっと打たれたような表情を浮かべ、次の刹那にはその場にひとり泣き崩れ、涙に暮れた。蝶がのどかに何も知らない風情で舞っているこの辺りは草花ばかりが低く繁り、樹木は生えていなかったので、塚の中から伸びたとしか思えなかったからだ。たった百日で、よりによって梧桐が芽吹くとは、まさに鳳の血の力ではないかと思い合わせたのだ。
あの場所に梧桐が茂っていて、倒れた人間に付着するほど種が落ちていたかどうかを確かめるのは気が引けた。討ち死にした夥しい兵すべてを運んで葬れたはずがない。まだ戦場の匂いは色濃く残っているはずであり、その時を蘇らせるであろうあの場所へ戻る気にはなれなかった。
彼が漢中の王を号してから、その男はこの梧桐を届けにやってきた。
「おおとりの先生は、どうも墓の中にも塚にも、もうおいでではねえような気がいたしますんで。この木に棲もうとなさっているんじゃねえかって、思いますんで。きっとおいらのところよりも、酒のうまそうなところに落ち着きなさりたいんじゃねえか、って……」
と、その男が、その男の意思以外の何かの力が働いているような神妙な表情をしていたことは、君臣ふたりの記憶に鮮やかに残っている。
小舟は錦江の緩い蛇行をめぐり、板状の岩盤がちょうどよい具合に緩く斜めに露呈した岸辺に近づいた。柳が揃って揺れる風情が初夏の朝に瑞瑞しさを添えている。軍事と水運のために整えられたこの先の泊りではなく、ただの竹を括っただけの筏のようなものを漕ぎ出す釣り人や風流人が、折折になんとなく使っている恰好のこの泊りへ漕ぎ寄せると、船頭は石を十字に結んだ縄を岩盤へ投げ、慣れた様子で簀子状の板を船べりから岸へさっと渡した。流れは緩やかで、舟はほとんど浮き沈みしない。船頭は心得ていて、そのまま船にとどまろうとした。
彼は立ち上がると、船頭に声をかけた。
「そのほうは、朝飯は済んだか」
「はい、大王様」
「そうか、早くにすまぬな」
「畏れ多いことでございます」
王を号しても、荊州ひとつの刺史であっても、全くかわらず、むしろ何もかもさらに寛くなるばかりの、それともはじめから限りなど持っていないのかもしれない彼の人柄に、船頭はしみじみと感じ入る。この霧の帳の中、三人しかいないのだから、王は傲慢に振舞っても天よりほかに知る者はないというのに、彼はずっとこのとおり、彼なのである。
彼は簀子の板を渡って岩へおり、舟べりの近くへ寄って我が龍が梧桐を抱いて降りるのを扶けた。
「飯を食うほどにはかからん。ひとつご苦労だが、江の水をそれに汲んで、かしこまで運んでくれるか」
彼は、岸辺に連なる柳が途絶えるあたりを指し示してみせた。
「かしこまりました」
「昨日の雨で、掘りやすくなっておる。仕事が早い」
彼は、小型の鍬を携えていた。そのようなことは、わたくしが、と言いかける龍を制して
「たまには土いじりをさせよ。位を進めるほど、蒼天と大地と疎遠になってはならぬ」
と、機敏にほどよい穴を掘ると、梧桐をそこへおろさせ、穴の周りを何度かに分けて丁寧に均等に埋め戻した。埋め戻した境目を、沓の爪先でぐるりと踏みしめる。
「我が君」
「おう」
龍は錦江の水を掬った柄杓を捧げた。柄の端を持ち、白い羽扇を持った右手を添えて、その品の良さは、いま大地を祀っているところだとしても不思議はないほどである。
「ここの土が、錦江の水が、気にいるとよいが」
もの言わぬ樹の根に届くほどの水を与えながら、彼は梧桐に聴かせるように呟いた。梧桐の根元が周囲の土と明らかに色を画して黒黒と潤ったのを見て、彼は安心したように
「気に入ったかどうか、そのうちまた見に来るでな」
一番背の高い枝の一葉を撫でて約したつもりになった。
いずこからか雀が飛来して、彼らと梧桐から少し離れたところで、彼らの様子を窺うように跳ねたので
「まだとまるには頼りなかろう。もう幾年か、待っておれよ」
彼が雀を驚かせないように独り言めいて呟くと、もう一羽がやってきた。二羽はまだ背の低い梧桐がこののち、新しい糧を落とすかどうかを噂しているのか澄んだ囀りをかわしている。あるいは、面倒くさがりの鳳の頼みで、雀は様子を見に来ていたのかもしれない。彼は
(あ奴らしいではないか)
と思い至って少し可笑しくなり、背後に控える我が龍を振り返り、笑みをかわした。
「人は長くて百年、だが樹は千年を保つこともあろう」
植樹は建国に少し似ていると、彼は思った。霧のせいか、すこし重い空気をまとったふたりを、二羽の雀は首をかしげながら見上げ、地をつついて餌を探したあと、嘴を寄せ合ってから前後して飛び去ってゆく。その無心な動作に、彼は淡い羨望を感じてから急に空腹を覚えた。
「さあ、ゆこうか。孔明。帰って飯を食おう」
彼は空いた桶に柄杓と鍬を投げ込んで左手に持ち、長い右腕を我が龍へ伸べ、白い手をとった。もう百年のなかばを生きて、雀の真似など到底できぬ歳をかぞえてしまった彼は、いつまでも廿歳若き我が龍のほそい指の甲を探し、拇指の腹で微かに撫でていざなった。
その温かな感触にあわてて俯きつつ半歩うしろに従いながら、剣を佩いて鎧うている馬上の彼よりも、こうして農具を持っている彼の方が、龍には好ましく映るのだった。このまま、後ろに広がる光景を、隆中の田畝に塗りかえてしまいたかったからかもしれない。
「あの樹が残らばそれも重畳じゃ。だが、仮に残るまいと、あれがあの場所からもたらされ、そなたとこうして今日かしこに植えたことは、儂の中でとこしえに動きはせぬ」
この梧桐はこの先、どれほどの年輪を刻んでいくかは定かではないが、いま息づいている誰もが身罷ったのち、この梧桐のなかをめぐる水と、この梧桐をはぐくむ陽光に、千年の誓いを宿し得るほどの目に見えぬ力強さと優しさを、彼の手で与えられたかのようだった。
それを見いだそうとしさえすれば、いま直ちにこれらは必ずのちの世に果たされることのひとつに連なるのだと思わずにはいられない。天に日輪が輝くかぎり、そして、たとえ日輪がいつか昇らぬ日が来たとしてもである。彼の手はいつでも、かなしくなるほどに温かく、携えた手に龍が珍しく力を籠めると、彼は無言のまま五指で龍の五指を握りなおすという、王らしからぬ振舞いでいつものように応じた。
龍の双眸のなかでは錦江も小舟も何もかもが霞んでゆくのに、心は彩りに盈ちてゆく。隆中のあの日から少しもかわらぬその力の確かさに縋りながら、朦朧とした景色の中の一歩一歩が、踏むべきところを踏んでいるのが、見えずともわかるのだ。
遠ざかる孤舟が川霧に紛れて今日の王道へ向かった先を、梧桐の若葉は風に頷きながら見送っていた。
彼のうしろには、王城に香気を添えるような風情でこの世に一条の龍とうたわれる賢者の白皙が控えて、みずみずしい梧桐の一樹を膝に抱えていた。根の部分を藁で編んだ鉢に守られ、三歳の童のようである。夏めいてきた風がふと薫り、その夭い葉をさわさわと揺らす。
我が龍の纏う黒い鶴の羽衣は、単衣にあらたまったためであろうか、広い袖口から白い衣が涼しげに透け、そしてゆったりと川風を含む様子は、舟上にも音もなく湧きいづる清き水をたたえているかのようで、彼は、時節柄の蒸し暑さのはしりにさえ気づきもしないほどでいた。この君臣のたたずまいを邪魔せぬように、船頭は竿を注意深くそっと錦江に差し入れては引き上げる。
霧は、ここの地形が醸しだす成都の特徴のひとつであり、我が龍の天文には霧以外の確たる天候を望みたい場合にこそ頼るべしという位置づけに落ちついてきていた。今日のために彼が望んだことは、「まとまった雨のあとの霧の朝」であり、龍は見事に予測した。
今朝は早起きをして、王府の後園の水路から運河を通り、そっと錦江のほとりへ向かったのだ。錦江の孤舟は、墨一色でえがけそうな早朝の景色のなかを音もなく滑った。
龍がいだく梧桐は、あの場所のほど近くから運ばれたものだ。王位に就いた彼のもとに届いた時はまだ三寸ほどの頼りない苗であったが、ここ一年ほど日当たりの良い室内で丹精して、そろそろ風雨にも耐えようかというこのほど、忙中に閑を捻出して植えにやってきたのだ。
あの場所とは、落鳳坡である。
そこを下ったあたりには、成都まで流れくる江があった。のちに羅江と呼ばれることになる江で、彼の片翼の鳳はその流れをのぞむ小高いところに葬られた。
成都の廟堂には『靖侯』の文字を彫った位牌を安置してはあるが、彼も龍も心の痛みに耐えかねようと思われ、墓にゆくことは互いに言い出しかねていたし、行ったところで、おそらく鳳に『物言わぬなきがらをわざわざ訪ね来て感傷に浸る暇があるなら、さっさと天下を握られよ、握らせよ』と、そっぽを向かれそうでもあり、足を向けかねていた。
誰が言い出したか、それとも生きた鳳が実際に空を翔けていたときに知られたことか、 鳳の血には不老不死の効能があると信じられている。そして、鳳凰は梧桐の木にしかとまらないということも、古くから詩歌にも賦されて信じられている。
あの場所での凶報を聞いてあとから駆けつけた鳳の小者たちは涙にむせび、萬箭に斃れた鳳のなきがらから矢を引き抜き
「せめて、傷口を酒でおぬぐいしよう」
「おお、そうだ。そうしよう」
まるで生きている者の軽傷に当座の毒消しの手当をするように、鳳雛しぇんしぇえ、おおとりのしぇんしぇえ、と号泣しながらおびただしい白い木綿を血に染めて拭い清め、普段から気に入りだった衣服に装いをあらため、乱れた髪を梳き整えて、辛口の冗談を吐いてきた乾いた唇にも酒を含ませ、本当に飲み込まないことを目の当たりにしてまた哭したあと、その布と櫛と痛ましい穴だらけの衣を捨てるにしのびず、別に埋葬してひっそりと塚を作ったのだった。
年も年で、もう戦乱に嫌気がさした一人の小者が、塚の近くに畑を作り、江の魚を釣り、山で薪を採り、塚守のような生活をし始めて百日たった頃である。
「……? アオギリの葉じゃねえか? これは」
塚の卵型の石の横に、あおあおとした葉が小さく育っているのをみつけた。
「おおとりの先生ぇ」
男は、はっと打たれたような表情を浮かべ、次の刹那にはその場にひとり泣き崩れ、涙に暮れた。蝶がのどかに何も知らない風情で舞っているこの辺りは草花ばかりが低く繁り、樹木は生えていなかったので、塚の中から伸びたとしか思えなかったからだ。たった百日で、よりによって梧桐が芽吹くとは、まさに鳳の血の力ではないかと思い合わせたのだ。
あの場所に梧桐が茂っていて、倒れた人間に付着するほど種が落ちていたかどうかを確かめるのは気が引けた。討ち死にした夥しい兵すべてを運んで葬れたはずがない。まだ戦場の匂いは色濃く残っているはずであり、その時を蘇らせるであろうあの場所へ戻る気にはなれなかった。
彼が漢中の王を号してから、その男はこの梧桐を届けにやってきた。
「おおとりの先生は、どうも墓の中にも塚にも、もうおいでではねえような気がいたしますんで。この木に棲もうとなさっているんじゃねえかって、思いますんで。きっとおいらのところよりも、酒のうまそうなところに落ち着きなさりたいんじゃねえか、って……」
と、その男が、その男の意思以外の何かの力が働いているような神妙な表情をしていたことは、君臣ふたりの記憶に鮮やかに残っている。
小舟は錦江の緩い蛇行をめぐり、板状の岩盤がちょうどよい具合に緩く斜めに露呈した岸辺に近づいた。柳が揃って揺れる風情が初夏の朝に瑞瑞しさを添えている。軍事と水運のために整えられたこの先の泊りではなく、ただの竹を括っただけの筏のようなものを漕ぎ出す釣り人や風流人が、折折になんとなく使っている恰好のこの泊りへ漕ぎ寄せると、船頭は石を十字に結んだ縄を岩盤へ投げ、慣れた様子で簀子状の板を船べりから岸へさっと渡した。流れは緩やかで、舟はほとんど浮き沈みしない。船頭は心得ていて、そのまま船にとどまろうとした。
彼は立ち上がると、船頭に声をかけた。
「そのほうは、朝飯は済んだか」
「はい、大王様」
「そうか、早くにすまぬな」
「畏れ多いことでございます」
王を号しても、荊州ひとつの刺史であっても、全くかわらず、むしろ何もかもさらに寛くなるばかりの、それともはじめから限りなど持っていないのかもしれない彼の人柄に、船頭はしみじみと感じ入る。この霧の帳の中、三人しかいないのだから、王は傲慢に振舞っても天よりほかに知る者はないというのに、彼はずっとこのとおり、彼なのである。
彼は簀子の板を渡って岩へおり、舟べりの近くへ寄って我が龍が梧桐を抱いて降りるのを扶けた。
「飯を食うほどにはかからん。ひとつご苦労だが、江の水をそれに汲んで、かしこまで運んでくれるか」
彼は、岸辺に連なる柳が途絶えるあたりを指し示してみせた。
「かしこまりました」
「昨日の雨で、掘りやすくなっておる。仕事が早い」
彼は、小型の鍬を携えていた。そのようなことは、わたくしが、と言いかける龍を制して
「たまには土いじりをさせよ。位を進めるほど、蒼天と大地と疎遠になってはならぬ」
と、機敏にほどよい穴を掘ると、梧桐をそこへおろさせ、穴の周りを何度かに分けて丁寧に均等に埋め戻した。埋め戻した境目を、沓の爪先でぐるりと踏みしめる。
「我が君」
「おう」
龍は錦江の水を掬った柄杓を捧げた。柄の端を持ち、白い羽扇を持った右手を添えて、その品の良さは、いま大地を祀っているところだとしても不思議はないほどである。
「ここの土が、錦江の水が、気にいるとよいが」
もの言わぬ樹の根に届くほどの水を与えながら、彼は梧桐に聴かせるように呟いた。梧桐の根元が周囲の土と明らかに色を画して黒黒と潤ったのを見て、彼は安心したように
「気に入ったかどうか、そのうちまた見に来るでな」
一番背の高い枝の一葉を撫でて約したつもりになった。
いずこからか雀が飛来して、彼らと梧桐から少し離れたところで、彼らの様子を窺うように跳ねたので
「まだとまるには頼りなかろう。もう幾年か、待っておれよ」
彼が雀を驚かせないように独り言めいて呟くと、もう一羽がやってきた。二羽はまだ背の低い梧桐がこののち、新しい糧を落とすかどうかを噂しているのか澄んだ囀りをかわしている。あるいは、面倒くさがりの鳳の頼みで、雀は様子を見に来ていたのかもしれない。彼は
(あ奴らしいではないか)
と思い至って少し可笑しくなり、背後に控える我が龍を振り返り、笑みをかわした。
「人は長くて百年、だが樹は千年を保つこともあろう」
植樹は建国に少し似ていると、彼は思った。霧のせいか、すこし重い空気をまとったふたりを、二羽の雀は首をかしげながら見上げ、地をつついて餌を探したあと、嘴を寄せ合ってから前後して飛び去ってゆく。その無心な動作に、彼は淡い羨望を感じてから急に空腹を覚えた。
「さあ、ゆこうか。孔明。帰って飯を食おう」
彼は空いた桶に柄杓と鍬を投げ込んで左手に持ち、長い右腕を我が龍へ伸べ、白い手をとった。もう百年のなかばを生きて、雀の真似など到底できぬ歳をかぞえてしまった彼は、いつまでも廿歳若き我が龍のほそい指の甲を探し、拇指の腹で微かに撫でていざなった。
その温かな感触にあわてて俯きつつ半歩うしろに従いながら、剣を佩いて鎧うている馬上の彼よりも、こうして農具を持っている彼の方が、龍には好ましく映るのだった。このまま、後ろに広がる光景を、隆中の田畝に塗りかえてしまいたかったからかもしれない。
「あの樹が残らばそれも重畳じゃ。だが、仮に残るまいと、あれがあの場所からもたらされ、そなたとこうして今日かしこに植えたことは、儂の中でとこしえに動きはせぬ」
この梧桐はこの先、どれほどの年輪を刻んでいくかは定かではないが、いま息づいている誰もが身罷ったのち、この梧桐のなかをめぐる水と、この梧桐をはぐくむ陽光に、千年の誓いを宿し得るほどの目に見えぬ力強さと優しさを、彼の手で与えられたかのようだった。
それを見いだそうとしさえすれば、いま直ちにこれらは必ずのちの世に果たされることのひとつに連なるのだと思わずにはいられない。天に日輪が輝くかぎり、そして、たとえ日輪がいつか昇らぬ日が来たとしてもである。彼の手はいつでも、かなしくなるほどに温かく、携えた手に龍が珍しく力を籠めると、彼は無言のまま五指で龍の五指を握りなおすという、王らしからぬ振舞いでいつものように応じた。
龍の双眸のなかでは錦江も小舟も何もかもが霞んでゆくのに、心は彩りに盈ちてゆく。隆中のあの日から少しもかわらぬその力の確かさに縋りながら、朦朧とした景色の中の一歩一歩が、踏むべきところを踏んでいるのが、見えずともわかるのだ。
遠ざかる孤舟が川霧に紛れて今日の王道へ向かった先を、梧桐の若葉は風に頷きながら見送っていた。