天府南門橋(十一)

2019/10/24

3世紀長編 天府南門橋

(召單……?)
 関平は、外套を纏い小さな荷物を抱えて路の端を南門へ向かって歩く女が、脇をゆき過ぎてゆく姿をみとめて振り返った。

 彼女が持つ小さな荷物の形状が、庶民がよく無造作に担いでいる単純な丸い形ではなく、下部が丸く上部が細長く、しかも身体の前で大事そうに抱えているように見えたので、楽器を持つ女だという直感がよぎった。

 若くはない髪型や、耳から肩のあたりの雰囲気など、先ほど茶楼で一曲奏でて立ち去る時の姿に似ていた。

 啼春心の姚楼主は、関平が張将軍ゆかりの者であることを知り、琵琶の楽女を買いに来たわけでもないことを知ると、態度が柔らかくなった。
 関平が本当に琵琶の音を評価して褒めていることが伝わったと見え、楽女の名が「召單」であることを教えてくれた。

 ただし、その名は芸名であろうと思われるし、もとより関平は実名を知りたかったわけではない。


 ひらりと馬を下りた関平に慌てて
「どうかしたのか? 平大哥」
 張苞も馬を下りた。

「……雨が降り出したというのに、ご婦人が雨宿りもせず歩いている」
 地味な色の外套を翻して一歩ずつ遠ざかる召單とおぼしき後ろ姿から、関平は目も離さずに呟く。

 その人影が琵琶の楽女だとまでは断じられない張苞だったが、関平が言いたいことを察して
「『成都あるある』だゼ~。平大哥」
 わざとニヤニヤとした笑みを浮かべて続けた。

「あの婦人に笠でも買ってやるか? てゆーか、これしきの雨、みんな慣れっこで笠なんて売ってねーし。雨宿りに茶座にでも誘ったらだ、誘い終わらんうちに罵られるのが落ちだゼ」
「罵られる……?」

 関平が腑に落ちぬ顔をするので、張苞は微かに溜息をついて手綱を通した腕を曲げて軽く握った拳を腰に当てて
「成都ではそれ、ナンパの常套句だゼ! しかも九分九厘失敗するヤツ」
 ちょっと大きめの声で言い放つと関平は真っ赤になり、照れ隠しに咄嗟に掌で頬を撫でると
「……帰ろう」
そそくさと鐙に足をかけた。

 妙なる調べを奏でる召單という楽女が雨に濡れていると思えば不憫だが、かといって自分が軟派な輩と誤解されるのも本意ではない。

 張苞の思いがけない一言があったために、召單の背後を黒い人影が追いすがって南門を出て行ったことに関平は気づかなかった。 


 召單は南門を出て橋を渡ると右へ曲がった。
 分かれ道をゆき過ぎていくうちに、天秤棒を担いだり大きな破れ籠を背にしたりした行商風の人影は少なくなり、竹林や池が多くなってくる。

 空は雨雲に覆われ、まだ日暮れには間があるというのに薄暗く、周囲は屋根瓦が減り茅葺の鄙びた景観にかわり、そしてそれらも稀になる。

 いよいよ人の気配も微かになってくるところ、召單は竹林の間の小路へ分け入ってゆく。

 竹林の路傍には小さな流れが清げに添っており、寂しいながらも人が住むに悪いところではなさそうだという気配だけは漂うのが救いである。

 かすかな風にも竹が撓り葉がさざめく中、召單は小路を逸れてやや歩き、足を止めた。

 追いすがる人影も竹が密集しているところを選んで気配を消すことに努めたが、召單は尾行されていることになど気づきもしていない。
 
 召單を追う人影はといえば
(意外に、鬼足だ)
 若くもない女一人を尾けることなど造作もないと考えていたのに、うかうかしていると置いて行かれそうになりがちだったので、脇にうっすらと汗を覚えていた。

 人影は雨を幸いに、頭巾のついた外套をすっぽりとかぶっているが、庶民でないことは明らかだ。

  その足取り、竹が群生する所に時どき身を隠しては召單の行く先を伺う様子、竹の幹を握る指の太さから察するに、尾行者は男である。

 割り裂いた竹を格子状に結んで作られた墻の膝丈の戸を開閉して、召單は歩みを続けた。小さな平屋の草庵がある。

「ただいま」
 召單は誰にともなく小さく声をかけたようだが、中から応えはない。
 薄暗くなっているのに窓の帳も下りており、暖かげな風情もなかった。

(……辺鄙なところで、一人暮らしか……)
 人影は竹墻に近寄りながらも、用心して竹の幹のあいだから草庵をうかがう。
 
 草庵は静かで、裏で鶏を数羽ほど飼っているような物音がするのみだった。
 ざわざわと竹林が風をはらむ中、人影は一度立ち去り、ややあってまた戻ってきた。
 辺りを検分していたのかもしれない。

 またしばらく竹墻のそばで様子を覗って、人影は目的を達したのか草庵に背を向けて来た道を帰って行った。

 と思いきや、人影は百歩も行ったところで、ぴたりと歩みを止めてまた戻ってきた。
 
 人影の耳に届いた楽の音が、だんだんとはっきりしてくる。
 琵琶の音色に、歌声が和している。
 ついぞ聞いたこともない歌だった。

 まだ草庵の竹墻にまで至らぬというのに、人影は足を止めた。
 止めたというよりも、止まってしまったのだ。
 目を瞑り、その琵琶の音色と歌声に聴き入ってしまっていた。


     河なかに
         關關と啼くみさご鳥    
             よき娘ごは
                   君子にぞ添ふ

      求むれど得られず
           今日も明日の夜も
                眠れもせずに
                     慕ふのみ……



 その夜の老王府の主の私室の廊には、常よりも早い刻限に龍の軍師の姿があった。
「孔明、参じましてございます」

 折り目正しく両の袖を揃えて白い羽の扇を横たえて、深々と一礼する。

 今宵の月は厚い雲の上だというのに、いずこからか月光を携えているような佇まいである。

 彼はまだ更衣もせず、昼間の平服のままで居た。
 いつもの「天文のご報告に参じました」でもなく、「お召しにより参じました」でもない口上が巨きな耳に届き、彼には甚だ満足である。

「おう。近う。先生をお通しせよ」
 取り次ぎが改めて『軍師がお越しです』と声を張ろうか迷っている隙に、彼は直に我が龍へ命じたあと、取り次ぎにも気を遣って言い添えた。


(十二)につづく