「先生に茶を」
彼は、白き龍から目も離さず、長い腕を斜め後方に伸ばして袖口を少し振り、若い侍従に命じながら、歩を進め
「さあ、かけよ」
主座の隣へと自ら案内する。
龍が座り、彼も座ったところへ茶が供され
「ありがとう存じます」
毎度のことながらも、主君たる彼みずからに座を与えられることと、待ち構えていたかの如くに接茶に与ることに、龍は馴れもせずに低頭して礼を述べる。
「昨夜よりも、冷えるようじゃのう」
彼は早速に茶を喫する。
先に飲まぬうちは、龍が茶碗を手に取らないことを知って久しいからである。
「一雨ごとに寒くなる、そういう降りかたかのようでございます」
「左様か」
再び茶碗に口をつけると、龍は白い羽の扇を傍らに置いて茶碗を手にして、袖で茶碗を覆って茶を服した。
水鏡一門の兄弟弟子たちは、茶の喫しかたが同じである。
同じであるのに、彼の眸には龍のこの姿が特別に眩しく映る。
記憶のなかの徐元直や鳳の軍師と同じはずであるのに、彼らに対しては些かも感じなかった思いがよぎる。
彼は、お茶請けの木の実をかじり、照れ隠しに乾いた音を立てた。
おのが軍師にまた見惚れかけていることを、龍にも左右にも気づかれたと思ったのだ。
この君臣の起居を見ていれば、新米の家来であっても早晩気づいて慣れてしまい、これしきの事は何ともない。
「また雨だ」程度に受け止められているということに彼は気づいていない。
左右の者共にとっては、むしろ彼が軍師に見惚れもせぬ方が不自然にさえ思えるであろう。
このような時の雰囲気に一向に慣れぬのは、白い賢者のみと言ってもよい。
まるで、隆中の草庵から昨日召し出されたような初々しい淡い緊張と、あの日から全く変わりもせぬ君恩に、何と言葉を続けるべきか皆目わからなくなる。
今日は天文も見ておらず、国事は夜の餐の時に概ね言上した。
彼に報告することは、もう既にない。
「そちの手本のお陰での。『関雎』のな」
木の実を飲み下したあと、彼は徐に口を開いた。
「雲長への返書、だいたい書けたぞ」
「左様でございましたか」
龍は内心、ほっとする。
返書の進捗のことではなく、会話のことに、である。
このようなときは、政務以外の柔らかい話で談笑するのが良いと分かっていても、いつも何を話題に口を開けばよいのか、未だにわからないのだ。
「じゃがのう」
そこで彼はまた、木の実を一粒とりあげて口腔へ放り、咀嚼し、ややあって
「書き上げてしまうとな、平を荊州に帰さねばならんからのう......」
しんみりと呟いた。
龍は、この何気ない呟きにすらも彼の非凡さを感じ、彼の名君たる所以の一端を垣間見た心地になる。
彼と関平の関係は伯父と甥である。
とはいえ、関平の義父・関将軍と彼は義兄弟であるので、三者の間の血の繋がりは皆無である。
龍が江東の兄の子らを思う以上の情愛が、関平を語るときの彼の眼差しに溢れいでている。
「ゆえにな」
彼は悪戯っぽく笑って目尻に皺を刻み
「儂は明日、ぎっくり腰になるでな」
真面目な龍が、ハッとした白い貌を向けたので大きな笑い聲をたてて
「そちにだけは、予告しておく」
目尻の皺を深めてみせた。
「心得ました」
龍はうるわしい所作で袖を揃えて拱手し
「今宵のうちにお書き上げください......と逼りましたなら如何あそばしまするか」
逼る気など毛頭ないのに、龍はそう言うてみる。
彼を揶揄するつもりでもなく、試すつもりでもない。
事の大小を問わず、彼の問題を躱す能力の高さと、その躱しかたを知りたいのである。
仕えて既に十有余年、 おのれとは全く違う着想で物事を見、躱してゆく彼を更に知りたいと思い続けているのだともいえる。
「今宵か。今宵は不都合じゃのう、孔明」
彼は眉間の皺を深めて、眉尻を下げ、困った様子を装った。
(十三)につづく
「さあ、かけよ」
主座の隣へと自ら案内する。
龍が座り、彼も座ったところへ茶が供され
「ありがとう存じます」
毎度のことながらも、主君たる彼みずからに座を与えられることと、待ち構えていたかの如くに接茶に与ることに、龍は馴れもせずに低頭して礼を述べる。
「昨夜よりも、冷えるようじゃのう」
彼は早速に茶を喫する。
先に飲まぬうちは、龍が茶碗を手に取らないことを知って久しいからである。
「一雨ごとに寒くなる、そういう降りかたかのようでございます」
「左様か」
再び茶碗に口をつけると、龍は白い羽の扇を傍らに置いて茶碗を手にして、袖で茶碗を覆って茶を服した。
水鏡一門の兄弟弟子たちは、茶の喫しかたが同じである。
同じであるのに、彼の眸には龍のこの姿が特別に眩しく映る。
記憶のなかの徐元直や鳳の軍師と同じはずであるのに、彼らに対しては些かも感じなかった思いがよぎる。
彼は、お茶請けの木の実をかじり、照れ隠しに乾いた音を立てた。
おのが軍師にまた見惚れかけていることを、龍にも左右にも気づかれたと思ったのだ。
この君臣の起居を見ていれば、新米の家来であっても早晩気づいて慣れてしまい、これしきの事は何ともない。
「また雨だ」程度に受け止められているということに彼は気づいていない。
左右の者共にとっては、むしろ彼が軍師に見惚れもせぬ方が不自然にさえ思えるであろう。
このような時の雰囲気に一向に慣れぬのは、白い賢者のみと言ってもよい。
まるで、隆中の草庵から昨日召し出されたような初々しい淡い緊張と、あの日から全く変わりもせぬ君恩に、何と言葉を続けるべきか皆目わからなくなる。
今日は天文も見ておらず、国事は夜の餐の時に概ね言上した。
彼に報告することは、もう既にない。
「そちの手本のお陰での。『関雎』のな」
木の実を飲み下したあと、彼は徐に口を開いた。
「雲長への返書、だいたい書けたぞ」
「左様でございましたか」
龍は内心、ほっとする。
返書の進捗のことではなく、会話のことに、である。
このようなときは、政務以外の柔らかい話で談笑するのが良いと分かっていても、いつも何を話題に口を開けばよいのか、未だにわからないのだ。
「じゃがのう」
そこで彼はまた、木の実を一粒とりあげて口腔へ放り、咀嚼し、ややあって
「書き上げてしまうとな、平を荊州に帰さねばならんからのう......」
しんみりと呟いた。
龍は、この何気ない呟きにすらも彼の非凡さを感じ、彼の名君たる所以の一端を垣間見た心地になる。
彼と関平の関係は伯父と甥である。
とはいえ、関平の義父・関将軍と彼は義兄弟であるので、三者の間の血の繋がりは皆無である。
龍が江東の兄の子らを思う以上の情愛が、関平を語るときの彼の眼差しに溢れいでている。
「ゆえにな」
彼は悪戯っぽく笑って目尻に皺を刻み
「儂は明日、ぎっくり腰になるでな」
真面目な龍が、ハッとした白い貌を向けたので大きな笑い聲をたてて
「そちにだけは、予告しておく」
目尻の皺を深めてみせた。
「心得ました」
龍はうるわしい所作で袖を揃えて拱手し
「今宵のうちにお書き上げください......と逼りましたなら如何あそばしまするか」
逼る気など毛頭ないのに、龍はそう言うてみる。
彼を揶揄するつもりでもなく、試すつもりでもない。
事の大小を問わず、彼の問題を躱す能力の高さと、その躱しかたを知りたいのである。
仕えて既に十有余年、 おのれとは全く違う着想で物事を見、躱してゆく彼を更に知りたいと思い続けているのだともいえる。
「今宵か。今宵は不都合じゃのう、孔明」
彼は眉間の皺を深めて、眉尻を下げ、困った様子を装った。
(十三)につづく