日月両把劍(四) じつげつりょうはのけん

2015/08/01

3世紀中編 うをとみづ3世紀SS 日月両把劍

 元宵を過ぎてまもなく、雄剣とこの世で一条の龍は彼の元に戻った。
 
 その夜半にめざめて起き上がると、下げ与えた我が寝衣に埋もれた白い姿がすぐ隣に安臥しているのをみとめ、彼は我が龍がよく眠っていることにどこかほっとした。

 龍が邸から戻ってこうしていること、そして夢の中の危機から無事に戻ったこと、その双方に安堵した。
 枕元には倹約した灯火がほのめき、帳の外には数名の不寝番が跪いて控えている。

 ひっそりとした明かりの揺るる中で先ほどの夢を思い出しながら、龍の寝乱れもせぬ黒い髪を彼は指の甲で微かに撫でて
(まばゆいことじゃのう……)
 と、目尻の皺を和ませて、年を経りてもなお白い寝顔を覗き込んで時を忘れた。

 あの春の日、この世で一番の賢者を水清き隆中から召し出して、ほどなく一つの牀で眠るようになってから、彼は夢の中で落ちなくなった。
 それまでは、空を飛ぶ夢を見ると必ず最後に墜落し、地に着く前にハッと目覚めていた。夢の中で落ちぬのは實に心地よい。

 かわりに時おりに見始めたのは、我が龍を失いかねぬ危機的な夢で、いつも彼は必死に抗い、満身に汗をかいて夢の中の龍を護りおおせてきたのだ。

 今宵は、夢が夢だと分かった。もちろん、夢だからといって龍を見殺しにする彼ではない。ただ、今までになく心を保って危機に対処できたのだ。ひととき耐えしのべば必ず夢から醒めるという確信があった。


 邸に帰ってゆく龍を尾けたその帰り道の、廟の湧水のほとりに似た場所だった。

 だが、似ているだけでおそらくそこではないことが彼には分っている。
 そして、彼は我が龍を探していた。見知らぬところに彼がひとり佇むこのような時は、必ず我が龍がどこかで助けを求めているのだ。

「孔明、いずこじゃ」
 彼は巨きな両耳を欹てる。
 夜なのか、薄暗かった。水のほとりの老木には、ごく淡い桃色をした見慣れぬ八重の小花が咲き乱れ、夜目には不気味なほどに白かった。
 風もないのにはらはらと落つる花びらは、水面を少しも揺らさない。

 注意をひかれて近寄ってみると、水面は凍っている。花びらが散り敷くばかりであるのも道理であった。そればかりか、氷の下の水の中はほの明るく、夥しい八重の花とともに、あろうことか他でもない我が龍が沈んでいるのがはっきりと見えるのだ。生きているか否か、わからない。

 彼は天が崩れ落ちるほどの戦慄を覚えると同時に
(これは夢じゃ。儂は、孔明を必ず助け得る。慌てるまいぞ)
 妙に確信が湧いた。

 これまで夢の中では、夢が夢であることに一向に気づきもせず、少しでも間違えたなら我が龍を失うであろうことを恐れた。
 たとえば、いつぞや真夏の夜に見た夢のように、みるみる氷が融けてしまったなら、おのれも落つるのではないか。

 おのれが落つるのはよいが、龍を救い得なかったなら。
 救い上げられたとしても、おのれだけ生き延び、龍が帰らぬことになったならば。
 悪い考えばかりが先立ち、無い知恵を絞っては最善と思われる行動をままよと取るばかりであったのに、今宵は違った。

 彼は雄剣を取り上げ、鐺で氷を叩いて厚さを測った。かなり厚い手ごたえを感じたが、もはや彼は動じない。
 龍の白皙が沈むところを避けて、一念を籠めて再び強く氷を叩くと、氷には容易に罅が入った。罅を三箇所に作り、最後の一箇所は龍が握る羽扇が沈む近くの氷を撃った。

 いびつな方形に穿たれた氷片を彼が足で蹴ると、その部分だけ氷が消失する。彼は不思議なことに冷たさも温さも感じない水の中へ長い腕を伸べて、我が龍の白い手を掴み引き上げる。薄絹のように恐ろしく軽かった。

 ずぶ濡れの龍が意外に冷たくないことにほっとして、彼は傍らに剣を置き、外套と長袍を脱ぎ捨てた。春まだ浅き夜だというのに、肌着一枚の彼は寒さを感じもしない。いよいよ、夢である。
 綸巾を脱して黒き長羽織をはだけてすっかり衣を解き、かわりに乾いた長袍を着せ掛けて、濡れた黒い髪を長い袖に包んで絞ってやる。

(どこか、少しでも柔らかで、温いところは……)
 薄闇の中で彼が龍を擁して目を凝らすやいなや、地に横たわる剣の傍から冬菫が色とりどりに芽吹いてきたかと思うと、あっという間に花の絨毯の上である。
 思えばいままで、夢の中ではいつも孤立無援であったのに、いずこからともなく胡蝶が舞い遊び、ついで見たこともない極彩色の小鳥が飛来し、妙なる啼き声で彼らを慰める。そのうちに白い兎や羊などの小動物が現れては群がりはじめ、彼らの周りをぴったりと囲んで、温めようとする。

 うつつならば、花と禽獣よりも焚火と医者がほしいところであるが、彼はこうして龍を抱いていれば必ず朝が来ると、どこかで知っていた。
「孔明、案ずるな。夢であろうと儂はそちを離しはせぬ」
 頬を寄せて確りと擁したまま白い耳元へ囁くと、ややあって彼の頬を伝うものがある。

 我が龍のかおばせを確かめると、息もせぬ容子はかわらぬのに、閉じた眸から涙が一すじ流れいでている。

 彼はその涙に唇を寄せたいほどの心を抑えて、頬を拭ってやっては再びいだくを繰り返し、おのれか、あるいは龍の目覚めを待ったのだった。



 同じ夜、趙子龍は青釭剣を飽かずに眺めていた。
 老剣匠の工房で、主君の剣を受け取った時のことが思い出されてならなかったのだ。

「この剣のぬしは、当世の英雄といえましょうな」
「左様です。お見通しですな」
 常山趙子龍が英雄と認めるならば、その人物は自然と限られてくるわけだが、老匠は世間話のような風である。
「大変な艱難を乗り越えて……。砂塵のなかから興り、巌をも斬り拓いて来なすった。誰にでもできることではねぇです」
「はい」
(人生は、剣一把にも出るものなのだろうか)
 だとしたら、我が剣を人任せにしてこなかった己は間違えてはいなかったと、腰の青釭剣の鍔のあたりをそっと握って趙子龍はますます胆が据わる心地である。

「この剣は癇が強ぇ。たとえば曹公には疎まれる。難しい剣だが、御していなさる」
 老匠に『主人に特に従順な風がある』と評された青釭剣を帯び、青釭剣と息があっている趙子龍は、難しいという言葉か指す意味を測りかねたが、剣技のみ秀でてもそれを御することができないという種類に受け取った。
「少しだけ、その癇を差し引いてみましたんで、ちょっとばかしお使いいただいて、よかったならご褒美はその時におねげぇします」

(癇を差し引くとは、どういうことだろうか)
 趙子龍は疑問に思いながらも、老匠は嗅ぎつけたことを言葉にして解説できるほどの弁舌を持たないことは承知しており、またおそらく言葉にできうる境地でもないと思えたので、何をどうして癇を引いたのかを質すことをやめた。
 それよりも、いまは褒美を取らないという無欲な言葉に困って

「しかし、実費はおかかりでしょう。まず、その分だけでも拙者が」
 と、懐中に手をやろうとすると
「いやいや」
 老匠は姿勢を正して短い粗末な袖を揃えて拱手で応じた。
「こういう仕事は、十年に一度。いや、もしかしたら百年に一度かもしれませんや。冥利ってやつでさぁ。癖のある、いい剣ですじゃ。……語り尽くせねぇほど」
 老人とは思えないほどに生き生きとした笑顔を浮かべたかと思うと、雄剣に深深と礼をほどこした。

 その、まるで今生の別れというほどの風情に、何も言えなくなり、やむなく趙子龍は必ず再訪すると固く約して、その足で雄剣を届けに帰った。


「鏡のようじゃな。心が澄む」
 使い慣れた剣を常山趙子龍から受け取り、彼が鞘を払ってみれば、剣身のなかには細長く切り取ったこの世がもうひとつあるかのようであった。
「値はいかほどであった。孔明、少し色をつけて遣わせ」
 彼は、満足そうに剣を収めて傍らの我が龍に命じた。
「かしこまりました」
 趙子龍に値を聞こうと白皙をめぐらすと、それを察して
「おそれながら、しばらくお使いいただき、お気に召しましたらご褒美を頂戴すると、かの老匠は申しております」
 さっと拱手して、一身胆の将軍は言上した。 

「ほう?」
 重みも変わらぬ慣れた感触を確かめてから、彼は趙子龍にふたたび眸を向けた。
「お気に召さねば、いま一度手を入れたうえ、ご褒美も望まぬと申します」

 趙子龍は、もっと言葉を足すべきかどうか僅かに迷ったが、やめた。癇を差し引いたらしきことを言い添えるかどうを迷ったのだが、もしかしたら彼に先入観を与えない方がよいのではなかろうかという気がして、いま問題の褒美のことのみを発言するにとどめた。だいいち、趙子龍はなぜ癇を差し引いたか、どのように差し引いたかの答えを持っていない。

 雪が融けるまでは兵事がない以上、老匠が言う「しばらく」の間に彼が雄剣の斬れ味に頼る局面があろうとは思えない。
 老匠の言葉は無欲にも謎めいて、まるで天文を観たあとの龍の軍師の言葉のように、余人には見えぬ兆しを感じ取っている直観を帯びていた。
 彼の傍らの白皙は眸を閉じて睫の深さを頬に落として、手にした白羽扇を繰り、その意味を吟味しているかのようだった。

「ふむ。さればおそらく、儂は気に入るのであろう。よかろう。数日待ってみようぞ」
 彼は、調整の違いが分かるかどうかを老匠に試されているのではないかという不快を感じなかった。
 むしろ剣の匂いを嗅ぎ分けるらしい風変わりな剣匠に茶目っ気のような印象を加えると同時に、以前の剣と違う何かを遠からず實感するであろうことが楽しみにも思えた。

 しかし、久々に夜の餐を我が龍と摂る頃になると、剣を調整したことは、彼はけろりと忘れてしまった。
 そうと分かっていて暇を与えたくせに、我が龍の居ない間、茶も餐も美味くなかったからである。

 癇を差し引かれた剣が彼の私室のいつもの剣架によこたわり、その夜の夢の中で花を咲かせて彼を助けたことを、さすがの老匠ですらも今は知り得なかった。