天府南門橋(五)

2019/02/24

3世紀長編 天府南門橋



「お召しにより罷り越しました」
「おお。孔明」

 彼は案上に落としていた視線をあげて我が龍の端正な姿を廊に認めるや「待ちかねたぞ」を言うことをやめ
「近う」
と、いつもの何気ない口調で短く命じて龍を招いた。

 羽の扇を横たえて一礼すると白い賢者は案の傍へ静かに近づく。
 案上は磨りたての墨の薫りが立ちのぼり、いまだ乱れのおさまらぬこの世から書房を庇い覆うかのようである。

「国風周南『関雎』じゃが、最後の『左右』の次の文字は、どう書いたかの」
「草冠に、羽毛扇の毛 でございます」
「おお……こうじゃったか」

 親書について、彼は、古い反故の竹簡の裏に下書きをしてから文をしたためることにしている。
 だんだんと文字が大きくなる書き癖があり、不用意に書きはじめると文末の収まりが悪くなることを免れない。
 文字が得手ではないので、体裁ぐらいは整えて礼を尽くそうという考えなのである。

「左様でございます」
「そちが一番確かなのでな。音は童の頃に叩き込まれたが、はて、文字となるとな。怪しくなってきておる」
 草冠に毛 の答を得てその一字をしたためると彼は立ち上がり

「そうじゃ。ちと、詩の手本を書け」
「滅相もないことでございます」
 益州の主の書房の文房具は逸品揃いなので、龍は気後れして遠慮した。

「近頃は眼が疲れてな、書き物は午まえまでにせぬとこたえる。手本があると楽なのじゃよ」
 それは半分は方便であることを察せぬ龍ではないが、彼のまわりだけが晴天であるかのような彼の微笑に誘われ
「……かしこまりました」
 と拱手して低頭した。

「さあ、これへ。臥龍先生」
 と、彼は惜し気もなく椅子を勧めたが 
「いえ、これにて」
 さすがに益州のぬしの椅子に腰掛けるわけにはいかず、龍は立ち姿のまま筆を執った。

(滑らかで、ほど好い)
 穂先に墨を含ませて硯丘で整え、

 関関雎鳩 在河之洲……
と、書きはじめる。

 彼は、無言で穂先に集中して詩の手本をしたためている白い横顔を偸み見ては
(そちにあのような顔をさせるのは、貴奴に違いない。全くけしからん)
 穏やかな眼差しを注ぎながらも内心で軽い腹立ちを抑えている。

 漢室復興という至難の一局を一手ずつ打っているはずの我が龍にとって、彼と面談する以上のことは驚くべき事にほとんど無いらしきことを察している彼は、今日の龍の足取りの重さに気づいていた。
 
 もうやってくる頃だと思った頃合いから遅れて現れた龍を見て、どこぞの曲がり角で天でも仰いでいたのだろうと思い及んだ。

 本当は字を尋ねたついでに茶でも飲ませようと思ったのだが、瞬時に手本を書かせることが閃いたので、そうした。
 彼は、我が龍が内に向かって憂いを溜め込む性分を和らげる方策をいくつも知っており、しかもそのための手口は年を追うごとに巧妙を極めてきている。

 寵臣に重代の名物を使わせて目尻を下げる阿呆な君主と、誰ぞが思わば思うがよく、彼にとっては龍の心と顔ばせの曇りを拭い去ることこそが、龍の眠りを妨げた者の甲斐性であると心得ている。

 いにしえの賢者たちはもちろんのこと、学問を志した者共に数え切れぬ程に書写されてきた詩の文字を綴りながら龍は次第に
(ああ。我が君という御方は)
との思いがしみじみと胸に沁みて、さきほど心の奥底で凍てついた部分がほどける心地がして筆の滑りも良くなってくる。

 悠久の文字を辿らせることによって
(史書にも残らぬ今だけの詰まらぬことぞ。そう案ずるな、孔明)
 暗にこう慰める彼の非凡さに淡い涙が湧わきあがりそうだった。

「先の軍で、益州に銀を使わせたご本人ですからな。主公は」

 おのれ自身にとってかけがえのない人物について軍中の第三者から苦言を呈されるなど長年なかったこともあり、劉子初の発言には胸を痛めること再三である。
 龍に対する不平不満を直言するならば、これほど心にこたえたりはしない。
 
今日もこの辛さを如何にしたら躱してゆけるものかと懊悩して足取りも重くなっていたのであるが、呼び出されるがままに彼のもとに戻れば一刻もせぬうちにこの通りである。

(涯しもなき蒼天。……わたくしの……)
 彼が生まれ持った星の巡りを知る龍は、蒼い色こそ彼という存在が生まれながらにして纏うている色であり、彼ほどの者ともなれば斯様に色濃いということを、何か事が起こるたびに確信を深めてやまぬのだった。


(六)につづく