初蝉が鳴く前のとある土曜日、劉家の子息と姜少年は臨時休業日の公孫花壇のテラスで、ご褒美のおやつを頬張っていた。
「おいしー。ぼく、シナモンロール大好きなんだ。姜くんは?」
「……僕も好き。……おいしいね。林檎ジャム入ってる」
普段、焼きたてのスウィーツなどに縁がない姜少年は、そのおいしさが口の中から心に沁みわたるように感じて、言葉少なくも子息に同意した。
「ジラフィーには食べさせてあげられないのが残念だなー」
「ちょっとならいいけど」
「でもさ、塩とか砂糖とか、人間と同じだと多すぎるって。動物番組で言ってたよ」
シナモンロールの小さなかけらを白い皿に落としながら、子息はまたおいしそうに噛り付いた。
二人がご褒美をゲットしたのは、公孫花壇の総経理である公孫伯圭の依頼に応じたからだ。
公孫花壇は、ちょっとしたイベントを控えていた。
今回、『エコグリーンフェスタ』を開催するにあたって、公孫総経理の頭の中には青空・白いパラソル・緑の芝生とブーゲンビリア・少年
「そして犬だ。大型の。賢そうな。だがシェパードはNGだ。……ハウンド系か、それとも……ダルメシアンか」
という広報用ポスターの意匠がはっきりと浮かんでいたが、例によって金はなかった。
そして例によって、劉公叔の人脈に頼ったところ
「少年たちは顔出しにならないように配慮。報酬は公孫花壇のドリンクと菓子」
という願ってもない条件で、公叔の子息とその友人姜少年、そして少年の愛犬ジラフィーの出演となったのである。
その写真の撮影日が今日だったのだ。
「なんか『普通に』とか『自由に』とか、ぜんぜんわかんなかったよー。姜くんと一緒じゃなかったら絶対ムリ」
「僕だって、禅くんと一緒だっていうから。……ひとりじゃ無理だよ……。ジラフィーいても」
父よりも若い、短いポニーテールを結ったカメラマンに
『リラックス! アンド フリーダム! アンド スマイル! カモーン!』
『おじさんたち居ないと思って。みんなジャガイモだから。こいつはAジャガ、あいつはBジャガね』
などと、ハイテンションな声をかけられながら
(……ジャガイモっていっても、やっぱり、人だし……)
(スタッフの人とか、あんなにいっぱい居るし……)
ずっしりとした一眼レフのデジカメの連写音を聞かされて、二人とも最初の十分間ぐらいはカチコチであった。
そのうち、ジラフィーがおもむろにテーブルに前足をついて二人の間に割って入ったり、いろどりに置かれたトロピカルジュースをねだるふりをしたり、二人とカメラマンの間に入ってジャンプしてみたり、はしゃいで見せたので、撮影現場は急に盛り上がって
『オーケー! いい絵ごっさとれました! 僕たちおつかれちゃん! ワンちゃんもね』
それから30分もしないうちに少年たちはレンズとレフ板から解放されたのだった。
「いちばんいい仕事したの、ジラフィーかもしれない」
少年たちの横で、琺瑯のボウルに入った水を飲んでいた犬は、急に頭をあげてワンッと一声鳴いて姿勢を正して胸を張ってみせた。
「すごい。ジラフィー、自信あるっぽい」
「ちょっと目立ちたがり屋なんだ」
「そこがカワイイよ」
姜少年は、小道具としてテーブルに置かれた分厚い『西夏物語』が気になっていた。
『西夏物語』の下には、『哈利波特』や『夏洛克』など今どきの小中学生に人気の本が重なっていたが、『西夏物語』にだけは、うつくしい吉祥結びの下げ緒が挟まっていた。
(撮影用なのかな……。それとも、誰かの?)
カメラマンに
『ちょっと本めくってみようか!』
と言われたあと、おずおずと手を伸ばして、栞の箇所を開いてみた。
挟んである箇所が半分よりも下なので、もう公叔主従が沙漠の旅に出たあとのどこかだとは予測していた。
開いてみると、姜少年も大好きなくだりが始まっていて、その偶然にどきりとした。
「二人とも、いい出来だった。ありがとう」
石畳のカーブの向こうから英国調の三つ釦のスーツをノーネクタイで軽く着こなした公孫伯圭が現れて、少年ふたりに礼を言いに来た。
ジラフィーはワンッと吠えて、おすわりをしたまま尻尾を振って見せる。
公孫伯圭は、ジラフィーのそばにしゃがみこむと
「君もよかったぞー」
ジラフィーのキリン柄の頭を優しく撫でた。
またジラフィーがやんちゃをして衣裳を汚さないかと姜少年はハラハラしたが、ジラフィーは嬉しそうに喉を鳴らして大人しくしている。賢いのだ。
「本読んでるところがよかったな。二人と一匹で。あれにするかも」
木陰のガーデンテーブルとチェアにゆっくり近づくと、テーブルの上の『西夏物語』を手に取った。公孫伯圭の私物である。
「『水滸』も置きたかったんだけど、偉い人からダメだって言われた」
「えー? どうしてですか? ぼく、花和尚だいすきです!」
「なあ。カッコいいのにな。漢のロマンだ」
その会話から、公孫伯圭には子息に通じる明朗なものを感じて好感を持った。姜少年は翳のある林冲が好きだ。
公孫伯圭は、「水滸伝は野蛮」「水滸伝は所詮は無頼の輩の話」と断じる者が、教育委員会のお偉方の中にいるという大人の事情を伏せて、始終笑顔である。
教育委員会も省エネと青少年の読書奨励の関係からフェスタの後援に入っているので、やむを得ない。
金を出してもらっているわけではないが、市内の公共の箱モノへのポスター掲出と、公式サイトでのバナー広告の無償掲載の便宜を図ってもらえる以上は、意向は尊重せねばならない。
その石頭のお偉方が、作中の情趣を解するわけもなく、おそらく「ベストセラー」だから被写体として許可したのだろう一冊が『西夏物語』だった。
公孫伯圭は『西夏物語』の栞の部分を開いて、視線を和ませて眺める。
「これも、ほんとにいい話だ。……なれるものなら、わたしは王叔になりたい」
しみじみとした口調で、公孫伯圭はページの下にその場面の絵が見えるように目を細める。
姜少年は、この本が公孫伯圭のものかもしれないその行動と言動に、またどきりとした。
もしかしたら、姜少年は慧香公になりたいのかもしれなかった。
身を顧みず、沙漠の真ん中まで追っていきたいほどの赤の他人に巡り合いたいという漠然とした願望があるのかもしれなかった。
と同時に、これはおとぎ話で、現実にはそんな人は現れるわけがないと、なぜか諦めてしまっている自分を不意にみつけたような気分になった。
(王叔になりたいって……。どういう意味だろう。危ない立場で、どうすれば生き残れるかわからないのに)
同じ本を読んでいても、みな、少しずつ違うところを読んでいる。
同じ世に生きていても、みな、少しずつ違うところを生きていることに似ていると気づくには、姜少年は賢くもまだ幼かった。
そのころ、魯子敬の邸の二階の諸葛子瑜を先生が訪ねていた。
「それで、これを皆で食べてみることになるのが怖くて、逃げてきたのか」
先生の深刻な顔を、諸葛子瑜は一笑に付した。
書斎は、先生が訪れたときから、おもわず鼻がうごめくよい香りに満たされていた。
お気に入りの西夏王碑拓本の額をバックにしてくつろぐ諸葛子瑜の前のセンターテーブルに置かれた、公孫ティーサロンのロゴ入りの細長い化粧箱がその香りを発している。
手提げの上蓋は開いていて、六個のシナモンロールが行儀よく納まっていた。
「……逃げてきました」
先生は、蚊の鳴くような小さな声で素直に兄上に答えた。
「わかった。つきあおう」
化粧箱の中に添えてあった紙ナプキンを一枚とって広げ、諸葛子瑜は端のシナモンロールを紙越しにとりあげ、がぶりと噛みつく。
「……?」
先生が無言で問うが、諸葛子瑜は目を瞑って咀嚼し、一口目をゆっくり飲み込んだ。
「美味い。実に」
「そうではなくて」
「……母上のシナモンロール……ではない」
いままでの経緯から、もしかしたらユンは味覚で人探しをしているのかもしれないと先生が思いついたと察した諸葛子瑜は、ありのままを答える。
先生は、緊張が急に解けて妙な表情をしてから俯いた。
「お前、取り越し苦労しすぎ。公叔も苦労なさる」
諸葛子瑜はシナモンロールを無造作に齧りながら、先生の一番大事な人の名を出してわざとからかった。
でも先生は浮かない貌のままなので
「紅茶に合う。せっかくだから一口食べて帰れよ。帰ってから公叔にきっと感想を聞かれる」
と、誘うと、もっともだと思ったのか、先生は
「……いただきます」
と、浮かないくせに礼儀正しく挨拶してから、紙ナプキンを広げてシナモンロールを一つとり、一口大に割って口に含んだ。
「確かにな。均かもしれない。だが、均ではないかもしれない」
指先を紙ナプキンで拭って、カレーのレシピのメールのプリントアウトをテーブルから取り上げ、諸葛子瑜は本題に戻った。
From: SugarYun <yunsugar8888@shumail.com>
To: 劉公叔
Subject: 薬膳カレーのレシピにつきまして
「だいいち、Zhuge Jun ではない」
「でも、均はそう言っていました」
「三歳のころだ。それに、自分では『Zhuge Jun』のつもりだ」
「それを知っているのは、わたくしたちと、父上と母上だけではありませんか」
「仮に、母上のシナモンロールに似ていたとして、三歳の均が味を覚えているわけもない」
「それは均以外にはわからないことです」
「……それで。覗いてみたのか、キッチンは」
「……いいえ」
(歳月の流れから見分けがつかないかもしれないことすらも怖い、といったところか)
先生は、シナモンロールが焼きあがる頃に公孫花壇にやってきて、シナモンロール半ダースを二箱受け取ると、魯府の迎車に乗って兄上のところへ来てしまった。
一箱は、エコグリーンフェスタの協賛に名を連ねる孫呉グループの魯子敬に試食させておくためで、もう一箱は兄上への土産という体裁だった。
例のカレーのレシピのメールのヘッダを見た日から、もしかしたらユンこそ末の弟の均ではないかという気がしてならなかった先生は、エコグリーンフェスタの日の趣向として公孫ティーサロンの一日シェフにユンが内定していることに、大層気を揉んでいた。
今日は厨房のリハーサルでもあったので、臨時休業のティーサロンでシナモンロールを焼いたのはユンだ。
ユンは、姜少年の亡父にまつわる何かを知っている人かもしれない。
そして、わが弟かもしれない。
それで先生は、姜少年のカレーにあたることが、今日のシナモンロールに起こるのではと、期待と不安で朝から情緒不安定になっていたのだ。
カフェレスでの一件から、ユンが誰であろうとも、今は姜少年とカレーとユンの関係の落ち着く先を見守るべきだろうという大人の考えとは別に、ユンが他ならぬわが弟かもしれない直観に、先生はこのうように、たびたび感傷的に揺らいでいた。
諸葛子瑜の記憶喪失の時の
「もし、記憶が生涯戻らなかったら」
に同じく
「もし、弟ではなかったら」
という事態を必要以上に恐れて、不安に怯えてしまう。
先生は聡明であるからこそなのか、理屈でわりきれぬ情感を御することが、兄の諸葛子瑜に言わせれば下手なのだ。
そんな先生を
『ふむ。それは、困ったのう……孔明』
と言いながら、少しも持てあまさずに、祖父でも父でも兄でもないのに、祖父や父や兄以上のまなざしを注ぎ、おっとりと守ってくれるのであろう人と先生が毎日を暮らしていることに安心していればこそ、諸葛子瑜はこの繊細すぎる弟に、何事もずばりと言えるようになってしまっている。
「じゃあ、わたしも行こう。再来週の日曜日か。エコグリーンフェスタ」
「兄上」
「そうしたかったのではないのか?」
「でも」
「もし他人でもいいじゃないか。きれいな花とうまいメシ。外出先として申しぶんない」
諸葛子瑜は、先生の重たげな様子を励ますように軽く諾った。
日が傾いた公孫花壇のバラのアーチの前に、花卉配達用の白いバンがとまっていた。少年たちを送るためだ。犬も居るので、むしろセダンではない方がよいという配慮だ。
「禅くん、姜くん。今日は本当にありがとう。これはおみやげ」
公孫伯圭は、門前に並んだふたりにそれぞれ、芳香のただよう細長い化粧箱を手渡した。
中身は、シナモンロール半ダースだ。
「おみやげまで? 公孫の伯父うえ様、ありがとうございます」
「ありがとうございます」
ベーカリーのシナモンロールは2ユーロ以上する。
5~6個入っている手ごたえに、姜少年は恐縮した。自分は劉家の少年と座って、『西夏物語』をちょっとめくっただけで、あとはジラフィーの手柄のような半日だったからだ。
「とくに、姜くんの母上とは面識もないのだ。ご信頼いただけて嬉しいから、お土産ぐらいお渡ししたい」
姜少年の心の中を察してか、公孫伯圭はそれこそ大人の事情のような雰囲気の言葉をかけた。
「姜君」
公孫伯圭は名残惜しそうな風情でジラフィーの頭を撫でると、ひとつの用件を切り出した。
「再来週の土曜日、もしよかったらまた力を貸してもらえないだろうか。お母上と相談してもらえるかな」
「僕にできることですか?」
子供が公孫花壇の役に立つなど、花の虫除けと今日の写真撮影以外にあるとは思えず、姜少年は婉曲に内容を問うた。
「フェスタの前の日の午後から特別メニューを作るんだけど、シェフがアシスタントを要求している」
(アシスタント?)
当然、姜少年は要領を得ない表情をする。
プロの料理人のアシスタントと、後漢帝大附属小の姜少年とは、何も関連を見いだせない。
「ぜひ君をと、シェフが言うんだ」
「僕、ですか?」
「ユン厨師というシェフで、カレーを作るのに君が必要だというんだ」
「……」
大人びた眼鏡の奥で、少年の瞳が迷いに揺らぐのがわかったが、公孫伯圭はここが正念場と、口調をかえずに続けた。
「もちろん、君の自由だ。シェフ一人でもカレーを作らせる」
主催者らしく、ビジネスな雰囲気を漂わせて、姜少年よりもユンに圧力をかけた言い方をした。
「返事は今でなくていい。まだ時間はある。……ゆっくり考えていいよ」
やや重たげな沈黙が漂ったので
「……伯父うえ様。前の日まで考える、もありですか」
劉家の子息は、姜少年が一日でも長く考えられるように、よい質問をした。
「もちろんだよ」
「よかった。姜くん、お母さんとシナモンロール食べて、ゆっくり考えたらいいよ」
「……うん」
考える時間と家路につくきっかけを子息が作ろうとしている優しさがわかって、姜少年は素直にうなずいた。
公孫伯圭は、二人と一匹とシナモンロール二箱を乗せたバンが安全運転で花壇を出てゆく様子が見えなくなるまで見送ったのだった。
<五行五色で五題> 全9話一気読みへのショートカットは →こちら
「おいしー。ぼく、シナモンロール大好きなんだ。姜くんは?」
「……僕も好き。……おいしいね。林檎ジャム入ってる」
普段、焼きたてのスウィーツなどに縁がない姜少年は、そのおいしさが口の中から心に沁みわたるように感じて、言葉少なくも子息に同意した。
「ジラフィーには食べさせてあげられないのが残念だなー」
「ちょっとならいいけど」
「でもさ、塩とか砂糖とか、人間と同じだと多すぎるって。動物番組で言ってたよ」
シナモンロールの小さなかけらを白い皿に落としながら、子息はまたおいしそうに噛り付いた。
二人がご褒美をゲットしたのは、公孫花壇の総経理である公孫伯圭の依頼に応じたからだ。
公孫花壇は、ちょっとしたイベントを控えていた。
今回、『エコグリーンフェスタ』を開催するにあたって、公孫総経理の頭の中には青空・白いパラソル・緑の芝生とブーゲンビリア・少年
「そして犬だ。大型の。賢そうな。だがシェパードはNGだ。……ハウンド系か、それとも……ダルメシアンか」
という広報用ポスターの意匠がはっきりと浮かんでいたが、例によって金はなかった。
そして例によって、劉公叔の人脈に頼ったところ
「少年たちは顔出しにならないように配慮。報酬は公孫花壇のドリンクと菓子」
という願ってもない条件で、公叔の子息とその友人姜少年、そして少年の愛犬ジラフィーの出演となったのである。
その写真の撮影日が今日だったのだ。
「なんか『普通に』とか『自由に』とか、ぜんぜんわかんなかったよー。姜くんと一緒じゃなかったら絶対ムリ」
「僕だって、禅くんと一緒だっていうから。……ひとりじゃ無理だよ……。ジラフィーいても」
父よりも若い、短いポニーテールを結ったカメラマンに
『リラックス! アンド フリーダム! アンド スマイル! カモーン!』
『おじさんたち居ないと思って。みんなジャガイモだから。こいつはAジャガ、あいつはBジャガね』
などと、ハイテンションな声をかけられながら
(……ジャガイモっていっても、やっぱり、人だし……)
(スタッフの人とか、あんなにいっぱい居るし……)
ずっしりとした一眼レフのデジカメの連写音を聞かされて、二人とも最初の十分間ぐらいはカチコチであった。
そのうち、ジラフィーがおもむろにテーブルに前足をついて二人の間に割って入ったり、いろどりに置かれたトロピカルジュースをねだるふりをしたり、二人とカメラマンの間に入ってジャンプしてみたり、はしゃいで見せたので、撮影現場は急に盛り上がって
『オーケー! いい絵ごっさとれました! 僕たちおつかれちゃん! ワンちゃんもね』
それから30分もしないうちに少年たちはレンズとレフ板から解放されたのだった。
「いちばんいい仕事したの、ジラフィーかもしれない」
少年たちの横で、琺瑯のボウルに入った水を飲んでいた犬は、急に頭をあげてワンッと一声鳴いて姿勢を正して胸を張ってみせた。
「すごい。ジラフィー、自信あるっぽい」
「ちょっと目立ちたがり屋なんだ」
「そこがカワイイよ」
姜少年は、小道具としてテーブルに置かれた分厚い『西夏物語』が気になっていた。
『西夏物語』の下には、『哈利波特』や『夏洛克』など今どきの小中学生に人気の本が重なっていたが、『西夏物語』にだけは、うつくしい吉祥結びの下げ緒が挟まっていた。
(撮影用なのかな……。それとも、誰かの?)
カメラマンに
『ちょっと本めくってみようか!』
と言われたあと、おずおずと手を伸ばして、栞の箇所を開いてみた。
挟んである箇所が半分よりも下なので、もう公叔主従が沙漠の旅に出たあとのどこかだとは予測していた。
開いてみると、姜少年も大好きなくだりが始まっていて、その偶然にどきりとした。
「二人とも、いい出来だった。ありがとう」
石畳のカーブの向こうから英国調の三つ釦のスーツをノーネクタイで軽く着こなした公孫伯圭が現れて、少年ふたりに礼を言いに来た。
ジラフィーはワンッと吠えて、おすわりをしたまま尻尾を振って見せる。
公孫伯圭は、ジラフィーのそばにしゃがみこむと
「君もよかったぞー」
ジラフィーのキリン柄の頭を優しく撫でた。
またジラフィーがやんちゃをして衣裳を汚さないかと姜少年はハラハラしたが、ジラフィーは嬉しそうに喉を鳴らして大人しくしている。賢いのだ。
「本読んでるところがよかったな。二人と一匹で。あれにするかも」
木陰のガーデンテーブルとチェアにゆっくり近づくと、テーブルの上の『西夏物語』を手に取った。公孫伯圭の私物である。
「『水滸』も置きたかったんだけど、偉い人からダメだって言われた」
「えー? どうしてですか? ぼく、花和尚だいすきです!」
「なあ。カッコいいのにな。漢のロマンだ」
その会話から、公孫伯圭には子息に通じる明朗なものを感じて好感を持った。姜少年は翳のある林冲が好きだ。
公孫伯圭は、「水滸伝は野蛮」「水滸伝は所詮は無頼の輩の話」と断じる者が、教育委員会のお偉方の中にいるという大人の事情を伏せて、始終笑顔である。
教育委員会も省エネと青少年の読書奨励の関係からフェスタの後援に入っているので、やむを得ない。
金を出してもらっているわけではないが、市内の公共の箱モノへのポスター掲出と、公式サイトでのバナー広告の無償掲載の便宜を図ってもらえる以上は、意向は尊重せねばならない。
その石頭のお偉方が、作中の情趣を解するわけもなく、おそらく「ベストセラー」だから被写体として許可したのだろう一冊が『西夏物語』だった。
公孫伯圭は『西夏物語』の栞の部分を開いて、視線を和ませて眺める。
「これも、ほんとにいい話だ。……なれるものなら、わたしは王叔になりたい」
しみじみとした口調で、公孫伯圭はページの下にその場面の絵が見えるように目を細める。
姜少年は、この本が公孫伯圭のものかもしれないその行動と言動に、またどきりとした。
もしかしたら、姜少年は慧香公になりたいのかもしれなかった。
身を顧みず、沙漠の真ん中まで追っていきたいほどの赤の他人に巡り合いたいという漠然とした願望があるのかもしれなかった。
と同時に、これはおとぎ話で、現実にはそんな人は現れるわけがないと、なぜか諦めてしまっている自分を不意にみつけたような気分になった。
(王叔になりたいって……。どういう意味だろう。危ない立場で、どうすれば生き残れるかわからないのに)
同じ本を読んでいても、みな、少しずつ違うところを読んでいる。
同じ世に生きていても、みな、少しずつ違うところを生きていることに似ていると気づくには、姜少年は賢くもまだ幼かった。
そのころ、魯子敬の邸の二階の諸葛子瑜を先生が訪ねていた。
「それで、これを皆で食べてみることになるのが怖くて、逃げてきたのか」
先生の深刻な顔を、諸葛子瑜は一笑に付した。
書斎は、先生が訪れたときから、おもわず鼻がうごめくよい香りに満たされていた。
お気に入りの西夏王碑拓本の額をバックにしてくつろぐ諸葛子瑜の前のセンターテーブルに置かれた、公孫ティーサロンのロゴ入りの細長い化粧箱がその香りを発している。
手提げの上蓋は開いていて、六個のシナモンロールが行儀よく納まっていた。
「……逃げてきました」
先生は、蚊の鳴くような小さな声で素直に兄上に答えた。
「わかった。つきあおう」
化粧箱の中に添えてあった紙ナプキンを一枚とって広げ、諸葛子瑜は端のシナモンロールを紙越しにとりあげ、がぶりと噛みつく。
「……?」
先生が無言で問うが、諸葛子瑜は目を瞑って咀嚼し、一口目をゆっくり飲み込んだ。
「美味い。実に」
「そうではなくて」
「……母上のシナモンロール……ではない」
いままでの経緯から、もしかしたらユンは味覚で人探しをしているのかもしれないと先生が思いついたと察した諸葛子瑜は、ありのままを答える。
先生は、緊張が急に解けて妙な表情をしてから俯いた。
「お前、取り越し苦労しすぎ。公叔も苦労なさる」
諸葛子瑜はシナモンロールを無造作に齧りながら、先生の一番大事な人の名を出してわざとからかった。
でも先生は浮かない貌のままなので
「紅茶に合う。せっかくだから一口食べて帰れよ。帰ってから公叔にきっと感想を聞かれる」
と、誘うと、もっともだと思ったのか、先生は
「……いただきます」
と、浮かないくせに礼儀正しく挨拶してから、紙ナプキンを広げてシナモンロールを一つとり、一口大に割って口に含んだ。
「確かにな。均かもしれない。だが、均ではないかもしれない」
指先を紙ナプキンで拭って、カレーのレシピのメールのプリントアウトをテーブルから取り上げ、諸葛子瑜は本題に戻った。
From: SugarYun <yunsugar8888@shumail.com>
To: 劉公叔
Subject: 薬膳カレーのレシピにつきまして
「だいいち、Zhuge Jun ではない」
「でも、均はそう言っていました」
「三歳のころだ。それに、自分では『Zhuge Jun』のつもりだ」
「それを知っているのは、わたくしたちと、父上と母上だけではありませんか」
「仮に、母上のシナモンロールに似ていたとして、三歳の均が味を覚えているわけもない」
「それは均以外にはわからないことです」
「……それで。覗いてみたのか、キッチンは」
「……いいえ」
(歳月の流れから見分けがつかないかもしれないことすらも怖い、といったところか)
先生は、シナモンロールが焼きあがる頃に公孫花壇にやってきて、シナモンロール半ダースを二箱受け取ると、魯府の迎車に乗って兄上のところへ来てしまった。
一箱は、エコグリーンフェスタの協賛に名を連ねる孫呉グループの魯子敬に試食させておくためで、もう一箱は兄上への土産という体裁だった。
例のカレーのレシピのメールのヘッダを見た日から、もしかしたらユンこそ末の弟の均ではないかという気がしてならなかった先生は、エコグリーンフェスタの日の趣向として公孫ティーサロンの一日シェフにユンが内定していることに、大層気を揉んでいた。
今日は厨房のリハーサルでもあったので、臨時休業のティーサロンでシナモンロールを焼いたのはユンだ。
ユンは、姜少年の亡父にまつわる何かを知っている人かもしれない。
そして、わが弟かもしれない。
それで先生は、姜少年のカレーにあたることが、今日のシナモンロールに起こるのではと、期待と不安で朝から情緒不安定になっていたのだ。
カフェレスでの一件から、ユンが誰であろうとも、今は姜少年とカレーとユンの関係の落ち着く先を見守るべきだろうという大人の考えとは別に、ユンが他ならぬわが弟かもしれない直観に、先生はこのうように、たびたび感傷的に揺らいでいた。
諸葛子瑜の記憶喪失の時の
「もし、記憶が生涯戻らなかったら」
に同じく
「もし、弟ではなかったら」
という事態を必要以上に恐れて、不安に怯えてしまう。
先生は聡明であるからこそなのか、理屈でわりきれぬ情感を御することが、兄の諸葛子瑜に言わせれば下手なのだ。
そんな先生を
『ふむ。それは、困ったのう……孔明』
と言いながら、少しも持てあまさずに、祖父でも父でも兄でもないのに、祖父や父や兄以上のまなざしを注ぎ、おっとりと守ってくれるのであろう人と先生が毎日を暮らしていることに安心していればこそ、諸葛子瑜はこの繊細すぎる弟に、何事もずばりと言えるようになってしまっている。
「じゃあ、わたしも行こう。再来週の日曜日か。エコグリーンフェスタ」
「兄上」
「そうしたかったのではないのか?」
「でも」
「もし他人でもいいじゃないか。きれいな花とうまいメシ。外出先として申しぶんない」
諸葛子瑜は、先生の重たげな様子を励ますように軽く諾った。
日が傾いた公孫花壇のバラのアーチの前に、花卉配達用の白いバンがとまっていた。少年たちを送るためだ。犬も居るので、むしろセダンではない方がよいという配慮だ。
「禅くん、姜くん。今日は本当にありがとう。これはおみやげ」
公孫伯圭は、門前に並んだふたりにそれぞれ、芳香のただよう細長い化粧箱を手渡した。
中身は、シナモンロール半ダースだ。
「おみやげまで? 公孫の伯父うえ様、ありがとうございます」
「ありがとうございます」
ベーカリーのシナモンロールは2ユーロ以上する。
5~6個入っている手ごたえに、姜少年は恐縮した。自分は劉家の少年と座って、『西夏物語』をちょっとめくっただけで、あとはジラフィーの手柄のような半日だったからだ。
「とくに、姜くんの母上とは面識もないのだ。ご信頼いただけて嬉しいから、お土産ぐらいお渡ししたい」
姜少年の心の中を察してか、公孫伯圭はそれこそ大人の事情のような雰囲気の言葉をかけた。
「姜君」
公孫伯圭は名残惜しそうな風情でジラフィーの頭を撫でると、ひとつの用件を切り出した。
「再来週の土曜日、もしよかったらまた力を貸してもらえないだろうか。お母上と相談してもらえるかな」
「僕にできることですか?」
子供が公孫花壇の役に立つなど、花の虫除けと今日の写真撮影以外にあるとは思えず、姜少年は婉曲に内容を問うた。
「フェスタの前の日の午後から特別メニューを作るんだけど、シェフがアシスタントを要求している」
(アシスタント?)
当然、姜少年は要領を得ない表情をする。
プロの料理人のアシスタントと、後漢帝大附属小の姜少年とは、何も関連を見いだせない。
「ぜひ君をと、シェフが言うんだ」
「僕、ですか?」
「ユン厨師というシェフで、カレーを作るのに君が必要だというんだ」
「……」
大人びた眼鏡の奥で、少年の瞳が迷いに揺らぐのがわかったが、公孫伯圭はここが正念場と、口調をかえずに続けた。
「もちろん、君の自由だ。シェフ一人でもカレーを作らせる」
主催者らしく、ビジネスな雰囲気を漂わせて、姜少年よりもユンに圧力をかけた言い方をした。
「返事は今でなくていい。まだ時間はある。……ゆっくり考えていいよ」
やや重たげな沈黙が漂ったので
「……伯父うえ様。前の日まで考える、もありですか」
劉家の子息は、姜少年が一日でも長く考えられるように、よい質問をした。
「もちろんだよ」
「よかった。姜くん、お母さんとシナモンロール食べて、ゆっくり考えたらいいよ」
「……うん」
考える時間と家路につくきっかけを子息が作ろうとしている優しさがわかって、姜少年は素直にうなずいた。
公孫伯圭は、二人と一匹とシナモンロール二箱を乗せたバンが安全運転で花壇を出てゆく様子が見えなくなるまで見送ったのだった。
<五行五色で五題> 全9話一気読みへのショートカットは →こちら