天府南門橋(九)

2019/07/24

3世紀長編 天府南門橋

 成都の人気茶楼「啼春心」の昼下がりの楽屋で、二人の話し声がする。

「皇叔さまと軍師さまにあやかって、まさかこの茶楼にも三顧の礼を受ける者が出ようとはね。今日は珍しく晴れてるし、お天道様どうした風の吹き回しなのかねえ」

 柱に寄りかかって立つ女楼主の視線の先には、琵琶の楽女の後ろ姿がある。
 女楼主は、関平主従を見送った後、頃合いを見て楽屋へ足を運び、今日の来訪者の来意を楽女に告げたのだ。

「畏れ多い。同じおかたが三度お越しだったわけではないでしょう」
 楽女は、鏡に向かって舞台用の化粧を落とし、髪を地味に結い直し、薄化粧を終えようとしていた。

 昼の部が終わったあと、歌手や演奏者たちは早速に食事を摂り別室で昼寝などしているので、この時刻の楽屋で遅れて支度しているのは琵琶の楽女だけである。
 女楼主は、鏡の中の楽女の表情を観察しながら言葉を続ける。

「そりゃそうだけど。相変わらずいい腕してるよ……悩みの深いのがまた、哀愁を加えるというやつかねえ」
「姚楼主」
 鏡の中で姚楼主と視線を交わしてから、楽女はくるりと向き直った。

「褒めてるんだよ。そして、心配もしてる。わたしなりにね」
「……」
 楽女は、膝の上で組んだ手のあたりを見る具合の俯いた姿勢で、言葉を探しているようだった。

「言っちまうと、わたしは来年いよいよ五十だ。わたしが元気なうちはこの茶楼はやってくし、こんなわたしでも、わたしなりにお前さんを守ってやれるつもりだけど」

 楽女は何も答えないが、このような状態に姚楼主は慣れているようで、楽女の様子をしばらく見守り
「……もうそろそろ、昔のしがらみから抜け出てもいいんじゃないかい。誰もお前さんを責めなどしないよ」

 楽女の眉が曇ったので、姚楼主は声を更に和らげて
「召單(しょうぜん)
 と呼びかけた。

 召單と呼ばれた楽女は少し顔をあげた。
 若いころは美女と言われたであろう、整った顔立ちをしている。

 だが頬のやつれと首のあたりの衰えに、加齢が隠せない。
 少なくとも、誰かの妾たり得る年齢は過ぎている。

 女の年齢というものは概して見破りにくいものだが、召單も見た目よりも実際は歳を取っているかもしれない。
 
「わたしの目の黒いうちに、お前さんの身の振り方を考えて安心したいだけだ。二代目を継ぐ者に、今とかわらずお前さんに出番を与える約束をさせるのは簡単だが、約束を守らせることは難しい」
「……姚楼主……」

 召單は、膝の上の両手で衣を握り締めた。
 彼女とて、この件を考えなかったことなどない。

「お前さんが望むなら、わたしが九泉の客となる日までここで琵琶を弾いていてもいいんだよ。ただ、昨日までなかった道が現れた。二条もだ」

「二条?」
 召單は、今日はじめて問いかけを発した。
 今日あらわれた道は、劉府へゆく道ただ一条だけのはずだ。

    荊州からやってきた関平の用件は、爽やかなものであった。
   
「琵琶の楽女の名をうかがえまいかと存じて。後日いつ成都に来られるか分からぬながら、もしその時に見当たらねば消息を尋ねたくなろうと存じまして」

    楽女の、「楽」の部分にこそ関心がある様子であった、管家に銀を持たせて寄越す奴とは違った、と、さきほど姚楼主は感心しながら確かにそう言っていたはずだった。

「だけど、こうなってくると平公子について荊州へいく道もありはしないかね」
「まさか、姚楼主」
 召單の声が厳しくなった。

 姚楼主を責めているのか、それとも何かに怯えているのかわからない声音だった。
「心配しなさんな。お前さんのことは、芸名以外は話してないよ」
 姚楼主は剣呑な気配に動じずに静かに応じたので、召單も安心したようだった。

「ただ、話してて分かったんでね。荊州からのただの使いの関某、じゃなかった。関将軍の公子だったから。だったら、もしかしたら、お頼りできるんじゃないかと思って」

 長い沈黙のあと
「……わたしのことなど、きっと将軍はお忘れだ」
 聴き取れぬほど小さな召單のつぶやき声が姚楼主の耳にからくも届いた。

「かもしれないけど。覚えておいででなかったとしても、平公子のお耳にとまったんだ。お頼りすればご奉公の道も開けるかも」
 召單は、視線をさまよわせた。明らかに迷っている。

 招かれている劉府ではなく、招かれてもいない荊州への道をとりたい思いゆえの迷いだと姚楼主は受け取った。
「でも」
「でも?」

 また長い沈黙が流れる。
 憶測であれこれ発言しては召單が口を噤む結果を招いてきた過去がある姚楼主は、辛抱強く口が開かれるのを待った。

「その昔、関将軍にはご恩があり……張将軍にもお救いいただき……。ようやくここで楼主に拾われささやかに暮らせているだけでも幸運で……これ以上はお頼りできる道理もなく……」

 俯いて訥訥と語る言葉を聞き違えるまいと注意を払いながら
「え? 張将軍にも借りがあったのかい? 初耳だね。それなら......」
 姚楼主は更に手蔓が増えたことに表情を明るくしたが

「あっ、違います。違う張将軍です」
 召單は慌てて袖を振り、姚楼主の早合点を打ち消した。

「...…さっきは、皇叔とは違う劉が来て、今度は張将軍とは違う張か。急に込み入って来たもんだね」

   姚楼主は、冗談めかした口調で話を切り上げにかかった。
   召單と深刻な話で長話になると縺れるのだ。
    だんだんと、いま悩まなくてもよいことや、悩んでも解決できぬあれこれが連鎖して、みずから憂いを深め混乱を招く傾向がある。
    そんな面倒さを持つ若くもない楽女の後ろ盾を務めているとは、姚楼主もなかなかの人物といえよう。



   皇叔とは違う劉が噂されていた頃、彼は老王府の奥で嚔を発していた。

  普段の温和な声音からは想像もつかぬほどの大きさで、咆哮するかの如くである。

   仕官したばかりの龍は、新野城で初めてこの咆哮に見舞われた時、驚きのあまり、彼が発した嚔の音だと理解することに時間を要した。

   実は知らぬ間に張飛将軍が同席していて、突然に嚔をしたのではないかとさえ思いつき、部屋を見回した。

   「ああすまぬ。して、その件についての良策は」
    彼も周囲も、何事もなかったかのように、嚔の前と同じように落ち着き払っていた。

   彼の嚔に不意に接するたびに、龍は今より若かりし我が王と己自身を、鮮やかに思い出すので、彼の咆哮には密かに心踊るのである。

   その思いを隠して
「すっかり、秋風でございます」
    彼の身を言外に労ると
「うむ、そうじゃのう」

    彼は、咆哮の主とは思えぬ、おっとりと低く僅かに甜みを帯びた聲で応じる。
    龍に注ぐ眼差しは年毎にいよいよ深く、沈黙すらも無言の会話にさえ思えてくるほどである。



(十)   につづく