成都の城が春節の慶びを迎え、つづいて元宵の賑わいを待つある日のことである。
「今年最初の君命を申し渡す」
と、彼は我が龍に命じた。龍は、何事なのかを既に悟ってやや慌てた表情を浮かべながらも白い扇を腕に沿わせて袖をそろえて拱手して低頭した。
(我が君は、お狡い)
品の良い白皙にそのような色がのぼったのを見ぬふりをして
「そちには明日から元宵まで暇を与える」
形のよい唇が開こうとする機先を制して
「雪が解けるまで兵事はなかろう」
君命と言わねば龍が言を左右にして傍を離れないことを知っていてこう言うのだ。君命に否はないというのに、なかなか諾と答えない龍に
「また今年も儂と年を越して、さっぱり家に帰っておらぬではないか。団欒を疎かにしてはならんぞ」
子というよりも孫に言って聞かせるような調子で彼は諭すのだ。
「……ありがたき幸せにございます」
いささか眉を曇らせる龍を見ては
(おかしなやつめ)
彼は、龍には邸に帰りたくない理由があるのか、それとも彼の傍から離れたくないのか、どちらなのかを質したくなる心をおさえるばかりである。
本当に我が龍が邸に帰ったのかどうか気にかかる彼は、侍従に「少し休む」と言いつけて帳の向こうに隠れてみせると、着古した稽古着にさっと着替えて剣も佩かずに久しぶりにこっそりと抜け出した。乗馬が苦手な龍の車がまっすぐ邸に進んでゆく途中まで尾けて確かめたその帰り道に、街の者に問いながら、例の湧水のある廟に立ち寄った。
(菩提樹であったのか)
噂でもちきりだった氷の花は解けてしまっていたものの、枝に可憐な白い実を清げにたたえる老木を、いたわるようなまなざしで彼が見上げていると、その巨きな両耳に、布鞋が地を踏む音と木の杖の軽い音が緩慢に聞こえてくる。
その方向に視線を移すと足音の主は老人で、枯れた風情に似合わぬ頑丈そうな手に、年季の入った瓶をぶらさげている。
老人はいささか頼りない足取りで湧水のそばの大石に杖を立て掛け、膝を屈める動作を難儀そうにして瓶に水を汲もうとしている。
「ご老人、お手伝いいたしましょう」
彼は、楼桑村で年寄りたちを労わっていた若き日と全く変わらぬ調子でさっと傍に寄り、もし耳が遠くても驚かれないように、老人の耳もとに口を寄せてゆっくりと穏やかにはっきりと言葉を発した。
「おお、こりゃどうも、ご親切に」
老人は、どこの誰とも知れぬが卑しからず人のよさそうな彼の姿に安心してか、ぼんやりと瓶を渡して大石に腰掛けた。
(さぁてのう……。どうにもあのヤベぇ剣、工夫がつかんわい……)
ほかでもない、趙子龍が親睦を深めているあの老剣匠である。
とりあえず一か月と約して、並の剣ならば充分といえる手入れを施しはしたが、どうもしっくりとこないのだ。
たとえば、ほかにも気になる症状があるのに何かを気にしてそれを医者に言い出しかねて早く帰りたがる怪我人のような雰囲気を、その「ヤベぇ剣」は帯びていた。
ぴったり一か月後に趙子龍はやってきたが、包まず斯く斯くと言い訳して更にひと月を請うていたのだった。
(古い漢の風と、それから春のそよ風、そこへきてつい最近の豪風の三つ巴じゃ。波乱万丈といったとこじゃが……)
窮したとき、ここの湧水を汲んで落ち着いて茶を入れてから剣に相対すると、よい工夫が思いつくことが多かった経験を思い出してやってきたのだ。
透明な水底で、磨かれた軽い砂利が微かにうごめく特に澄んだところに、彼は長い腕を伸べて瓶を横たえて沈め、湧水をゆっくり汲み上げた。春を待つ大地の力であろうか、水は意外に、切るような冷たさを含んではいなかった。
「どうぞ」
彼は袖で瓶の水滴を拭って差し出した。
「おぁっ? おぉうぅ。かたじけない。ありがとうございます」
ぼうとしていた老匠は、はっと現に戻っておずおずと瓶を受け取る。
「いつも汲みにおいでですか。ご健脚ですな」
「いや。今日はたまたまですじゃ」
「お近くですか。お送りしましょう」
「いやいや。これくらいは大丈夫じゃ。それに、いつも親切にあずかれるとは限りますめぇ。年寄りを甘やかしてはいかんですじゃよ」
「ご健勝をお慶びします」
「とんでもねえです、もったいねえこって」
なごやかに会話をかわす二人のそばで、風に誘われた菩提樹の白い実が一つ落ちて乾いた音をたてた。
(……。なんじゃ、この風は)
辞去しようとする彼に、老匠は初めて関心を示したが、彼の巨きな両耳には全く注意が向いていなかった。
「あなたさまは、水を汲みにお越しではねぇのでございますか」
杖を握りなおして大石から腰をあげて、半身で振り返る彼の表情を窺った。
「近くまで見送りをしまして、そのついでです。評判の氷の花を一目みて、心なぐさめて帰ろうかと」
「そりゃ、あいにくでしたな」
「見るべきものであれば、また機会がありましょう」
穏やかに言いながらも、彼の残念そうな、それとも寂しげな風情は、老匠に
(……これだ)
という直観を与えた。
「いや、お引止めいたしまして。旅のお人の一路平安をお祈りします」
「ありがとう存じます。では」
物腰の低い彼の拱手に、杖を握った手を重ねて応じて、老匠は後ろ姿を見送った。
(なぜこんな簡単なことがわからんかった。わしとしたことが、あのギラつきにまんまと騙された)
両目を瞑り、横皺が寄った額を平手で二度打ち据えて気合のようなものを入れた。
その様子を、廟の門口に現れたうら若い婦人の二人連れが驚いたように見とがめ、ひそひそと話しながら手をつなぎあって門の隅から廟の敷地内に入り、老匠を避けるように遠回りして早足で堂宇へ向かった。彼女らを気にも留めず、老匠は瓶の口にくくりつけてある荒縄をとりあげて、足取り軽く湧水を後にした。
老匠が湧水を立ち去ったころ、小さな諸葛邸の書房の戸口では童顔の小柄な女僕が跪いてこの世で一条の龍に挨拶していた。
「だんなさま、お帰りなさいませ」
眉尻が下がっていて、泣き出しそうなおもしろい顔立ちである。
「璉璉、立ちなさい」
「ありがとうございます」
この璉璉は龍の夫人の黄月英が幼いころからの小間使いで、黄家から彼女に従って諸葛家にやってきた。行き倒れの胡弓弾きの老人の娘で、路頭に迷いかけたところを、のちに龍の岳父となる黄承彦に拾われたのだ。
そのような身の上からは想像もつかないほど、璉璉は利発である。文字は僅かしか識らないが計算が得意で、黄月英の高度な発明の助手を易易とこなして既に二十余年になる。
少し気が利かない面があるものの、黄月英が信頼を寄せてしかも姉妹のように大切にしている様子から、龍は璉璉の小間使いとしての欠点には目を瞑っている。
「奥様はお元気だろうか」
「はい、あの、おくさまは今、灯篭づくりで手が離せず……、その……」
龍の夫人の黄月英の趣味は発明で、亡き鳳雛曰く図面に関しては天下一等の腕前である上に、熱中する性分ときている。
「おくさま。旦那様がお帰りでございます」
という知らせが聞こえていないことなど一度や二度ではない。もちろん今日も聞こえていない。
いつものことなのに、済まなそうに璉璉はうつむきながら語尾をだんだんと弱めて、龍の夫人が挨拶に出てこない理由を注進するのだ。
今日は灯篭製作だが、ある日は運搬具、またある日は螺子の改良である。
「今年は、どんな仕掛けを考えておいでなのか」
「それは、ご覧になってのお楽しみとおおせです」
(黄大姐らしい)
昔からかわらない茶目っ気のある伝言に、龍はクスリと笑った。いまだに夫人を呼び捨てにできないおかしな夫である。
「さがって、奥様のお手伝いに行くがよい」
「はい。失礼いたします」
黄月英は回転の力を工夫することが最も好きである。
普段は、龍の考案する物流や兵事に役立つ道具の改良に追われている彼女の夢は、掃除と洗濯を担う回るからくりを完成して量産し、この重労働の家事から女たちを救うことである。
なかなか民の役にたたない自分の才能の平和利用の機会として、最近は毎年の元宵に新奇な回る灯篭を三十個ほどばらばらに飾っては衆目を楽しませるのだ。しかも、灯に書きつけた謎々を解くと、ほかの灯篭がどこにあるかが分かるようにしてある。
龍は、このような面白い賢婦の黄月英と出会わなければ、生涯妻帯しなかったに違いないと、初めて彼女に関心を持った日を懐かしく思い出した。断るつもりで黄承彦の邸へ出かけていったのに、掃除のからくりに心を奪われた。
「ほかでもない、ワシの自慢の娘、月英の作です。名付けて『舞箒・初號機』」
得意げに披露する黄承彦の足元で、分厚い丸い盆状のものが室内の床を往復していた。目を奪われていると、やがて黄承彦の裾の端を吸い込んで止まった。
「……二號機で、改良中でしてな」
黄承彦はしゃがみこんで、初號機を裏返し、いつものことのように慣れた手つきで衣の裾を引っ張り出してから
「月英のほどの才媛は、百年にひとりですぞ。あの才能を内助と考えて伸ばしてくださるなら、臥龍先生にやってもよい」
自分から縁談を申し込んだくせに、胸を張って言い放ったのだった。このおかしな夫婦は、紅事の夜にともに帯も解かずに寝落ちしてしまって以来、一度も同じ牀で眠ったことがない。
おかしな主君とおかしな夫人を持つ龍の邸の甍を、冬の月が冴え冴えと照ら
していた。
その夜半に、老匠の工房では老匠と「ヤベぇ剣」が重なった影が細長く床に落ちていた。
しんしんと冷え込む中、炭鉢のなかの炭だけが気まぐれにパチリと音をたてて、時が止まっているわけではないことを示している。
「お前さんが、ギラついておるわけが分かった。片割れが傍におらんで落ち着かんからじゃろ」
老匠は、長年の独自の工夫で絹布を口に咥えていて、歯が全部抜けた百歳翁のように何を言っているのか本人しかわからない調子で剣に問いかけからゆっくりと抜いた。
(一日も早く返そうから、聞かせておくれでないかね。いままでどうしておったんじゃ。そんで、どこが不足じゃ)
さわさわと、小さな格子窓から風が吹き込んでくる。老匠は目を瞑り、鼻を利かせた。
遠い遠い昔の戦場の砂塵にはすでに気づいていた。ざっと三百年前ぐらいの風格を含んだ匂いがするのだ。その匂いをもしも文字にするなら『大漢風』とでもいえようかというおもむきである。由緒ある古剣を一度溶かして打ち直したのかも知れなかった。
(少なくとも、お前さんは楚剣ではない。それはわかっとる)
その大漢の風をとりまく春のそよ風のごときゆらぎは、いったい何なのか、今まで察しがつかなかった。
まさかこの、漢室守護の鬼をも感ずるこの剣に寄り添い得る剣などありえない、という先入観を今日まで持っていたが、然にあらず。
はじめからこの微風をまとっていたとは思えず、おそらく当時一対で作られたのではない全く別な来歴の剣と後世に巡り合ったのであろうか、人生百に満たざるに常に千載の憂いを懐く孤独をようやく慰めあえた感慨を思わせる芳しさである。
(冥途の土産に、その雌剣を拝んでみたいもんだが)
老匠は、益州の主たる彼よりも、かならずあると踏んだ彼のもう一把の剣の方に関心が傾いた。
そしてごく最近、かなりの名剣と争った覇気がくわわり、漢風と春風と巴がかりになって老匠を包む。
「そりゃぁ、いったい、どこの誰の剣じゃ」
チャ、と鍔のあたりで金属音をたてて、老匠は、剣をよこたえて重心をしきりと気にして撫でた。
先月、すぐに細かい鈍い刃こぼれを見つけて
「主公は石でもお斬りになったかよ」
思わずひとりごとを呟き
(危ねぇな。じつは、ご乱心の気がおありだったりするんじゃねぇか……? いや、まさかな。あの趙将軍がお見限りにならねぇってことは、そんなわけねえやな)
と、訝しく思いながら早速に修理した箇所だ。
ここまでの研ぎ具合はよくわかっている。目を瞑っていても怪我などありえない。
(斬ったのは石にしてもだ。数段格上の名剣に、ひけをとらなかったらしいこの豪風はどういうわけじゃろう)
若いころに師匠のもとで江湖の名剣を見た日の風の匂いを微かに感じた。
(あの伝説の孫家の宝剣のいずれか……か? まさかと思うがねぇ)
試みに、九把の宝剣の名を順に聞かせてやった。途中で、老匠に応じるように、隙間風が燭の光を揺らして明るい瞬きが満ちる。
(まいったな。お前さんもだが、主公も相当ヤべぇな。曹公以上かもしれねぇ)
おそるべき老匠の鼻は、甘露寺の十字石の上の争いまでをも嗅ぎつけながら、深更まで聞くものもない問答を続けていた。
「今年最初の君命を申し渡す」
と、彼は我が龍に命じた。龍は、何事なのかを既に悟ってやや慌てた表情を浮かべながらも白い扇を腕に沿わせて袖をそろえて拱手して低頭した。
(我が君は、お狡い)
品の良い白皙にそのような色がのぼったのを見ぬふりをして
「そちには明日から元宵まで暇を与える」
形のよい唇が開こうとする機先を制して
「雪が解けるまで兵事はなかろう」
君命と言わねば龍が言を左右にして傍を離れないことを知っていてこう言うのだ。君命に否はないというのに、なかなか諾と答えない龍に
「また今年も儂と年を越して、さっぱり家に帰っておらぬではないか。団欒を疎かにしてはならんぞ」
子というよりも孫に言って聞かせるような調子で彼は諭すのだ。
「……ありがたき幸せにございます」
いささか眉を曇らせる龍を見ては
(おかしなやつめ)
彼は、龍には邸に帰りたくない理由があるのか、それとも彼の傍から離れたくないのか、どちらなのかを質したくなる心をおさえるばかりである。
本当に我が龍が邸に帰ったのかどうか気にかかる彼は、侍従に「少し休む」と言いつけて帳の向こうに隠れてみせると、着古した稽古着にさっと着替えて剣も佩かずに久しぶりにこっそりと抜け出した。乗馬が苦手な龍の車がまっすぐ邸に進んでゆく途中まで尾けて確かめたその帰り道に、街の者に問いながら、例の湧水のある廟に立ち寄った。
(菩提樹であったのか)
噂でもちきりだった氷の花は解けてしまっていたものの、枝に可憐な白い実を清げにたたえる老木を、いたわるようなまなざしで彼が見上げていると、その巨きな両耳に、布鞋が地を踏む音と木の杖の軽い音が緩慢に聞こえてくる。
その方向に視線を移すと足音の主は老人で、枯れた風情に似合わぬ頑丈そうな手に、年季の入った瓶をぶらさげている。
老人はいささか頼りない足取りで湧水のそばの大石に杖を立て掛け、膝を屈める動作を難儀そうにして瓶に水を汲もうとしている。
「ご老人、お手伝いいたしましょう」
彼は、楼桑村で年寄りたちを労わっていた若き日と全く変わらぬ調子でさっと傍に寄り、もし耳が遠くても驚かれないように、老人の耳もとに口を寄せてゆっくりと穏やかにはっきりと言葉を発した。
「おお、こりゃどうも、ご親切に」
老人は、どこの誰とも知れぬが卑しからず人のよさそうな彼の姿に安心してか、ぼんやりと瓶を渡して大石に腰掛けた。
(さぁてのう……。どうにもあのヤベぇ剣、工夫がつかんわい……)
ほかでもない、趙子龍が親睦を深めているあの老剣匠である。
とりあえず一か月と約して、並の剣ならば充分といえる手入れを施しはしたが、どうもしっくりとこないのだ。
たとえば、ほかにも気になる症状があるのに何かを気にしてそれを医者に言い出しかねて早く帰りたがる怪我人のような雰囲気を、その「ヤベぇ剣」は帯びていた。
ぴったり一か月後に趙子龍はやってきたが、包まず斯く斯くと言い訳して更にひと月を請うていたのだった。
(古い漢の風と、それから春のそよ風、そこへきてつい最近の豪風の三つ巴じゃ。波乱万丈といったとこじゃが……)
窮したとき、ここの湧水を汲んで落ち着いて茶を入れてから剣に相対すると、よい工夫が思いつくことが多かった経験を思い出してやってきたのだ。
透明な水底で、磨かれた軽い砂利が微かにうごめく特に澄んだところに、彼は長い腕を伸べて瓶を横たえて沈め、湧水をゆっくり汲み上げた。春を待つ大地の力であろうか、水は意外に、切るような冷たさを含んではいなかった。
「どうぞ」
彼は袖で瓶の水滴を拭って差し出した。
「おぁっ? おぉうぅ。かたじけない。ありがとうございます」
ぼうとしていた老匠は、はっと現に戻っておずおずと瓶を受け取る。
「いつも汲みにおいでですか。ご健脚ですな」
「いや。今日はたまたまですじゃ」
「お近くですか。お送りしましょう」
「いやいや。これくらいは大丈夫じゃ。それに、いつも親切にあずかれるとは限りますめぇ。年寄りを甘やかしてはいかんですじゃよ」
「ご健勝をお慶びします」
「とんでもねえです、もったいねえこって」
なごやかに会話をかわす二人のそばで、風に誘われた菩提樹の白い実が一つ落ちて乾いた音をたてた。
(……。なんじゃ、この風は)
辞去しようとする彼に、老匠は初めて関心を示したが、彼の巨きな両耳には全く注意が向いていなかった。
「あなたさまは、水を汲みにお越しではねぇのでございますか」
杖を握りなおして大石から腰をあげて、半身で振り返る彼の表情を窺った。
「近くまで見送りをしまして、そのついでです。評判の氷の花を一目みて、心なぐさめて帰ろうかと」
「そりゃ、あいにくでしたな」
「見るべきものであれば、また機会がありましょう」
穏やかに言いながらも、彼の残念そうな、それとも寂しげな風情は、老匠に
(……これだ)
という直観を与えた。
「いや、お引止めいたしまして。旅のお人の一路平安をお祈りします」
「ありがとう存じます。では」
物腰の低い彼の拱手に、杖を握った手を重ねて応じて、老匠は後ろ姿を見送った。
(なぜこんな簡単なことがわからんかった。わしとしたことが、あのギラつきにまんまと騙された)
両目を瞑り、横皺が寄った額を平手で二度打ち据えて気合のようなものを入れた。
その様子を、廟の門口に現れたうら若い婦人の二人連れが驚いたように見とがめ、ひそひそと話しながら手をつなぎあって門の隅から廟の敷地内に入り、老匠を避けるように遠回りして早足で堂宇へ向かった。彼女らを気にも留めず、老匠は瓶の口にくくりつけてある荒縄をとりあげて、足取り軽く湧水を後にした。
老匠が湧水を立ち去ったころ、小さな諸葛邸の書房の戸口では童顔の小柄な女僕が跪いてこの世で一条の龍に挨拶していた。
「だんなさま、お帰りなさいませ」
眉尻が下がっていて、泣き出しそうなおもしろい顔立ちである。
「璉璉、立ちなさい」
「ありがとうございます」
この璉璉は龍の夫人の黄月英が幼いころからの小間使いで、黄家から彼女に従って諸葛家にやってきた。行き倒れの胡弓弾きの老人の娘で、路頭に迷いかけたところを、のちに龍の岳父となる黄承彦に拾われたのだ。
そのような身の上からは想像もつかないほど、璉璉は利発である。文字は僅かしか識らないが計算が得意で、黄月英の高度な発明の助手を易易とこなして既に二十余年になる。
少し気が利かない面があるものの、黄月英が信頼を寄せてしかも姉妹のように大切にしている様子から、龍は璉璉の小間使いとしての欠点には目を瞑っている。
「奥様はお元気だろうか」
「はい、あの、おくさまは今、灯篭づくりで手が離せず……、その……」
龍の夫人の黄月英の趣味は発明で、亡き鳳雛曰く図面に関しては天下一等の腕前である上に、熱中する性分ときている。
「おくさま。旦那様がお帰りでございます」
という知らせが聞こえていないことなど一度や二度ではない。もちろん今日も聞こえていない。
いつものことなのに、済まなそうに璉璉はうつむきながら語尾をだんだんと弱めて、龍の夫人が挨拶に出てこない理由を注進するのだ。
今日は灯篭製作だが、ある日は運搬具、またある日は螺子の改良である。
「今年は、どんな仕掛けを考えておいでなのか」
「それは、ご覧になってのお楽しみとおおせです」
(黄大姐らしい)
昔からかわらない茶目っ気のある伝言に、龍はクスリと笑った。いまだに夫人を呼び捨てにできないおかしな夫である。
「さがって、奥様のお手伝いに行くがよい」
「はい。失礼いたします」
黄月英は回転の力を工夫することが最も好きである。
普段は、龍の考案する物流や兵事に役立つ道具の改良に追われている彼女の夢は、掃除と洗濯を担う回るからくりを完成して量産し、この重労働の家事から女たちを救うことである。
なかなか民の役にたたない自分の才能の平和利用の機会として、最近は毎年の元宵に新奇な回る灯篭を三十個ほどばらばらに飾っては衆目を楽しませるのだ。しかも、灯に書きつけた謎々を解くと、ほかの灯篭がどこにあるかが分かるようにしてある。
龍は、このような面白い賢婦の黄月英と出会わなければ、生涯妻帯しなかったに違いないと、初めて彼女に関心を持った日を懐かしく思い出した。断るつもりで黄承彦の邸へ出かけていったのに、掃除のからくりに心を奪われた。
「ほかでもない、ワシの自慢の娘、月英の作です。名付けて『舞箒・初號機』」
得意げに披露する黄承彦の足元で、分厚い丸い盆状のものが室内の床を往復していた。目を奪われていると、やがて黄承彦の裾の端を吸い込んで止まった。
「……二號機で、改良中でしてな」
黄承彦はしゃがみこんで、初號機を裏返し、いつものことのように慣れた手つきで衣の裾を引っ張り出してから
「月英のほどの才媛は、百年にひとりですぞ。あの才能を内助と考えて伸ばしてくださるなら、臥龍先生にやってもよい」
自分から縁談を申し込んだくせに、胸を張って言い放ったのだった。このおかしな夫婦は、紅事の夜にともに帯も解かずに寝落ちしてしまって以来、一度も同じ牀で眠ったことがない。
おかしな主君とおかしな夫人を持つ龍の邸の甍を、冬の月が冴え冴えと照ら
していた。
その夜半に、老匠の工房では老匠と「ヤベぇ剣」が重なった影が細長く床に落ちていた。
しんしんと冷え込む中、炭鉢のなかの炭だけが気まぐれにパチリと音をたてて、時が止まっているわけではないことを示している。
「お前さんが、ギラついておるわけが分かった。片割れが傍におらんで落ち着かんからじゃろ」
老匠は、長年の独自の工夫で絹布を口に咥えていて、歯が全部抜けた百歳翁のように何を言っているのか本人しかわからない調子で剣に問いかけからゆっくりと抜いた。
(一日も早く返そうから、聞かせておくれでないかね。いままでどうしておったんじゃ。そんで、どこが不足じゃ)
さわさわと、小さな格子窓から風が吹き込んでくる。老匠は目を瞑り、鼻を利かせた。
遠い遠い昔の戦場の砂塵にはすでに気づいていた。ざっと三百年前ぐらいの風格を含んだ匂いがするのだ。その匂いをもしも文字にするなら『大漢風』とでもいえようかというおもむきである。由緒ある古剣を一度溶かして打ち直したのかも知れなかった。
(少なくとも、お前さんは楚剣ではない。それはわかっとる)
その大漢の風をとりまく春のそよ風のごときゆらぎは、いったい何なのか、今まで察しがつかなかった。
まさかこの、漢室守護の鬼をも感ずるこの剣に寄り添い得る剣などありえない、という先入観を今日まで持っていたが、然にあらず。
はじめからこの微風をまとっていたとは思えず、おそらく当時一対で作られたのではない全く別な来歴の剣と後世に巡り合ったのであろうか、人生百に満たざるに常に千載の憂いを懐く孤独をようやく慰めあえた感慨を思わせる芳しさである。
(冥途の土産に、その雌剣を拝んでみたいもんだが)
老匠は、益州の主たる彼よりも、かならずあると踏んだ彼のもう一把の剣の方に関心が傾いた。
そしてごく最近、かなりの名剣と争った覇気がくわわり、漢風と春風と巴がかりになって老匠を包む。
「そりゃぁ、いったい、どこの誰の剣じゃ」
チャ、と鍔のあたりで金属音をたてて、老匠は、剣をよこたえて重心をしきりと気にして撫でた。
先月、すぐに細かい鈍い刃こぼれを見つけて
「主公は石でもお斬りになったかよ」
思わずひとりごとを呟き
(危ねぇな。じつは、ご乱心の気がおありだったりするんじゃねぇか……? いや、まさかな。あの趙将軍がお見限りにならねぇってことは、そんなわけねえやな)
と、訝しく思いながら早速に修理した箇所だ。
ここまでの研ぎ具合はよくわかっている。目を瞑っていても怪我などありえない。
(斬ったのは石にしてもだ。数段格上の名剣に、ひけをとらなかったらしいこの豪風はどういうわけじゃろう)
若いころに師匠のもとで江湖の名剣を見た日の風の匂いを微かに感じた。
(あの伝説の孫家の宝剣のいずれか……か? まさかと思うがねぇ)
試みに、九把の宝剣の名を順に聞かせてやった。途中で、老匠に応じるように、隙間風が燭の光を揺らして明るい瞬きが満ちる。
(まいったな。お前さんもだが、主公も相当ヤべぇな。曹公以上かもしれねぇ)
おそるべき老匠の鼻は、甘露寺の十字石の上の争いまでをも嗅ぎつけながら、深更まで聞くものもない問答を続けていた。