天府南門橋(六)

2019/03/24

3世紀長編 天府南門橋

「見事じゃのう、相も変わらず」
「お役に立ちますれば」

 卓上の龍の手跡を褒め、そのまましばらく眺めてから
「貰うてもよいかの」
 手本の用事が済んだあとに愛蔵したい旨を小聲で龍に問うた。

 彼が聞かずもがなのことを問いかけるので
「お心のままに」
 龍はあかるさを刷いた表情で軽く低頭を返した。

 彼は龍の献策について、有事のたびに屡々に制約を加える暴君であるのに、平時には仁君と評するのみでは足りぬ部分を持っている。

 腹臣たちの本心を知らぬ前に命を下すことを好まぬのである。
 たとえば今も、詩の手本を取るも棄てるも主君たる彼の一存であるのに、まことに彼らしい。

 そのような彼だからこそ、龍は厭きるどころか、ますます離れ得ぬのだ。


 些細な用件を口実に招いた龍を立ち話のみで返すはずもなく
「ついでにな。茶の一杯も喫んでゆくがよい」
と、彼は廊の隅に張り出した小亭に誘う。

 すでに茶の用意ができているのは、彼が待ち呆けていたわけではなく、午まえの定刻に茶を飲む習慣を持っているためである。

 歳を重ねてくると、ときどき思いがけず手元が狂うことがありがちなので、執務の際に卓上に茶を置いておくことを彼は控えるようになった。
 気分転換を兼ねて、場所を移して落ち着いて茶を楽しむことにしたのだ。

 書きものをしている間に龍が来るならそれでよく、龍が取り込み中ならば茶を飲みながら小亭で待ち、それでも現れないならばまた書房に戻って手紙の清書をするだけである。

彼の傍らに龍がおらずとも、彼の起居はいつ龍が現れてもよいように回っているかのごとくである。

「最近は儂に付き合うて、菊の茶ばかりじゃがな」
「眼の疲労が和らぎます効能は、万人に等しゅうございまする」
「さればそちは、一壺飲まぬうちは執務に戻れぬのう」

 蒼い空よりも晴れやかな表情で、彼は明朗な笑い聲をたてて冗談を言った。

 髪は半ばまで白くなり、顔に刻まれる皺は年年増え歳歳深くなるというのに、聲の朗らかさに衰えはなく、視力は落ちても眼光にはなお気力が宿っている。

 龍は最近の彼のそばに居ると、父や叔父が存命であったならば、このような存在であったのだろうかと連想し、たちまちに
(いや、おそらくは……それ以上の)
と思い至っては世の眩しさに眸を伏せる。

「湯の加減に気を付けよ」
「はい」
 彼に仕官した当時は、この言葉について龍は内心不満を覚えていた。

 龍が猫舌であることを知って以来、彼の口から毎度衝いて出る言葉である。
 まるで子供扱いするかの如きこの言葉だと受け止めていたためだが、自分が彼の眸にどう映った結果であるか、よりも彼の人柄が滲み出た結果であるという面を重く感じるようになり、今や素直に頷くようになってしまった。

 そればかりか
(たしかに、わたくしは天文と兵法に些か通じてはいようが……我が君からご覧になればその他は小童も同然)
 と、己の至らぬ部分を認めるに至っている。
 歳月は人を変える。

 彼はといえば、白皙と茶椀を袖で覆って礼儀正しく茶を喫する龍の姿を側に
(水鏡門下の三人は、茶の喫みかたが同じじゃのう)
と、感慨に耽る。

 三人とも、茶の香りを聞いてから、覆う袖の中に手の爪の先まで隠して、額まで覆いながら茶碗を傾ける癖があるようだった。

 これは、龐士元と益州に入ってきた頃にようやく気付いたことである。
荊州に居た頃は、彼は当然、ひねもす龍を離さなかったので、龐士元とゆっくり茶を喫むことなどなかった。

 益州に来てから、長話をせねばならぬ局面が増え、それは酒の席で話すことではなかったので、茶を喫みながら声を荒らげたりしていたのだが、茶を飲み下す時だけは龐士元は品の良い文人だった。

 議論がどんなに剣呑になろうとも、茶を喫む段になると押し黙り、あの面相に似つかわしくもない神妙な表情をうかべて茶碗を持ち上げ、徐に顔を左右にして香りを聞き、龍と同じように袖で眼前を覆って茶を喫むのだ。

 その時、彼の眼の前の龐士元の姿が龍と同じく両袖のみになったので、彼はこのことにようやく気が付いた。

 ひごろ酒を飲み居穢く見えがちな姿は仮の姿で、今こそ鳳が万里翔けようと羽ばたく前の真の姿ではと思わされた。
 記憶を辿れば、徐玄直もたしかにそうだった。

(そなたら三人並べて茶を喫めたなら。また天下は今とは違ったのかのう、孔明)
 今や、益州のすべてを龍の双肩に背負わせている状態であり、叶うことなら徐玄直を取り戻してやりたいものだった。

 彼にとっては蹲虎、臥龍、鳳雛、三者だれしもが若く、それぞれが愛嬌を見出せる部分を持っており、やはり賢者も人だという実感の元に、抱え甲斐もある面白味も味わってはいた。

(したがの。やはり儂は孔明が一番可愛いようじゃ。すまんのう)

 茶を吹く息に本心を混ぜて、徐元直と龐士元とに対する詫びとも言い訳ともつかぬ念ごと、彼は茶を飲みこんだ。

   茶碗を置けば、茶よりも清げに人の姿をなした龍が伏し目がちに、絵のような佇まいをしており、彼は時も季節もしばし忘れて双眸を洗うていた。

(七)へ続く