成都の人気茶楼「啼春心」は、その日も賑わっていた。
古い豪商の家を修築した趣で敷地が広く、ゆったりとしている。
門の前には屋台が並び
「中でお茶をお求めなら、木戸銭はいりません~。きょうは良い茶も入っております~。お湯はおかわりし放題! 屋台の軽食持ち込みできます~。ようこそ、いらっしゃいませー」
と、茶楼の者が呼び込みの声を張っている。
相変わらずに大入りのこの茶楼の奥の楼主の部屋に、一人の来訪者があった。卑しからぬいでたちで、一見して民間人ではない。
「あいにく、うちは芸は売っても色は売りませんので」
楼主はきっぱりと相手の申し出を断っていた。
「いや、しかし。いいお話ですよ。失礼ながらもう若くはない楽女なんですし」
「あんたにいい話と言われても……説得力ないね」
「まあそうですわな、うちの旦那さまをご存知ないわけですし」
来訪者の男は、供された茶を飲み干すと立ち上がり
「しばらくお考えおきください。今日のところはこれにて」
袖口を揃えて軽く会釈して立ち去ろうとした。
「劉管家、お待ちあれ」
心変わりを期待して劉管家と呼ばれた男が緩く振り返ると、楼主はそっぽをむいたまま
「銀はお持ち帰りを」
にべもなくつけたした。
「......足りなければすぐお持ちできますが」
「持ち帰らぬなら、この話は本当にここで仕舞いだ」
楼主は苛立ち紛れの声音で背を向けて奥へ引き上げながら
「お客様のお帰りだ」
と、小間使いに来訪者の追い返しを命じた。
おなじ頃合いに「啼春心」で楽の音と茶を楽しんだ若者三人は帰り支度をしながら、関平の従者が戻るのを待っていた。
この心利きたる従者は関平の予想通りに早々と戻ってきたが、その使いの結果は予想に反していた。
首尾がよければ互いに頷くのみで委細は後で聞くとして、玲兒を張府へ送ってから張苞と遠駆けに出かける予定であった。
だが、従者の表情は関平が予期した顔と明らかに違っていた。
「何ぞあったか」
「それが、面目御座いません。追い返されまして」
従者は子供の使いに終わったことを恥じ入るように下を向いて復命した。
「お前を使いにやってか? ありえん」
武芸はいまひとつだが、人あしらいが巧くて腰がひくく、無駄な揉め事を起こさないところがこの従者の美点のひとつなので、関平は信用し重用している。
「堂弟、先に玲兒を張府へ送って待っていてくれないか。わたしもすぐ帰る」
「え、そりゃいいけどよ、すぐなら待ってるし」
「そうよ平兄様、道すがら、お話もしたいわ」
二人は思い描いていた「今日」と違うことが起こりそうな予感が不安で、平を引きとめた。
「いや。もしも無礼があったのなら詫びて帰らねば。成都での行状には一点の曇りもあってはならぬ」
関平の後ろに、居合わせもしない関二伯の巨大な姿が浮かび、苞も玲兒も黙るほかはない。
関平にとって義父の関将軍は厳父以上の絶対的存在なのだ。
「平公子、どうぞお気をつけて。とにかくすごい剣幕でしたから」
従者は平に追いすがりながら、さきほど楼主に取り次いでくれた初老の男を探した。
「あ。あの者です。案内を乞うたのは」
「会わせてはくれたのだな」
「はい。ですが」
「わかった」
関平は手にしていた剣を従者に預けると、その初老の男に拱手して挨拶した。
「わたしは荊州から参った者、関平と申します。楼主にお取次ぎください。これは再びご案内いただく上での気持ちです。お納めを」
小粒の銀を初老の男に握らせると、男は
「お取次ぎはいたしますがね、お話なさるかどうかは、楼主次第ですのでねぇ……それでよろしければ、どうぞ」
楼主が気難しい性質なのか、あとで銀を取り返される流れへの牽制なのか、男はこのように言いながら先に立って歩き出した。
男のあとを関平が歩き、関平のあとを従者がつき従う。
廊は、贔屓筋から届いた花籠や飾り物で満ち溢れていた。
小さな方形の蓮池を巡ったところの二階建ての楼の一階の戸口で男は
「楼主、またお客様ですよ」
閉まった戸の中へ気軽に声をかけた。
「どちら様だい」
若くはない女の声だった。
「荊州のお客様です」
男は関平の名前は聞き流したとみて、地名だけを告げた。
何か誤解を受けまいかと思い、関平がみずから名乗ろうとしたその時、唐突に内側から戸が開いて小柄な女が現れた。
「今度は荊州かい」
「楼主、先ほどは……」
女が楼主だとは思わなかった関平は口ごもり、そして、知らぬ土地の民間人の女と喧嘩腰になったことなどないので戸惑い、先が続かなかった。
「皇叔さまと軍師じゃあるまいし、三回来たってダメなものはダメ。お客様がたのお帰りだ」
「はい」
案内の男がぺこりと頭を下げて引き下がるので、関平は閉じようとする戸を押さえて
「待ってください、今日はまだ二回です。誰かとお間違えだ」
とにかく、先ほどのすごい剣幕とやらだけでも収めて帰らねばと、関平は必死である。
「公子、ここは引き下がりましょう」
従者は小声で道理を説きながら、このような些細な揉め事など、関平と従者とが口外しさえしなければ関将軍に伝わるはずもないのに、と、関平の潔癖な一面に困っている。
従者の言い分に聞く耳持たず、指一本分だけの隙間から覗く楼主の目を見て、関平は訴える。
「お若いの」
楼主は戸を閉めようとする手を離して、関平の腕力で戸を再び開け放つと
「何の御用で?」
言葉短く問うてきた。
「あっ。えー。拙者、荊州から参った関平と申し」
「ご高名は結構。何の用かとおうかがいしているんですけど」
楼主は苛立った。
「あの、先ほどの、琵琶の楽女の楽の音がたいへん素晴……」
琵琶の楽女と聞いた途端に、楼主は溜息をつき、険しい表情で
「うちは色は売らない。ご主人様にそう伝えな」
手をふりふり、屋内に戻ろうとした。
「待ってください、わたしは主人の遣いで来たのではないし、楽女を買いに来たのでもない」
「……あんた、劉府から来たんじゃないのかい」
楼主は関平の身なりをじろじろと見て疑いの眼差しである。
「劉府って……?」
関平の伯父にして成都の主の居場所であれば、通称の老王府と言おうし、先ほど楼主は
『皇叔さま』
と 、関平の伯父である彼を敬った。
ほかの劉に心当たりがない関平は本当にわからない表情しかできなかった。
「とぼけんじゃないよ。劉巴の邸さ」
「劉大人とはまだ対面したことがない」
気圧されながらも、本当のことなので関平はこう応ずる他はない。
「証拠はあるのかい」
ぐっと言葉に詰まった関平を救ったのは従者の機転だった。
「ありますとも。我らは今お役目がら、張府に逗留しております」
「張府に?」
「はい」
「三将軍のお邸だってのかい?」
「いかにも」
(八)につづく
古い豪商の家を修築した趣で敷地が広く、ゆったりとしている。
門の前には屋台が並び
「中でお茶をお求めなら、木戸銭はいりません~。きょうは良い茶も入っております~。お湯はおかわりし放題! 屋台の軽食持ち込みできます~。ようこそ、いらっしゃいませー」
と、茶楼の者が呼び込みの声を張っている。
相変わらずに大入りのこの茶楼の奥の楼主の部屋に、一人の来訪者があった。卑しからぬいでたちで、一見して民間人ではない。
「あいにく、うちは芸は売っても色は売りませんので」
楼主はきっぱりと相手の申し出を断っていた。
「いや、しかし。いいお話ですよ。失礼ながらもう若くはない楽女なんですし」
「あんたにいい話と言われても……説得力ないね」
「まあそうですわな、うちの旦那さまをご存知ないわけですし」
来訪者の男は、供された茶を飲み干すと立ち上がり
「しばらくお考えおきください。今日のところはこれにて」
袖口を揃えて軽く会釈して立ち去ろうとした。
「劉管家、お待ちあれ」
心変わりを期待して劉管家と呼ばれた男が緩く振り返ると、楼主はそっぽをむいたまま
「銀はお持ち帰りを」
にべもなくつけたした。
「......足りなければすぐお持ちできますが」
「持ち帰らぬなら、この話は本当にここで仕舞いだ」
楼主は苛立ち紛れの声音で背を向けて奥へ引き上げながら
「お客様のお帰りだ」
と、小間使いに来訪者の追い返しを命じた。
おなじ頃合いに「啼春心」で楽の音と茶を楽しんだ若者三人は帰り支度をしながら、関平の従者が戻るのを待っていた。
この心利きたる従者は関平の予想通りに早々と戻ってきたが、その使いの結果は予想に反していた。
首尾がよければ互いに頷くのみで委細は後で聞くとして、玲兒を張府へ送ってから張苞と遠駆けに出かける予定であった。
だが、従者の表情は関平が予期した顔と明らかに違っていた。
「何ぞあったか」
「それが、面目御座いません。追い返されまして」
従者は子供の使いに終わったことを恥じ入るように下を向いて復命した。
「お前を使いにやってか? ありえん」
武芸はいまひとつだが、人あしらいが巧くて腰がひくく、無駄な揉め事を起こさないところがこの従者の美点のひとつなので、関平は信用し重用している。
「堂弟、先に玲兒を張府へ送って待っていてくれないか。わたしもすぐ帰る」
「え、そりゃいいけどよ、すぐなら待ってるし」
「そうよ平兄様、道すがら、お話もしたいわ」
二人は思い描いていた「今日」と違うことが起こりそうな予感が不安で、平を引きとめた。
「いや。もしも無礼があったのなら詫びて帰らねば。成都での行状には一点の曇りもあってはならぬ」
関平の後ろに、居合わせもしない関二伯の巨大な姿が浮かび、苞も玲兒も黙るほかはない。
関平にとって義父の関将軍は厳父以上の絶対的存在なのだ。
「平公子、どうぞお気をつけて。とにかくすごい剣幕でしたから」
従者は平に追いすがりながら、さきほど楼主に取り次いでくれた初老の男を探した。
「あ。あの者です。案内を乞うたのは」
「会わせてはくれたのだな」
「はい。ですが」
「わかった」
関平は手にしていた剣を従者に預けると、その初老の男に拱手して挨拶した。
「わたしは荊州から参った者、関平と申します。楼主にお取次ぎください。これは再びご案内いただく上での気持ちです。お納めを」
小粒の銀を初老の男に握らせると、男は
「お取次ぎはいたしますがね、お話なさるかどうかは、楼主次第ですのでねぇ……それでよろしければ、どうぞ」
楼主が気難しい性質なのか、あとで銀を取り返される流れへの牽制なのか、男はこのように言いながら先に立って歩き出した。
男のあとを関平が歩き、関平のあとを従者がつき従う。
廊は、贔屓筋から届いた花籠や飾り物で満ち溢れていた。
小さな方形の蓮池を巡ったところの二階建ての楼の一階の戸口で男は
「楼主、またお客様ですよ」
閉まった戸の中へ気軽に声をかけた。
「どちら様だい」
若くはない女の声だった。
「荊州のお客様です」
男は関平の名前は聞き流したとみて、地名だけを告げた。
何か誤解を受けまいかと思い、関平がみずから名乗ろうとしたその時、唐突に内側から戸が開いて小柄な女が現れた。
「今度は荊州かい」
「楼主、先ほどは……」
女が楼主だとは思わなかった関平は口ごもり、そして、知らぬ土地の民間人の女と喧嘩腰になったことなどないので戸惑い、先が続かなかった。
「皇叔さまと軍師じゃあるまいし、三回来たってダメなものはダメ。お客様がたのお帰りだ」
「はい」
案内の男がぺこりと頭を下げて引き下がるので、関平は閉じようとする戸を押さえて
「待ってください、今日はまだ二回です。誰かとお間違えだ」
とにかく、先ほどのすごい剣幕とやらだけでも収めて帰らねばと、関平は必死である。
「公子、ここは引き下がりましょう」
従者は小声で道理を説きながら、このような些細な揉め事など、関平と従者とが口外しさえしなければ関将軍に伝わるはずもないのに、と、関平の潔癖な一面に困っている。
従者の言い分に聞く耳持たず、指一本分だけの隙間から覗く楼主の目を見て、関平は訴える。
「お若いの」
楼主は戸を閉めようとする手を離して、関平の腕力で戸を再び開け放つと
「何の御用で?」
言葉短く問うてきた。
「あっ。えー。拙者、荊州から参った関平と申し」
「ご高名は結構。何の用かとおうかがいしているんですけど」
楼主は苛立った。
「あの、先ほどの、琵琶の楽女の楽の音がたいへん素晴……」
琵琶の楽女と聞いた途端に、楼主は溜息をつき、険しい表情で
「うちは色は売らない。ご主人様にそう伝えな」
手をふりふり、屋内に戻ろうとした。
「待ってください、わたしは主人の遣いで来たのではないし、楽女を買いに来たのでもない」
「……あんた、劉府から来たんじゃないのかい」
楼主は関平の身なりをじろじろと見て疑いの眼差しである。
「劉府って……?」
関平の伯父にして成都の主の居場所であれば、通称の老王府と言おうし、先ほど楼主は
『皇叔さま』
と 、関平の伯父である彼を敬った。
ほかの劉に心当たりがない関平は本当にわからない表情しかできなかった。
「とぼけんじゃないよ。劉巴の邸さ」
「劉大人とはまだ対面したことがない」
気圧されながらも、本当のことなので関平はこう応ずる他はない。
「証拠はあるのかい」
ぐっと言葉に詰まった関平を救ったのは従者の機転だった。
「ありますとも。我らは今お役目がら、張府に逗留しております」
「張府に?」
「はい」
「三将軍のお邸だってのかい?」
「いかにも」
(八)につづく