成都の天気は変わりやすい。
さきほど嚔の咆哮を放った成都の主は、蓋碗を卓に置いて立ち上がり、日差しが薄くなった廊へ歩を進めて
「曇ってきたようじゃな。道理でな」
甍の上の天を仰いで呟いた。
「この天候こそが成都を天府たらしめていると思えば、ありがたきことでございます」
一歩後ろに付き従っている龍の軍師は、彼の呟きを聴き洩らしもせず、翡翠が転がるような聲で応じる。
「げにも、のう」
ここが天府でなければ彼ら君臣はここに来ることを選んではいなかった。
そもそもここが天府でなければ龍がここを選んでおらず、隆中の草廬で彼がこの地の名を聞くこともなかったであろう。
曇りがちな天候は旱魃の害を遠ざけ、雨雲は恵みの雨をもたらす。
益州の主としてこの地を見る時、民を賄い国を潤すほどの豊作が齎されるほどの日照さえあるならば、青天が年に数度であったとしても充分に引き合う。
「それに加えて、李郡守じゃな」
「左様にございます」
ふたりは、秦昭王のころの蜀郡守李冰のことを話している。
数百年も昔に、成都の北西において親子二代で水利工事を完工した人物である。
この大工事が成都を水で潤し、とこしえに天府であり得ることを不動にしたもいえる。
「ようも成し遂げたものじゃ。……もっとも儂は、まだ地圖の上でしか知らぬのだがの」
龍が成都の城壁を巡って堤の様子を視察し、李郡守の偉業による流れが来たり交わる所を検めた時は、彼の供をしたのではなかったことを思い出す。
小人数のなかに劉子初も加え伴いたかったので、彼には接見などの重要な役目がある日時に敢えて重ねて予定したことを覚えている。
北西から清らかに流れ来る碧い水を見てはその上流に思いを致して感慨に耽りたかったが、その日は早々に立ち去らざるを得なかった。
「李冰。儂は中原に居る頃はその名も知らずに生きておった」
李冰は秦王に任命された一介の郡守で、王でもなく侯でもない。
秦王の一声で郡守の替わりはいくらでも居る立場であり、彼とは違う。
それに、数百年も前の、中央から離れた地方の城の一長官の業績を 楼桑村出身の彼が知っていたとしたら、そちらの方こそ驚きに値しよう。
「......戦いに勝利することよりも、国土を潤す方が難しくそして尊い。儂は李郡守の足元にも及ばぬ」
仁君が眉間の皺を深めるので、龍は微かに羽の扇の先を動かし
「人にはそれぞれに、星まわりがございますれば」
小さくも澄んだ聲で彼を慰め励ました。
我が龍の聲や言葉よりも、その眼差しと表情に彼は心洗われて
「だかそちには苦労をかけるのう」
おっとりと龍に語りかけるついでに、袖の中の白い手をとってそぞろ歩き始める。
「と仰せられますと」
龍は成都入りしてから、劉子初についての心労以外に心当たりがなく、彼が何を指しているのか分からなかった。
「成都に参ってからというもの、天文を見ることは、ほとんど叶わぬであろう」
彼がチラと横目を遣ってから意味ありげに唇の端を持ち上げたので、何か冗談を考え付いたらしきことを察知し
「昨夜も申し上げた如く、雲や風の流れにも気配はございますれば」
真面目に答えて彼の出方を窺った。
「さりながら、臥龍先生の観星臺からのお戻りが、荊襄の頃よりも遅い。これは誤算であるぞ」
彼は故意に神妙な表情を作って立ち止まった。
「これは、ご難題を......」
手を携えたままなので、彼が本気で咎めているわけではないことは明白というのに、笑んでいない我が王のかおばせは、龍をうろたえさせるに充分である。
「せめてのう、霧雨よりも雨足強からば、天文は延期せよ」
深刻な声音で始めながら、語尾に甜さが含まれていたので龍は安心して
「霧雨を、小雨に変えてはいただけませぬか」
と、眸に笑みをたたえて言うてみた。
「小雨か。......降りだしたなら直ちに、ならば聞かぬでもないのう」
「風が出るまではご猶予ください」
「そりゃ、なかなか、ならんぞ」
本当に雨風が出てくるまで、君臣は束の間の気晴らしに、尽きもせぬ語らいを続けるのだった。
関平と張苞が遠乗りに出掛けてほどなく、雲が多くなってきた。
次第に曇りがちになり灰色を呈する空のもと、若武者ふたりは爽やかな初夏の風のように駆け抜けてゆく。
城郭の外の北側から河を渡り、遠く霞む西の山々の影を望みながら、いくつかの小鎮をゆき過ぎ南門へ回る、張苞の気に入りの道である。
「晴れると、もうちょい行ったとこの丘の亭子がいいんだけどサ、今日も曇って来ちまったからな……」
張苞は、その丘からの眺めを関平に披露できないことを惜しんでいた。
「成都は滅多に晴れぬと聞いてはいたが、本当なんだな」
「そうなんだよなー。ここって、天気読めねえんだよマジで」
また来る、という約束を気軽にできない乱世なので、二人ともその残念を天気のせいにする他はない。
「やべ、雨だ」
「降りだしたか」
二人で天をあおぐと、まだそれほど暗い雲はない。
「すぐ止むけどサ、母上と玲兒がうるせーから」
「名残惜しいが、今日はこのくらいにせよとのことだな」
関平は何事も七分八分で良しとできる性分である。
南門から入城してややしばらくゆくと、張苞の馬が遅れた。
「ん? どうした。こっちの道のほうが近くないか」
「参ったな。相変わらずだな平大哥は」
関平は幼い頃から方向感覚が優れており、初めて訪れた城でも人の話と自分が見た場所を頭の中で組み合わせて、その街の特徴を掴むことが得意である。
「劉府……。子初殿の邸には近寄らんようにしてるんだ。習慣になっちまって」
張苞のこの一言で、この道が劉子初の邸へ通じる道と知れた。
「叔父上がいなくてもか?」
「ああ見えて父上は勘がいいから、サ... ...」
「なるほどな」
張将軍は粗忽を剛勇で補っているように見えて、なかなか直感がはたらく。さすが上将の器で、馬鹿ではない。
ふとよもやま話に興じている時などに、この界隈を通らなければ知り得ぬことなどについて口が滑ったものなら
「……てことはだ。お前、あンにゃろーメの家に近寄ったってわけだナ? けしからーんッ! 俺様を見下すような奴など、家の壁の色さえ見るも目が腐るわい」
と、癇癪を起こされること疑い無しである。
調度品の七、八個が壊れることも覚悟しておいたほうが良いだろう。
張将軍には壊すつもりはなく、剛勇にまかせて人並みに腕を上げたり下げたりしているうちに何かが触れてしまい結果的に物が壊れているに過ぎないようなのだが。
「方違えといこう」
「あっ、だけど。平大哥と一緒なら、大丈夫さ」
関平に遠回りをさせることになるので、苞は馬を進めようとしたが
「いやいや。俺とて叔父上の雷は怖い。それを共に喰らうなら望むところだが、俺が帰った後で堂弟、お前一人に落ちる雷となるならば忍びない」
関平が馬の鼻の向きを変えようとしたちょうどその時、ひとつの人影に目が留まった。
(十一)につづく
さきほど嚔の咆哮を放った成都の主は、蓋碗を卓に置いて立ち上がり、日差しが薄くなった廊へ歩を進めて
「曇ってきたようじゃな。道理でな」
甍の上の天を仰いで呟いた。
「この天候こそが成都を天府たらしめていると思えば、ありがたきことでございます」
一歩後ろに付き従っている龍の軍師は、彼の呟きを聴き洩らしもせず、翡翠が転がるような聲で応じる。
「げにも、のう」
ここが天府でなければ彼ら君臣はここに来ることを選んではいなかった。
そもそもここが天府でなければ龍がここを選んでおらず、隆中の草廬で彼がこの地の名を聞くこともなかったであろう。
曇りがちな天候は旱魃の害を遠ざけ、雨雲は恵みの雨をもたらす。
益州の主としてこの地を見る時、民を賄い国を潤すほどの豊作が齎されるほどの日照さえあるならば、青天が年に数度であったとしても充分に引き合う。
「それに加えて、李郡守じゃな」
「左様にございます」
ふたりは、秦昭王のころの蜀郡守李冰のことを話している。
数百年も昔に、成都の北西において親子二代で水利工事を完工した人物である。
この大工事が成都を水で潤し、とこしえに天府であり得ることを不動にしたもいえる。
「ようも成し遂げたものじゃ。……もっとも儂は、まだ地圖の上でしか知らぬのだがの」
龍が成都の城壁を巡って堤の様子を視察し、李郡守の偉業による流れが来たり交わる所を検めた時は、彼の供をしたのではなかったことを思い出す。
小人数のなかに劉子初も加え伴いたかったので、彼には接見などの重要な役目がある日時に敢えて重ねて予定したことを覚えている。
北西から清らかに流れ来る碧い水を見てはその上流に思いを致して感慨に耽りたかったが、その日は早々に立ち去らざるを得なかった。
「李冰。儂は中原に居る頃はその名も知らずに生きておった」
李冰は秦王に任命された一介の郡守で、王でもなく侯でもない。
秦王の一声で郡守の替わりはいくらでも居る立場であり、彼とは違う。
それに、数百年も前の、中央から離れた地方の城の一長官の業績を 楼桑村出身の彼が知っていたとしたら、そちらの方こそ驚きに値しよう。
「......戦いに勝利することよりも、国土を潤す方が難しくそして尊い。儂は李郡守の足元にも及ばぬ」
仁君が眉間の皺を深めるので、龍は微かに羽の扇の先を動かし
「人にはそれぞれに、星まわりがございますれば」
小さくも澄んだ聲で彼を慰め励ました。
我が龍の聲や言葉よりも、その眼差しと表情に彼は心洗われて
「だかそちには苦労をかけるのう」
おっとりと龍に語りかけるついでに、袖の中の白い手をとってそぞろ歩き始める。
「と仰せられますと」
龍は成都入りしてから、劉子初についての心労以外に心当たりがなく、彼が何を指しているのか分からなかった。
「成都に参ってからというもの、天文を見ることは、ほとんど叶わぬであろう」
彼がチラと横目を遣ってから意味ありげに唇の端を持ち上げたので、何か冗談を考え付いたらしきことを察知し
「昨夜も申し上げた如く、雲や風の流れにも気配はございますれば」
真面目に答えて彼の出方を窺った。
「さりながら、臥龍先生の観星臺からのお戻りが、荊襄の頃よりも遅い。これは誤算であるぞ」
彼は故意に神妙な表情を作って立ち止まった。
「これは、ご難題を......」
手を携えたままなので、彼が本気で咎めているわけではないことは明白というのに、笑んでいない我が王のかおばせは、龍をうろたえさせるに充分である。
「せめてのう、霧雨よりも雨足強からば、天文は延期せよ」
深刻な声音で始めながら、語尾に甜さが含まれていたので龍は安心して
「霧雨を、小雨に変えてはいただけませぬか」
と、眸に笑みをたたえて言うてみた。
「小雨か。......降りだしたなら直ちに、ならば聞かぬでもないのう」
「風が出るまではご猶予ください」
「そりゃ、なかなか、ならんぞ」
本当に雨風が出てくるまで、君臣は束の間の気晴らしに、尽きもせぬ語らいを続けるのだった。
関平と張苞が遠乗りに出掛けてほどなく、雲が多くなってきた。
次第に曇りがちになり灰色を呈する空のもと、若武者ふたりは爽やかな初夏の風のように駆け抜けてゆく。
城郭の外の北側から河を渡り、遠く霞む西の山々の影を望みながら、いくつかの小鎮をゆき過ぎ南門へ回る、張苞の気に入りの道である。
「晴れると、もうちょい行ったとこの丘の亭子がいいんだけどサ、今日も曇って来ちまったからな……」
張苞は、その丘からの眺めを関平に披露できないことを惜しんでいた。
「成都は滅多に晴れぬと聞いてはいたが、本当なんだな」
「そうなんだよなー。ここって、天気読めねえんだよマジで」
また来る、という約束を気軽にできない乱世なので、二人ともその残念を天気のせいにする他はない。
「やべ、雨だ」
「降りだしたか」
二人で天をあおぐと、まだそれほど暗い雲はない。
「すぐ止むけどサ、母上と玲兒がうるせーから」
「名残惜しいが、今日はこのくらいにせよとのことだな」
関平は何事も七分八分で良しとできる性分である。
南門から入城してややしばらくゆくと、張苞の馬が遅れた。
「ん? どうした。こっちの道のほうが近くないか」
「参ったな。相変わらずだな平大哥は」
関平は幼い頃から方向感覚が優れており、初めて訪れた城でも人の話と自分が見た場所を頭の中で組み合わせて、その街の特徴を掴むことが得意である。
「劉府……。子初殿の邸には近寄らんようにしてるんだ。習慣になっちまって」
張苞のこの一言で、この道が劉子初の邸へ通じる道と知れた。
「叔父上がいなくてもか?」
「ああ見えて父上は勘がいいから、サ... ...」
「なるほどな」
張将軍は粗忽を剛勇で補っているように見えて、なかなか直感がはたらく。さすが上将の器で、馬鹿ではない。
ふとよもやま話に興じている時などに、この界隈を通らなければ知り得ぬことなどについて口が滑ったものなら
「……てことはだ。お前、あンにゃろーメの家に近寄ったってわけだナ? けしからーんッ! 俺様を見下すような奴など、家の壁の色さえ見るも目が腐るわい」
と、癇癪を起こされること疑い無しである。
調度品の七、八個が壊れることも覚悟しておいたほうが良いだろう。
張将軍には壊すつもりはなく、剛勇にまかせて人並みに腕を上げたり下げたりしているうちに何かが触れてしまい結果的に物が壊れているに過ぎないようなのだが。
「方違えといこう」
「あっ、だけど。平大哥と一緒なら、大丈夫さ」
関平に遠回りをさせることになるので、苞は馬を進めようとしたが
「いやいや。俺とて叔父上の雷は怖い。それを共に喰らうなら望むところだが、俺が帰った後で堂弟、お前一人に落ちる雷となるならば忍びない」
関平が馬の鼻の向きを変えようとしたちょうどその時、ひとつの人影に目が留まった。
(十一)につづく