今上の叔父の膝元となり平穏を取り戻した益州の清江にかかる橋の前で、騎馬の旅人数名の淡い影が歩みを止めた。
橋の向こうを仰ぎ見ると、黒黒とした重厚な城墙の正面には古い書体で「天府南門」と刻んであり、城墙の上の「劉」の旗が緩やかに一行を招く。
空はこの国の特徴を示して薄い灰色を呈しながらも、金木犀の残り香が秋であることを一行に告げる。
襄陽を発つときは抜けるような青空だったものを、この山国へと西へ向かう道すがら次第に曇りがちになり旅塵も重く感ぜられていたが、橋の向こうの城墙に穿たれた通り道から垣間見える街の賑わいに包まれ、一行の疲れは半ば散じた。
南門の門番は、今月の襄陽からの使者は関将軍の長子であることを知らされており、並足で進んできた一行のなかから目ざとく若者を見つけて、その馬前へ駆け寄って拱手した。
「襄陽からのお使者でしょうか」
若者は馬上で慇懃に拱手を返して
「いかにも。拙者、二将軍の使者として襄陽から参った関平でござる。お役目ご苦労に存ずる」
と、挨拶を兼ねた口上を自ら述べ、少しも驕った態度を見せない。
「これは平公子。みなさま、遠路お疲れ様でした。どうぞお通り下さい」
「かたじけない」
この国のあるじである今上の叔父は、関平の父の義兄である。
下々にとっては、関平はこの国のあるじの義理の甥ということになり、関平が若輩であろうとなかろうと敬わざるをえない。
関平は、父という猛虎の威を笠に着ているように見えることだけは避けたく思う性分のため、誰に対しても丁寧に応じるように心がけている。
その腰の低さがかえって周りから好感を持たれるためか、関平は長子ではあっても養子であり、嫡流ではないにも関わらず一目おかれているといえた。
一行は馬の歩みを進めた。
風に靡く柳と酒楼の旗は街並みに色を点じ、軒を連ねる茶楼の佇まいは卑しからず、物売りの声には、西の訛りの中に古風で床しい言い回しが多く、時さえ許すならば一軒ずつ様子を覗ってみたいと思わせる風情に満ちて、しかも道行く女に美人が少なくない。旨そうな料理の香りも漂ってくる。
(ここが成都か……。襄陽にひけをとらない)
関平は景観に見とれ
(「無孔笛」のような茶楼もありそうではないか。……大楽のような歌姫も……)
と、思わず手綱を引きそうになった。
しかし瞬時に役目を思い出して前方を見据えると、懐中の感触を確かめてから馬の腹を軽く蹴った。
一行は、「老王府」と民が呼びならわしている益州の主の邸へ至り、あるじに謁した。
益州のあるじたる彼は、かつて襄陽で見慣れていたとおりの質素ないでたちで、この世で一条の白き龍を傍らにして、おっとりと座っていた。
「微臣関平、主公にお目通りいたします」
「久しいのう」
「はっ」
彼の眸には、最も年長の甥の姿は次代の象徴として映り、倅とこの子らの代になるまで老いを感じている暇などないと我が身を叱咤するに足る。
かわいい子には旅をさせよ、の言い習わしも無論のことだが、これから当分の間は都といえばこの成都になる以上は、おのれがいまだ見ぬ都を兵事のないうちに長子にだけは見せておきたい
という義弟の親心も感じ取ると、益州と荊襄とを保ち、来たるべき日を期する覚悟を新たにするのみである。
「礼を免ずる。面をあげよ」
関平は姿勢を正し、彼と視線をかわすや
(ああ。伯父上。お髪に、白いものがお増えになった)
心のうちで微かな悲しみを覚えた。
先の戦いでは鳳の軍師をはじめ多くを失い、かなりの痛手と引き換えにこの益州を手に入れたその艱難が、彼のかおばせの皺をも更に深めたように見えるが、眼差しはいよいよ温厚にして慈
悲深い。
「遠路ご苦労であったな。よう参った」
「もったいのうございます」
関平は彼の傍らの白い龍に対しても続いて拱手し
「軍師」
と言葉少なに挨拶した。
「平公子」
龍も白羽扇を横たえて袖を揃えて一礼を返す。
黒い装束と漆黒の髪はその白皙の透明感を引き立てて、龍のまわりだけ仙境の風薫るが如しである。
(……軍師は昔から、なぜかお年を召されぬな。……召されぬどころか)
明らかに齢を重ねてゆく彼の傍らに変わりもなく白く侍っているので、この主従の年齢が年ごとに離れてゆき、おのれと龍の軍師の年齢が縮まってゆくような錯覚に陥った。
「堅苦しい挨拶はぬきじゃ。二弟……そちの厳父も恙ないか」
「はい。ご安心ください」
おっとりと、伯父と甥らしい温かなやりとりが続く。
関平は、伯父たる彼と和やかに会話を重ねながら、この老王府を初めて訪れたというのに以前から知っていたような不思議な感覚に捉われた。
ひとしきり襄陽の世間話をしたあと、関平は頃合いを見て使者としての趣を述べ
「……別して、お預かりの書簡がございます。一通は主公へ父より、いま一通は軍師へ白眉先生からでございます」
と言い添えた。
関平の口上を耳にすると、彼は傍らの龍に眸を移した。
その刹那に関平は
(なんだろうか、今……。どきりとしてしまった)
と、内心うろたえた。
この主従を前にして、襄陽でもこのようなことがあったはずだが、しばらく見ていなかったためであろうか。なにやら、秋であるのに春めいている気さえしてくる。
何のことはない、彼は
「孔明」
と呼びもせず、ただ我が龍と視線を絡ませただけで目配せとすら言えない風情で、頷きあうこともなかった。それだけのことである。
ただそれだけで、まるで彼の心がたちまちに伝わった様子で、龍は脇に控える侍従に対して白羽扇の先を微かに動かして指示を与えたのだった。
関平は二人控える家僕のうち、竹簡の束をおさめた盒ではなく、書簡を乗せた盆を捧げ持っている者のほうへ軽く頷き、侍従を介して彼らへと取り次がせた。
役目を終えた関平一行は、叔父の張将軍の邸へ赴いた。
秋ごろに襄陽へゆくかもしれぬことは随分前に知らせてはあったうえに、関平は叔父に可愛がられており、堂弟の苞とも幼時から気が合ったので歓迎を受けるは必定である。
それに、老王府の客舎や余所に泊まったりしたなら
「なんだとぉ? 平の奴め、俺様の邸に泊まらずに襄陽に帰っただとぉ? 水臭えことしやがって義兄弟の誓いを何だと思ってやがる! ようし、関羽のアニキに言いつけて灸を……いや、俺様のこの手で鉄拳制裁あるのみだ! 覚えてやがれよクソガキ!」
と、おそらくこれ以上の剣幕で後日かならず張将軍に雷を落とされる。
秋の月を肴に、庭園の小亭に酒席が用意され、関平と堂弟の苞は飲み始めていた。
「……美味だな。成都の酒も」
「そうだろ? 親父殿に飲ませるのは惜しいぐらいさ」
苞は上機嫌である。互いに酒量も分かっているし、関平となら昔から気楽に何でも話せる。
酒のあてに、塩茹でした落花生が出されたことが関平には嬉しかった。
叔父の張将軍の糟糠の妻は料理が達者で、廉くて美味いものを拵えては劉家の軍中の者どもに振る舞って蔭ながら士気を支えてきた功名の持ち主である。
落花生の塩茹でそのものが嬉しいはもちろんのこと、今や成都の上将の正夫人が、関平の好物をいまだに覚えていてくれ、厨房で差配してくれたのであろうことこそが嬉しい。
「叔父上は酒豪だからな」
「酒癖悪いけどな」
ハハハ、と二人は声を揃えて笑った。叔父、そして父の昔からの酒の上での失態をいくつも知っている。だが、その失態を取り返して余りあるほどの豪勇を鳴らしてきたことも忘れはしないので笑えるのだ。
落花生を齧ると、絶妙な塩加減と歯触りと共に、関平の胸にすとんと落ちるものがあった。
(そうか。襄陽はもちろん、新野の頃の軍師は、あのようなご様子だった)
さきほど、初めて訪れた老王府でいだいた感覚は、関平が幼いころから見ていたあの主従の昔の様子に似ていた記憶がもたらしたかと腑に落ちた。
それは、懐かしさというものに似ていた。
先年まで、巨漢の父と声のでかい叔父とを筆頭に古参の将どもに囲まれて襄陽を守っていた龍の軍師は、青白い顔色をして笑顔も少なく、弾く者のいない名琴のようであった。
関平の記憶の中で最も新しい龍の姿はこのようであったので、あの主従が当たり前のように穏やかに打ち揃って並んでいることと、龍が昨日召しだされたばかりのように白く照らし出されて若返ったが如くであったことを改めてその目でしかと見たがゆえに、むかし体感したあの先行きの明るさに今日ふたたび浴したのかも知れなかった。
それと同時に、あの春の日に突然に、伯父たる彼が
「臥龍先生、臥龍先生」
の病に罹ってしまい、父と叔父の鬱憤が日増しに蓄積されていったあの一時期を思い出す。
当時まだ幼かった自分には、このあたりの心の機微が良くわからなかった。
しかも、病なら癒えようがこれは病ではない。
そして、長じた今ならばあの主従のありようと、伯父と父と叔父の三兄弟の情誼について理解できるのかといえば、ますます分からない。
少年関平の隣で、あの光景を日々もう一度ともに見たとしても、若い軍師に熱を上げる初老の男がおかしいのか、それとも新参の軍師を嫉視する初老の男たちの方ががおかしいのか、青年関平は少年関平が納得する答えを言える自信がない。
関平はふと天をあおぎ、父が守っている襄陽を思った。
「月暈か。襄陽では見たことがないな」
「んーそうだったか? 平大哥もここに住めばすぐ見慣れるさ。もう一献」
「おう」
もともと、苞は月齢以外について月に興味はない。
「平大哥さ。ゆっくりしていけるのか?」
「いや。主公と軍師がお下知をお決めになるまでだ。四、五日、ってとこだろうな」
「……だよな。……平大哥は特別扱い好まんのだろうし、関二伯も長逗留なんて許さんよな」
「よくわかってるじゃないか」
「……。関二伯は武人の鑑ってやつで……さ。スゲー立派で……さ。正直言って俺、さ……」
苞の脳裏に、身の丈九尺、八十二斤の偃月刀を携えて赤い馬を駆り、黒い長髯をなびかせる寡黙な武人の雄姿がうかんでいるであろうことが、関平にも伝わってくる。
あの容姿には、父と思えば誇りを覚え、そして武人としては遠く及ばぬ憧れの如きものを感じてならない。
「自分自身の父上だとしたらキツいと思う、か?」
「いやいやいやいや。そんな。うちの親父殿がテキトーで飲んだくれなもんだからさ、関二伯の前に出ると俺、いつも緊張しっぱなしなだけさ」
全力で否定して当代一の武将に敬意を表しながらも、明らかに敬遠の趣である。
「ハハハ。暇さえあれば武芸か春秋だからな。うちの父上は。……張三叔はいつも優しいのがいい」
「優しいいぃい? 親父殿がかぁ?」
「あれ。気が付いてないのか?」
関平にとって関将軍は厳格な父であるため、人懐こく口数が多く情に脆い張将軍は父と対照的で、年長者としてまた魅力的に映る。
この若者は人の長所に気づきやすいという美点に恵まれているともいえる。
虫の声が、ふたりだけの気楽な宴会に賑わいを添えている。
「それで。成都に来てから、どんな具合だ?」
「……平大哥……それなんだけどさー」
がらにもなく歯切れが悪い。
「なんかもー。そんなガラじゃねーっつーのにさ、若い武者どもの束ね役みたいなお鉢が回って来そうで困るんだよ……。平大哥に成都に来てもらえたらなーってさ、ずっと思ってるんだけどさ。親父殿はそういう話、からっきしダメでさ」
関将軍には二人の息子がおり、長子が養子の平、次男が実子の興である。
平と苞は仲が良いが、興と苞はあまり馬が合わないようだった。
関平としては二弟の興と堂弟の苞とがもう少し打ち解けてくると、遠く離れた益州と荊州が次代もうまくゆくように思えるので、機会をうかがっている。
もし苞が考えるようなことが実現するならば、むしろ興が成都に来たほうが良いのかもしれないという考えがよぎったが
「それは主公と父上と叔父上が……。というか、軍師がお決めになることだな」
と濁すにとどめた。
「そっか。……そだよな」
「いよいよ無理と思ったら趙の叔父上もお頼りしろよ。問題ない」
「うん」
この先の国の行く末など分からぬ若いふたりにも、この国のありかただけはうすうす分かってきている。
この国では、あるじが擁する白い龍の一声でほぼ物事が決するのだ。
その神算に誤りなきに等しい以上は、誰しも従うのみである。
ふたりは黙然と燗酒を飲みほした。
「そうなると文字通り、走馬看花だな。街案内もそこそこにお帰りかぁ」
「……また来ることもあるだろう。そうだ堂弟。成都で一押しの店に行っておきたいんだが。
明日か明後日」
「ん? 酒楼? 妓楼? ……じゃねえよな。えーと、茶楼だよな」
「そうそう」
関平は、酒と白粉ぬきで楽の音を聞くことが好きなのだ。
「ってかさ、茶楼とか俺に聞くかよ平大哥。明日、誰かに聞いてみるとしようぜ」
苞は向日葵の種を煎ったものを前歯で挟むと巧みに殻を割り、話しながら次々と中の核を平らげては、殻の山を築きつづけている。
「おいおい。余所者に紹介できる茶楼のひとつも知らないのか?」
「知るわけないさ。だってさ、俺と茶を飲む奴なんていねーもん。平大哥が行くからついてってただけさ。いつも」
張府のあるじは外の城を守っているので、邸はこのところ静かだったが、ひさびさに華やぎを取り戻した風であった。
(二)へつづく
橋の向こうを仰ぎ見ると、黒黒とした重厚な城墙の正面には古い書体で「天府南門」と刻んであり、城墙の上の「劉」の旗が緩やかに一行を招く。
空はこの国の特徴を示して薄い灰色を呈しながらも、金木犀の残り香が秋であることを一行に告げる。
襄陽を発つときは抜けるような青空だったものを、この山国へと西へ向かう道すがら次第に曇りがちになり旅塵も重く感ぜられていたが、橋の向こうの城墙に穿たれた通り道から垣間見える街の賑わいに包まれ、一行の疲れは半ば散じた。
南門の門番は、今月の襄陽からの使者は関将軍の長子であることを知らされており、並足で進んできた一行のなかから目ざとく若者を見つけて、その馬前へ駆け寄って拱手した。
「襄陽からのお使者でしょうか」
若者は馬上で慇懃に拱手を返して
「いかにも。拙者、二将軍の使者として襄陽から参った関平でござる。お役目ご苦労に存ずる」
と、挨拶を兼ねた口上を自ら述べ、少しも驕った態度を見せない。
「これは平公子。みなさま、遠路お疲れ様でした。どうぞお通り下さい」
「かたじけない」
この国のあるじである今上の叔父は、関平の父の義兄である。
下々にとっては、関平はこの国のあるじの義理の甥ということになり、関平が若輩であろうとなかろうと敬わざるをえない。
関平は、父という猛虎の威を笠に着ているように見えることだけは避けたく思う性分のため、誰に対しても丁寧に応じるように心がけている。
その腰の低さがかえって周りから好感を持たれるためか、関平は長子ではあっても養子であり、嫡流ではないにも関わらず一目おかれているといえた。
一行は馬の歩みを進めた。
風に靡く柳と酒楼の旗は街並みに色を点じ、軒を連ねる茶楼の佇まいは卑しからず、物売りの声には、西の訛りの中に古風で床しい言い回しが多く、時さえ許すならば一軒ずつ様子を覗ってみたいと思わせる風情に満ちて、しかも道行く女に美人が少なくない。旨そうな料理の香りも漂ってくる。
(ここが成都か……。襄陽にひけをとらない)
関平は景観に見とれ
(「無孔笛」のような茶楼もありそうではないか。……大楽のような歌姫も……)
と、思わず手綱を引きそうになった。
しかし瞬時に役目を思い出して前方を見据えると、懐中の感触を確かめてから馬の腹を軽く蹴った。
一行は、「老王府」と民が呼びならわしている益州の主の邸へ至り、あるじに謁した。
益州のあるじたる彼は、かつて襄陽で見慣れていたとおりの質素ないでたちで、この世で一条の白き龍を傍らにして、おっとりと座っていた。
「微臣関平、主公にお目通りいたします」
「久しいのう」
「はっ」
彼の眸には、最も年長の甥の姿は次代の象徴として映り、倅とこの子らの代になるまで老いを感じている暇などないと我が身を叱咤するに足る。
かわいい子には旅をさせよ、の言い習わしも無論のことだが、これから当分の間は都といえばこの成都になる以上は、おのれがいまだ見ぬ都を兵事のないうちに長子にだけは見せておきたい
という義弟の親心も感じ取ると、益州と荊襄とを保ち、来たるべき日を期する覚悟を新たにするのみである。
「礼を免ずる。面をあげよ」
関平は姿勢を正し、彼と視線をかわすや
(ああ。伯父上。お髪に、白いものがお増えになった)
心のうちで微かな悲しみを覚えた。
先の戦いでは鳳の軍師をはじめ多くを失い、かなりの痛手と引き換えにこの益州を手に入れたその艱難が、彼のかおばせの皺をも更に深めたように見えるが、眼差しはいよいよ温厚にして慈
悲深い。
「遠路ご苦労であったな。よう参った」
「もったいのうございます」
関平は彼の傍らの白い龍に対しても続いて拱手し
「軍師」
と言葉少なに挨拶した。
「平公子」
龍も白羽扇を横たえて袖を揃えて一礼を返す。
黒い装束と漆黒の髪はその白皙の透明感を引き立てて、龍のまわりだけ仙境の風薫るが如しである。
(……軍師は昔から、なぜかお年を召されぬな。……召されぬどころか)
明らかに齢を重ねてゆく彼の傍らに変わりもなく白く侍っているので、この主従の年齢が年ごとに離れてゆき、おのれと龍の軍師の年齢が縮まってゆくような錯覚に陥った。
「堅苦しい挨拶はぬきじゃ。二弟……そちの厳父も恙ないか」
「はい。ご安心ください」
おっとりと、伯父と甥らしい温かなやりとりが続く。
関平は、伯父たる彼と和やかに会話を重ねながら、この老王府を初めて訪れたというのに以前から知っていたような不思議な感覚に捉われた。
ひとしきり襄陽の世間話をしたあと、関平は頃合いを見て使者としての趣を述べ
「……別して、お預かりの書簡がございます。一通は主公へ父より、いま一通は軍師へ白眉先生からでございます」
と言い添えた。
関平の口上を耳にすると、彼は傍らの龍に眸を移した。
その刹那に関平は
(なんだろうか、今……。どきりとしてしまった)
と、内心うろたえた。
この主従を前にして、襄陽でもこのようなことがあったはずだが、しばらく見ていなかったためであろうか。なにやら、秋であるのに春めいている気さえしてくる。
何のことはない、彼は
「孔明」
と呼びもせず、ただ我が龍と視線を絡ませただけで目配せとすら言えない風情で、頷きあうこともなかった。それだけのことである。
ただそれだけで、まるで彼の心がたちまちに伝わった様子で、龍は脇に控える侍従に対して白羽扇の先を微かに動かして指示を与えたのだった。
関平は二人控える家僕のうち、竹簡の束をおさめた盒ではなく、書簡を乗せた盆を捧げ持っている者のほうへ軽く頷き、侍従を介して彼らへと取り次がせた。
役目を終えた関平一行は、叔父の張将軍の邸へ赴いた。
秋ごろに襄陽へゆくかもしれぬことは随分前に知らせてはあったうえに、関平は叔父に可愛がられており、堂弟の苞とも幼時から気が合ったので歓迎を受けるは必定である。
それに、老王府の客舎や余所に泊まったりしたなら
「なんだとぉ? 平の奴め、俺様の邸に泊まらずに襄陽に帰っただとぉ? 水臭えことしやがって義兄弟の誓いを何だと思ってやがる! ようし、関羽のアニキに言いつけて灸を……いや、俺様のこの手で鉄拳制裁あるのみだ! 覚えてやがれよクソガキ!」
と、おそらくこれ以上の剣幕で後日かならず張将軍に雷を落とされる。
秋の月を肴に、庭園の小亭に酒席が用意され、関平と堂弟の苞は飲み始めていた。
「……美味だな。成都の酒も」
「そうだろ? 親父殿に飲ませるのは惜しいぐらいさ」
苞は上機嫌である。互いに酒量も分かっているし、関平となら昔から気楽に何でも話せる。
酒のあてに、塩茹でした落花生が出されたことが関平には嬉しかった。
叔父の張将軍の糟糠の妻は料理が達者で、廉くて美味いものを拵えては劉家の軍中の者どもに振る舞って蔭ながら士気を支えてきた功名の持ち主である。
落花生の塩茹でそのものが嬉しいはもちろんのこと、今や成都の上将の正夫人が、関平の好物をいまだに覚えていてくれ、厨房で差配してくれたのであろうことこそが嬉しい。
「叔父上は酒豪だからな」
「酒癖悪いけどな」
ハハハ、と二人は声を揃えて笑った。叔父、そして父の昔からの酒の上での失態をいくつも知っている。だが、その失態を取り返して余りあるほどの豪勇を鳴らしてきたことも忘れはしないので笑えるのだ。
落花生を齧ると、絶妙な塩加減と歯触りと共に、関平の胸にすとんと落ちるものがあった。
(そうか。襄陽はもちろん、新野の頃の軍師は、あのようなご様子だった)
さきほど、初めて訪れた老王府でいだいた感覚は、関平が幼いころから見ていたあの主従の昔の様子に似ていた記憶がもたらしたかと腑に落ちた。
それは、懐かしさというものに似ていた。
先年まで、巨漢の父と声のでかい叔父とを筆頭に古参の将どもに囲まれて襄陽を守っていた龍の軍師は、青白い顔色をして笑顔も少なく、弾く者のいない名琴のようであった。
関平の記憶の中で最も新しい龍の姿はこのようであったので、あの主従が当たり前のように穏やかに打ち揃って並んでいることと、龍が昨日召しだされたばかりのように白く照らし出されて若返ったが如くであったことを改めてその目でしかと見たがゆえに、むかし体感したあの先行きの明るさに今日ふたたび浴したのかも知れなかった。
それと同時に、あの春の日に突然に、伯父たる彼が
「臥龍先生、臥龍先生」
の病に罹ってしまい、父と叔父の鬱憤が日増しに蓄積されていったあの一時期を思い出す。
当時まだ幼かった自分には、このあたりの心の機微が良くわからなかった。
しかも、病なら癒えようがこれは病ではない。
そして、長じた今ならばあの主従のありようと、伯父と父と叔父の三兄弟の情誼について理解できるのかといえば、ますます分からない。
少年関平の隣で、あの光景を日々もう一度ともに見たとしても、若い軍師に熱を上げる初老の男がおかしいのか、それとも新参の軍師を嫉視する初老の男たちの方ががおかしいのか、青年関平は少年関平が納得する答えを言える自信がない。
関平はふと天をあおぎ、父が守っている襄陽を思った。
「月暈か。襄陽では見たことがないな」
「んーそうだったか? 平大哥もここに住めばすぐ見慣れるさ。もう一献」
「おう」
もともと、苞は月齢以外について月に興味はない。
「平大哥さ。ゆっくりしていけるのか?」
「いや。主公と軍師がお下知をお決めになるまでだ。四、五日、ってとこだろうな」
「……だよな。……平大哥は特別扱い好まんのだろうし、関二伯も長逗留なんて許さんよな」
「よくわかってるじゃないか」
「……。関二伯は武人の鑑ってやつで……さ。スゲー立派で……さ。正直言って俺、さ……」
苞の脳裏に、身の丈九尺、八十二斤の偃月刀を携えて赤い馬を駆り、黒い長髯をなびかせる寡黙な武人の雄姿がうかんでいるであろうことが、関平にも伝わってくる。
あの容姿には、父と思えば誇りを覚え、そして武人としては遠く及ばぬ憧れの如きものを感じてならない。
「自分自身の父上だとしたらキツいと思う、か?」
「いやいやいやいや。そんな。うちの親父殿がテキトーで飲んだくれなもんだからさ、関二伯の前に出ると俺、いつも緊張しっぱなしなだけさ」
全力で否定して当代一の武将に敬意を表しながらも、明らかに敬遠の趣である。
「ハハハ。暇さえあれば武芸か春秋だからな。うちの父上は。……張三叔はいつも優しいのがいい」
「優しいいぃい? 親父殿がかぁ?」
「あれ。気が付いてないのか?」
関平にとって関将軍は厳格な父であるため、人懐こく口数が多く情に脆い張将軍は父と対照的で、年長者としてまた魅力的に映る。
この若者は人の長所に気づきやすいという美点に恵まれているともいえる。
虫の声が、ふたりだけの気楽な宴会に賑わいを添えている。
「それで。成都に来てから、どんな具合だ?」
「……平大哥……それなんだけどさー」
がらにもなく歯切れが悪い。
「なんかもー。そんなガラじゃねーっつーのにさ、若い武者どもの束ね役みたいなお鉢が回って来そうで困るんだよ……。平大哥に成都に来てもらえたらなーってさ、ずっと思ってるんだけどさ。親父殿はそういう話、からっきしダメでさ」
関将軍には二人の息子がおり、長子が養子の平、次男が実子の興である。
平と苞は仲が良いが、興と苞はあまり馬が合わないようだった。
関平としては二弟の興と堂弟の苞とがもう少し打ち解けてくると、遠く離れた益州と荊州が次代もうまくゆくように思えるので、機会をうかがっている。
もし苞が考えるようなことが実現するならば、むしろ興が成都に来たほうが良いのかもしれないという考えがよぎったが
「それは主公と父上と叔父上が……。というか、軍師がお決めになることだな」
と濁すにとどめた。
「そっか。……そだよな」
「いよいよ無理と思ったら趙の叔父上もお頼りしろよ。問題ない」
「うん」
この先の国の行く末など分からぬ若いふたりにも、この国のありかただけはうすうす分かってきている。
この国では、あるじが擁する白い龍の一声でほぼ物事が決するのだ。
その神算に誤りなきに等しい以上は、誰しも従うのみである。
ふたりは黙然と燗酒を飲みほした。
「そうなると文字通り、走馬看花だな。街案内もそこそこにお帰りかぁ」
「……また来ることもあるだろう。そうだ堂弟。成都で一押しの店に行っておきたいんだが。
明日か明後日」
「ん? 酒楼? 妓楼? ……じゃねえよな。えーと、茶楼だよな」
「そうそう」
関平は、酒と白粉ぬきで楽の音を聞くことが好きなのだ。
「ってかさ、茶楼とか俺に聞くかよ平大哥。明日、誰かに聞いてみるとしようぜ」
苞は向日葵の種を煎ったものを前歯で挟むと巧みに殻を割り、話しながら次々と中の核を平らげては、殻の山を築きつづけている。
「おいおい。余所者に紹介できる茶楼のひとつも知らないのか?」
「知るわけないさ。だってさ、俺と茶を飲む奴なんていねーもん。平大哥が行くからついてってただけさ。いつも」
張府のあるじは外の城を守っているので、邸はこのところ静かだったが、ひさびさに華やぎを取り戻した風であった。
(二)へつづく