日月両把劍 (五)  じつげつりょうはのけん 五

2015/08/01

3世紀中編 うをとみづ3世紀SS 日月両把劍

  


 ひと月もすれば夏至の頃合いとなり、薄く曇りがちな成都の日差しも鋭さを増してゆく。
 雲の流れにしたがって、あるときは淡くあるときは濃き影を落とす亭子で、君臣は午後の茶を喫していた。

「あれは、ちと、けしかけすぎではなかったか孔明」
 益州牧たる彼は、巨きな左右の耳に初夏の風がわたる気配を含みながら、我が龍におっとりと問いかけた。
「このたびの出陣は、余人をもって代え難うございます」
「はじめからそちの意は黄将軍にあったとしてもじゃ。しかしな、さすがの今廉頗も既に六十余歳であろう」
 彼は、おのれと老将の歳の差を、指を折って数えてみせる。
「ひとたび射れば伝説の飛衛、紀昌の如く。またいまだに肉十斤を召し上がり、廉頗以上でございます」

 彼らがいま問題にしているのは、荊州で召し抱えて従えてきた老将黄漢升のことである。
 早春から、漢中掌握の先陣として彼の三弟が赫赫たる戦果を挙げており、このたびさらに攻勢を厚くする段階に入った。
 曹軍からみれば侵略であるが、彼にしてみれば漢室復興への足掛かりである。
 葭萌関を攻め取る軍議の席上、幾人もの上将が進み出て先陣を請うた。
 もちろん、常山趙子龍は真っ先に名乗りを上げて、彼も内心「子龍ならば間違いあるまい」と頼もしく思っていたが、なんと我が龍は黄漢升の戦意を故意に煽ったうえに、さらに六十がらみの厳将軍を副将につけて出陣の下知を与えたのだった。

「しかしな」
「我が君、ご心配には及びませぬ」
 龍は両の袖を払って姿勢と扇を正した。
 そのとき薄雲がさっと晴れて日差しが亭に差し込み、我が龍の白い襟元とその襟よりもなお清げな白皙が、櫛目ただしい黒髪の艶に縁どられて輝いて見えたので、彼は今の話題も忘れて見惚れかけ、そしてその自分に直ちに気づいて考え込む風を装って緩やかに瞼を閉じてみせた。
 我が龍に眸も心も奪われることなど、彼にとって毎日のように何度もあることなので、ごまかし方などいくらでも持っている。

 双眸を閉じて意見を聞こうとしている彼を見ると、龍は彼が巨きな耳を更にひらこうとしているように感じる。
 おのれの發する言葉が、彼のどこかに宿る王たる根幹へ更に届く心地がして熱が入りがちである。それで自然に姿勢を正すのだ。
 龍は、主君がときどきこのように会話の途中で徐に眸を閉じてしまうのは、異議があるのではなく、より納得のゆく説明を要しているしるしだと考えている。
 眸に映るものに左右されずに、巨きな耳の奥で理を吟味しようとしている行動とみれば、龍の観察と推測は当たらずとも遠からずである。

「趙将軍ほどの百戦錬磨の上将ですら、危ぶみました。いわんや夏侯尚のごときが、侮らぬはずがございませぬ」
(子龍がどう見るかで決めたと申すか)
 彼は、献策に僅かの瑕も許さず磨き上げる我が龍のこの性分を嬉しくも不憫にも思って、双眸をあけた。
「……軍議で皆が黄将軍を推したら、どうするつもりだったのだ」
「もちろん、趙子龍を遣りました」
 白皙はにこりと笑んだ。
 彼は
「この策士め。初めから決めておったのではなかったのか」
 と、水を向けて我が龍のかおばせをあらためてみつめた。
 軍備の増強と神算に溺れず、敵軍に盲点や油断という目に見えない不利を作って増やし乗じ得るよう謀ることができる軍師は、今の世、我が龍のほかに居ないだろう。
 この世で一番の賢者を前に、ただの世間話のように兵事や国事を談じるおのれが、特別なようでもあり、また当然のようでもあり、彼はときどき妙な心地になる。
 しかしこの妙な気持ちは、なんとなく好ましい。
「兵は虚虚実実の駆け引きでこそ、いかようにも勝機を作り得るのでございます」
「孔明よ」
「はい」
「そろそろよい加減であろうぞ」
 彼は、熱弁をふるっていた我が龍に茶をすすめた。
 猫舌の我が龍のために、ややぬるんだ茶を供させてはいるのだが、冬場と違って茶は日に日に冷めにくい。
 龍は、「ぁ」と、聲にならない聲を小さく發して、話に夢中になって咽喉が渇いていたことにようやく気付いて微かにうろたえを見せた。
 眸には彼以外映っていず、茶の存在も侍従の存在も忘れていた。
 そのことが彼にはわかってしまっていたに違いなかった。

「……頂戴いたします」
 面はゆげに睫の影も深く俯いて一礼をすると、羽の扇を卓に置き、両手で碗を捧げて素直に茶を服した。
(天下ひろしといえど、儂だけじゃろう。「臥龍先生」の、こんな貌を拝めるのは)
 という満悦を隠して、彼も茶を啜ってみせる。
 束の間の沈黙の中、龍の黒い衣の下に隠れた白き袖がかろやかに遊び、すでに聞き慣れた愛用の香嚢の香りが初夏の風に和して柔らかにが匂いたつ。
 彼は草木の成長よりも我が龍の姿にこそ季節の移ろいを感じ取るのだと思い、兵事を談じているというのに心はいよいよ和むのだった。


 昼さがり、成都の古玩市場の淘盡堂に、小型の手押し車を牽いた小柄な女がやってきた。
 泣き出しそうな面白い顔立ちをしている。諸葛家の奥に仕える璉璉である。
「こんにちは」
「おおお、これは、これは黄小姐。いらっしゃいませ」
 店主は揉み手をしてまろび出てきた。
「いやだ、困ります。小姐はやめてください。璉璉でいいですってば」
 璉璉は人目を憚って、諸葛邸の名を出さないかわりに、黄月英の姓を便宜上名乗っている。それに璉璉は黄月英に仕えているつもりなので、嘘は言っていないことになる。 
「今日は、あるじの命で、先日のお支払いに参りました」
「それはありがとうございます。おーい、お茶だ。小姐にお茶をお持ちしろ」

 璉璉は店主にとって不思議な客である。
 店の目玉商品として飾ってある古い玉製品には目もくれない。
 骨董というには及ばず、かといって什器として直ちに暮らしに役立つわけでもない、何かの片割れのような金属製品を見繕っては、一旦持って帰る。
 主人が気に入ったら、日をおかずにあとから銀を支払いに来るのだ。

 数年前に璉璉が突然に店先に現れた一見のときは胡散臭くて
(後払いとは、虫のよい小娘め。舐めやがって)
 と思い
「何なら、まとめてお邸にお運びいたしましょうか」
 と婉曲に警戒して見せたら、璉璉は黄月英から与えられた小さな箱を開いて見せてからまた閉じて、その箱を質に無造作に惜しげもなく置いて帰った。
 中身は、なかなかに古い玉剣飾一式四点だった。
 それ以来、璉璉はすっかり淘盡堂の上得意である。

 そんな次第で、璉璉の主人はきっと相当な変わり者なのだろう、ということだけ店主は察している。

「おまたせいたしました、どうぞごゆっくり」
 若い男が、璉璉に茶を運んできた。
「今月は、環は、どうですか」
「ございますとも。大中小、なるべく多きさと数を揃えまして、櫃に山盛りです」
「よかった。助かります。車に乗せてください」
「おーい、櫃を車にお乗せしろ」
 璉璉の主人黄月英は発明品の製作と改良そして量産に入る前に、まず半分の大きさで試作することを好む。
 おおむね木で組み立てるのだが、工程の短縮と省力化のために流用できるものは何でも使う。既に加工された金属棒や環など、おあつらえむきなのだ。
 璉璉の古玩市場通いはその用を果たすためである。

 黄漢升が近く必ず戦果を挙げた後、本格的に大戦になる見込みらしいと、璉璉は黄月英に聞いている。
 なにしろ、この国の軍事を握っているのはほかでもない、黄月英の夫君なのだから、間違いない。
 物流を制するために、量産可能で無駄のない運搬具の改良を果たし、最新の図面を引きおえたところだ。
 
 璉璉がお使いに牽いてくるこの手押し車の車輪は、おそろしく精巧で軽がると回転する。  きっと道行く者には、今日の櫃は空にしか見えないだろう。
 大の男が二人がかりの重い櫃を乗せても、出るときにちょっと押してもらいさえすれば、璉璉はひとりで諸葛邸まで牽いて帰ることができるのだ。

 益州の力の秘密に関わることなので、あえて吹聴するつもりはないが、この車の手元には制動装置もついていて、そしてやむを得ず止まってほかに人手がなかった場合の、足踏み式の推進装置も備えている。
(月英さまの凄さって、分かる人にだけ分かるところが、また凄いわ)
 と、璉璉は内心、得意なのである。
 いまに、天下に黄月英の名がとどろく日が来ると、璉璉は本気で信じてもいるのだ。

(……そういえば、あれって。「けんし」? じゃなくて「けんしょく」だっけ。あのあとどうなったんだろう)
 この春の出来事の続きを黄月英に聞きたくなって、璉璉は車輪を励まして帰路を急いだ。


 そのころ老剣匠は工房の夏めく庭の木陰で、杖を支えに舟を漕いでいた。

 上半身をがくりと揺らして両手が杖を滑ったので居眠りに気づいた。
(ついこないだまで、暇さえあれば眠っちまう年寄りを笑っていたもんだが。わしも、歳ばかり食っちまったな)
 誰も見ていなかったが、照れ隠しに白髪頭を掻いた。

 今の居眠りで、老剣匠はこのところ繰り返し見る夢をまた見ていた。

 その夢は、何もない暗闇から始まる。
 どこまでが地でどこからが天なのかわからない暗黒の中で、次第に血の匂いが混じった砂塵が舞い始める。
 長年、剣と語り合っていてすぐにそこが戦場だと分かった。

(やべぇ、あぶねぇ。ここにいちゃ、命がねぇぞ)
 あたりを見回しても物陰一つ見えない。
 足の裏にだけ存在するような、だが今は一つだけその存在が確かな地面を這うようにして、どこか身を隠すところを手探りで探す。

 旗が風になびく音、夥しい兵士がうごめく物の具の音、大軍の存在が風に乗って老剣匠に迫る。
(あの剣の匂いじゃねぇか。乗り越えてきたっていうのかよ。このひでぇ敗け戦を)
 剣のぬしが一敗地に塗れているのが老剣匠にはわかる。
 しかも、敗け戦をかなり積み重ねていることさえもわかる。 

 あたりには、泥のような疲労をまとい飢えと渇きに呻く夥しい数の人間の気配が渦巻いている。
 老剣匠も、徐々に咽喉の渇きをおぼえる。
(どこかに井戸は。川は。水はないか)
 耳を澄まして、雫の音、流れの音を探そうとするが、戦場の雑音は払い難い。
 なすすべもなくその場にへたりこんでいると、いったいこれは人の発する声なのかと疑いたくなるような、天に噛みつくがごとき獣じみた吶喊がにわかにあがり、つづいて耳の奥が殴られたと感じるほどの、けたたましく重い金属音が鳴り響いた。
 暗闇でおかしなことだが、老剣匠の脳裏には巨大な影絵がひらめく。
 一刹那、龍のような髯の男が、剣で地を穿った姿がくっきりと脳裏に焼き付く。
 つづいて地が揺れ、瀧を思わせる水の轟音があたりを席巻する。
『水だ!』
『おお、水だぞ、助かった!』
『拝謝大王!』
『漢王!』
 次第に兵たちの鬨の声はどこへともなくうせてゆき、水の音のみがしじまに渡る。

(やれやれ、助かった)
 老剣匠は水が吹き上がる音のする方向へ近づいてみると、近づくにつれて仄明るくなってほっとする。
 水際に至って蹲り、両の手に水を結べば、きらきらと澄んで、水底には清げな花と緑の藻がゆらめき、飲めそうである。
 襟まで濡らして水を飲むと、ようやく生きた心地がする。
 水は地から天へかかる瀧のごとき勢いを誇っていたが、だんだんと緩やかになり、しまいには水面が微かに揺れるほどに落ち着いた。
 四方の遠くから小鳥の明るい声がする。
 淡く春の香りが漂ったかと思うと、湧水のほとりに驚くべき勢いで大樹が生い茂る。
 まるで、およそ三百年を一刻に縮めたような速さである。

 三百年の大樹のもとで水は柔らかに湧きつづけているのに、水面は次第に凍りついてゆく。奇妙な光景である。
 雪が降る。霰が打ち付ける。
 単衣姿の老剣匠は
(さみい。どこか、あたたかいところはねぇか)
 さきほど水音を頼りに歩いてきたと思しき方角をさして、肩を竦めて震えながら湧水をあとにした。

 百歩も歩かぬうちに、また背後で地を叩き割る撃音が四度あがった。
(今度は何じゃ)
 こわごわ振り返って目を凝らせば、雪はすっかり止み、一面の冬菫の咲く池のほとりで、初老の男が水の中から人を救おうとしているところだった。
(あの剣か)
 彼らが誰なのかは知らない。
 だが、彼がいつの頃かの剣の主であろうことはわかる。
 誰を救ったのかは知らぬが、まるで誰も知らないおとぎ話の「めでたし めでたし」をみているような心地で、まばゆい光景に目が潤んで目が覚めるのだ。

 
 初めてこの夢をみたのは、湧水の水を汲んで茶を喫し、夜もすがら剣と語らった早暁だった。
(どうやら、この鐺が特にヤベぇってことなんじゃねえのか?)
 そう踏んだ老匠は、鐺に注意を向けた。

 鐺には、何かと争った鋭利な痕があった。
 その痕跡からは鐺を貫通するほどの深さが予想されたので、取り外してみた。
 すると、鞘の尻を厚く包んでいると思われたこの金属は意外に薄く、本体は玉製だった。

(おいおい。するってぇと、玉が割れちまってんじゃねえのか。もったいねぇことを)
 精巧にぴったりと作ってある玉の鐺の「鞘」をこわごわと外してみると、玉は無傷だった。
(嘘だろう)
 金属を透かして見れば、あきらかに向こうの光が目に届くほどの孔があいている。
(おかしな傷だ。何と争ったか。でかい針のようなものかいな)
 一番鶏の声を聞きながら、思い立って鞘の口、鍔、剣首も検めてみると、ほかの部品は渋好みの銅装で、一見したところ意匠は揃っている。
(わざわざ覆って……。実戦向きにってことか?)
 分解した鐺をとりあげて、穴があくほど見つめた。
(いつからこの妙な拵えだったっていうんだ、一体)
 鞘と部品を目の前に広げたまま、じっと考える。

(だいたい、この鞘が普通の顔して澄ましてやがるんで、それにも騙された)
 噂のとおり、益州牧が二本の剣を佩いているならば、鞘の片面は平坦に仕上げられているべきである。
(……まあそれは、あとでよし)

 はじめは、鐺の孔を塞ごうと思っていたのだが、こうしてばらしてみると、それしきの簡単なことでこの剣が納まるのかどうか疑問だった。
 納まるとは、老剣匠にしてみれば、それしきのことで剣が納得するのか、という意味に近い。
 いっそ、この機会に剣飾一式を新調するのが最もよいかもしれないが、実戦用である以上は堅牢に仕上げる必要がある。
 それに、老剣匠の剣飾の腕は余技の域を出ない。
(だが、見込まれた以上、やるしかねえだろ)
 誰に見込まれたというのか、益州牧たる彼にか、それとも剣にか、あるいは龍のような髯の男にか。老剣匠はスクと立ち上がった。
 雪が融けるまで、もう時がなかった。
 品のよい骨董にでも手を加えて補うほうがかえってよいかと思いつき、かといって今はあてもなくとりあえず、取り外した鐺を懐にして、朝一番に昔なじみの古玩市場へ赴いたのだった。


 淘盡堂の店主は、みずから朝の掃き掃除をしている。周りには雀しか居ない。
「おはようさん。メシ食ったか?」
「おう、まだ生きてたか」
「くたばってたまるかい。探し物でさ」
 軽い冗談をかわし、老剣匠は懐から鐺を取り出した。
 なじみの店の主は玉塊のほうを睨んだ。大きな両目が、いかにも真贋を見抜いてきた商人という風情である。
「これぐらいの、なんか適当なのあるかね。渋い銅装の。安からず、高からず」
 老剣匠は鐺の鞘のほうをつまみあげて、おどけた口調で言った。
 この時は、もし高くついたなら、その分の値は趙子龍を通じて益州牧に請求しようと思ってはいた。玉は附属品として返還する。
「待てよ? 適当どころか……。これ、どっかで見たぞ」
 店主は、問題の玉の鐺を取り上げ、しげしげと見て言った。
「どこでだね?」
「どこでだったか……。この、古臭い雲紋は」
「この店の品かい?」
「いや。売りものじゃなかった……ような。はて、どこでだったかな……何年も前に……」
「あんたも歳だねえ」
「言うなよ。気にしてんだから」
「誰でも年は取るさ。気にすんな。思い出したら教えてくれろ」
 店主を悩ませたまま、老剣匠は「ちょっと見せてもらうよ」と、店の奥で古い鞘をみつくろっていた。

 老剣匠の背の向こうで、明るい会話が弾んだ。
「おはようございます」
「あっ、これはこれは黄小姐、お早うございます」
「主人の言いつけで、お支払いに来ました。……それと、小姐じゃないです、璉璉でいいですってば」
 東の訛りがやや強い。
 その日の支払いは、元宵の灯篭の分だった。
 昔の灯篭を解体して今風に組み上げて、しかも回る細工をして黄月英が息抜きに遊んだ、その古い灯篭の代価であった。

 店主は璉璉に茶をすすめようとしたが
「ごめんなさい、後片付けですぐに帰らないといけないので、この次いただきます」
「それは残念ですね」
 店主はつづいて、愛想だけではない礼を述べる。
「黄小姐のお知恵どおりにしてみましたら、元宵の夜、もうかりましたよ」
「そうでしたか」

 知恵とは
『どうにも売れない細かいやつを……。特に銅のを磨いて飾り紐を結んで、元宵のお土産に軒先で売るように勧めてご覧』
 という、黄月英の発案を璉璉はそっくりそのまま店主に伝えただけなのだが、店主が半信半疑でそのようにしてみると、夜目にもキラリとする手頃な値段の土産ができあがった。
 出来上がっただけでなく、特に、ふだん古道具などに縁がない女児連れの家族に受けて、飛ぶように売れたのだ。
「お確かめください」
 璉璉が銀の入った小さな皮袋を店主に渡すと
「いやあ、いつもおありがとうございます」
 店主は受け取って紐をほどいて勘定をはじめたが、その手を止めて、はっと顔を上げた。

「……。小姐。いつだったかの、あの、剣飾。いまもご主人がお持ちですか」
「けんしょく?」
 璉璉は首をかしげた。
 この娘が宝飾より鉄屑に関心が高いことを思い合わせ、店主は言葉を補った。
「これくらいの箱に入って、ほら、小姐が初めてお越しの時、わたしめにお預けになった」
「あれですか。たぶん、お持ちと思いますけど……」
「売って下さいませんか」
「でもあれ、すごくいいけど高値はつかないって。それでたしか」
「そうですとも。高くは売れない。でも、あの爺さんに安く売ったら、高く売れるようになりますよ」


 夢のあとで、老剣匠がこの春の出来事をぼんやりと思い出していると
「義父上」
 嫁の声がしたので振り向いた。夕餉には早いと思った。
「おう」
「恩人がお越しです」

 嫁のうしろから、隙のない身のこなしの平服の武人があらわれて拱手をした。常山趙子龍である。
「おお、これは」
 老剣匠は大石から立ち上がって礼を返そうとしたが
「どうぞそのまま」
 青釭剣の柄頭を左手でかろく押さえ、右手のひらを緩やかに地に向けて、きりりとして柔らかな物腰で、俑にでも作りたくなるほどの佇まいである。
「おかわりもなく」
「ぼちぼちです。どうぞ、中で茶でも」
「どうぞごゆっくり」
 嫁は心得ていて母屋へ立ち去り、剣の馬鹿ふたりの邪魔をしようとしない。
 趙子龍は若い婦女が苦手なのだが、子の命の恩人である趙子龍を歓迎しても流し目ひとつくれないこの嫁がまた気楽で、老剣匠を訪問する足取りはいつも軽かった。

 常山趙子龍は老剣匠を扶けて、見慣れた工房の中へ入った。
「また上将が御出陣だそうで、今年は騒がしくなってきましたなあ」
「はい」
 趙子龍は言葉少なく応じた。
 実は、このたびの先鋒に選ばれなかったことに密かに落胆してはいる。
 軍師には常人には思い及ばない神算がある以上、服するのみである。
 また、別して後刻に
「御辺だけには」
 と、近いうちに必ず立功の機会があることと、その折はきっと趙子龍を用いるであろうことを龍の軍師から内々に明かされてはいた。

 凡将ならば、それでもここで「なぜこたびは老将を」とその理由を問い質し不満を鳴らそうが、趙子龍は愚痴ひとつこぼさない。
 こぼさぬかわりに、剣を研ぎ澄ますごとくに心を澄ますためにも、こうして老剣匠をたずねてやってきたのだ。
 趙子龍は不器用にひとすじで頑固さのない人物が好きである。加えて、今日は朗報もある。

「じつは、ご褒美についてのお知らせでうかがいました」
 例の剣の調整の対価として、銀以外のことを所望していた老剣匠は、細い目を見開いた。


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※ちょっとだけ大人のおねいさまむけ