三将軍、つまり張飛将軍の名は殊のほか有効だった。
張府の二文字で、女楼主の眉間の皺がたちまちに消え失せて態度が軟化したのが、関平にも従者にも分かるほどだった。
「張将軍のゆかりの御仁ならば」
そこで楼主はクスリと笑ってえくぼを作り
「少なくとも、裏表のないお人でしょう」
と、愛嬌を見せて部屋へ招き入れ、茶の一杯も勧めてくれたのだった。
楼主が笑った理由については、やはり張将軍と劉子初との関わりを述べねばなるまい。
劉子初の財政についての手腕は、龍の軍師が絶賛するほどであるので、その人となりに難はあっても老王府に座する彼は子初を重用していた。
だが、その人となりの難は、張将軍との衝突を招いた。
あるとき子初は
「脳筋と酒など飲んで何になる」
という意味合いの無礼な言葉遣いを冷たく淡々と発して、この年上の上将の酒を飲まなかったらしいのだ。
らしい、というのは、このことについて張将軍が怒りにまかせてどれぐらい誇張して長兄たる彼に訴えたのかを差し引く必要があるためである。
同時に、この逸材を庇うために弁解の機会を与えようとて、龍がその真意を問い質した際、子初がこの件について発した言葉は八文字のみで、取りつくしまもなかった以上は、詳しい経緯を勘案すべきかもしれないからでもある。
この二人の不和が巷間に流れたのは、別件に起因している。
張将軍の邸に酒屋専用の門ができたという噂で、成都はもちきりだったことがある。その門を一目見ようという見物人を目当てに、路傍に包子屋などの屋台さえ出たこともあった。
「そちの耳にも入ったか。ほとんどここに缶詰めであろうに。どこで仕入れたのだ」
ある日の夕餉に美酒を酌むことになった折に、彼はこの噂を肴にして龍に水を向けた。
「書僮から聞きましてございます」
「はは、乖は世情にも通じて、そなたの耳にもなるか。心得ておるのう」
龍の書僮には別に姓名があるが、彼は「お利口さん」という意味の乖を愛称にしてそう呼んでいるのだ。
龍の肴には張府の噂を差し出し、彼自身は、わが龍の白いかおばせを肴に美酒をちびりと嘗めた。
その酒は、先の戦で陣中の張将軍へ贈った酒屋の酒である。
「……子初の無礼に端を発しておる事かと存じますと……」
龍は、さすがの彼も義弟を蔑にして憚らぬ子初について、降格や解任を口にすることも有り得るだろうと日頃から案じているため、玉爵を置いて両袖を揃え、とりなすように小さな声を発した。推挙した己にも非があることを示そうとしている。
「子初の話は今はよい。三弟のことじゃ」
意外にも彼は斜めならず話を続けた。
空になった彼の玉爵に左右の者が燗酒を注いで満たす音が品よく渡る。
張将軍が任地の城へ赴く前月のことだった。
「あの戦の最中に軍師サマから頂戴したあの酒。昨日しこたま買いましたんで、兄者にもお裾分けしまス。重てぇの何度も運ばせるの気の毒なんで、直接、厨のほうに運ばせましたんで」
自分が運ぶなら造作もないが、結局は非力な下々の手を煩わせることになるので、張将軍は彼に口頭でそう伝えに来た。
「ほほう。それほどに気に入ったのか」
彼もあの時の美酒を時々思い出すので関心はあったが、多忙ゆえ味わってみようという機会もついぞなかった。
「旨えってだけじゃ足りねえですゼ。ようやくイロイロと片付いたし、戦ぬきでじっくり味わいたくてでスよ。……本当は、二哥と三人で飲みてえんでスけど」
いかつい顔がしんみりして半眼になると、虎は猫に似た具合になり、実際以上に寂しさが漂う表情に感ぜられる。
「……そうじゃのう。まあ、座れ」
二哥、彼にとっては二弟の関将軍を、当分のあいだ成都に呼び寄せることはできないため、彼は共にしんみりとする他はない。
立ち話で返せるはずもなかった。
張将軍は、結局は二人の義兄が好きでたまらないので、腰かけながら彼の愁眉にハッと気づくと
「でもッ、荊州にも贈りましたんで。同じ酒を飲むことはできるってやつでス!」
いたずらっ子のように目を輝かせた。
彼ら義兄二人は何度も、この明るさに救われてきた。
「あの酒をより美味く飲むために、俺は一工夫しましたんでスよ」
「ほほう」
「聞きたいでスか? 大哥」
彼は温厚な笑顔を浮かべて
「もちろんだ」
と応じる。
声を潜めて「聞きたいでスか?」を言うのは、聞いてほしくてたまらない時の口癖であるからだ。
「あの酒屋専用の門を造りまシた」
「専用とな?」
「ハイ」
張将軍の話によれば、初めて例の酒を取り寄せて飲んでみたところ、確かに旨いのだが全く酔えなかったらしい。
普段なら店主を呼びつけて問い質すところだが、なにしろ張将軍は無類の酒好きなため、どんな酒屋なのか興味もあり、一人でその酒屋へ出かけた。
「その道すがら、分かったんでス」
張将軍は両目を爛々と光らせて物語る。
「道の途中に何が出てきたと思いまスか? 劉巴の野郎の邸でス! 奴の門前を掠めた酒なンて、道理で酔えないわけじゃありませンか!」
張将軍はダン! と卓を拳で叩いた。
子初の無礼な言いぐさには彼も腹を立てているが、ここで蒸し返しても面白かろうはずもなく、彼は押し黙ってその続きを待った。
「その足で、店主にかけあいましたんでサぁ。これから家に戻って、横道に面した牆に穴をあけて酒用の門を作るから、ご苦労だが今後はヤツの門前を通らず、細い胡同を遠回りして酒を持って来てくれって。そしたらでス……」
あとは察しがついたので、彼はニコニコと聞いていた。
その新しい門から酒を運び込んだ途端、気分よく酔えるようになったという話だ。
「しかし、水の軍師サマは酒はあんまり、なハズなのにでス。何であんなに旨い酒を御存じだったんだか。成都七不思議でス」
「ハハ、左様じゃの」
彼は茶と菓子を勧めて
「あとの六不思議は何なのじゃ?」
と、張将軍との語らいを楽しみ始めた。
「へへッ、実はこれから考えるところでス。いただきまスぜ」
茶目っ気たっぷりの仕草で菓子を取り上げ、まるごと頬張ると
「ふンッ、いゃっふぁ、ぁみあんの」
咀嚼しながら話すので
「そうじゃ。三妹の菓子じゃ。孔明も好きでな。いつもお茶請けにさせてもろうておるぞ。そちは果報者じゃのう」
彼の巨きな耳が聴き取った
『ふん? やっぱり、かみさんの』
は正しかったと見え、張将軍は満更でもなく、後頭部を掻きむしって照れて
「でもでス、門の件は……かみさんは『風水的に悪い』って、カンカンだったんでス」
と、目を泳がせ、恐妻家の一面を覗かせた。
「……という次第で、噂の通りに本当に酒屋の門を造ったらしい。張府の主から直に聞いたでな。確かじゃ」
彼が心の底から愉快そうな様子で
「あやつらしいのう、孔明」
と朗らかな笑い聲を続けたので、龍も誘われて優美な笑みを白皙に刷いた。
子初のあざなが出る話題だったというのに、まさか彼の笑顔に接することができようとは思いがけず、龍はまたもや彼に救われる心地で胸が満ちてゆくのを感じていた。
(九)につづく
張府の二文字で、女楼主の眉間の皺がたちまちに消え失せて態度が軟化したのが、関平にも従者にも分かるほどだった。
「張将軍のゆかりの御仁ならば」
そこで楼主はクスリと笑ってえくぼを作り
「少なくとも、裏表のないお人でしょう」
と、愛嬌を見せて部屋へ招き入れ、茶の一杯も勧めてくれたのだった。
楼主が笑った理由については、やはり張将軍と劉子初との関わりを述べねばなるまい。
劉子初の財政についての手腕は、龍の軍師が絶賛するほどであるので、その人となりに難はあっても老王府に座する彼は子初を重用していた。
だが、その人となりの難は、張将軍との衝突を招いた。
あるとき子初は
「脳筋と酒など飲んで何になる」
という意味合いの無礼な言葉遣いを冷たく淡々と発して、この年上の上将の酒を飲まなかったらしいのだ。
らしい、というのは、このことについて張将軍が怒りにまかせてどれぐらい誇張して長兄たる彼に訴えたのかを差し引く必要があるためである。
同時に、この逸材を庇うために弁解の機会を与えようとて、龍がその真意を問い質した際、子初がこの件について発した言葉は八文字のみで、取りつくしまもなかった以上は、詳しい経緯を勘案すべきかもしれないからでもある。
この二人の不和が巷間に流れたのは、別件に起因している。
張将軍の邸に酒屋専用の門ができたという噂で、成都はもちきりだったことがある。その門を一目見ようという見物人を目当てに、路傍に包子屋などの屋台さえ出たこともあった。
「そちの耳にも入ったか。ほとんどここに缶詰めであろうに。どこで仕入れたのだ」
ある日の夕餉に美酒を酌むことになった折に、彼はこの噂を肴にして龍に水を向けた。
「書僮から聞きましてございます」
「はは、乖は世情にも通じて、そなたの耳にもなるか。心得ておるのう」
龍の書僮には別に姓名があるが、彼は「お利口さん」という意味の乖を愛称にしてそう呼んでいるのだ。
龍の肴には張府の噂を差し出し、彼自身は、わが龍の白いかおばせを肴に美酒をちびりと嘗めた。
その酒は、先の戦で陣中の張将軍へ贈った酒屋の酒である。
「……子初の無礼に端を発しておる事かと存じますと……」
龍は、さすがの彼も義弟を蔑にして憚らぬ子初について、降格や解任を口にすることも有り得るだろうと日頃から案じているため、玉爵を置いて両袖を揃え、とりなすように小さな声を発した。推挙した己にも非があることを示そうとしている。
「子初の話は今はよい。三弟のことじゃ」
意外にも彼は斜めならず話を続けた。
空になった彼の玉爵に左右の者が燗酒を注いで満たす音が品よく渡る。
張将軍が任地の城へ赴く前月のことだった。
「あの戦の最中に軍師サマから頂戴したあの酒。昨日しこたま買いましたんで、兄者にもお裾分けしまス。重てぇの何度も運ばせるの気の毒なんで、直接、厨のほうに運ばせましたんで」
自分が運ぶなら造作もないが、結局は非力な下々の手を煩わせることになるので、張将軍は彼に口頭でそう伝えに来た。
「ほほう。それほどに気に入ったのか」
彼もあの時の美酒を時々思い出すので関心はあったが、多忙ゆえ味わってみようという機会もついぞなかった。
「旨えってだけじゃ足りねえですゼ。ようやくイロイロと片付いたし、戦ぬきでじっくり味わいたくてでスよ。……本当は、二哥と三人で飲みてえんでスけど」
いかつい顔がしんみりして半眼になると、虎は猫に似た具合になり、実際以上に寂しさが漂う表情に感ぜられる。
「……そうじゃのう。まあ、座れ」
二哥、彼にとっては二弟の関将軍を、当分のあいだ成都に呼び寄せることはできないため、彼は共にしんみりとする他はない。
立ち話で返せるはずもなかった。
張将軍は、結局は二人の義兄が好きでたまらないので、腰かけながら彼の愁眉にハッと気づくと
「でもッ、荊州にも贈りましたんで。同じ酒を飲むことはできるってやつでス!」
いたずらっ子のように目を輝かせた。
彼ら義兄二人は何度も、この明るさに救われてきた。
「あの酒をより美味く飲むために、俺は一工夫しましたんでスよ」
「ほほう」
「聞きたいでスか? 大哥」
彼は温厚な笑顔を浮かべて
「もちろんだ」
と応じる。
声を潜めて「聞きたいでスか?」を言うのは、聞いてほしくてたまらない時の口癖であるからだ。
「あの酒屋専用の門を造りまシた」
「専用とな?」
「ハイ」
張将軍の話によれば、初めて例の酒を取り寄せて飲んでみたところ、確かに旨いのだが全く酔えなかったらしい。
普段なら店主を呼びつけて問い質すところだが、なにしろ張将軍は無類の酒好きなため、どんな酒屋なのか興味もあり、一人でその酒屋へ出かけた。
「その道すがら、分かったんでス」
張将軍は両目を爛々と光らせて物語る。
「道の途中に何が出てきたと思いまスか? 劉巴の野郎の邸でス! 奴の門前を掠めた酒なンて、道理で酔えないわけじゃありませンか!」
張将軍はダン! と卓を拳で叩いた。
子初の無礼な言いぐさには彼も腹を立てているが、ここで蒸し返しても面白かろうはずもなく、彼は押し黙ってその続きを待った。
「その足で、店主にかけあいましたんでサぁ。これから家に戻って、横道に面した牆に穴をあけて酒用の門を作るから、ご苦労だが今後はヤツの門前を通らず、細い胡同を遠回りして酒を持って来てくれって。そしたらでス……」
あとは察しがついたので、彼はニコニコと聞いていた。
その新しい門から酒を運び込んだ途端、気分よく酔えるようになったという話だ。
「しかし、水の軍師サマは酒はあんまり、なハズなのにでス。何であんなに旨い酒を御存じだったんだか。成都七不思議でス」
「ハハ、左様じゃの」
彼は茶と菓子を勧めて
「あとの六不思議は何なのじゃ?」
と、張将軍との語らいを楽しみ始めた。
「へへッ、実はこれから考えるところでス。いただきまスぜ」
茶目っ気たっぷりの仕草で菓子を取り上げ、まるごと頬張ると
「ふンッ、いゃっふぁ、ぁみあんの」
咀嚼しながら話すので
「そうじゃ。三妹の菓子じゃ。孔明も好きでな。いつもお茶請けにさせてもろうておるぞ。そちは果報者じゃのう」
彼の巨きな耳が聴き取った
『ふん? やっぱり、かみさんの』
は正しかったと見え、張将軍は満更でもなく、後頭部を掻きむしって照れて
「でもでス、門の件は……かみさんは『風水的に悪い』って、カンカンだったんでス」
と、目を泳がせ、恐妻家の一面を覗かせた。
「……という次第で、噂の通りに本当に酒屋の門を造ったらしい。張府の主から直に聞いたでな。確かじゃ」
彼が心の底から愉快そうな様子で
「あやつらしいのう、孔明」
と朗らかな笑い聲を続けたので、龍も誘われて優美な笑みを白皙に刷いた。
子初のあざなが出る話題だったというのに、まさか彼の笑顔に接することができようとは思いがけず、龍はまたもや彼に救われる心地で胸が満ちてゆくのを感じていた。
(九)につづく