先帝の叔父の美称で広く親しまれた今上が、ついに東呉を伐つ詔を發する前の朔の夜のことであった。
あの彼が今あるのは、この白い賢者を側に置いているがゆえであると同時に、その賢者とまみえるまで義兄弟以下古参の臣なくして彼の命はなかったからである。
「おっと」
三弟が身罷ったことは、実は己を押さえるものがなくなったこを示すのだと、この行動で彼は悟った。
いまや五虎上将の首席といえる張将軍が成都に現れたことを知っている者は少ない。
張将軍の大声と眼光はかの長坂橋の当時に衰えもせず、いやでも目立つ存在だというのに、月影のなき漆黒の闇に紛れ、黒い外套をまとって疾風のように成都にやってきて、長兄たる彼に謁した。
彼はこの粗野だが嘘がつけず情に脆い三弟の性質を慮り軽挙を戒め、詔を待てと釘を刺したのだが、歴戦の猛将は翌朝には詔も待たずに出兵することを決めていた。
「そんなわけで、兄者には釘をグサッと刺されてきまシた。五寸ぐらいのやつを十本ぐらいでス。あっちにも、こっちにも。痛ぇの何の」
丞相府で燗酒を馳走になりながら、張将軍は白皙を覗き込んだ。
「左様。我らが君は聖明でおわします」
「聖明とかいう小難しいのワカンネエ野蛮人でスンマセンな、水の軍師サマ。いや、丞相、か」
「……孔明で結構です」
「いや、呼び捨てなんて、ンな訳にはいかねえでショ」
張将軍は酒で唇を湿らせ
「俺はバカでスけど、兄者がいま苦しいことぐらいはわかる。あンたらは出したくない、兄者は出たいが、あンたらの同心がなければ出ない」
おのれの気持ちは置いておき、彼の胸中を察して言った。龍の丞相は言葉もなく、ほそい吐息をもらすばかりである。
彼の次弟――張将軍にとっては次兄である亡き関将軍の弔い合戦については、文はこの世で一条の龍たる丞相を筆頭にして彼に三思を請い、武は常山趙子龍が袒(かたぬい)いでまで諌め、彼にも往くべき戦いではないことは分かっていたが、このまま仇を報じもせず安穏と玉座に座っているなどできようはずもなかった。
あの彼が今あるのは、この白い賢者を側に置いているがゆえであると同時に、その賢者とまみえるまで義兄弟以下古参の臣なくして彼の命はなかったからである。
ゆえに、彼が内心で東呉への出兵を決めていることは既に誰の目にも明らかで、ただ詔を発する時期を見計らっていたにすぎないといえた。
「てことはでス。兄者が出るまでもなく、敵討ち的なコトがちっとできてればいいんじゃねえでスかい? この際」
抜け駆けの宣言は予測していたが、この予想外の内容に、丞相は白い扇を持ち直した。
東呉討つべしの急先鋒から、このような言葉が出るとは意外だったのだ。
詔勅が出るようにと恫喝するか、兵の押し借りを強要するか、来意はいずれかだと考えていた。
だからこそ、上手く酔い潰してしまえぬかと、とりあえず一献、様子を見て手を打とうと考えていたのだ。
思えば、この張将軍という人物については古参の将のなかで最も当たり外れの大きなこの特性を使うところに苦労もあり醍醐味もあった。
「おっと」
張将軍はごつごつの手を差し出して、翡翠が転がるような聲が理を説くであろうことを制した。
「孔明先生」
張将軍は居住まいを正し、あらたまって丞相を呼んだ。
『水の軍師サマぁ』
と、大人げなくおどけ半分やきもち半分で呼ぶ、いつもの張将軍ではなかった。
「先生スンマセン。俺、成都を立つこの足でたぶん出陣しちゃいまス。あとで罰は受けまス」
恭しい拱手にそぐわない本音丸出しの飾らない言葉を述べた。
「俺も歳とっちまって、どれぐらいイケるか正直、自分でも読めねぇんでスけど。お得意の策略で、なるべく詔が出ないように兄者を妨害してくれませンか」
目の前の賢者が、自分の言葉を理解するのにいつもよりも時間を要する様子を、張将軍はどう捉えたのかは定かではないが、中身がほとんど減っていない丞相の爵に一滴だけ酒を足し、自分にはまた一杯をなみなみ注いで唇を湿らせて続けた。
「……呉侯の馘はさすがにムリだろうが、留飲の下がる何かぐらいやらかして、適当なトコで帰ってきますワ。二哥には面目ねぇけど、それで終わりにしましょうゼ」
丞相は双眸を見はった。
事の成否は別にして、このような無謀で命知らずな、しかし理も情も尽くしたことを思いつき実行できる者など、張将軍のほかにはいないからだ。
そして、往年の張将軍を思えば突破力と破壊力に秀でて、短期的な遊撃であれば一定の戦果をあげる可能性は確かにあった。
いままでの丞相であったならこのまま張将軍を軟禁さえしてひたすらに戦を避けたであろうが、現状、これ以上の対処はなかった。
私怨による上将の勝手な抜け駆けということで済まそう、その役を買って出、処罰を受けよう、というのだから。
「これって……軍律違反だから百叩きぐらいじゃない……。でスよね?」
張将軍は、落ち着き払った声でそう言うと、からりと笑い声をたてた。
「兄者のために死ぬ用意なんて、もう何十年も前にとっくにできてまス。いまさら」
三百叩きでも恐れるはずもない張将軍は、それが斬罪に値すると知りながら、欠けもしていない歯をみせてニヤリと笑った。
「その時は、きっとまた兄者が先生に跪いて命乞いするでしょうが、聞かなくていいでスから。示しがつきませンから。ヨロシクでス」
あの隆中の日からいままで、丞相は張将軍のこのような表情を見たことがなかった。
あるいは、ようやく長兄のために命を擲てる機会を得たという幸福感からいずる晴れやかさなのかもしれなかった。
「どうか。……・どうか、あの栄えある厳顔戦のご忍耐と知略をこそ思い出されて」
「軍師サマよ」
張将軍は、白い賢者が初めて自分よりもずっと若い、まだ四十がらみの人間であることを目に映した気がした。
「ホントは、『酒飲むな』『短気起こすな』って言いたいンでしょうに。ありがとうございまス」
卓に額をぶつけそうな勢いで、張将軍は頭を下げた。
「それは。先ほど我が君がおおせになりましたのでしょう」
「お見通しでスか。参ったな」
張将軍は照れたときの癖で、タワシのような後頭部をがりがりと掻いた。
「俺、バカだけど、『孫子』で一番好きなとこ言っていいでスか」
張将軍は胸を張って大きな声で諳んじた。
「兵ハ拙速ナルヲ聞クモ、未ダ巧久ナルヲ睹ズ。……あってまス?」
「はい」
「へへ。やった」
張将軍は、丞相の爵におのれの爵の端をかるくぶつけて喜んだ。
「それででス……。そんなふうに拙速っぽく成都に帰ってきて罰を受けるまで、これ、預かっていてくれませンか。実は、こっちが用事でス。軍師サマ以外には頼めねぇから」
(だって、俺様と同じぐらい兄者を思っているのは、あンただけなんだから)
張将軍は方形の錦の嚢を懐から取り出した。
「水の軍師サマと飲む酒が、こんなに旨いなんて知らなかったッス。俺様、損してたな」
これが、張将軍と丞相との今生の別れであった。
張将軍と別れたあとの弦月の夜。
丞相は張将軍から預かった手紙を懐中して龍床に倚っていた。
灯火は音もなく瞬き、侍従どももつい居眠りしがちな草木も眠る深更である。
今上たる彼は痒みで目が覚めた。
蓬髪の地肌をひとしきり引っ掻いてから、最後に髪を洗ったのがいつだか思い出せもしない自分に気づいた。
頭を殴られたような衝撃とともに、目の前が暗転したのが最後の記憶だった。
明日、東呉を伐つために出兵して三弟と合流するつもりだったではないか。
なぜ晴れて報仇の出陣を前に、頭皮が痒く體も汗ばんでかくも薄穢いのか。
(翼徳)
むさくるしく臥していた理由をようやく思い出して彼はまた気が遠くなりかけた。
東呉に一矢も報いることなく三弟は害された。
次弟のときも酷かったが、こうして伏せっている間に髪まで解かれてはいなかった。
今度はあれきり二度と目覚めておらずとも不思議はないくらいだった。
がっくりと體から力が抜け、目尻には涙が湧いてくる。
啜り泣きをしそうになって、残酷にもおのれは帝であることを思い出す。
黄色がかった寝衣のその色が忌まわしく、袖を払って怒りをぶつけようとしたが、袖があがらなかった。
眸を巡らすと、彼の袖のうえには綸巾を戴いた黒髪と俯せた白い秀でた額が乗っていた。
我が龍のこの姿で、今が深夜であることが知れた。
(この、莫迦者めが。昼は、山のような政務を見ておったのであろうに)
それを言葉にせずまなざしに漂わせてから、彼は臥龍と号する愛相の額の皓さばかりをぼんやりと見る。
笑うことを忘れていた頬はこわばりを解いて、唇は言葉を紡ごうとした。
「儂の、望月」
口腔が渇ききっていて、聲にはならなかったが、彼は袖の上の黒髪を探り当て、そっと撫でた。
(儂は、ほんに。何と御しにくい暴君であろうか。のう。孔明)
我が龍の黒髪の滑らかさは彼の心を鎮め、そしてこの賢者にまみえたあの日のまばゆさで心を満たす。
この思いの深さと同時に同様に、義弟たちの報仇の念を滾らせずにはいられない己の心をまざまざと見る思いである。
いずれかをとるという考えは彼にはない。
かつての桃園でかわした義兄弟の契りと、魚と水にさえ譬えたこの君臣の仲が何の矛盾もなく並び立つように、義兄弟の雪辱と大漢の再興とはやはり彼の心の中でいずれも忽せにできぬ大事であることに変わりはない。
それを理解するなど、ほかの人間にできることではない。
こうして、帯も解かずに付き添っていても、彼の報仇の念を覆すことなどできないと分かったうえで、なおも傍に居ようとする愛相は理に明るい以上に情に厚いのかもしれず、そしてそれは謀臣としては不憫な性分でもあった。
「そちの名はこの戦で穢れることはない」
注意深くひっそりと起き上がり、我が龍が目覚めぬかを見守ってから、彼は黒髪の端を持ち上げて唇を寄せた。
我が龍の黒髪の一筋を口に含んでしまってから、彼はこの十六年来慎んできたはずの禁忌を易易と犯している今の己自身におののきを覚えた。
三弟が身罷ったことは、実は己を押さえるものがなくなったこを示すのだと、この行動で彼は悟った。
彼の天分である忍耐という才能は、粗忽で喧嘩早いあの三弟が存在してこそ、さらに磨かれ常に備わる美徳であることを確かなものにしていたという側面に、愚かにも今まで気づかなかった。
彼の思いをまだ知らずに転寝している丞相の懐中の張将軍の書簡は、もちろん彼へ宛てた遺書で、肉太で見事な篆書である。
ときに誤字すらも堂堂としており、筆勢に圧されて
「ひょっとしたら、そんな字もあるのかもしれない」
とさえ人に思わせるほどの能書は、張将軍の人知れぬ特技であった。
彼がまだ見ぬこの手紙は、のちに丞相に贈られ、あの隆中の雪の日の彼の親書とともに、丞相が生涯愛蔵することになる。
丞相は
「臣飛言」
からは始まらぬこの手紙の、張将軍らしいところが味わい深いと思ってやまなくなるのである。
ただ、関将軍の私的な書簡がないことが、惜しいといえば惜しいことかもしれない。
大哥へ
大哥と二哥とに出会えたことこそが俺の生涯の幸せです
桃園からこっち 多少の武勇を天下に轟かせた自負はありますが
この義兄弟の契りがなかったら俺の生涯はたとえ天下を得ようとも
虚しいものだったに決まってます
いま俺はお許しも得ず二哥の報仇に向かいます
この手紙をお読みである以上は先立った不孝をお詫びすることもできません
面目ないです
孔明先生にはこのことを話しましたが口止めしました
欺君の罪は先生にではなく俺に問うてください
もし話したら先生を洞窟に監禁して酒一斗飲ませると脅しました
どうか先生を責めないでください
二哥の仇討ちは俺の出陣で成したことにして
大哥は漢室の復興をやり遂げてください
思い出してください
俺たちが三人で桃園で誓い合ったあの頃の漢室のありさまを
帝の徳なんてどこにあるんだというあの暗黒の世の中を
大哥は俺にはできないことをしてください
孔明先生がいれば 大哥なら必ずできます
晩節に残された時を何に使うか 俺とは違う使い方をしてください
もしどうしても出陣なさるなら
首に縄をつけてでも孔明先生を連れて
絶対に敗けないようにしてください
愚かな俺を大哥がお見捨てないならあの世でも義兄弟です
急いで来たりしないでください
サヨナラは書きません
三弟