天府南門橋(二)

2018/11/24

3世紀長編 天府南門橋


 そのころ、今上の叔父は老王府の書房で龍を待っていた。

 いつでも龍を待ちわびて年甲斐もなく室内をうろうろとしている日ごろの姿とは違い、珍しく案を前に座り、昼間の書簡を披見していた。
 ややあって溜息をついて瞑目すると、案に片肘をたてて眉間に手を遣った。

 ちょうど観星臺から戻り書房のそばまで戻ってきた彼の龍は
(我が君には、何かご心労が)
 そうと察して、その所以をさぐろうとし、取次の者が
「軍師がお越しです」
と声を張ろうとするのを白羽扇で制して廊の外で歩みを止め、彼の様子を覗おうとした。

「……孔明か。近う」
 彼は瞼を閉じて案に立てた腕の拇指と人差し指で疲れ目を圧さえた姿のままで、我が龍のあざなを呼んだ。

 いくら彼の巨きな耳であっても龍の忍びやかな足音をこの距離で聞きつけたとは思えないのだが、呼ばれてしまった以上は入室するほかはない。
「天文のご報告に参じました」
「うム、これへ参れ」
 彼は疲れ目をほどいて柔和な視線を我が龍に注いだ。

 その巨きな耳が何も聞きつけぬのに、金木犀の薫りが薄れた秋の宵に、廊からの微風にふと淡くまろやかな香りが加わり漂ったのであれば、彼の掌中の珠玉が音もなくあらわれたしるしに他ならぬのだ。
 
「先生に茶を」
 侍従どもが既に茶の準備をしていることを知ったうえで彼は習慣的に命じ、案を離れて階を降り茶を喫するための卓の前へ歩を進めて龍を手招きする。

「益州は曇りがちというに。今宵も臥龍先生の目には何が見えたやら、じゃの」
そう言いながら腰をおろしてから袖口を軽く整えて向かい合った彼は、昨夜と同じに見えた。

「風の色、雲の流れにも、なにがしかの気配がございます」
「星ばかりが天文ではないというか。すると儂の待ち呆けは荊州の頃とかわらぬということだな。残念じゃのう」
 彼は明朗に笑ったが、今宵に限っては待ち呆けていたわけではなかったことから話を逸らそうとしているようにも聞こえた。

 彼は我が龍に対して滅多に隠し事をしない。
 政治向きの話はもちろんのこと、義兄弟間のつまらぬ諍いまで笑い話に仕立てて聞かせることさえある。

 あの憂い顔の理由を探すならば、昼間にもたらされた関将軍の書簡であろうと思われたが、彼は私信さえも龍に披見させることが多いというのにそうしなかったので内容は分からない。

 ひとつ明らかなのは政治向きの内容ではないであろうことである。
 関将軍は政治的な駆け引きが苦手で、報告書に記録することではない懸案事項などは全て馬季常に任せている。馬季常は必要に応じて関将軍の代理として細かい相談事は龍に書き送っているという按配であるからだ。

 長兄であり主君である彼の意向を聞かずに兵事に及ぶことも断じてないであろうし、書簡の内容が軍事であったとしても、彼が言葉優しく窘めようから心配はない。
 関将軍の気性から考えて、将軍の加齢にともなう何かに関することでもないであろうし、かといって、大兄と離れて一人で留守する境遇が辛いという類の感傷を、あの誇り高き武人が書き送ってきたとも到底思えない。

(兵事でなければ。三の将軍が子初の件でおさまらぬことの取り成し……といった所だろうか)
 この義兄弟と龍との間で共通の悩み事というと、このことが最も目立った事柄に見える。

 茶を奉じる侍従の目に映るのは、天文の話題で茶を喫し和やかに談笑しているという、この主従のいつもの光景で、昨日までなかった何事かを今は心の隅で微かに気にかけあっていることなど気づきもしない。

「……ところでな。平はまた一段と大人びて参ったとはおもわぬか」
「はい。頼もしき限りでございます」
「聞いたか。開口一番『臣平、主公にお目通りいたします』であったぞ」
 彼は、甥の成長を喜ぶただの伯父という表情をして目尻を下げる。

「今宵は小宴をお張りあそばすかと存じておりましたが……」
「これこれ。無理を申すな孔明」
 平の義父である関将軍への気遣いも含んで、龍はこの言葉を選んだのかもしれぬことにも思い及んで、彼はおっとりと続けた。

「若い者の酒には付き合いきれぬ。この際は苞と仲よく飲み明かさせてやるのが良い伯父貴というものであろうが」
 彼は蓋碗を肉太な掌で囲んで暖を取るようにして笑んだ。
 隙間風が入り始める季節の宵に、彼のこのような姿をみとめると、蓋碗の中の湯茶の熱量が彼によって増幅して、そのぬくもりが室内に伝播しているかのように思えてくる。

「ご両人とも仲がおよろしく、喜ばしいことでございます」
「互いに豪傑を父に持ち、話すこともあろし。気も合うようじゃからの。それにじゃ」
 彼はおっとりと意味深長に呟くと、茶を啜った。
「平のほうが気を利かせた、とも見えなくはないのう。……まだ小童と思うていたが」

 このようなことに疎い龍は、彼が二口、三口と茶を啜っている間に昼間の様子を思い出した。


 関平は用向きを終えると
「主公、入蜀から日も浅く御用繁多と存じます。どうかお気遣いなく、張将軍の邸にてお下知をお待ちいたしますので、随時お召しください。これにて失礼つかまつります。軍師、これにて御免」
と、拱手を重ねてあざやかに退出していったのである。
 身の丈こそ違え、その拱手は義父の関将軍そっくりであった。

 その身のこなしを目にした時に龍は
(ああ。次世代もこのように成長している)
と、国の行く末に明るい光が差す様子に晴れ晴れとしていたのだが、かの若者の意図を今ようやく探り当てて、愛用の白羽扇を俄かにぱたぱたと使いだした。

 決して、気の置けない若い者同士で飲みたいだけの理由での退出ではなかったことを漸く察して、頬のあたりが上気している。

 忙しい白羽扇を尻目に
「平もそろそろ、嫁取りのことなど考えてやらねばのう」
 彼は内心で龍の慌てぶりを愉しみながら、余の者どもが概ね、彼と龍が水入らずでいる時を削がぬようにと半ば無意識に振る舞っている事実を顕わしながら、わざと家族の大事を語り、そして家族の大事をこのように折々に我が龍に諮るともなく諮っては、龍は彼の臣である以上だということを暗に示して見せる。

「二弟が気をもんでおる。平め、襄陽の茶楼に気にかかる歌姫でもおるようじゃ」
 すると関将軍の書簡には、少なくとも関平の想い人のことが書いてあったと龍は察した。
 どうやら子初との揉め事の件ではなさそうだと理解した。

 彼は関将軍の書簡を龍に見せたくないのではなく、見せるに及ばずと判断し、大意を口頭で告げることにしたのだろう。
 ただ、さきほど廊から垣間見ようとした彼の様子は、若い恋を温かく見守ろうという伯父の姿としてはそぐわないものがあった。
 その恋は、関将軍が不同意なのかもしれない。

「覚えておるか。襄陽の『無孔笛』」
「……民間の娘ご……でございますか」
 この主従は襄陽に居た頃に縁があり、当時は少女といえた歌姫に二度会っている。
 この娘は有り体に言えば平民で孤児である。

 養子とはいえ平は関将軍から厳しく躾けられて育ったためか義に篤く、目上には恭しく目下にも丁寧で、なかなか見どころのある若者である。
 仮に関の家督を継がないことになったとしても将来の国の重鎮となろうことは予測できるし、誰しも期待している。

 もしも関将軍の長子との縁組ともなれば、民間人であってもしかるべき家柄の娘であったほうが望ましいことは自明のこととなる。

 かといって、その民間の娘はとりあえず妾とし、正妻は改めて考えるという進言が彼の意に沿うとも思えず、龍は言葉を濁した。

「うム。だがの。もしも平が本当にその娘がよいと言うならば、儂の養女にしてめあわせてやってもよかろうぞ」
 龍の頭の中では彼の漢室中興と彼こそが常に最大の重要事項であるため、彼の口からかろく滑り出たこの方策は思慮の外であった。
 

「それは。おめでたいお話でございます」
「儂は左様考えるが、平は二弟に似て生真面目じゃからの。年寄りどもが急いて事を仕損じぬように、いま少し様子を見ておろうかの」
 
 彼は「待てる」という才能を天から授かっているといえる。

 そして、養子であるはずなのに何かと「父に似ている」という評を得るところが平の持ち味の最たる点かもしれない。

 くだんの関羽将軍の書簡の趣は、おおむね龍が推し測った内容であった。

  ……ところで
  大兄には大街の茶楼『無孔笛』をご記憶で御座ろうか

  ここの一座には大楽小楽の二人の楽女ありて

  荊襄の若い者のあいだで評判で御座る
  上の愚息も何度となく通うておるらしき様子にて
  この点に関しては軟派なことこの上なく
  苦苦しい限りで御座る

  歌姫の大楽は初平のころ古都にて流行せし

  新調関雎を得意とし人気を博して御座る

  その歌声はかの歌仙に生き写し

  笛子の小楽の右目の下の黒子にはかの歌仙のおもかげがあり
  両人はかの歌仙の縁者やもしれぬことに
  恥ずかしながら往時の感傷がよぎって御座る

  彼女らの幸せに某が介入するつもりはなく

  両人が襄陽の民として平和な生涯を送ることができるよう
  大兄からお預かりした荊襄を死守するのみで御座る

  老いたりとはいえ槍働きで遅れを取る某ではありませぬが

  軍師から申し渡された四字のうち
  ただ連孫の二字ばかりが某には頗る難題で御座りまする
  せめて鳳雛先生が在世であればと
  埒もなきことを考えまする……


 おのれの倅を軟派と断じておきながら、関将軍が大楽の歌声と小楽の容貌を知ることになった経緯が書かれていないがゆえに彼にとってこの書簡は興味深い。

 もしも相対して話していたならばこの点を衝いて彼は二弟に冗談を言い、照れ笑いを誘って、言葉に尽くせぬ往時のことを和らげようとしたであろう。

(あの歌姫のことを、ようやく再び話題にできるようになったか。二十余年もかかったのう)
 簡単に喜べる出来事ではなかったのだが、彼は若き日の二弟の姿を瞼にえがき、感慨深かった。