昨夜まで月が薄雲をまとう風情の、益州らしい天気であったのにこの日は晴天であった。
まばゆい朝日と青みを帯びてくる空の下、張将軍の邸の庭では二人の若者が剣を交えている。
百合ほどの熱戦で両者譲らず、二人が離れて着地して再び剣を構えたのを機に
「見事!」
の声がかかった。
中年の女の声だった。張飛夫人である。
「母上」
「叔母上」
二人は鞘に納めた剣先を地に向けて剣を捧げ持ち、現れいでたふくよかな婦人に挨拶する。
張将軍の夫人の特技は料理で、彼女は長年にわたり廉い食材で美味い食事を劉の旗のもとに集う者たちに与えることに喜びをみいだし、その特技を発揮し続けていたという影の立功者である。腹が減っては戦ができぬ。
「平ちゃん……いえ、平公子。苞と真剣な稽古をしてくれるご同輩など居ないものだから、本当に嬉しいわ。今の勝負、うちの人に見せたい」
張飛夫人は笑顔になると両目が細い一対の線になってしまうので、陣中に幼子などがいると似顔絵の格好の題材になりがちである。
福福しい笑顔は、いつでも話し相手の微笑みを誘う。
泣く子も黙るあの張将軍でさえ
「まったく、あんたって人は」
と、夫人に笑顔を向けられると、鬢を掻いて片頬だけ笑って俯いてしまう。
関平も頬を緩め
「叔母上、わたくしのほうこそ。苞はすっかり腕を上げて、おそらく今朝は手加減の上の好勝負と存じます」
彼女の可愛い嫡子を褒めて花を持たせた。
「そんなわけねーよ」
「いやいや、もうお前との稽古に油断などできん」
「またまたー」
苞は照れて謙遜しながらも満更ではない。
実際に、父譲りの武功の片鱗が見えることが多くなり、関将軍の養子である関平にとってはそれが密かに羨ましいのだが、関平はおおむね「父に似ている」という印象を人に与えることが多いため、苞は関平のこの思いに気づく由もない。
「向こうの亭子に朝餉を用意しましたよ。二人とも汗を拭いてから召し上がれ。ごゆっくりね」
「あっ、叔母上」
関平は、立ち去ろうとする張飛夫人に一歩追いすがり
「昨夜の花生、おいしゅうございました」
まるで進物に対する礼のように、丁寧に拱手した。
関平にとっては、義母よりも張飛夫人の方に母性を感じているためかもしれない。
「ふふ。もしかしたら、まだお好きかもと思って。そうじゃなくても、懐かしいかと思って」
「今も好きです……叔母上の味でした」
「まっ。ばれちゃった? みんなにはナイショね」
上将軍の正夫人が厨に立つなど、外聞を憚ることなので、張飛夫人はわざと声を潜めたが、彼女自身は外聞など気にしていない。
張将軍も外聞には拘らないのだが、「益州のあるじの義妹が女僕とともに厨で料理」となると、特に先代劉家の古参の者どもの中には蔑む者も出てくるのである。
朝餉を終えてから、関平がこのたび目通りしておきたい将軍の在不在などを苞に問うていると
「平兄様、いらっしゃいませ」
幼さを残した少女の遠慮がちな声が耳に届いた。
「あ。玲兒。久しぶりだなあ」
襄陽で見かけた頃は、玲兒はまだ髪を左右に振り分けて結んで褲子を履いていたのに、今は髪を結い上げて裙子を着ている。
「すっかりお姫様だなー。似合うぞ」
関平は小さな堂妹に対して丁寧に立ち上がって優しく話しかけた。
関平にとっても玲兒は妹分なので、「似合うぞ」が自然に口を衝いて出たが、玲兒の頭の中では「きれいだぞ」と同義語に聞こえていたので、玲兒は真っ赤になった。
「何赤くなってるんだよ。馬子にも衣装ってやつだろ」
「もう、兄上」
「二人とも相変わらずだな。玲兒、成都は慣れたか?」
「はい。……あの。平兄様……襄陽の荷包、ありがとうございました」
玲兒は、はにかみながら関平に土産の礼を述べた。
「いやいや、義母上が用意してくれたのを運んだだけだよ。義母上に伝えるよ」
「はい、でも。……玲兒の好きな色でした。……きっと色は平兄様が選んでくださったと思うの」
図星である。
玲兒は年頃に似ず地味好みなので、なかなかどうして気に入る土産を見つけてやるのが難かしかった。
関平の義母は関将軍の正夫人ではないので、自然と張将軍の正夫人を姐として立ててきている。
ちなみに、関将軍は正夫人を持ったことがない。
また、玲兒は劉関張三家のなかで最も年長の娘であり、一番に良家との縁組が予想できるため、義母は玲兒という存在も重視している。玲兒の輿入れ先から、自分の娘の将来を占うことができようという親心もあろう。
張飛夫人が成都入りしてしまって助言を聞くことができない今、義母は関平の観察と経験を重んじて品選びをしたのだった。
「平兄様、いつまでいらっしゃるの?」
「うーん、多分、四、五日だと思う」
「そんなに短いの?」
明らかに落胆の表情を浮かべる玲兒に
「今回は短いな」
次回があるかどうかは分からないのだが、関平の優しさは次回があるかもしれぬ言い方を選ばせた。
苞は玲兒の実兄なので、このやりとりを面倒くさそうに座ったまま聞いていたが、関平が立って妹と話しているので、自分だけ座っているのがだんだんと決まりが悪くなり、立ち上がる機をうかがい
「そうだ、玲兒。お前この前、ナントカっていう店の噂、してたよな」
ちょっとおどけた大股でゆっくり二人の間に歩を進めて話の輪に加わった。
「どの店のこと?」
玲兒は身体の正面を関平に向けたまま、首をかしげて横に立つ兄の苞を横目の端で捉えて応じた。
「えーと……。鳥っぽい名前の茶楼だ。そうだ、賀老師に聞いたとかいう」
「啼春心、のこと?」
「それだ」
「ぜんぜん、鳥じゃないし」
割って入ってきた兄への不満を、記憶違いを衝くことで晴らしているらしい妹の心の中に苞は気づかぬわけでもないが、苞とて関平と過ごす時が惜しいのだ。
「細かいことはいいだろ。どうだ。平大哥は好きそうか。その店」
「兄上、先生の話だけだもん。玲兒だってまだ行ったことないから分からないわ」
すっかり深窓の姫君らしい発言である。
「堂弟。そこへ行こう」
関平は二人の様子を好ましく見守りながら即決した。
「え。他にも良さげな所いろいろ聞いて決めた方が良くないか?」
「いや。滞在は短い。何かの縁だ。……もしお許しがあるなら玲兒も一緒にどうだ?」
関平が誘うと、玲兒の顔が娘らしくぱっと輝いた。
「えー。俺は平大哥とサシで行きたいのにかよ」
「兄上、平兄様を独り占めとかズルーい」
「そんなんじゃねーよ」
「酒を飲むわけじゃないんだ。折角だから三人で茶楼へ行って、玲兒はここへ送って、そのあと二人で遠乗りにでも行くことにしてはどうだ」
「やった!」
「玲兒、叔母上の許しをいただいてからだぞ」
「はあい! ありがとう平兄様。あと兄上。母上に言ってくる!」
いつになく玲兒が裾を翻して奥へ駆けてゆくので、成都であらたに召し抱えた女僕たちは驚いて小走りに追いすがって下がっていった。
「『あと兄上』だとさ。平大哥の手前、付け足したな。普段絶対言わねえもんな」
「いや、照れなんじゃないのか」
二人は兄らしい顔を揃えて朗らかに笑った。
そのころ老王府では、龍はひとりの文官と面談していた。
この文官、劉子初の建言で、財宝は多いというのに銀が少なかった庫が潤いを取り戻しつつあるのである。
先代と今の劉家と同姓であるが、直近の縁戚関係は無い。
元々は曹軍に参与しており、赤壁ののちは流れて益州にやってきた賢者である。
「近年に再び戦費が入用となる。子初の目算では予定額に達するはいつか」
「逆に、お心づもりの年月に間に合うよう工夫することもできますが」
「いや。あらたな布令はしばらく出したくはない」
龍は白い羽の扇を繰りながら、かぶりを振った。
「されば異なことを。現状を堅持するならば自ずと答えはお持ちのはず。わたくし如きが申し上げるまでもない」
「否。益州ならではの考えあわせるべき事や、これまでの経緯もあろう」
「さすれば。今の状況が順調に参れば一年を待たずして、というところでしょう」
「ほう。随分と早い。何ゆえにそう踏むか」
龍は扇を卓上に置いて茶を喫した。
「奥向きの女たちを半減させた所も大きいので。あれは主公の英断といえますな。先代はここにも多額を費やしておられた。無意味な臨時の宴も多かった」
「他には」
「それから古美術の蒐集癖には困惑を禁じ得なかった。先代は数字が読めなかったとしか思えない」
龍はこの男の口から更に主を評価する言葉が続くだろうかと期待して短く相槌を打ち、続きを待った。
「……だが、先の戦で益州に銀を使わせたご本人ですから。いまの主公は」
持ち上げておいて貶し、先程まで饒舌だった人間と別人のように子初は眉根を寄せて押し黙った。
重い沈黙が流れる。
相変わらず、政務とくに財務のことしか話題にしない。
主との感情面の上での関係を含めて、私的なことには関心が薄い。
更に言うならば、先代にも今の主にも心を開いてなどいない。
子初の星のめぐりを考え合わせても、これが生来のものなのか、長年の蟠りが由来であるのかは龍にも判じ難い。
「財貨の事において足下は軍師の如き者とわたくしは考えておるし、おそらく我らが君も……」
「軍師というものは」
眉を寄せた劉子初の表情には、会話を面倒に思っている感情があらわれている。
「靖侯のような者をこそ軍師というのだと思いますけれど」
その言葉はその言葉を伝えようとして発せられたのではなく、なるべく少ない語数で速やかに会話を終えるために選んだ言葉を投げつけてきただけのようであるし、年長の重臣に対して全く適切でない言葉だった。
それに、論点をはぐらかしていることも明らかで賢者の会話としてはお粗末であり、その点または言外に漂う不躾を詰っても構わぬ立場にあるはずの龍は、かえって心を傷めた。
「他にご用がなければ、これにて失礼します」
龍の旧友の名と共に、予定よりもかなり早くに二人の面談は終了した。
龐士元、諡は靖侯。
主の意志はさておき、主に益州を取れと進言して益州を取らせ、そして己はその功と引き換えに戦没した。
軍師としての生涯を鮮やかに全うして去り、いまだに惜しまれている。
龍は劉子初が立ち去ったあと、しばらく座ったまま廊下を眺めていたが、しばらくすると卓上の羽扇を取り上げて立ち上がり、廊へ出て空を仰いだ。
珍しい晴天のもと秋風が蕭蕭と吹いて、枯葉が舞う。
その乾いた音に哄笑も慰撫も感じ取れないほど、今の龍の心の中は虚ろだった。
ただ、澄んだ青空を仰いで
(……我が君……)
嘆息とともに我が王の姿を瞼に描いては憂いを散じようと試みるのみである。
じっと控えて今までのやりとりを聞いていた馬幼常は、龍の後ろ姿を見つめながら
(主公はもとより、先生まで眼中になきがごときのあの無礼な態度は、毎度何様のつもりか)
と、内心穏やかではないが、劉子初の財務上の手腕を龍が買っているので、いつも我慢している。
劉子初を謗るのは容易いが何の解決にもならない。
ただ自分が劉子初以上に財務にも明るくなることこそ肝要だと考えて、馬幼常は精進している。
憂いを帯びて青空をただ仰いでいる龍の背を見ていると、茶でも淹れなおして気分を変えるべきか、それとも囲碁をねだってみようか、あるいは何か教えを請う問いを発するべきか、馬幼常は迷った。若い毒舌家は、この白い龍の前でだけは、己の未熟があらわれることを懸念して慎みを意識するようにしている。
枯葉の音が静けさに趣を添える秋の朝の廊に、黒黒とした道服を纏うた龍の軍師がつくねんと立っているなど、思えば普段は無い光景なので、この様子の原因となった出来事は別にして、馬幼常はだんだんと、この世で一番の賢者の後ろ姿に、ただ見惚れていた。
この得難いひとときは、向かいの廊にあらわれた人影と微かな足音と共に終わりを告げる。
遠目にその人影を認めただけで、馬幼常は
(またか)
と軽い落胆を覚えずにいられない。
「軍師」
黒い衣の侍従が袖の中で拱手して、龍に対して頭を下げる。
「お召しであるか」
「はい。お手があきましたらお運びを、との仰せです」
「すぐに参上いたす」
「かしこまりました」
侍従は益州の主に復命すべく、いま来たばかりの道を物静かに再び戻ってゆく。
龍の軍師に暇ができると、決まって彼の侍従が現れ、馬幼常から龍をさらってゆくのだ。
馬幼常は
(主公は、どこかで見張っておいでなのか)
と疑ったこともあるが、本当にいつでも偶然であるらしく、所詮は彼に敵うべくもない星回りなのだともう諦め半分、嫉妬半分でいる。
ただし、今日に限っては、主公たる彼に今しがたの事を何とかしてほしかった。
自分はただ龍の後ろ姿に見惚れることしかできなかった以上は、長年にわたり辛酸を嘗め艱難を越えてきた耳の巨きな仁君の傍へ、龍は直ちにゆくべきであった。
まばゆい朝日と青みを帯びてくる空の下、張将軍の邸の庭では二人の若者が剣を交えている。
百合ほどの熱戦で両者譲らず、二人が離れて着地して再び剣を構えたのを機に
「見事!」
の声がかかった。
中年の女の声だった。張飛夫人である。
「母上」
「叔母上」
二人は鞘に納めた剣先を地に向けて剣を捧げ持ち、現れいでたふくよかな婦人に挨拶する。
張将軍の夫人の特技は料理で、彼女は長年にわたり廉い食材で美味い食事を劉の旗のもとに集う者たちに与えることに喜びをみいだし、その特技を発揮し続けていたという影の立功者である。腹が減っては戦ができぬ。
「平ちゃん……いえ、平公子。苞と真剣な稽古をしてくれるご同輩など居ないものだから、本当に嬉しいわ。今の勝負、うちの人に見せたい」
張飛夫人は笑顔になると両目が細い一対の線になってしまうので、陣中に幼子などがいると似顔絵の格好の題材になりがちである。
福福しい笑顔は、いつでも話し相手の微笑みを誘う。
泣く子も黙るあの張将軍でさえ
「まったく、あんたって人は」
と、夫人に笑顔を向けられると、鬢を掻いて片頬だけ笑って俯いてしまう。
関平も頬を緩め
「叔母上、わたくしのほうこそ。苞はすっかり腕を上げて、おそらく今朝は手加減の上の好勝負と存じます」
彼女の可愛い嫡子を褒めて花を持たせた。
「そんなわけねーよ」
「いやいや、もうお前との稽古に油断などできん」
「またまたー」
苞は照れて謙遜しながらも満更ではない。
実際に、父譲りの武功の片鱗が見えることが多くなり、関将軍の養子である関平にとってはそれが密かに羨ましいのだが、関平はおおむね「父に似ている」という印象を人に与えることが多いため、苞は関平のこの思いに気づく由もない。
「向こうの亭子に朝餉を用意しましたよ。二人とも汗を拭いてから召し上がれ。ごゆっくりね」
「あっ、叔母上」
関平は、立ち去ろうとする張飛夫人に一歩追いすがり
「昨夜の花生、おいしゅうございました」
まるで進物に対する礼のように、丁寧に拱手した。
関平にとっては、義母よりも張飛夫人の方に母性を感じているためかもしれない。
「ふふ。もしかしたら、まだお好きかもと思って。そうじゃなくても、懐かしいかと思って」
「今も好きです……叔母上の味でした」
「まっ。ばれちゃった? みんなにはナイショね」
上将軍の正夫人が厨に立つなど、外聞を憚ることなので、張飛夫人はわざと声を潜めたが、彼女自身は外聞など気にしていない。
張将軍も外聞には拘らないのだが、「益州のあるじの義妹が女僕とともに厨で料理」となると、特に先代劉家の古参の者どもの中には蔑む者も出てくるのである。
朝餉を終えてから、関平がこのたび目通りしておきたい将軍の在不在などを苞に問うていると
「平兄様、いらっしゃいませ」
幼さを残した少女の遠慮がちな声が耳に届いた。
「あ。玲兒。久しぶりだなあ」
襄陽で見かけた頃は、玲兒はまだ髪を左右に振り分けて結んで褲子を履いていたのに、今は髪を結い上げて裙子を着ている。
「すっかりお姫様だなー。似合うぞ」
関平は小さな堂妹に対して丁寧に立ち上がって優しく話しかけた。
関平にとっても玲兒は妹分なので、「似合うぞ」が自然に口を衝いて出たが、玲兒の頭の中では「きれいだぞ」と同義語に聞こえていたので、玲兒は真っ赤になった。
「何赤くなってるんだよ。馬子にも衣装ってやつだろ」
「もう、兄上」
「二人とも相変わらずだな。玲兒、成都は慣れたか?」
「はい。……あの。平兄様……襄陽の荷包、ありがとうございました」
玲兒は、はにかみながら関平に土産の礼を述べた。
「いやいや、義母上が用意してくれたのを運んだだけだよ。義母上に伝えるよ」
「はい、でも。……玲兒の好きな色でした。……きっと色は平兄様が選んでくださったと思うの」
図星である。
玲兒は年頃に似ず地味好みなので、なかなかどうして気に入る土産を見つけてやるのが難かしかった。
関平の義母は関将軍の正夫人ではないので、自然と張将軍の正夫人を姐として立ててきている。
ちなみに、関将軍は正夫人を持ったことがない。
また、玲兒は劉関張三家のなかで最も年長の娘であり、一番に良家との縁組が予想できるため、義母は玲兒という存在も重視している。玲兒の輿入れ先から、自分の娘の将来を占うことができようという親心もあろう。
張飛夫人が成都入りしてしまって助言を聞くことができない今、義母は関平の観察と経験を重んじて品選びをしたのだった。
「平兄様、いつまでいらっしゃるの?」
「うーん、多分、四、五日だと思う」
「そんなに短いの?」
明らかに落胆の表情を浮かべる玲兒に
「今回は短いな」
次回があるかどうかは分からないのだが、関平の優しさは次回があるかもしれぬ言い方を選ばせた。
苞は玲兒の実兄なので、このやりとりを面倒くさそうに座ったまま聞いていたが、関平が立って妹と話しているので、自分だけ座っているのがだんだんと決まりが悪くなり、立ち上がる機をうかがい
「そうだ、玲兒。お前この前、ナントカっていう店の噂、してたよな」
ちょっとおどけた大股でゆっくり二人の間に歩を進めて話の輪に加わった。
「どの店のこと?」
玲兒は身体の正面を関平に向けたまま、首をかしげて横に立つ兄の苞を横目の端で捉えて応じた。
「えーと……。鳥っぽい名前の茶楼だ。そうだ、賀老師に聞いたとかいう」
「啼春心、のこと?」
「それだ」
「ぜんぜん、鳥じゃないし」
割って入ってきた兄への不満を、記憶違いを衝くことで晴らしているらしい妹の心の中に苞は気づかぬわけでもないが、苞とて関平と過ごす時が惜しいのだ。
「細かいことはいいだろ。どうだ。平大哥は好きそうか。その店」
「兄上、先生の話だけだもん。玲兒だってまだ行ったことないから分からないわ」
すっかり深窓の姫君らしい発言である。
「堂弟。そこへ行こう」
関平は二人の様子を好ましく見守りながら即決した。
「え。他にも良さげな所いろいろ聞いて決めた方が良くないか?」
「いや。滞在は短い。何かの縁だ。……もしお許しがあるなら玲兒も一緒にどうだ?」
関平が誘うと、玲兒の顔が娘らしくぱっと輝いた。
「えー。俺は平大哥とサシで行きたいのにかよ」
「兄上、平兄様を独り占めとかズルーい」
「そんなんじゃねーよ」
「酒を飲むわけじゃないんだ。折角だから三人で茶楼へ行って、玲兒はここへ送って、そのあと二人で遠乗りにでも行くことにしてはどうだ」
苞は、将来に玲兒は九分九厘、関平か弟の関興に輿入れするのではないかと見ているので
(そうなったら一生、平大哥のそばに居られるだろ玲兒お前は。俺は違うんだぞ)
という考えが頭を掠めるのだが、これは独り決めしていることなのでそうは言いだせず
「……んー、まあそれなら、手を打とう」
と、大人の回答をすることができた。
「やった!」
「玲兒、叔母上の許しをいただいてからだぞ」
「はあい! ありがとう平兄様。あと兄上。母上に言ってくる!」
いつになく玲兒が裾を翻して奥へ駆けてゆくので、成都であらたに召し抱えた女僕たちは驚いて小走りに追いすがって下がっていった。
「『あと兄上』だとさ。平大哥の手前、付け足したな。普段絶対言わねえもんな」
「いや、照れなんじゃないのか」
二人は兄らしい顔を揃えて朗らかに笑った。
そのころ老王府では、龍はひとりの文官と面談していた。
この文官、劉子初の建言で、財宝は多いというのに銀が少なかった庫が潤いを取り戻しつつあるのである。
先代と今の劉家と同姓であるが、直近の縁戚関係は無い。
元々は曹軍に参与しており、赤壁ののちは流れて益州にやってきた賢者である。
「近年に再び戦費が入用となる。子初の目算では予定額に達するはいつか」
「逆に、お心づもりの年月に間に合うよう工夫することもできますが」
「いや。あらたな布令はしばらく出したくはない」
龍は白い羽の扇を繰りながら、かぶりを振った。
「されば異なことを。現状を堅持するならば自ずと答えはお持ちのはず。わたくし如きが申し上げるまでもない」
「否。益州ならではの考えあわせるべき事や、これまでの経緯もあろう」
「さすれば。今の状況が順調に参れば一年を待たずして、というところでしょう」
「ほう。随分と早い。何ゆえにそう踏むか」
龍は扇を卓上に置いて茶を喫した。
「奥向きの女たちを半減させた所も大きいので。あれは主公の英断といえますな。先代はここにも多額を費やしておられた。無意味な臨時の宴も多かった」
「他には」
「それから古美術の蒐集癖には困惑を禁じ得なかった。先代は数字が読めなかったとしか思えない」
龍はこの男の口から更に主を評価する言葉が続くだろうかと期待して短く相槌を打ち、続きを待った。
「……だが、先の戦で益州に銀を使わせたご本人ですから。いまの主公は」
持ち上げておいて貶し、先程まで饒舌だった人間と別人のように子初は眉根を寄せて押し黙った。
重い沈黙が流れる。
相変わらず、政務とくに財務のことしか話題にしない。
主との感情面の上での関係を含めて、私的なことには関心が薄い。
更に言うならば、先代にも今の主にも心を開いてなどいない。
子初の星のめぐりを考え合わせても、これが生来のものなのか、長年の蟠りが由来であるのかは龍にも判じ難い。
「財貨の事において足下は軍師の如き者とわたくしは考えておるし、おそらく我らが君も……」
「軍師というものは」
眉を寄せた劉子初の表情には、会話を面倒に思っている感情があらわれている。
「靖侯のような者をこそ軍師というのだと思いますけれど」
その言葉はその言葉を伝えようとして発せられたのではなく、なるべく少ない語数で速やかに会話を終えるために選んだ言葉を投げつけてきただけのようであるし、年長の重臣に対して全く適切でない言葉だった。
それに、論点をはぐらかしていることも明らかで賢者の会話としてはお粗末であり、その点または言外に漂う不躾を詰っても構わぬ立場にあるはずの龍は、かえって心を傷めた。
「他にご用がなければ、これにて失礼します」
龍の旧友の名と共に、予定よりもかなり早くに二人の面談は終了した。
龐士元、諡は靖侯。
主の意志はさておき、主に益州を取れと進言して益州を取らせ、そして己はその功と引き換えに戦没した。
軍師としての生涯を鮮やかに全うして去り、いまだに惜しまれている。
龍は劉子初が立ち去ったあと、しばらく座ったまま廊下を眺めていたが、しばらくすると卓上の羽扇を取り上げて立ち上がり、廊へ出て空を仰いだ。
珍しい晴天のもと秋風が蕭蕭と吹いて、枯葉が舞う。
その乾いた音に哄笑も慰撫も感じ取れないほど、今の龍の心の中は虚ろだった。
ただ、澄んだ青空を仰いで
(……我が君……)
嘆息とともに我が王の姿を瞼に描いては憂いを散じようと試みるのみである。
じっと控えて今までのやりとりを聞いていた馬幼常は、龍の後ろ姿を見つめながら
(主公はもとより、先生まで眼中になきがごときのあの無礼な態度は、毎度何様のつもりか)
と、内心穏やかではないが、劉子初の財務上の手腕を龍が買っているので、いつも我慢している。
劉子初を謗るのは容易いが何の解決にもならない。
ただ自分が劉子初以上に財務にも明るくなることこそ肝要だと考えて、馬幼常は精進している。
憂いを帯びて青空をただ仰いでいる龍の背を見ていると、茶でも淹れなおして気分を変えるべきか、それとも囲碁をねだってみようか、あるいは何か教えを請う問いを発するべきか、馬幼常は迷った。若い毒舌家は、この白い龍の前でだけは、己の未熟があらわれることを懸念して慎みを意識するようにしている。
枯葉の音が静けさに趣を添える秋の朝の廊に、黒黒とした道服を纏うた龍の軍師がつくねんと立っているなど、思えば普段は無い光景なので、この様子の原因となった出来事は別にして、馬幼常はだんだんと、この世で一番の賢者の後ろ姿に、ただ見惚れていた。
この得難いひとときは、向かいの廊にあらわれた人影と微かな足音と共に終わりを告げる。
遠目にその人影を認めただけで、馬幼常は
(またか)
と軽い落胆を覚えずにいられない。
「軍師」
黒い衣の侍従が袖の中で拱手して、龍に対して頭を下げる。
「お召しであるか」
「はい。お手があきましたらお運びを、との仰せです」
「すぐに参上いたす」
「かしこまりました」
侍従は益州の主に復命すべく、いま来たばかりの道を物静かに再び戻ってゆく。
龍の軍師に暇ができると、決まって彼の侍従が現れ、馬幼常から龍をさらってゆくのだ。
馬幼常は
(主公は、どこかで見張っておいでなのか)
と疑ったこともあるが、本当にいつでも偶然であるらしく、所詮は彼に敵うべくもない星回りなのだともう諦め半分、嫉妬半分でいる。
ただし、今日に限っては、主公たる彼に今しがたの事を何とかしてほしかった。
自分はただ龍の後ろ姿に見惚れることしかできなかった以上は、長年にわたり辛酸を嘗め艱難を越えてきた耳の巨きな仁君の傍へ、龍は直ちにゆくべきであった。