日月両把劍 (一)

2015/08/01

3世紀中編 うをとみづ3世紀SS 日月両把劍

 今上の叔父を意味する称号とともに長年を馬上に過ごしてきた彼は、成都の城の私室に面した石廊のうえで双剣を振るっていた。

 建安のはじめの頃に許昌で死んだふりをしていた間と、つい数年前のいまごろ、江東で腑抜けたふりをしていた一時期を除き、毎朝欠かしたことはない。雄剣は寒気を鋭く斬り裂き、雌剣はかろく薙ぎ払う。
 もとより彼は剣豪ではなく、心の練磨を目的としている。これらの剣は銘こそ不明だが劉家伝来の二振りである。

 毎朝同じ型の鍛錬を行うのだが、その日の気候や彼の心のありようによって、双剣は一日として同じことがない。これに気づいたのは五十を過ぎてからで、彼は齢を重ねるということは強ち老化をのみ意味するのではないという考え方が単なる慰めではない面を確かに持つことを覚える。

 この益州に従えてきた我が今廉頗の皺皺の顔を脳裏にうかべて
(黄老将軍は、いまの儂以上にこの心持ちをわきまえておるのだろう)
 弓をとれば百発百中の腕前は、天賦の才のほかにこそ拠るところが大きかろうと、その鍛錬を見たことはないからこそ頭が下がる思いがした。いまだに肉十斤を喰らい得るなど、この点だけ聞いても神業である。

 汗を拭い更衣をおえて朝の粥を摂りに控えの間へ入ると
「我が君にはごきげんうるわしく」
 卓のそばに行儀よく控えて待っていた白皙が、さっと両の袖を品よく揃えて白い羽の扇を横たえて徐に一礼する。聴きて飽くなき我が龍のまろい聲を聴き、彼は朝から耳が洗われるようである。

「うむ。礼を免ずる。孔明、近う。今朝は冷える。早う」
 彼は長い右腕を挙げてただちに礼を免じ、餐の卓に就かせて炭鉢のそばへ寄せようとする。
「ありがとうございます」
「そちに風邪でもひかれては、儂も益州もたちゆかぬ」
「我が君なくんば、蒼生は一刻もたちゆきませぬ」
「ぬかしおったの。まあ座れ」

 彼は、いくつになっても折り目正しく、時に智に枷をする暴君ですらあるおのれの中に仁のかけらを見いだし続けて付き従うてきた天下一の賢者のまばゆさに、いささか照れて茶化した。
 側仕えの者共は、まるで彼らが今日はじめて見えたかのような礼をかわしあう姿を清清しいような心持ちで見守る。この君臣は毎朝同じ牀から起きいでると
いうのに、何年たっても寝穢いような馴れ合った感じが希薄なのである。

「蒼天よ、今日も篤きみめぐみ垂れ給うに謝しまする。われらが漢王室の弥栄を」
 亡き母から躾けられて、三歳の頃から唱えている言葉を発した。いまでは、傍らの我が龍も心の中で同じ言葉を浮かべてくれているのであろうことを思うと、とても益州牧とは思えぬ粗食すらも彼は毎日うまい。

 淡い味わいをゆっくりと摂りながら、来年そして再来年、漢中のあたりの騒がしさは大きくなってゆくであろうことを心にかける。戦乱はまだまだ続く。
「そうじゃ。成都に入って以来、後回しにしていたことがあった」
「どのようなことで、ございましょう」
「そなた、よい鍛冶屋を知らんか。いや、歯車のほうではのうて、剣の、じゃ」

 彼は、我が龍の特に秀でた部分のひとつが、主に物流のための発明であり、回転を発するための部品の鋳造を得意とする鍛冶屋と昵懇であることを即座に思いあわせて、言葉を補った。
「趙将軍が、よい剣匠をご存知でございます」
「ほう。目ざといのう」
 その者の姓名を待ったが、我が龍は春のせせらぎを思わせる微笑みを浮かべるばかりで、つづきを言わなかった。本当は話したくてうずうずしている時の癖である。

「まさかとは思うが、青釭の剣を研ぎにやったのか」
 常山趙子龍は器用な性質に加え、上将になった今でも武具と馬の手入れは人任せにしないこだわりを持っている。
「それは、趙将軍をお召しになってお聞きあそばせば、なにかお心を動かす風情があるかもしれませぬ」
「ふむぅ」
 
 彼は粥の中の胡桃が、淡い味わいに変化を添える味覚とほどよい硬さの食感を楽しみながら飲み下し
(その、まさかか)
 と踏むと、どんな鍛冶屋か興味をおぼえて、龍はどの程度知っているのかとかまをかけてみた。
「そりゃ、お前もその『まさか』を、あ奴から聞きたいのではないか」
「お見通しでございますか」
「ハハ。わかりやすいことを。ここのところ多忙で、世間話の暇もままならず、らしくもなく遠慮しておったのか」
「『らしくもなく』とは。如何様でございましたならば『らしい』のでございますか」
 龍は少しふくれてみせた。もちろん、わざとである。
「そうじゃな、その扇を大地と平行にすっと構えて先を指し示し、『趙雲を召せ』と伝令に命ずる風かな」
「……それは、戦場ではいたします……必要でございましたならば」
 彼以外の前では猫をかぶっている白い龍は、淡く頬を染めて俯いて口ごもった。

 日をおいて、彼に朝粥に招かれた一身胆の将軍は、二人の前でひと月ほど遡る出来事を語った。

 枯葉が舞う成都の大街を私用で歩いていると、胡同の突き当りの門の奥に人だかりを認めた。
「何の騒ぎだ」
「聞いてまいります」
 連れ歩いている若い小者が機敏に見聞きして及んだ注進によれば、三歳の童が井戸に落ちたということだった。聞くやいなや、趙子龍は風のように走りこんでゆく。

 井戸端に取りすがって若い女が泣いて子の名を叫んでいる。縄は調達してあったが地に這っているだけで、周りにはあいにく女と年寄りしかおらず、誰かを呼びにはやったのかもしれないが、皆、おろおろするばかりだった。
「縄を寄越せ。縄尻を木にゆわえ、皆で押さえてくれ。急げ!」
 言うが早いか、一身胆の将軍は胴を二重に縄でくくりながら井戸端に駆け上ると、縄をぴんと張っておのれの下知を確かめ、さっと井戸の中に消えた。

「命の恩人に拝礼いたします」
 多少の怪我はあったものの、落ちた時には気絶していたらしく、ほとんど水を飲んでいなかった我が子を抱いて、女は地に伏した。
「お立ちなさい。それがしが助けたのではない。天がそれがしに助けさせたのだ。天運にこそ感謝されよ」
「お礼はなんにもできませんが、うちの爺様が腕のいい鍛冶屋です。ひとつふたつ、研がせてやってくださいまし」
 と言って、ずぶ濡れの裾にとりすがり離さないので、この際、婦人の気が済めばよかろうと懐の匕首を与えて
「それがしは、常山趙子龍」
 と名乗ってその場は立ち去ったのだった。

 十日もしてから門前の小者の取り次ぎを経て胆の将軍のもとに戻った匕首は、あの伝説の徐夫人の匕首もかくやと思えるばかりの、ぞっとするほど冴え冴えとした仕上がりであった。

「ほほう。それで青釭の剣を預ける気になったか」
「はい。しかも、この話には続きがございます」
 あまりに見事な腕前なので、趙子龍は、益州の上将として老人を訪れるのではなく、武芸者常山趙子龍としてまみえたく、わざと素服でひとりで会いに行った。

 老人は
「孫めの命の恩人に拝礼いたします」
 と、跪くので、手をあげさせるのに嫁のときの三倍は時間がかかった。
 互いに北方訛りであるところから打ち解け始めて
「わしゃ、龍淵村の出身ですだ」

 茶を振舞われながら来し方などの世間話に花が咲いた。

「あの辺はもうすっかり曹公のものになっちまいましたなあ。曹公は金に糸目はつけないし目利きだが、細けえ。そのうえ、癇が強い気分屋ときなさってますだ。注文以上の出来栄えの剣をこしらえても、虫の居所が悪かったり剣匠の誇りが鼻についたりしたらそれで終いですだ。長く付き合うには骨が折れる。命がいくつあっても足りねえですだよ。そのうち、曹公のためにだけ剣を鋳さにゃならなくなるのかと思うたら、おっかねくてですなぁ。親戚を頼って益州にのがれてきたってわけですだ。ところが益州は戦がこれっぽっちもねえ。商売あがったりで、鉈や斧ばっかりで。民具は平和でいいが、儲からねえです」

 ハハと短く笑った中に、平凡であっても平坦な人生ではなかったことが醸されている。趙子龍は、たとえ腕は立ったとしても芸術家肌の剣匠は好まず、こういう実直な雰囲気の人物がすきであった。いよいよ、青釭の剣の手入れを任せたいと思い
「実は、ぜひおりいって、この剣を」
 と、一度も他人に渡したことがないひとふりを、警戒もなく差し出した。
「長いこと、兵器はやってないですで。しかも、こりゃ、かなりの……?」
 少し口を切って鼻柱を近づけただけで、老人は厚い瞼に埋もれたような細い垂れ目を見開きはったと睨みをくれたかと思うと、炭火に碗の茶水をぶちまけて灰神楽を見舞い、手にした青釭剣で斬りつけてきた。

 もとより遅れをとる趙子龍ではなく、かすりもしなかったが
「ご老人、待たれよ。いかがなさった」
 親の仇を見つけたような様相に困惑しながら、灰を吸い込まぬように咄嗟に片袖で鼻から下を覆い、剣筋を見切るやいなや瞬時に間合いを詰めて、掌と掌の間に剣を挟み込んで封じると、老人ごとねじ伏せてしまった。

 老人は悔しげに呻き、渾身の一撃を軽くかわされてあっさりと取り押さえられたこの状況に、逆上から我を取り戻しつつあるのか、おのれで巻き上げた灰に噎せて咳き込みはじめながら、どこにそれだけの声量を隠していたかという一喝をくれた。
「曹公の手の者め! 騙されんぞ!」
「なぜそれがしを、曹賊の手の者というか」
「ほざけ! 倚天剣の匂いがする!」

 咳き込みを続ける老人の手から青釭の剣をひきはがし、鞘に収めもせずに趙子龍は老人の背をさすった。
「たしかにこれは曹賊のもとにあった剣です。しかし、まずお聞きくだされ。それがしの話に不審があれば、喜んで斬られよう」

 胆の将軍は、昔日、槍にも剣にも血潮と脂が回って棒の如きになって、懐には主君の世嗣、周りは雲霞のごとき大軍に、さすがに窮しておったところ、屍からやむなく奪ったこの剣のことを語った。

 このことについて世人のなかには「趙子龍とて人の子、物欲もあろうというもの」と、暗に名剣欲しさに敵将を討ち取ったという見方をする者もないわけではないが、やむを得なかった後に「あの時はかたじけのうござった」と、敵国にその剣を返しにゆく馬鹿がどこに居よう。


「あやうく、青釭の剣に斬られるところでした」
 人をかつごうとする不思議話にも聞こえようことに照れて、胆の将軍は珍しく曖昧な笑みを浮かべていた。
「思えば以来あの剣とは幾多の戦いを乗り越え、いま異郷の匠に委ねて損なうどころか、若返ったかのようでございます」
「匂いとはまた、風変わりな」
「そうなのでございます。妙なおやじだと思いましたが」
 剣は拵えもすっかり変わっていたというのに素性を察するとは、只者ではない。

 老人について会話する君臣の様子を見ながら、趙子龍はふと
(すると、赤壁のみぎり、それがしが曹操を討ち取れなかったのは、よもや……?)

 青釭剣が倚天剣との争いを避けようとしたためもあるのだろうか、そして、そこまで龍の軍師は見通していたのだろうかと、かすかに背を寒くした。その寒気は、目に見えぬ因縁に対してか、彼らの軍師の神算に対する畏れからなのか、判じ難かった。