公孫花壇のエコグリーンフェスタの前夜、先生は高熱を発した。
38度2分だった。
日曜日の朝は、劉家のホームドクターの吉平先生が往診にやってきて、外出はドクターストップだった。
(今日は、大事な日だったのに)
ユンが弟の均ではなかった場合のショックを考えると、今日の外出は吉か凶かわからぬことで、待ち遠しいばかりではなかった。
悲観しがちで臆する心が招きよせた高熱ではないかと思うと、先生は自分の心と體の脆弱さがいやになる。
ベッドに横たわっている姿は、心の弱さが目に見える形になって晒されているも同然に思えて、ますます気が沈んだ。
だが、先生の心も體もよく理解している彼は、昨夜からの先生の発熱がメンタルの部分のみが起因してもたらしたのだとは思っていない。
先生のために、彼はよく気圧計を観察している。
昨日は近海を台風が通過し、不穏な一日だった。
半日で気圧が10ヘクトパスカル以上の下降を示す日、先生は体調を崩しがちなのだ。
彼は先生をずっと見守ってきて気づいているが、先生には言わない。あまり過敏になって過ごしてもよくないし、全体的に体調がよいときはそうとも限らないから先入観を与えないでいる。
薬が効いて熱が下がったら、昼からでも出かけたいと強がりを言いだした先生に
「今日でありたい気持ちはわかるが、今日でなければならぬ必要はない。儂らは既に、ユン厨師のメールアドレスも知っているのだ。案ずることはない」
と、彼は理を優先して言葉柔らかに諭して納得させたのだ。
夕方、寝室にノックの音が渡る。
「加減はどうじゃな」
「……公叔」
昨夜に比べればずいぶんと具合のよくなった先生は、ベッドの上で身を起こしてうとうとしていた。
「熱はどうじゃ」
そう問われた先生がナイトテーブルの上の電子体温計を手に取ろうと指を動かしかけたとき、ベッドの端に腰かけた彼は当然のように額に額をかさねて
「……ふむ、下がったな。微熱といった程度か」
体感温度で判断するという検温方法をとって、しかもその結果に満足して目尻に笑い皺をたたえた。
「何か、喉をとおりそうか」
もうすぐ薬の時間なので、彼がそう聞いてくれているのだと気づいて、重病でもないのにここへ食事を運んでもらうのも大げさで、かといって食堂で何か食べるほどの食欲も覚えず
「ほんの少し、でしたら……」
こんな風に言えば、きっと彼は察してくれて、ほんの少しで服薬の助けになりそうで手軽なことを考えてくれるのだろうと思って、先生は言いよどんだ。
「そうであろう。早速、これの出番だな」
彼は、B5版ほどの嵩張った茶封筒をナイトテーブルの端にゴトリと置いてから、公孫ティーサロンのロゴが入った小さな立方体の化粧箱を軽く掲げた。
「お兄上からだ。先ほどお寄りくださってな。……こちらは、よくなってからな」
(お菓子?)
先生が訝しく思っていると、彼は化粧箱をあけて大きな手で中身を取り出す。
先生はそれを見るなり
「あっ」
と、驚きの声をあげた。
今日のカレーは姜少年の父のカレーだったのかを聞こうとしていたことを忘れてしまった。
透明なココット型の容器に、兎の形をした櫛切りの林檎が五つ並んでいる。
底に輪切りの林檎が置いてあり、芯をくりぬいた穴に後ろ足を差し込み、五羽の兎はどれもあぶなげなくココットの外を向いている。耳がハート型で特徴的だ。
「母上の兎、か」
彼は、諸葛子瑜がさきほど玄関先で言ったことを繰り返した。
「……はい」
「よかった」
「……はい」
「日を改めて、会いに行ったらよい」
「……はい」
「とりあえず、養生第一じゃ」
胸がいっぱいで最後は頷くしかない先生を、彼は寛い懐に受け止めてその髪を撫でた。
ずっとほそぼそとピアノ教師をして、水鏡先生とだけ話すような毎日を送っていたら、おそらく今日のことはなかった。
彼の子息を生徒に迎え、周公瑾との確執をきっかけにこうしてこの邸で暮らすようになり、彼と家族のように暮らして、兄上の事件も乗り越えて、だからこそ今日の日があったのだろうと思えてならなかった。
公孫花壇がイベントを催す前日、ティーサロンの厨房では二人の人影が立ち働いていた。
明日の特別メニューの準備だった。
昼はカレーを出し、三時にはシナモンロールを販売する計画だ。
一人はユン厨師である。
公叔から、カレーのレシピのお礼とともに、この単発の仕事の打診を受け、ユンは承諾した。
ユンは、自分の作った料理で料理店に三つの星がつくことを嫌う。
特別な階級の特別な時間の演出のための料理など、ユンは追い求めていない。
働いている店に星がついたら、惜しげもなくレシピを残して去るばかりである。
まじめに恒産を持つ者であれば誰でもオーダーできる価格の、そして毎日でも食べたいほどおいしい一皿が、ユンの理想だ。
また、行方知れずの二人の兄は、きっとそんな料理を出す店を好むだろうと考えたことも無関係ではなかった。
「待遇が不満なのか」
「では料理長にする」
「サラリーを上げる」
と、店が慰留しても頑としてきかないので、一部の高級レストランの経営者たちは、ユンを嫌っている。
厨房に立つもう一人は姜少年だった。
あれからさんざん迷った挙句に、勇気を振り絞ってユン厨師に会おうと思ったのだ。
実は、母には相談せずに自分で決めた。
一度、レシピのとおりに「父上のカレー」を作ってはみたのだが、父上のカレーではなかった。
レシピの文末の赤文字を信じるならば、何度も作れば父上のカレーになっていくのかもしれなかったが、もしかして騙されているのだろうかという疑いもぬぐえなかった。
姜少年は、何度作れば出来上がるという保証のないカレーをふたたび作る気はなかった。
母が一番喜ぶのは、机に向かって勉強している姜少年の姿であり、父上のカレーではないカレーを姜少年が作る姿はおそらく歓迎されていない。
かといって、姜少年がそう簡単にあのカレーを諦めきれるはずもなく、やはりユン厨師に直接会って話すべきだと決心した。
約束の15時の前に公孫花壇に着くように、土曜ダイヤのバスに乗って、バラのアーチの前までやってくると、思いがけぬ人が待っていた。
「あ。姜くん!」
麦わら帽子をかぶった劉家の子息が、明るい声を発して手を振った。
「……劉君、どうして? 劉君も呼ばれたの?」
無邪気で人当たりの良いこの子息と二人でなら、ユン厨師に質問をするきっかけも作ってもらえるかもしれない。姜少年は少し気が楽になった。
「うん。明日のお花のプラカード立てるの、お手伝いに来たんだ」
見れば子息は、エプロンに軍手、ガーデニング用のブーツを履いて、小さなガーデナーという趣である。
「僕、あっちの芝生で伯父上といろいろしてるから。姜君、帰るとき一緒に帰ろうよ。僕もがんばるから!」
子息はニコと笑むと、地面に置いていた空のプランターを持って、芝生のほうへ歩いて行った。
小径に残された姜少年は軽く落胆したが、自分の問題なのに無意識に子息の好意を期待し、この場合、その期待には「利用」という狡さと小心さが隠れていることにすぐに気づいて恥ずかしくなった。
そして、姜少年が自分だけの力でユン厨師にまみえることを子息はただ待っていようという誠意に、力が湧いた。ただ待つならば邸で待っていてもいいのだ。だのに子息は、すぐそばで待っていたかったのだろう。そして、待っていることを隠しもせずに、何もできなくても、せめて味方がすぐそばにいるという状況を目に見えるように呈したかったのかもしれなかった。
劉家の子息は少し鈍くて学校の成績もよくないのに、大事な人のためには頑張れるタイプで、口達者なクラスメイトから偽善者のお節介と評されることがあっても恐れず、自分の信じる真心を尽くし続けようとする。
その心からいでた今日の行動と「僕もがんばるから」という言葉の続きを思いえがいて、姜少年は
(そうだ。「僕もがんばる」んだ)
と、背中を押された気分で小さな手を握り締めた。
公孫花壇のティーサロンにつくと、扉があいていた。
「やあ。はじめまして。ユンです。今日はよろしく」
金髪の若い男が顔を出して握手を求めてきた。反射的に応じる。
「……姜伯約です」
「姜クン、まず、お茶でも飲もう」
ユンは、西洋人のようなことを言って、ダイニングを指ししめした。
鳥の形になった愛らしいレモンがグラスの縁にとまっているアイスティーのストローに口をつける。
「カレー。作ってみたか」
ストローでグラスの中の氷をもてあそびながら、ユンは姜少年に質問した。
「はい」
「まずくはないが、ビンゴじゃなかった」
「……はい……」
姜少年は俯くばかりである。
一回では上手にできないというレシピを渡す人は、意地悪なのだろうか、ただ正直なだけなのだろうか。
そう但し書きがあったのに、「もしかしたら」という希望を持って作ってみる方が愚かなのだろうか。
いろいろな思いが姜少年の小さな胸のなかでぐるぐると、マーブル模様を描く。
「……あの」
「はい」
「……ユン……さんは、やっぱり父とお友達だったんですか」
「いいや。一回会っただけ」
「えっ」
「嘘じゃないさ」
父上のカレーを「盗んだ」と言われるのがいやで、言い逃れをしているのではないかと疑うこともできる状況で、思いがけないことを耳にし、やはり姜少年はどこまで信じてよいのかわからない。
「ボーイスカウトのキャンプで。いままで食ったこともない、美味すぎるカレーを作る奴が居てな。隣のグループの奴だった」
そういえば父上は、日曜大工やサバイバル系のことが得意だった。
ちょっとしたアクシデントや、台風のときなど、父上の判断のとおりにしていれば間違いなかった。
「一度食った味は、たいていコピーできるっていう、これは才能なのかどうかわからないし……たいてい信じちゃもらえないんだけどな」
諦め慣れたような種類のこの表情を、姜少年はよく知っていた。知っていたというより、覚えがありすぎる。
(言ったって、わかってなんかもらえない)
という諦めだ。一度や二度ではない。
ユンがその才能がゆえに散散に辛い思いをしてきたのであろうことが察せられて、姜少年の小さな胸はちくりと痛んだ。
「今日は、俺がアシストするから」
「え……?」
「君が作るんだよ。俺がアシスタント」
「僕が……ですか?」
「はじめよう」
ユンは、洗いたての自分の白いコック帽を姜少年に差し出し、自分はバンダナを巻いた。
厨房の吊戸棚の扉には、A3に拡大した例のレシピが貼ってあった。
あのレシピは6皿ぶんだった。
分量のところに赤いマジックで ×10=( )3セット と書き添えてある。
「では姜厨師、材料の検分をお願いします」
ユンは口調をあらためると、調理台の前に置いた横長の頑丈そうな木の花台を指さして姜少年を招いた。
本当に、姜少年とカレーを作る気で運び込んであったという風情だ。
(やるしかない。ほかの誰かにかわってもらうことなんてできないし、かわってもらっちゃダメなんだ)
姜少年は、ぎゅっと肚をくくって花台にあがり、ユンに並んだ。
「明日は家族連れが多いと予測するので、唐辛子ひかえめの、マイルドです」
「玉ねぎは冷凍しておいたのを使います。組織が壊れやすく、短時間で飴色になって便利です」
「にんじんはすりおろしておきました」
「トマトはカット済みです」
「ヨーグルトは計量済みです」
ユンは、料理番組のようにいちいちレシピに添って紹介すると
「では、玉ねぎ炒めから入りますので、姜厨師はスパイスの計量をお願いします」
姜少年に指示すると、玉ねぎの入ったジップバックをとりあげた。
二人で黙黙と作業に取り組む。
弱火で玉ねぎが飴色になってゆく音と、香ばしい匂いが厨房に満ちている。
他人と料理をするなど初めての姜少年は、全部のスパイスの計算と計量を終えてから、三つのコンロを操るユンの後ろ姿をチラチラと見ていた。
いつ、どんなタイミングで、どんな言葉で、計量が済んだことを告げればよいのか、わからないのだ。
しかし、どこまで用意が進んだかなど、調理台の上の様子を見ればユンには一目瞭然である。
「姜厨師、右の鍋から順に、ヨーグルトお願いします」
「はいっ」
とにかく、ユンの言うとおりしていれば、お客に出せるレベルのカレーはできるのだろうと思って、ヨーグルトのボウルを一旦コンロ脇に移動し、コンロの前の小さな踏み台に乗ってから、飴色の玉ねぎの上にヨーグルトを投入した。
「OK。まず3分」
ユンは、砂時計をひっくり返した。砂が落ちたら順に調味料を入れるのだと姜少年は察して、計量済みの皿を必要な順に並べ替えようと頭が回った。
さっと踏み台をおりて迷いもなく調理台に戻るその行動には、確かに一回作った様子が滲み出ている。姜少年は気づかなかったが、ユンは口元に淡く笑みを含んだ。
コンロ脇に、スパイスの皿を準備して砂時計の砂が落ちるのを見守っていた姜少年は、もう入れてもいいだろうかと思い、鍋をかき回すユンを見あげた。
「お待たせしました。右からどうぞ」
姜少年が一番右の鍋にスパイスを入れて、レードルでかき回したその時だ。
ユンは、突然に歌を歌い始めた。
姜少年の父が大好きだった歌だ。
「歌えよ。知ってるんだろ」
ユンは、廿年も前に流行ったテレビドラマの主題歌を、まだ小学生の姜少年が当然知っているという確信のある表情で言い放った。
姜少年は、言われるがままにユンと一緒に歌い始めた。
開封府尹包青天
秋霜烈日
公孫策 展護衛
江湖好漢ここにあり
最初は、おそるおそる、しかし二番にかかると、父が生きていた頃を思い出して、父と一緒に歌っている気分になってきた。
そういえば、父はカレーを作るときによくこの歌を歌っていた。
もしかしたら、今日こそは父上のカレーになるのかもしれないと、姜少年は歌いながら料理にさらに身が入った。
翌日の、フェスタ開園の時間の前に、姜少年はユンに試食に呼ばれていた。
「おはよう。ちなみに俺、まだ味見てない」
姜少年は言葉もない。
本当だとしたら、出来不出来が開園一時間前にわかるというこんな状況でユンは困らないのか、急に自分の責任が重大になった気がして、味見が怖くなった。
大鍋の蓋をとり、レードルをとりあげ、ユンが渡してくれた白い小皿にルーを少し注ぐ。
ルーが皿を撫でた部分の発色が鮮やかな鬱金色で、父上のカレーの色をしていた。
でも、色は家で作った時もこの色だったのだ。
問題は味わいだ。
姜少年は皿を舐めた。
まぎれもなく、父上のカレーがここにあった。
調味したのは自分だ。
促されて、三つの大鍋すべてがこの味わいであることを確認した。
捜していた答えがここにあり、涙がにじんだ。
たしかに、夜の間に何か小細工をしようと思えば可能なことだが、ユンがそこまでして何の得があるというのか。
「どうして今日成功したかわかるか」
「……わかりません」
「歌なんだよ」
「うた……?」
「親父さん、好きだったんだろ。『包青天』。旧版の」
「……え。どうして」
「このカレーには苦労した。一発では作れなかった。この俺が、初めてコピーに失敗したのがこのカレーだ」
ユンは、キャンプでこのカレーの味を知った後の自分の苦心を語った。
自信満々で試作した一回目、まずくはないが「あのカレー」ではなかったので屈辱的な気分になった。
そのうちにまた夏になって、あのカレーが食べたくなってもう一度挑戦した。一回目の試作とキャンプのときの味わいとの差分をよく考え、もう少し深みが出るようなレシピに修正して、一晩置くことにもした。
色は申しぶんなく、一回目よりは二回目のほうが近くなったといえたが、また違った。しかしあと一歩という直感があった。
その「一歩」が何なのか、なかば意地になってカレーばかり作る日が続いた。
秋風が吹くころ、もういい加減カレー味に飽きてきたが諦めがつかずに、またあのカレーに挑んだ昼のことだった。
つけっぱなしのテレビから
≪お昼のアンコール時代劇アワー≫
が流れてきた。
全42話の武侠ドラマが昨日で最終回を迎え、その日の画面には宋の高官の服を着た威風堂堂たる色黒の男が現れた。その額には三日月の形の瘤がある。
旧作の包青天だった。
主題歌が懐かしくて、ユンは一緒に歌ってカレーを混ぜた。
翌日、だめでもともと、といういつもの気分で味をみてみたら、出来上がっていた。
「二回目以降のレシピはほとんど一緒だった。それまでと違ったのは、『スパイスを入れるところでBGMが包青天だった』これだけだ」
「……お料理で、そんなことって」
「嘘だと思うだろ。普通はな。俺だってそう思った。でもそれ以外ない。……次は、黙って作ってみた。失敗した。新包青天を歌ってみた。また失敗した。旧版の包青天を歌った時だけ成功だ」
はじめはレシピに
<ここで旧版包青天の主題歌を歌う>
と、ユンは親切にも書いていたが、誰も信じなかったので、書き添えるのをやめた。
なぜなら、レシピを要求した誰もがおそらく歌わずに作ったのだろう、ユンのカレーとは全く違う出来栄えに腹を立てたのか、偽レシピだと考えたとしか思えないよそよそしい態度を漂わせ、次第に疎遠になったからだ。
「ごめんな。最初から種明かししてれば、君ならいつか歌って作るとは思った。……でも、こうやってアウェーで戦わないと、大事なものは手に入らないんじゃないか?」
ユンは、なぜこれほどに自信があったのだろうか
「でも、もし」
「何だよ、『もし失敗してたら今日のフェスタぶち壊し』か? もしそうなら、とっておきのシナモンロール急遽増産で帳消しにしたさ」
ユンは余裕の表情で面白そうに笑った。
「でもな、君が歌って作ったのに、君の親父が失敗させるわけないだろ」
ユンは、姜少年とも少年の父とも全く関係がないに等しいのに、自信たっぷりに笑っていた。
料理でそんなことがあると信じているということは、そして他の歌ではなく「旧版・包青天」の主題歌のみがレシピに含まれるということは、父上と関係ないはずのユンが、姜少年が信じていなかったことを信じているということでもあった。
姜少年は、もういないと決めつけていた父に慈しまれていたのではなく、慈しまれているのだという実感が、父の死後はじめて湧いてきた。
「よーし、今日はノッてきたから、大サービスしちゃおーっと。りんごを切るのを手伝ってくれるか」
「はい」
姜少年は、今日家に帰ったら母と一緒に包青天を歌ってカレーを作ろう、そして明日、それを三つの皿に盛り分けようと、眼鏡の奥でうれし涙をたたえていた。
そして大事なことに気づいて、ドキドキしながらも大きな声で言った。
「ユンさん。……ありがとうございます」
「バカだな。お礼は、親父さんに言えよ」
先生は、母上の兎型りんごを二つ食べて服薬してそれから一睡した。
慕わしい彼はこの寝室の主であるというのに、このような時は先生の早い回復を念じてこの広い寝台を独占させてくれるのだ。
長椅子で寝ることもできるが、先生が気を遣うことを知っているので、別な部屋で眠っている。
むしろ彼の腕にいだかれて眠れば、治りが早い気がするなど、先生はとても言い出せないので大人しくこうしている。
残った三羽の兎にはラップをかけて、洗面所の小さな冷蔵庫に残してくれているのを知っていたので、夜半に目覚めたときに取りにゆき、残りを食べた。
弟の均が切ったのだと思うと不思議と食欲が湧いて、残りの三つを食べることができた。
昼間、眠ってばかりいたので目が冴えている。
均が見つかった興奮もあるのかもしれない。
ナイトテーブルの上の、兄上からの封筒の中身をあらためてみると、来月限定発売になる『西夏物語』の愛蔵版が入っていた。
表紙はざらりとした手触りの特殊紙に高精細の砂の写真が印刷されていて、タイトルにはデポス加工を施して「語」の字の「吾」の部分が半分砂に埋もれている。反射的に表紙に息を吹きかけて軽く叩いて撫で払いたくなる装丁である。
著者である兄上のペンネーム「王菫」は、小さな落款を捺した意匠でひっそりとあしらわれている。印泥の掠れも表現してあって心憎い。
なかほどに、淡い色の附箋がたててあったので、そこを開いてみた。
附箋には兄上の文字で、こう書いてあった。
三公を縦に読め。
お前は気づいていたか?
↓
先生は、その箇所をみつめた。
四海国王叔が、ひとり沙漠を旅しているとき、三公について思いをいたす場面だった。
碧崇公は和を重んじ温厚で誠実、政敵ですら碧崇公の批判はしても悪口を言わない。
慧香公は静かな気性と優雅な容貌に似合って詩歌音曲に秀でて、天文にあかるい賢者である。
幽劍公は美女ではないが上将が十人でかかっても太刀打ちできぬ剣豪で、金創の用心から調薬にも詳しい。
「碧、慧、幽。崇、香、劍……」
先生は、昔から和を尊び忍耐強く、そして長子らしく孝悌を重んずる兄上が授かっている力をそこに見た。
「子瑜は魔法使いなのですよ。本当に優れた魔法はすぐには効かないので、誰も気づかないだけです。だから、必ず直ちに人を傷つける悪い言葉は使ってはいけません」
記憶の中の母は兄上の文才に早くから気づいていて、そして、幼い兄上が新しい言葉を使ってみたいという興味本位で醜い言葉を使った時に、そう言い聞かせて窘めていた。
それは躾だと思っていたが、人が言葉に支配されがちであると同時に、意思が信念と祈りとともに言葉を持った時、それは本当に呪文になりうることを母は知っていたのかもしれない。
先生は瞼に残る母のおもかげにまた涙が湧いた。
碧慧幽崇香劍。
必会有重相見。
Bi hui you chong xiang jian.
すこし拙い同音ではあるが、三公の名の音に隠されていたのは、強い祈りの言葉だった。
『西夏物語』の校正を手伝っている時に、三公は自分たち三兄弟のことかもしれないとは感じていた。
三公の名は恣意的なのだと思っていたが、違った。
この名でなければならない理由があった。
兄上は、この作品の中で読者に最も愛されることになるくだりの、ここ一カ所だけに三公の名を並べ、何万冊も世に送り出して人知れず魔法の言葉を放っていたのだ。
このくだりは、のちに文字組みがどう変わろうとも「公」が三つも縦に並ぶことになると気づいた先生は、読書家の中には文字の並びが美しくないと評する者も居ようことを慮って、初校の時に朱で「?」印を入れて注意を喚起した。だが兄上は採らなかった。以降はここに朱をつけなかったのでよく覚えている。
ここには、誰に知られずとも、必ずまた相まみえようとし、相まみえ得ると信じている兄上の願いが宿っていたのだ。
三公の名はこの物語の行く末を示唆するとともに、わが三兄弟の再会を祈り固く信じていた証拠であるかのようだった。
それはたとえば、拓本のみが残って誰も所在を知らない西夏王碑は「ある」と信じて疑わないことに似ていた。
五行五色五題 (了)
38度2分だった。
日曜日の朝は、劉家のホームドクターの吉平先生が往診にやってきて、外出はドクターストップだった。
(今日は、大事な日だったのに)
ユンが弟の均ではなかった場合のショックを考えると、今日の外出は吉か凶かわからぬことで、待ち遠しいばかりではなかった。
悲観しがちで臆する心が招きよせた高熱ではないかと思うと、先生は自分の心と體の脆弱さがいやになる。
ベッドに横たわっている姿は、心の弱さが目に見える形になって晒されているも同然に思えて、ますます気が沈んだ。
だが、先生の心も體もよく理解している彼は、昨夜からの先生の発熱がメンタルの部分のみが起因してもたらしたのだとは思っていない。
先生のために、彼はよく気圧計を観察している。
昨日は近海を台風が通過し、不穏な一日だった。
半日で気圧が10ヘクトパスカル以上の下降を示す日、先生は体調を崩しがちなのだ。
彼は先生をずっと見守ってきて気づいているが、先生には言わない。あまり過敏になって過ごしてもよくないし、全体的に体調がよいときはそうとも限らないから先入観を与えないでいる。
薬が効いて熱が下がったら、昼からでも出かけたいと強がりを言いだした先生に
「今日でありたい気持ちはわかるが、今日でなければならぬ必要はない。儂らは既に、ユン厨師のメールアドレスも知っているのだ。案ずることはない」
と、彼は理を優先して言葉柔らかに諭して納得させたのだ。
夕方、寝室にノックの音が渡る。
「加減はどうじゃな」
「……公叔」
昨夜に比べればずいぶんと具合のよくなった先生は、ベッドの上で身を起こしてうとうとしていた。
「熱はどうじゃ」
そう問われた先生がナイトテーブルの上の電子体温計を手に取ろうと指を動かしかけたとき、ベッドの端に腰かけた彼は当然のように額に額をかさねて
「……ふむ、下がったな。微熱といった程度か」
体感温度で判断するという検温方法をとって、しかもその結果に満足して目尻に笑い皺をたたえた。
「何か、喉をとおりそうか」
もうすぐ薬の時間なので、彼がそう聞いてくれているのだと気づいて、重病でもないのにここへ食事を運んでもらうのも大げさで、かといって食堂で何か食べるほどの食欲も覚えず
「ほんの少し、でしたら……」
こんな風に言えば、きっと彼は察してくれて、ほんの少しで服薬の助けになりそうで手軽なことを考えてくれるのだろうと思って、先生は言いよどんだ。
「そうであろう。早速、これの出番だな」
彼は、B5版ほどの嵩張った茶封筒をナイトテーブルの端にゴトリと置いてから、公孫ティーサロンのロゴが入った小さな立方体の化粧箱を軽く掲げた。
「お兄上からだ。先ほどお寄りくださってな。……こちらは、よくなってからな」
(お菓子?)
先生が訝しく思っていると、彼は化粧箱をあけて大きな手で中身を取り出す。
先生はそれを見るなり
「あっ」
と、驚きの声をあげた。
今日のカレーは姜少年の父のカレーだったのかを聞こうとしていたことを忘れてしまった。
透明なココット型の容器に、兎の形をした櫛切りの林檎が五つ並んでいる。
底に輪切りの林檎が置いてあり、芯をくりぬいた穴に後ろ足を差し込み、五羽の兎はどれもあぶなげなくココットの外を向いている。耳がハート型で特徴的だ。
「母上の兎、か」
彼は、諸葛子瑜がさきほど玄関先で言ったことを繰り返した。
「……はい」
「よかった」
「……はい」
「日を改めて、会いに行ったらよい」
「……はい」
「とりあえず、養生第一じゃ」
胸がいっぱいで最後は頷くしかない先生を、彼は寛い懐に受け止めてその髪を撫でた。
ずっとほそぼそとピアノ教師をして、水鏡先生とだけ話すような毎日を送っていたら、おそらく今日のことはなかった。
彼の子息を生徒に迎え、周公瑾との確執をきっかけにこうしてこの邸で暮らすようになり、彼と家族のように暮らして、兄上の事件も乗り越えて、だからこそ今日の日があったのだろうと思えてならなかった。
公孫花壇がイベントを催す前日、ティーサロンの厨房では二人の人影が立ち働いていた。
明日の特別メニューの準備だった。
昼はカレーを出し、三時にはシナモンロールを販売する計画だ。
一人はユン厨師である。
公叔から、カレーのレシピのお礼とともに、この単発の仕事の打診を受け、ユンは承諾した。
ユンは、自分の作った料理で料理店に三つの星がつくことを嫌う。
特別な階級の特別な時間の演出のための料理など、ユンは追い求めていない。
働いている店に星がついたら、惜しげもなくレシピを残して去るばかりである。
まじめに恒産を持つ者であれば誰でもオーダーできる価格の、そして毎日でも食べたいほどおいしい一皿が、ユンの理想だ。
また、行方知れずの二人の兄は、きっとそんな料理を出す店を好むだろうと考えたことも無関係ではなかった。
「待遇が不満なのか」
「では料理長にする」
「サラリーを上げる」
と、店が慰留しても頑としてきかないので、一部の高級レストランの経営者たちは、ユンを嫌っている。
厨房に立つもう一人は姜少年だった。
あれからさんざん迷った挙句に、勇気を振り絞ってユン厨師に会おうと思ったのだ。
実は、母には相談せずに自分で決めた。
一度、レシピのとおりに「父上のカレー」を作ってはみたのだが、父上のカレーではなかった。
レシピの文末の赤文字を信じるならば、何度も作れば父上のカレーになっていくのかもしれなかったが、もしかして騙されているのだろうかという疑いもぬぐえなかった。
姜少年は、何度作れば出来上がるという保証のないカレーをふたたび作る気はなかった。
母が一番喜ぶのは、机に向かって勉強している姜少年の姿であり、父上のカレーではないカレーを姜少年が作る姿はおそらく歓迎されていない。
かといって、姜少年がそう簡単にあのカレーを諦めきれるはずもなく、やはりユン厨師に直接会って話すべきだと決心した。
約束の15時の前に公孫花壇に着くように、土曜ダイヤのバスに乗って、バラのアーチの前までやってくると、思いがけぬ人が待っていた。
「あ。姜くん!」
麦わら帽子をかぶった劉家の子息が、明るい声を発して手を振った。
「……劉君、どうして? 劉君も呼ばれたの?」
無邪気で人当たりの良いこの子息と二人でなら、ユン厨師に質問をするきっかけも作ってもらえるかもしれない。姜少年は少し気が楽になった。
「うん。明日のお花のプラカード立てるの、お手伝いに来たんだ」
見れば子息は、エプロンに軍手、ガーデニング用のブーツを履いて、小さなガーデナーという趣である。
「僕、あっちの芝生で伯父上といろいろしてるから。姜君、帰るとき一緒に帰ろうよ。僕もがんばるから!」
子息はニコと笑むと、地面に置いていた空のプランターを持って、芝生のほうへ歩いて行った。
小径に残された姜少年は軽く落胆したが、自分の問題なのに無意識に子息の好意を期待し、この場合、その期待には「利用」という狡さと小心さが隠れていることにすぐに気づいて恥ずかしくなった。
そして、姜少年が自分だけの力でユン厨師にまみえることを子息はただ待っていようという誠意に、力が湧いた。ただ待つならば邸で待っていてもいいのだ。だのに子息は、すぐそばで待っていたかったのだろう。そして、待っていることを隠しもせずに、何もできなくても、せめて味方がすぐそばにいるという状況を目に見えるように呈したかったのかもしれなかった。
劉家の子息は少し鈍くて学校の成績もよくないのに、大事な人のためには頑張れるタイプで、口達者なクラスメイトから偽善者のお節介と評されることがあっても恐れず、自分の信じる真心を尽くし続けようとする。
その心からいでた今日の行動と「僕もがんばるから」という言葉の続きを思いえがいて、姜少年は
(そうだ。「僕もがんばる」んだ)
と、背中を押された気分で小さな手を握り締めた。
公孫花壇のティーサロンにつくと、扉があいていた。
「やあ。はじめまして。ユンです。今日はよろしく」
金髪の若い男が顔を出して握手を求めてきた。反射的に応じる。
「……姜伯約です」
「姜クン、まず、お茶でも飲もう」
ユンは、西洋人のようなことを言って、ダイニングを指ししめした。
鳥の形になった愛らしいレモンがグラスの縁にとまっているアイスティーのストローに口をつける。
「カレー。作ってみたか」
ストローでグラスの中の氷をもてあそびながら、ユンは姜少年に質問した。
「はい」
「まずくはないが、ビンゴじゃなかった」
「……はい……」
姜少年は俯くばかりである。
一回では上手にできないというレシピを渡す人は、意地悪なのだろうか、ただ正直なだけなのだろうか。
そう但し書きがあったのに、「もしかしたら」という希望を持って作ってみる方が愚かなのだろうか。
いろいろな思いが姜少年の小さな胸のなかでぐるぐると、マーブル模様を描く。
「……あの」
「はい」
「……ユン……さんは、やっぱり父とお友達だったんですか」
「いいや。一回会っただけ」
「えっ」
「嘘じゃないさ」
父上のカレーを「盗んだ」と言われるのがいやで、言い逃れをしているのではないかと疑うこともできる状況で、思いがけないことを耳にし、やはり姜少年はどこまで信じてよいのかわからない。
「ボーイスカウトのキャンプで。いままで食ったこともない、美味すぎるカレーを作る奴が居てな。隣のグループの奴だった」
そういえば父上は、日曜大工やサバイバル系のことが得意だった。
ちょっとしたアクシデントや、台風のときなど、父上の判断のとおりにしていれば間違いなかった。
「一度食った味は、たいていコピーできるっていう、これは才能なのかどうかわからないし……たいてい信じちゃもらえないんだけどな」
諦め慣れたような種類のこの表情を、姜少年はよく知っていた。知っていたというより、覚えがありすぎる。
(言ったって、わかってなんかもらえない)
という諦めだ。一度や二度ではない。
ユンがその才能がゆえに散散に辛い思いをしてきたのであろうことが察せられて、姜少年の小さな胸はちくりと痛んだ。
「今日は、俺がアシストするから」
「え……?」
「君が作るんだよ。俺がアシスタント」
「僕が……ですか?」
「はじめよう」
ユンは、洗いたての自分の白いコック帽を姜少年に差し出し、自分はバンダナを巻いた。
厨房の吊戸棚の扉には、A3に拡大した例のレシピが貼ってあった。
あのレシピは6皿ぶんだった。
分量のところに赤いマジックで ×10=( )3セット と書き添えてある。
「では姜厨師、材料の検分をお願いします」
ユンは口調をあらためると、調理台の前に置いた横長の頑丈そうな木の花台を指さして姜少年を招いた。
本当に、姜少年とカレーを作る気で運び込んであったという風情だ。
(やるしかない。ほかの誰かにかわってもらうことなんてできないし、かわってもらっちゃダメなんだ)
姜少年は、ぎゅっと肚をくくって花台にあがり、ユンに並んだ。
「明日は家族連れが多いと予測するので、唐辛子ひかえめの、マイルドです」
「玉ねぎは冷凍しておいたのを使います。組織が壊れやすく、短時間で飴色になって便利です」
「にんじんはすりおろしておきました」
「トマトはカット済みです」
「ヨーグルトは計量済みです」
ユンは、料理番組のようにいちいちレシピに添って紹介すると
「では、玉ねぎ炒めから入りますので、姜厨師はスパイスの計量をお願いします」
姜少年に指示すると、玉ねぎの入ったジップバックをとりあげた。
二人で黙黙と作業に取り組む。
弱火で玉ねぎが飴色になってゆく音と、香ばしい匂いが厨房に満ちている。
他人と料理をするなど初めての姜少年は、全部のスパイスの計算と計量を終えてから、三つのコンロを操るユンの後ろ姿をチラチラと見ていた。
いつ、どんなタイミングで、どんな言葉で、計量が済んだことを告げればよいのか、わからないのだ。
しかし、どこまで用意が進んだかなど、調理台の上の様子を見ればユンには一目瞭然である。
「姜厨師、右の鍋から順に、ヨーグルトお願いします」
「はいっ」
とにかく、ユンの言うとおりしていれば、お客に出せるレベルのカレーはできるのだろうと思って、ヨーグルトのボウルを一旦コンロ脇に移動し、コンロの前の小さな踏み台に乗ってから、飴色の玉ねぎの上にヨーグルトを投入した。
「OK。まず3分」
ユンは、砂時計をひっくり返した。砂が落ちたら順に調味料を入れるのだと姜少年は察して、計量済みの皿を必要な順に並べ替えようと頭が回った。
さっと踏み台をおりて迷いもなく調理台に戻るその行動には、確かに一回作った様子が滲み出ている。姜少年は気づかなかったが、ユンは口元に淡く笑みを含んだ。
コンロ脇に、スパイスの皿を準備して砂時計の砂が落ちるのを見守っていた姜少年は、もう入れてもいいだろうかと思い、鍋をかき回すユンを見あげた。
「お待たせしました。右からどうぞ」
姜少年が一番右の鍋にスパイスを入れて、レードルでかき回したその時だ。
ユンは、突然に歌を歌い始めた。
姜少年の父が大好きだった歌だ。
「歌えよ。知ってるんだろ」
ユンは、廿年も前に流行ったテレビドラマの主題歌を、まだ小学生の姜少年が当然知っているという確信のある表情で言い放った。
姜少年は、言われるがままにユンと一緒に歌い始めた。
開封府尹包青天
秋霜烈日
公孫策 展護衛
江湖好漢ここにあり
最初は、おそるおそる、しかし二番にかかると、父が生きていた頃を思い出して、父と一緒に歌っている気分になってきた。
そういえば、父はカレーを作るときによくこの歌を歌っていた。
もしかしたら、今日こそは父上のカレーになるのかもしれないと、姜少年は歌いながら料理にさらに身が入った。
翌日の、フェスタ開園の時間の前に、姜少年はユンに試食に呼ばれていた。
「おはよう。ちなみに俺、まだ味見てない」
姜少年は言葉もない。
本当だとしたら、出来不出来が開園一時間前にわかるというこんな状況でユンは困らないのか、急に自分の責任が重大になった気がして、味見が怖くなった。
大鍋の蓋をとり、レードルをとりあげ、ユンが渡してくれた白い小皿にルーを少し注ぐ。
ルーが皿を撫でた部分の発色が鮮やかな鬱金色で、父上のカレーの色をしていた。
でも、色は家で作った時もこの色だったのだ。
問題は味わいだ。
姜少年は皿を舐めた。
まぎれもなく、父上のカレーがここにあった。
調味したのは自分だ。
促されて、三つの大鍋すべてがこの味わいであることを確認した。
捜していた答えがここにあり、涙がにじんだ。
たしかに、夜の間に何か小細工をしようと思えば可能なことだが、ユンがそこまでして何の得があるというのか。
「どうして今日成功したかわかるか」
「……わかりません」
「歌なんだよ」
「うた……?」
「親父さん、好きだったんだろ。『包青天』。旧版の」
「……え。どうして」
「このカレーには苦労した。一発では作れなかった。この俺が、初めてコピーに失敗したのがこのカレーだ」
ユンは、キャンプでこのカレーの味を知った後の自分の苦心を語った。
自信満々で試作した一回目、まずくはないが「あのカレー」ではなかったので屈辱的な気分になった。
そのうちにまた夏になって、あのカレーが食べたくなってもう一度挑戦した。一回目の試作とキャンプのときの味わいとの差分をよく考え、もう少し深みが出るようなレシピに修正して、一晩置くことにもした。
色は申しぶんなく、一回目よりは二回目のほうが近くなったといえたが、また違った。しかしあと一歩という直感があった。
その「一歩」が何なのか、なかば意地になってカレーばかり作る日が続いた。
秋風が吹くころ、もういい加減カレー味に飽きてきたが諦めがつかずに、またあのカレーに挑んだ昼のことだった。
つけっぱなしのテレビから
≪お昼のアンコール時代劇アワー≫
が流れてきた。
全42話の武侠ドラマが昨日で最終回を迎え、その日の画面には宋の高官の服を着た威風堂堂たる色黒の男が現れた。その額には三日月の形の瘤がある。
旧作の包青天だった。
主題歌が懐かしくて、ユンは一緒に歌ってカレーを混ぜた。
翌日、だめでもともと、といういつもの気分で味をみてみたら、出来上がっていた。
「二回目以降のレシピはほとんど一緒だった。それまでと違ったのは、『スパイスを入れるところでBGMが包青天だった』これだけだ」
「……お料理で、そんなことって」
「嘘だと思うだろ。普通はな。俺だってそう思った。でもそれ以外ない。……次は、黙って作ってみた。失敗した。新包青天を歌ってみた。また失敗した。旧版の包青天を歌った時だけ成功だ」
はじめはレシピに
<ここで旧版包青天の主題歌を歌う>
と、ユンは親切にも書いていたが、誰も信じなかったので、書き添えるのをやめた。
なぜなら、レシピを要求した誰もがおそらく歌わずに作ったのだろう、ユンのカレーとは全く違う出来栄えに腹を立てたのか、偽レシピだと考えたとしか思えないよそよそしい態度を漂わせ、次第に疎遠になったからだ。
「ごめんな。最初から種明かししてれば、君ならいつか歌って作るとは思った。……でも、こうやってアウェーで戦わないと、大事なものは手に入らないんじゃないか?」
ユンは、なぜこれほどに自信があったのだろうか
「でも、もし」
「何だよ、『もし失敗してたら今日のフェスタぶち壊し』か? もしそうなら、とっておきのシナモンロール急遽増産で帳消しにしたさ」
ユンは余裕の表情で面白そうに笑った。
「でもな、君が歌って作ったのに、君の親父が失敗させるわけないだろ」
ユンは、姜少年とも少年の父とも全く関係がないに等しいのに、自信たっぷりに笑っていた。
料理でそんなことがあると信じているということは、そして他の歌ではなく「旧版・包青天」の主題歌のみがレシピに含まれるということは、父上と関係ないはずのユンが、姜少年が信じていなかったことを信じているということでもあった。
姜少年は、もういないと決めつけていた父に慈しまれていたのではなく、慈しまれているのだという実感が、父の死後はじめて湧いてきた。
「よーし、今日はノッてきたから、大サービスしちゃおーっと。りんごを切るのを手伝ってくれるか」
「はい」
姜少年は、今日家に帰ったら母と一緒に包青天を歌ってカレーを作ろう、そして明日、それを三つの皿に盛り分けようと、眼鏡の奥でうれし涙をたたえていた。
そして大事なことに気づいて、ドキドキしながらも大きな声で言った。
「ユンさん。……ありがとうございます」
「バカだな。お礼は、親父さんに言えよ」
先生は、母上の兎型りんごを二つ食べて服薬してそれから一睡した。
慕わしい彼はこの寝室の主であるというのに、このような時は先生の早い回復を念じてこの広い寝台を独占させてくれるのだ。
長椅子で寝ることもできるが、先生が気を遣うことを知っているので、別な部屋で眠っている。
むしろ彼の腕にいだかれて眠れば、治りが早い気がするなど、先生はとても言い出せないので大人しくこうしている。
残った三羽の兎にはラップをかけて、洗面所の小さな冷蔵庫に残してくれているのを知っていたので、夜半に目覚めたときに取りにゆき、残りを食べた。
弟の均が切ったのだと思うと不思議と食欲が湧いて、残りの三つを食べることができた。
昼間、眠ってばかりいたので目が冴えている。
均が見つかった興奮もあるのかもしれない。
ナイトテーブルの上の、兄上からの封筒の中身をあらためてみると、来月限定発売になる『西夏物語』の愛蔵版が入っていた。
表紙はざらりとした手触りの特殊紙に高精細の砂の写真が印刷されていて、タイトルにはデポス加工を施して「語」の字の「吾」の部分が半分砂に埋もれている。反射的に表紙に息を吹きかけて軽く叩いて撫で払いたくなる装丁である。
著者である兄上のペンネーム「王菫」は、小さな落款を捺した意匠でひっそりとあしらわれている。印泥の掠れも表現してあって心憎い。
なかほどに、淡い色の附箋がたててあったので、そこを開いてみた。
附箋には兄上の文字で、こう書いてあった。
三公を縦に読め。
お前は気づいていたか?
↓
先生は、その箇所をみつめた。
四海国王叔が、ひとり沙漠を旅しているとき、三公について思いをいたす場面だった。
碧崇公は和を重んじ温厚で誠実、政敵ですら碧崇公の批判はしても悪口を言わない。
慧香公は静かな気性と優雅な容貌に似合って詩歌音曲に秀でて、天文にあかるい賢者である。
幽劍公は美女ではないが上将が十人でかかっても太刀打ちできぬ剣豪で、金創の用心から調薬にも詳しい。
「碧、慧、幽。崇、香、劍……」
先生は、昔から和を尊び忍耐強く、そして長子らしく孝悌を重んずる兄上が授かっている力をそこに見た。
「子瑜は魔法使いなのですよ。本当に優れた魔法はすぐには効かないので、誰も気づかないだけです。だから、必ず直ちに人を傷つける悪い言葉は使ってはいけません」
記憶の中の母は兄上の文才に早くから気づいていて、そして、幼い兄上が新しい言葉を使ってみたいという興味本位で醜い言葉を使った時に、そう言い聞かせて窘めていた。
それは躾だと思っていたが、人が言葉に支配されがちであると同時に、意思が信念と祈りとともに言葉を持った時、それは本当に呪文になりうることを母は知っていたのかもしれない。
先生は瞼に残る母のおもかげにまた涙が湧いた。
碧慧幽崇香劍。
必会有重相見。
Bi hui you chong xiang jian.
すこし拙い同音ではあるが、三公の名の音に隠されていたのは、強い祈りの言葉だった。
『西夏物語』の校正を手伝っている時に、三公は自分たち三兄弟のことかもしれないとは感じていた。
三公の名は恣意的なのだと思っていたが、違った。
この名でなければならない理由があった。
兄上は、この作品の中で読者に最も愛されることになるくだりの、ここ一カ所だけに三公の名を並べ、何万冊も世に送り出して人知れず魔法の言葉を放っていたのだ。
このくだりは、のちに文字組みがどう変わろうとも「公」が三つも縦に並ぶことになると気づいた先生は、読書家の中には文字の並びが美しくないと評する者も居ようことを慮って、初校の時に朱で「?」印を入れて注意を喚起した。だが兄上は採らなかった。以降はここに朱をつけなかったのでよく覚えている。
ここには、誰に知られずとも、必ずまた相まみえようとし、相まみえ得ると信じている兄上の願いが宿っていたのだ。
三公の名はこの物語の行く末を示唆するとともに、わが三兄弟の再会を祈り固く信じていた証拠であるかのようだった。
それはたとえば、拓本のみが残って誰も所在を知らない西夏王碑は「ある」と信じて疑わないことに似ていた。
五行五色五題 (了)