公孫伯珪は、白と黄色のモッコウバラを混植して見事なアーチ状に仕立てられたその下で、茶を喫していた。
庭で一番の気に入りの場所で、このバラを丹精したのは公孫伯珪の祖父だ。
少しぬるくなってしまった祁門の入ったティーカップに手を伸ばし、飲み干してから目頭を押さえた。
夏を待つ春風にぼんやりと吹かれて、ややあって思い出したように、円形の卓上から革のブックカバーをかけた分厚い文庫本を手に取った。
つい三分ほど前、ようやく読み終えたのだ。
買い求めたのは第五版が出た後で、中盤まで読み進んだ頃ちょうど百花のほころぶ候となり公孫花壇のバラ園も丹精に忙しく、先を読む時間が捻出できないでいた。
(……続きはあるのかどうか。これでも成り立つが、その後があるべきだが。あってほしい)
文庫本の五ページ目には
西夏物語 王菫
とだけ書いてあり、タイトルの下に(第一巻)や(上巻)など、続編の存在を示す文字はなかった。
パラパラとめくって、巻末の奥付を見てみるが、やはり同様である。
公孫伯珪は、栞を挟んだ頁をついでに開いて再び読み入る。
小国ながら沙漠の慈雨と讃えられる四海国を脱出して、まもなくひと月の頃である。
廃屋とはいえ、からくも石壁と屋根と扉がある構造物を久々にみつけて、王叔主従はそこに泊まった。
いよいよ西夏を前に、翌朝には誰がまず使者となるか決めねばならない。
ここまで王叔に従ってきた碧崇公と慧香公と幽劍公の三公は、誰もが王叔の傍を離れたくなく、そして誰もが王叔のために死地かもしれぬ西夏へ赴きたかった。
王叔は、そんな彼らの気持ちを痛いほど知っていたので、出奔の前に既に心して書き、じっと懐中していた墨書の書簡に先王の賜うた剣を添えて、沙も風も寝静まっている暗いうちにひとり四海国へ戻っていった。
愛乗している駱駝は王叔の意図をよくわかっており、物の具の音ひとつたてずに王叔を乗せて立ち上がると、満天の星影のみを頼りにゆっくりと廃屋から遠ざかってゆく。
朝がきてみれば、王叔の剣はなく、かわりに慧香公愛用の宋よりもずっと東の国の産の折扇 と、卓にうっすら均一に盛られた砂の上にしたためた別れの言葉が、書簡に並んでいた。
「兄上」
「……王叔は、我らをこそ逃がそうというおつもりだったのだ。はじめから」
幽劍公は、沙上の文字をみとめ、長兄碧崇公から書簡を受け取って読むと、泣きじゃくり始めた。
「王叔がいなければ、誰が四海国の民を救ってくださるというのです!」
我が三公の和と智と武さえあれば三年にして我らが四海国も治まろう。
本王は九泉にて笑むことであろう。先王の剣を置いてゆくゆえ形見にせよ。
名も命もともに惜しめ。
かねてより王叔のお考えを察しておりましたことを告げずお許しください。
王叔を必ずお守りいたします。無事に西夏へお入りください。
我ら三兄弟、再会の機が熟しましたら望月潭の辺りで楽を奏でましょう。
剣は持ってゆきます。
「小妹。ことここに至ってはぜひもない。我ら二人で西夏へ向かおう」
幼さの残るしぐさで涙をぬぐう妹の幽劍公に静かにこう言いながらも、碧崇公だとて内心は動転してはいる。
「王叔は、見つかったら殺される。大王にその気がなくてもだ。追おう」
「国に帰る道は三本だぞ。いずれをゆく」
「三本のいずれかに相違ない。まだそう遠くへは。……まさか、追わぬのか?」
幽劍公は涙の落つる眦を決して碧崇公を詰ったが公は動じず、問いに問いで返した。
「西夏を目の前にして、振り出しに戻ろうというのか。さては臆したか」
「違う! 王叔のお命おぼつかぬ今、お使いなど意味があろうか」
「落ち着け。王叔がお命を捨てるお覚悟だったとしても、きっと賢弟が追いついて行き先を変えている」
「……慧香兄は體がよわい。我らなしで何日耐えられるか。駱駝にも酔いやすい」
革の水筒と干果物の袋を、慧香公が忘れずに持って行ったのを察してはいたが、もしも王叔に気づかれぬように王叔を追ったのならば、しばらく慧香公はひとりきりで體を保って駱駝に揺られねばならぬことを案じた。
「それは天のみぞ知る、だ。運があれば智で補うだろう。今は信じる以外の方策があるか……。 あいつはきっと『四本目』の国に帰る道を辿ろうとするに違いない」
「四本目の道? 間道があるのか?」
「たとえ話だ」
石壁の隙間から洩れ入る光のすじは、時の経過を音もなくあらわしている。
「再会の約束のあかしだ。いずれかを取れ」
押し黙った妹を見て、西夏ゆきの了承とみなして碧崇公は書簡と扇を指さした。
「兄上がお先に」
「では書簡を取ろう」
碧崇公が書簡に手を伸ばすと、怪力で袖を掴まれる。
「待て。女子と見くびって扇を持たせようというのか? 兄上とて承知せぬ」
「お前が持てば、飛び道具にもなる」
「……慧香兄の大事な扇を、投げたりできぬ」
「だろうな」
「! 分かっていて! やはり女子には扇とお思いなのではないか!」
「そうではない。ほれ、いつもすぐカッとなるではないか。だからだ」
「……意地悪。父上そっくりだ」
「ハハハ。怒るな」
碧崇公が扇を広げて、すぐにむきになる可愛い妹に風を送ってやると、幽劍公はやっと笑った。
四海国へ戻る道は分かっている。
水場も分かっている。
天候次第ではあるが、おのずと帰国の旅程は読める。
来るときは慧香公の知恵で追っ手を撒きながら旅をしてきたが、今はその追っ手に捕まってしまえば話は早い。
このまま沙漠で干乾びてしまうのも一つの方法ではあるが、国元の君側の奸どもは四人のゆくえが分かるまで草の根わけても探し出そうと追捕の手を緩めないだろう。
やはり自分がみすみす捕まって生きて帰ってしまったほうが、三公のためであると王叔は考えた。
あとから西夏へ三公の身柄の引き渡しの要求の使者がゆこうとも、三公はおそらく上手く立ち回ることができるだろう。
周囲の国情にかんがみて強国西夏としても、四海国王叔という火種をかかえるよりは、有能な亡命者三名を保護する方が不利益が少ないと考える公算が大きかろうことは明らかである。
碧崇公は和を重んじ温厚で誠実、政敵ですら碧崇公の批判はしても悪口を言わない。
慧香公は静かな気性と優雅な容貌に似合って詩歌音曲に秀でて、天文にあかるい賢者である。
幽劍公は美女ではないが上将が十人でかかっても太刀打ちできぬ剣豪で、金創の用心から調薬にも詳しい。
かれらの才は必ずその身を助けるであろう。
(あとひと月にも満たぬ蒼天であろうかと思えば、昨日よりも鮮やかにうるわしく、なんと涯しもないことか)
王叔は、権力のあらそいなど所詮は人の世だけの小さな愚かしいことで、蒼天も砂塵も与り知らぬことであると自嘲しかけたが、おのれは蒼天や砂塵ではない以上は心を尽くして信ずるところを全うするのみだと、既に一百年を半ばまで生きながらなおも意思の衰えぬ眼光を強めた。
三公と別れた翌日、ようやく厚い岩壁をともなう沙山にたどり着き、沙山にいだかれる翡翠潭で手と顔を洗い喉を潤し皮袋に水を汲み直し、駱駝にも水を与え、久しぶりに濃い日陰で少し休む。
今日は風もおだやかで、灌木のもとの心地よさに気づけばうたた寝をしてしまっていた。
手を小さな蜥蜴が這ったので、王叔は目覚めた。
「ここの天地すべて我がものとは、贅沢なことじゃ」
物言わぬちいさな蜥蜴すらいとおしく、王叔がおっとりと呟くと
「この世の天地は、全て高徳の王のものでございます」
翡翠潭の雫が乾きもせず沙のうえを転がりゆくごとき潤いあふる聲が応じた。
王叔は寝ころんだまま
「……この、莫迦者めが」
すぐそばに行儀よく控えているのであろう慧香公を叱りつけたが、聲音には咎める気配が全くなかった。
「そなたを」
王叔はむくりと起き上がり
「一番、逃れさせたかったというのに」
砂塵に塗れてもなお清げな白皙に皺の寄った手を伸ばし、風に乱れた慧香公の鬢の黒髪を撫で整えてやりながらしずかに質した。
「儂の最後の下命に、なにゆえ逆ろうた」
王叔のまなざしは深まるばかりで、聲音はいよいよ優しげにまろくなり、 慧香公の白きかおばせには一条、また一条と涙がくだる。
「何とお答え申しあげても。お許しくださいますか」
「……よいわ。言わずとも。……知っておるわい」
慧香公が跪いて捧げる先王の剣が見えぬかのように、王叔は剣ではなく慧香公をこそ固く懐に擁したのだった。
「まったく、亡国ものの忠臣ってやつは……」
祖父の遺品の、白い馬の姿が彫り付けてある葉巻ケースから一本を取り出すと、懐中からシガレットカッターを取り出してカットし、マッチ一本で巧みにゆっくりと火をつけ、目を少し眇めて美味そうに一服した。
薄雲のように紫煙が漂うが、モッコウバラは嫌がるそぶりもない。煙の主が公孫伯珪であることを知っていて容認しているかのようである。
公孫伯珪はヘビースモーカーではなく、一日をととのえ直すという意味合いで、こうして一日に一度か二度、ここでひとり葉巻を嗜むひとときを持っている。
父を早くに亡くした公孫伯珪は父がわりの祖父が大好きだった。
たのもしい父性をそなえ、かつ、長老の持つ機転や長年の経験に裏打ちされた深みのある人物だった。
年年、祖父に対する思いの中に尊敬の重みを増しながら、祖父が好きだった銘柄の葉巻を、祖父がしていた方法でこうして服するのである。
懐で、携帯電話が振動した。
公孫伯珪は、植物に電子音を聞かせたくないというこだわりを持っているので、携帯電話の呼び出し音の設定を常にマナーモードにしている。振動は二回で止む。メールの着信だ。
携帯電話を震わせた主は誰だろうか。
母の日のカーネーション鉢や花束の出荷ラッシュを乗り越えてようやくほっとして、こうして読書のひとときを持てるぐらいになった頃合いを見計らってのメールとは、おそらく彼以外にないだろうと思い至って、葉巻を祖父のように吸い終えてから灰皿に押し、手を懐中にやる。
Subject:エコグリーンフェスタについて
From:劉公叔
公孫兄
例年のとおり母の日の御家業御繁盛をお慶び申し上げます。
先月ご依頼いただきました、エコグリーンフェスタでの
ご企画について、一案がございます。
お差支えなければ、本件について来週中の御都合のよろしい日に
公孫兄のティーサロンにてランチミーティングを
持たせていただければと存じます。
勝手ながら水曜日以外でありましたら助かります。
おって資料をお送りいたします。
<五行五色で五題> 全9話一気読みへのショートカットは →こちら
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庭で一番の気に入りの場所で、このバラを丹精したのは公孫伯珪の祖父だ。
少しぬるくなってしまった祁門の入ったティーカップに手を伸ばし、飲み干してから目頭を押さえた。
夏を待つ春風にぼんやりと吹かれて、ややあって思い出したように、円形の卓上から革のブックカバーをかけた分厚い文庫本を手に取った。
つい三分ほど前、ようやく読み終えたのだ。
買い求めたのは第五版が出た後で、中盤まで読み進んだ頃ちょうど百花のほころぶ候となり公孫花壇のバラ園も丹精に忙しく、先を読む時間が捻出できないでいた。
(……続きはあるのかどうか。これでも成り立つが、その後があるべきだが。あってほしい)
文庫本の五ページ目には
西夏物語 王菫
とだけ書いてあり、タイトルの下に(第一巻)や(上巻)など、続編の存在を示す文字はなかった。
パラパラとめくって、巻末の奥付を見てみるが、やはり同様である。
公孫伯珪は、栞を挟んだ頁をついでに開いて再び読み入る。
小国ながら沙漠の慈雨と讃えられる四海国を脱出して、まもなくひと月の頃である。
廃屋とはいえ、からくも石壁と屋根と扉がある構造物を久々にみつけて、王叔主従はそこに泊まった。
いよいよ西夏を前に、翌朝には誰がまず使者となるか決めねばならない。
ここまで王叔に従ってきた碧崇公と慧香公と幽劍公の三公は、誰もが王叔の傍を離れたくなく、そして誰もが王叔のために死地かもしれぬ西夏へ赴きたかった。
王叔は、そんな彼らの気持ちを痛いほど知っていたので、出奔の前に既に心して書き、じっと懐中していた墨書の書簡に先王の賜うた剣を添えて、沙も風も寝静まっている暗いうちにひとり四海国へ戻っていった。
愛乗している駱駝は王叔の意図をよくわかっており、物の具の音ひとつたてずに王叔を乗せて立ち上がると、満天の星影のみを頼りにゆっくりと廃屋から遠ざかってゆく。
朝がきてみれば、王叔の剣はなく、かわりに慧香公愛用の宋よりもずっと東の国の産の折扇 と、卓にうっすら均一に盛られた砂の上にしたためた別れの言葉が、書簡に並んでいた。
「兄上」
「……王叔は、我らをこそ逃がそうというおつもりだったのだ。はじめから」
幽劍公は、沙上の文字をみとめ、長兄碧崇公から書簡を受け取って読むと、泣きじゃくり始めた。
「王叔がいなければ、誰が四海国の民を救ってくださるというのです!」
我が三公の和と智と武さえあれば三年にして我らが四海国も治まろう。
本王は九泉にて笑むことであろう。先王の剣を置いてゆくゆえ形見にせよ。
名も命もともに惜しめ。
かねてより王叔のお考えを察しておりましたことを告げずお許しください。
王叔を必ずお守りいたします。無事に西夏へお入りください。
我ら三兄弟、再会の機が熟しましたら望月潭の辺りで楽を奏でましょう。
剣は持ってゆきます。
「小妹。ことここに至ってはぜひもない。我ら二人で西夏へ向かおう」
幼さの残るしぐさで涙をぬぐう妹の幽劍公に静かにこう言いながらも、碧崇公だとて内心は動転してはいる。
「王叔は、見つかったら殺される。大王にその気がなくてもだ。追おう」
「国に帰る道は三本だぞ。いずれをゆく」
「三本のいずれかに相違ない。まだそう遠くへは。……まさか、追わぬのか?」
幽劍公は涙の落つる眦を決して碧崇公を詰ったが公は動じず、問いに問いで返した。
「西夏を目の前にして、振り出しに戻ろうというのか。さては臆したか」
「違う! 王叔のお命おぼつかぬ今、お使いなど意味があろうか」
「落ち着け。王叔がお命を捨てるお覚悟だったとしても、きっと賢弟が追いついて行き先を変えている」
「……慧香兄は體がよわい。我らなしで何日耐えられるか。駱駝にも酔いやすい」
革の水筒と干果物の袋を、慧香公が忘れずに持って行ったのを察してはいたが、もしも王叔に気づかれぬように王叔を追ったのならば、しばらく慧香公はひとりきりで體を保って駱駝に揺られねばならぬことを案じた。
「それは天のみぞ知る、だ。運があれば智で補うだろう。今は信じる以外の方策があるか……。 あいつはきっと『四本目』の国に帰る道を辿ろうとするに違いない」
「四本目の道? 間道があるのか?」
「たとえ話だ」
石壁の隙間から洩れ入る光のすじは、時の経過を音もなくあらわしている。
「再会の約束のあかしだ。いずれかを取れ」
押し黙った妹を見て、西夏ゆきの了承とみなして碧崇公は書簡と扇を指さした。
「兄上がお先に」
「では書簡を取ろう」
碧崇公が書簡に手を伸ばすと、怪力で袖を掴まれる。
「待て。女子と見くびって扇を持たせようというのか? 兄上とて承知せぬ」
「お前が持てば、飛び道具にもなる」
「……慧香兄の大事な扇を、投げたりできぬ」
「だろうな」
「! 分かっていて! やはり女子には扇とお思いなのではないか!」
「そうではない。ほれ、いつもすぐカッとなるではないか。だからだ」
「……意地悪。父上そっくりだ」
「ハハハ。怒るな」
碧崇公が扇を広げて、すぐにむきになる可愛い妹に風を送ってやると、幽劍公はやっと笑った。
四海国へ戻る道は分かっている。
水場も分かっている。
天候次第ではあるが、おのずと帰国の旅程は読める。
来るときは慧香公の知恵で追っ手を撒きながら旅をしてきたが、今はその追っ手に捕まってしまえば話は早い。
このまま沙漠で干乾びてしまうのも一つの方法ではあるが、国元の君側の奸どもは四人のゆくえが分かるまで草の根わけても探し出そうと追捕の手を緩めないだろう。
やはり自分がみすみす捕まって生きて帰ってしまったほうが、三公のためであると王叔は考えた。
あとから西夏へ三公の身柄の引き渡しの要求の使者がゆこうとも、三公はおそらく上手く立ち回ることができるだろう。
周囲の国情にかんがみて強国西夏としても、四海国王叔という火種をかかえるよりは、有能な亡命者三名を保護する方が不利益が少ないと考える公算が大きかろうことは明らかである。
碧崇公は和を重んじ温厚で誠実、政敵ですら碧崇公の批判はしても悪口を言わない。
慧香公は静かな気性と優雅な容貌に似合って詩歌音曲に秀でて、天文にあかるい賢者である。
幽劍公は美女ではないが上将が十人でかかっても太刀打ちできぬ剣豪で、金創の用心から調薬にも詳しい。
かれらの才は必ずその身を助けるであろう。
(あとひと月にも満たぬ蒼天であろうかと思えば、昨日よりも鮮やかにうるわしく、なんと涯しもないことか)
王叔は、権力のあらそいなど所詮は人の世だけの小さな愚かしいことで、蒼天も砂塵も与り知らぬことであると自嘲しかけたが、おのれは蒼天や砂塵ではない以上は心を尽くして信ずるところを全うするのみだと、既に一百年を半ばまで生きながらなおも意思の衰えぬ眼光を強めた。
三公と別れた翌日、ようやく厚い岩壁をともなう沙山にたどり着き、沙山にいだかれる翡翠潭で手と顔を洗い喉を潤し皮袋に水を汲み直し、駱駝にも水を与え、久しぶりに濃い日陰で少し休む。
今日は風もおだやかで、灌木のもとの心地よさに気づけばうたた寝をしてしまっていた。
手を小さな蜥蜴が這ったので、王叔は目覚めた。
「ここの天地すべて我がものとは、贅沢なことじゃ」
物言わぬちいさな蜥蜴すらいとおしく、王叔がおっとりと呟くと
「この世の天地は、全て高徳の王のものでございます」
翡翠潭の雫が乾きもせず沙のうえを転がりゆくごとき潤いあふる聲が応じた。
王叔は寝ころんだまま
「……この、莫迦者めが」
すぐそばに行儀よく控えているのであろう慧香公を叱りつけたが、聲音には咎める気配が全くなかった。
「そなたを」
王叔はむくりと起き上がり
「一番、逃れさせたかったというのに」
砂塵に塗れてもなお清げな白皙に皺の寄った手を伸ばし、風に乱れた慧香公の鬢の黒髪を撫で整えてやりながらしずかに質した。
「儂の最後の下命に、なにゆえ逆ろうた」
王叔のまなざしは深まるばかりで、聲音はいよいよ優しげにまろくなり、 慧香公の白きかおばせには一条、また一条と涙がくだる。
「何とお答え申しあげても。お許しくださいますか」
「……よいわ。言わずとも。……知っておるわい」
慧香公が跪いて捧げる先王の剣が見えぬかのように、王叔は剣ではなく慧香公をこそ固く懐に擁したのだった。
「まったく、亡国ものの忠臣ってやつは……」
祖父の遺品の、白い馬の姿が彫り付けてある葉巻ケースから一本を取り出すと、懐中からシガレットカッターを取り出してカットし、マッチ一本で巧みにゆっくりと火をつけ、目を少し眇めて美味そうに一服した。
薄雲のように紫煙が漂うが、モッコウバラは嫌がるそぶりもない。煙の主が公孫伯珪であることを知っていて容認しているかのようである。
公孫伯珪はヘビースモーカーではなく、一日をととのえ直すという意味合いで、こうして一日に一度か二度、ここでひとり葉巻を嗜むひとときを持っている。
父を早くに亡くした公孫伯珪は父がわりの祖父が大好きだった。
たのもしい父性をそなえ、かつ、長老の持つ機転や長年の経験に裏打ちされた深みのある人物だった。
年年、祖父に対する思いの中に尊敬の重みを増しながら、祖父が好きだった銘柄の葉巻を、祖父がしていた方法でこうして服するのである。
懐で、携帯電話が振動した。
公孫伯珪は、植物に電子音を聞かせたくないというこだわりを持っているので、携帯電話の呼び出し音の設定を常にマナーモードにしている。振動は二回で止む。メールの着信だ。
携帯電話を震わせた主は誰だろうか。
母の日のカーネーション鉢や花束の出荷ラッシュを乗り越えてようやくほっとして、こうして読書のひとときを持てるぐらいになった頃合いを見計らってのメールとは、おそらく彼以外にないだろうと思い至って、葉巻を祖父のように吸い終えてから灰皿に押し、手を懐中にやる。
Subject:エコグリーンフェスタについて
From:劉公叔
公孫兄
例年のとおり母の日の御家業御繁盛をお慶び申し上げます。
先月ご依頼いただきました、エコグリーンフェスタでの
ご企画について、一案がございます。
お差支えなければ、本件について来週中の御都合のよろしい日に
公孫兄のティーサロンにてランチミーティングを
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勝手ながら水曜日以外でありましたら助かります。
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『西夏物語』にまつわる とても嬉しくすてきなお作品をお寄せいただきましたので、
皆様とワクワクしちゃおう! と リンクさせていただきます。
