日月両把劍 (二)

2015/08/01

3世紀中編 うをとみづ3世紀SS 日月両把劍

 常山趙子龍の話は面白かっただけでなく、信頼のおける内容でもあった。
 とくに
「その研ぎ上がりの見事さを申さば。拙者、剣は研ぎ澄ませすぎるのを好まぬことを申しませんでしたのに、良い具合に鈍みを残しておりました」
 と、日ごろから誇張を避け、事実をありのままに報じようとするこの将軍がこのように褒めるので、彼の心は当然うごいた。

 春きたらばまた漢中のあたりが騒がしくなろうその前に、いままで間に合わせの手入れしか叶わなかった雄剣の補修を、顔も知らないその老人に委ねる気になり
「剣一把ごときで、召し出すのは心苦しい。事の序に儂が頼みにゆくのが最も儂の心に適うが、それではかえってご老人の平穏を妨げることにもなろう。ご苦労だがよしなに頼む」
 両手を打って、つい先ほどまで振るっていた雄剣を持ってこさせると一身胆の将軍にかろく託して、別段、一筆すら書かせようともしない。

「この間、お召しになる剣を、庫でお選びあそばしますか」
 胆の将軍が剣を携えて立ち去った後、龍は皓い息とともに彼に問いかけた。
「いや、それには及ぶまいぞ。ひと月あまりも経てば春節の今頃に、徒に兵を挙げて民心の離れる愚を演ずる莫迦者はおるまい」
 それは承知の上でなおも万一を慮って、成都の豊かな宝物庫に彼を入れようとする龍の細心が、彼には嬉しくもあり、また不憫にも感ずる。

「そう案ずるな。孔明。あれはたしかに家宝じゃが、かけがえのないものなど、そなた以外には片手で数え上げられるぐらいじゃ」
 彼がおっとりと笑って、ややはぐらかしたかに見える内容で応じたので、龍はわずかに愁眉をひらいてみせた。

「庫よりもな、ゆきたいところはあるのだぞ」
「いずちへで、ございましょう」
「大街の四条であったか、七条であったかな、湧水があろう。そのほとりの老木に、氷の花が咲いたそうな」
 彼の大きな両耳は、いかに多忙であろうとも、桐一葉おつる音まで聞き取る風がある。

「いかにも、この冬は冷え込みが厳しゅうございますゆえ」
「そうじゃろうとも。理には適うておるのであろうが、そなたの薀蓄を聴きながら眺めればまた、格別であろうぞ」
「これはまた、ご難題を……」
 氷の花の解説については造作もないことだが、時ならぬ花見のためのいとまを捻出せよと彼が暗に命じたことに対して龍は白い羽扇を緩く繰ってみせた。
「ハハ。儂の無理難題は今に始まったことではなかろう。そちゃ、儂の傍にもう何年おる」
「まことに」
「言うたな」

 君臣は、ふたりの周りにだけ束の間の陽だまりができたような趣で、和やかにも仄かな笑い聲をそろえた。


 日を措かずに常山趙子龍は、曇り空に雪がちらつく中、剣の匂いを嗅ぎ分けるあの老人の工房を訪ね、かの雄剣を差し出した。

 老人はしょぼくれた両眼を瞑り、左手で無造作に鞘を握り、右手で剣を三寸ほど抜いて鼻先を寄せるような風を見せた。
(こりゃ、意外に古剣の匂いがする。しかも)
 この間、一瞬というほどの具合で、パチリという金属音を立てて、老人は急いで剣を納めたように見えた。
(ヤべぇな。一種の、妖剣の匂いもしおる。肚を据えてかからにゃ)

 老人はこの直観をおくびにも出さず、胆の将軍にのんびりと問いかける。
「この剣はよくよく構えねば、扱うことが難しい剣でございます。時をお借りできるか伺わにゃ、請け負いかねます」
 趙子龍は、何も言わぬのに剣の持ち主が別に居ることを見透かしている様子の老人に、また内心驚いた。

「何日ほど要しましょうか」
「左様……。ひと月はかかりましょう」
「おそらく差支えあるまいと存ずる。お願い申します」
 雪の間はおそらく兵事はない。今の漢中の情勢も踏まえたうえで、趙子龍もそう心得ている。そうでなければ、剣を受け取るときに、龍の軍師が何か念を押すはずであったし、あるべきだ。

「なるべく急いでいたしますが、何せ、耄碌しかけておりますんで」
 老人が問うなら、趙子龍は剣の持ち主は成都の主だと明かすつもりだったが、老人は問わなかった。問いもせぬ老人の表情を見て
(請ける請けないは老匠の自由、との思し召しもあったのか)
 と、趙子龍は彼の意の在りどころの一つに今にして気づく。主命では否応はない。請けるのみだ。

「では、とりあえず半月ほどのちに、拙者がまた参りましょう」
「いやぁ、そりゃ、おそれ多いことで」
「名匠への敬意でござれば」
「勿体ねえ。照れますや。長生きはするもんだ」
 老人は白い鬢を掻きながら、嬉しそうではある。

 既にうちとけた低い笑い声をかわしあったあと、趙子龍はすこし容をあらためて問いかけた。
「ひとつふたつ、お尋ねしてもようござろうか」
「何なりと」
 趙子龍が拱手して教えを請うので、老人も皮手袋のような熟工の両手を組んでそれに倣った。

「倚天剣の匂いとは、どのようなものでござろうか」
「……そうですな、その……ウウム」
 老人は、別に勿体ぶろうというわけでもなく、ぴったりくる言葉を懸命に探して長考している模様で、なかなか答えなかった。
 工房の作業場の横に設えてある狭い板の間の上の低い腰掛に二人さしむかい、老人の傍らの炭鉢の上に置いてある鉄瓶の湯がしきりと沸騰して、工房の中に松林をわたる風の趣を添えている。

「ひとくちには申せねぇですが、倚天剣が世に出た日の風の匂いがたまたま強かったんで、そうかと思った、ような感じですや」
 なんとなく詩的な表現になってしまったのを照れるかのように、老人はへへへ、と笑いを連ね、照れ隠しに茶葉に湯を足そうと鉄瓶に手を伸ばし、あちち、と言ってみせた。

(風の匂いか)
 趙子龍はまた意外である。たとえば麝香や花の香りや錆の匂いなど、特徴があって似通ったものが引き合いに出るのかと思ったのだ。
「いまひとつ。青釭剣は倚天剣との争いを避けようとしますか」
 実はこちらの方が気にかかるので、胆の将軍の眼光はいささか真剣みを帯びた。

「いや、それはありますまいよ」
 老人は趙子龍の憂いを悟ると、さきほどの言いよどみようとは打って変わって即答を返してきた。
「いずれも持ち主に対して特に従順な風がありますからな。曹公にはどんな名剣であっても癇の強い剣は合わねえ。そのうち嫌われて蔵の肥やしでさぁ」
 もとの持ち主の名をうっかり出してしまったので、老人は少し言葉を足して繕った。
「青釭剣と倚天剣に上下はねぇです。それに、いま倚天剣を嗅いでみたら、たぶん青釭剣の匂いもする。あいこですじゃ」

 この一言で趙子龍は内心ほっとした。怪力乱神を徒に恐れる気はないが、長坂坡で九死に一生の死線を越えて以来、紙一重を分ける目に見えぬ何かが存在しても不思議はないと考えている。
 青釭剣が曹公を討ち取れぬ剣なのであれば、いつの日かのその一戦には用いまいと思ったのだ。おのれの軍功のためというより、青釭剣のためにである。

 趙子龍の眉がひらかれたのを見て、老人は
(ちょっと主公に、興味が湧かないでもねぇな)
 いままで無関心だった益州牧たる彼に思いが及んだ。彼に対してだけでなく、先代の州牧にも特に興味はなかった。

(このヤべぇ剣を持って平気でいられるほどの梟雄のくせに、こんな好漢が、どうやら長年おそばを離れねぇとみえる)
 

 雄剣を老人に託して趙子龍が大街へ出ると、湧き水で有名な廟の門前にひとだかりがしていた。女子供が多かった。

「わあ、きれい」
「キラキラしてるよ」
「毎日大きくなってるなあ」
「仙女さまが宿ってるみたいだ」
「木に触ると美人になるって話だよ」
「今からでも?」
「さあねえ」
 集った民は、どっと笑う。

 彼らより頭一つ高い視線をとおりすがりにチラとやると、まるで花びらのような細工を施したごとき氷が、枯れ木ともみえる老木の枝の梢の隅隅までをびっしりと飾っていた。 

 民びとの平和な様子を見ていると、剣が無用になる日のためにこそ、彼も彼に従うおのれも剣を握っているのだということをしみじみと感じ、趙子龍は身の引き締まる思いがするのであった。