はや、一千と何百回になるかのう。
この日が巡り来たるのはな。
その方らも存じおりの事であろうが、あの時、孔明はまだ五十と四歳であったのだぞ。
若すぎようが。
当時、髪に混じり増えゆく白いものが章武三年以降の労苦を物語っておったが、その白いものすら儂の眼には清げに映り、いまだに眩しうてならぬ......とは、おっと。口が滑った。独り言じゃ。聞き流せ。
儂がその歳の頃は漢中の王に位を進め、漢室復興が本当に絵空事ではない予感に打ち震えて、天が儂に孔明を賜うたことを改めて謝さずにはいられぬという心持ちで、日毎夜毎に胸が熱うなったものじゃ。
つまりは、まだ一花咲かせようという気概があった年頃じゃった。
急いで来るなと念じておったに、どうやら孔明は急いだのであろうのう。
そして、おそらく我が倅が悪気もなく急かしたことになるのであろう。
となれば、急かしたのはこの儂ということになるな。
倅を頼むと言い遺したのはこの儂じゃ。
その遺言についても、後世には乱命じゃとさえ評され、散散である。
晩節を穢したわい。
ああ、人ノ将二死ナムトス、ソノ言ヤ善シ、と言うであろうが、と喊んでも埒もない。
不徳の致すところと反省は尽きぬわい。
若いうちから儂のような御し難い暴君に仕えると、損は生涯にわたるのだな。
孔明には貧乏籖を引かせてしまった。
後世、招賢に応じよう者たちの処世術に資するよう、何ぞ書き残したか、と冗談のひとつも言うてやりたかったが、そのような随想めいた書きものをする気も暇もなかったことぐらい、儂にも分かる。
随想のかわりに書いたものは、じゃ。
その方ら存じておろう、儂の倅に与えた上奏文じゃよ。
ほれ、あのように。
才能の無駄遣いじゃぞよ、のう。
そうは思わぬか。
倅はとんと分かっておらんかった。
あとで左右の者に
「丞相は老いても相変わらず見事な手跡だなぁ」
と褒め言葉を言うておった。
儂は深い溜め息をつき天を仰ぐのみであったわい。
他に見るべき所があろうが。
儂はといえば、先帝を主公に置き換えては何度も感涙に咽び、一字一句を翡翠の転がるようなあの声音で鼓膜に刻み、そのたびに感極まりて孔明を懐にしとうなったものだがの。
ちと尋ねるが、その方らは成都に参ったことがあるかのう。
今の孔明の祠堂には岳鵬挙の手によるあの文章を刻んだ石板があろう。
あれは、儂の心をとらえ瞼に浮かぶものとは異なる。
あれはな。
岳鵬挙が紹興戊午の秋に成都に参り、孔明の祠堂で遣らずの雨に逢うて堂に泊まった折のものでな。
前後の出師表の碑文を具に見ていた後ろ姿が思い出されるな。
夜が更けても落涙興奮して眠らず、横にもならずに一夜を明かしておった。
朝、道士が孔明の像に献茶に来たところ、にわかに筆墨を所望してな。
碑文の前に蹲り、更に思い余ってまた泣きながら書いたものじゃ。
達筆と評判じゃが、よう見てみよ。
「塞忠諫之路也」
の辺りから、ほれ、筆が乗っているのか寝不足で滑っているのか、素人目には乱れているように見えぬでもない。
……そうか、涙で穂先が見えていぬまま書き進めたのかも知れぬな。
だが、堂々たる大丈夫が涙にくれる所以は、儂にはよう分かる。
やけに詳しいと訝しむか。
これじゃから、うつし世の者どもは困ったものじゃ。
おのれの目と耳のみを信じて疑わぬ。
当然じゃろうが。
孔明の祠堂は儂の墓じゃと言うてもよいのだからな。
儂は墓に閉じ籠ってなどおらぬが、うつし世において墓はひとつの足掛かりのようなものじゃ。
よう見える上に、聞こえもするぞ。
しかしな。
二字目の「亮」じゃが。
あれはな。
儂に言わせれば、大きすぎるのう。
孔明はな、おのれの諱は小さく書いたものじゃった。
余人が書くと、同じ文章でも途端に別な色合いを呈してくるな。
まこと、不思議なものじゃ。
まあ、無理もあるまいがな。
孔明はあれを書きながら我らが漢室を思うており、岳鵬挙はその文字を辿りながら往時の孔明の胸中を思い、当時のおのれの境遇や国運をも重ねて思うておる。
亮を大書したくもなったであろう。
本人は「飛」の一字のつもりだったかもしれぬのう。
惜しい漢であったぞよ。
とにかくじゃ、あれは歳月に色褪せもせず、千年ほど後の武人の心をも揺さぶるほどの名文ぞ。
あれは倅のために書かれたものに見えて、実はな、儂に宛てた書簡じゃと思うておる。
ほれ、あれに、儂の諱は使うておらぬであろう。
先帝先帝と何度もしたためた上に更に、既に儂がおらぬのにこの一字を使わぬとは、倅への圧力と見る向きもあろうが、あれは故意にではなく、習慣じゃな、儂の見るところ。
儂に仕えてから、孔明は儂の諱を書かぬのはもちろんのこと、口にもせぬようになった。
儂の諱はな、馬の用意を命じる際に頻用の文字じゃろうが。
せめて軍中では構わぬゆえ使え、と言うても頑として使わぬ。
強情じゃろう。
そこがまた、かわゆう思えるのだがな、いまだに。
ゆえに、儂は孔明の手による儂の諱を見たことがない。
……と言うたなら、その方らは既に察知したであろう。
あの男だ。
あの男はその字を知っているな。
羨ましいことではあったが、しかし……。
や、話が脱線した。
赤壁の、昔のことじゃ。
これは諱を使われぬ君主の立場でなければ味わえぬ、儂以外の者にはわからぬ心持ちであろうの。
儂は時折に孔明の諱を呼ぶが、孔明は決して儂の諱を使わぬ。
君臣のようでもあり、親子のようでもあり。
ここから百里ほどの定軍山のあたりに、孔明の墓所はある。
簡素でな。孔明らしいぞ。
身罷りしときの装束のまま、そこに眠っておる。
それが孔明の遺言じゃった。
なぜそのように言い遺したかを知っておるか。
場所のことではないぞ。
更衣を嫌ったのじゃ。
ここだけの話じゃが、孔明はな。
儂の下手くそな手跡の書簡を愛蔵しておってな。
雪の日の隆中で書いたものじゃ。
秋風の吹き始めた日、幕舎に誰もおらぬ隙をみて密かに懐中しておった。
おそらくは、儂の手による儂の諱とともに定軍山に眠り、とわに成都を守ろうと思うたのではないか。
いじらしゅうて、また涙が出るわい。
孔明とは三世に渡るほどの奇しき縁があるように思えるゆえ、天がこののちどうお計らいになるのかが、ちと心配でもありながら楽しみでもある。
毎年のことではあるが、今日の成都は、また涙雨になるかもしれぬのう。
この日が巡り来たるのはな。
その方らも存じおりの事であろうが、あの時、孔明はまだ五十と四歳であったのだぞ。
若すぎようが。
当時、髪に混じり増えゆく白いものが章武三年以降の労苦を物語っておったが、その白いものすら儂の眼には清げに映り、いまだに眩しうてならぬ......とは、おっと。口が滑った。独り言じゃ。聞き流せ。
儂がその歳の頃は漢中の王に位を進め、漢室復興が本当に絵空事ではない予感に打ち震えて、天が儂に孔明を賜うたことを改めて謝さずにはいられぬという心持ちで、日毎夜毎に胸が熱うなったものじゃ。
つまりは、まだ一花咲かせようという気概があった年頃じゃった。
急いで来るなと念じておったに、どうやら孔明は急いだのであろうのう。
そして、おそらく我が倅が悪気もなく急かしたことになるのであろう。
となれば、急かしたのはこの儂ということになるな。
倅を頼むと言い遺したのはこの儂じゃ。
その遺言についても、後世には乱命じゃとさえ評され、散散である。
晩節を穢したわい。
ああ、人ノ将二死ナムトス、ソノ言ヤ善シ、と言うであろうが、と喊んでも埒もない。
不徳の致すところと反省は尽きぬわい。
若いうちから儂のような御し難い暴君に仕えると、損は生涯にわたるのだな。
孔明には貧乏籖を引かせてしまった。
後世、招賢に応じよう者たちの処世術に資するよう、何ぞ書き残したか、と冗談のひとつも言うてやりたかったが、そのような随想めいた書きものをする気も暇もなかったことぐらい、儂にも分かる。
随想のかわりに書いたものは、じゃ。
その方ら存じておろう、儂の倅に与えた上奏文じゃよ。
ほれ、あのように。
才能の無駄遣いじゃぞよ、のう。
そうは思わぬか。
倅はとんと分かっておらんかった。
あとで左右の者に
「丞相は老いても相変わらず見事な手跡だなぁ」
と褒め言葉を言うておった。
儂は深い溜め息をつき天を仰ぐのみであったわい。
他に見るべき所があろうが。
儂はといえば、先帝を主公に置き換えては何度も感涙に咽び、一字一句を翡翠の転がるようなあの声音で鼓膜に刻み、そのたびに感極まりて孔明を懐にしとうなったものだがの。
ちと尋ねるが、その方らは成都に参ったことがあるかのう。
今の孔明の祠堂には岳鵬挙の手によるあの文章を刻んだ石板があろう。
あれは、儂の心をとらえ瞼に浮かぶものとは異なる。
あれはな。
岳鵬挙が紹興戊午の秋に成都に参り、孔明の祠堂で遣らずの雨に逢うて堂に泊まった折のものでな。
前後の出師表の碑文を具に見ていた後ろ姿が思い出されるな。
夜が更けても落涙興奮して眠らず、横にもならずに一夜を明かしておった。
朝、道士が孔明の像に献茶に来たところ、にわかに筆墨を所望してな。
碑文の前に蹲り、更に思い余ってまた泣きながら書いたものじゃ。
達筆と評判じゃが、よう見てみよ。
「塞忠諫之路也」
の辺りから、ほれ、筆が乗っているのか寝不足で滑っているのか、素人目には乱れているように見えぬでもない。
……そうか、涙で穂先が見えていぬまま書き進めたのかも知れぬな。
だが、堂々たる大丈夫が涙にくれる所以は、儂にはよう分かる。
やけに詳しいと訝しむか。
これじゃから、うつし世の者どもは困ったものじゃ。
おのれの目と耳のみを信じて疑わぬ。
当然じゃろうが。
孔明の祠堂は儂の墓じゃと言うてもよいのだからな。
儂は墓に閉じ籠ってなどおらぬが、うつし世において墓はひとつの足掛かりのようなものじゃ。
よう見える上に、聞こえもするぞ。
しかしな。
二字目の「亮」じゃが。
あれはな。
儂に言わせれば、大きすぎるのう。
孔明はな、おのれの諱は小さく書いたものじゃった。
余人が書くと、同じ文章でも途端に別な色合いを呈してくるな。
まこと、不思議なものじゃ。
まあ、無理もあるまいがな。
孔明はあれを書きながら我らが漢室を思うており、岳鵬挙はその文字を辿りながら往時の孔明の胸中を思い、当時のおのれの境遇や国運をも重ねて思うておる。
亮を大書したくもなったであろう。
本人は「飛」の一字のつもりだったかもしれぬのう。
惜しい漢であったぞよ。
とにかくじゃ、あれは歳月に色褪せもせず、千年ほど後の武人の心をも揺さぶるほどの名文ぞ。
あれは倅のために書かれたものに見えて、実はな、儂に宛てた書簡じゃと思うておる。
ほれ、あれに、儂の諱は使うておらぬであろう。
先帝先帝と何度もしたためた上に更に、既に儂がおらぬのにこの一字を使わぬとは、倅への圧力と見る向きもあろうが、あれは故意にではなく、習慣じゃな、儂の見るところ。
儂に仕えてから、孔明は儂の諱を書かぬのはもちろんのこと、口にもせぬようになった。
儂の諱はな、馬の用意を命じる際に頻用の文字じゃろうが。
せめて軍中では構わぬゆえ使え、と言うても頑として使わぬ。
強情じゃろう。
そこがまた、かわゆう思えるのだがな、いまだに。
ゆえに、儂は孔明の手による儂の諱を見たことがない。
……と言うたなら、その方らは既に察知したであろう。
あの男だ。
あの男はその字を知っているな。
羨ましいことではあったが、しかし……。
や、話が脱線した。
赤壁の、昔のことじゃ。
これは諱を使われぬ君主の立場でなければ味わえぬ、儂以外の者にはわからぬ心持ちであろうの。
儂は時折に孔明の諱を呼ぶが、孔明は決して儂の諱を使わぬ。
君臣のようでもあり、親子のようでもあり。
ここから百里ほどの定軍山のあたりに、孔明の墓所はある。
簡素でな。孔明らしいぞ。
身罷りしときの装束のまま、そこに眠っておる。
それが孔明の遺言じゃった。
なぜそのように言い遺したかを知っておるか。
場所のことではないぞ。
更衣を嫌ったのじゃ。
ここだけの話じゃが、孔明はな。
儂の下手くそな手跡の書簡を愛蔵しておってな。
雪の日の隆中で書いたものじゃ。
秋風の吹き始めた日、幕舎に誰もおらぬ隙をみて密かに懐中しておった。
おそらくは、儂の手による儂の諱とともに定軍山に眠り、とわに成都を守ろうと思うたのではないか。
いじらしゅうて、また涙が出るわい。
孔明とは三世に渡るほどの奇しき縁があるように思えるゆえ、天がこののちどうお計らいになるのかが、ちと心配でもありながら楽しみでもある。
毎年のことではあるが、今日の成都は、また涙雨になるかもしれぬのう。