天府南門橋(十三)

2020/06/24

3世紀長編 天府南門橋

 「返書はの、だいたいできた。じゃが、あくまで『だいたい』なのじゃ」
 彼は、茶を一口含んでから、前置きした。

「結びに何と書くか、それが難しい。まして雲長じゃぞ。……そちは褒め殺せばそれでよいし、そちはそれで正しいがの」
 彼は、龍が昨年、馬孟起の件を関将軍に書き送ったことを指している。
 関将軍が、酒宴で龍の書簡を披露するほど喜んだらしきことは、成都へも伝わってきた。

「雲長はのう……」
 彼は荊州の方角の虚空を見つめ
「心がやさしいのだ。おのれはさておいて、いろいろなことを案じる。あの巨体じゃ。何とのう頼られっぱなしの人生から逃れられぬ。……言葉は吟味してやらねばならぬ」
 傍に関将軍がいるかのような眼差しをして思い入り、優しさに輪をかけた聲音で囁いた。

 龍は、関将軍の将軍としての器量に注目し、用いるに必要な範囲の人品を把握しているに過ぎない。
 関将軍は蓋世の将であり、豪勇には比類がないが、我が身ひとつを軽く考える節がある。
 特に、長兄たる彼のためにならば、今日にでもあっさりと命を擲つことが明白である。

 おのれの身はさておいて、主君でもある彼のために命懸けにさえなれるとは、忠義一徹ともいえようが、武力ではなく連孫抗曹の四字で荊州を守り抜くという要点を考えたとき、龍にとっては懸念となる欠点であった。

「するとな……。儂は学がないゆえ、なかなか言葉が見つからぬのじゃ」
 義兄弟とはいえ、彼はやはり「長兄」なのだ。
 彼という長兄が居るからこそ、関将軍は荊州に座るという一番難しい役目を黙然と果たしている。

 長兄の彼と関将軍は、以前も離れ離れになったことがある。
 それを聞き知ってはいたが、やはり関将軍を荊州に残したのは、龍である。
 他に適任者は居なかった。
 最善の采配ではあったが、彼ら義兄弟にとっては、またもや西と東に生き別れである。

 彼は、関将軍に荊州を任せている安心の裏に、いつでも負い目を感じているのかもしれない。
 余人を以て替えられぬ以上は成都に呼ぶ宛もなく、軽率な慰めも書けるはずがない。
 
 肝胆相照らし生死を共にする義兄弟であればこそ、書簡の一句をおろそかにできぬとは、彼が非凡であることを物語る。
 これは駆け引きではなく、彼の真情である。

 寂しげな会話の内容に、侍従が音もなく近寄り、空になっていた彼の茶碗に熱い茶を注いだ。
 たゆたう湯気と茶を注ぐ音が、ここの空気を温め潤し、慰めようとするかのようである。

「じゃが、そちの強っての望みとあらば是非もないのう。徹夜は免れんがな」
 彼は、冗談を思い付いた時の色を眸に浮かべた。

「この歳で徹夜は堪えよう。何とか書き上げて朝粥を食うてじゃ……徐に腰痛に襲われようのう……」
 彼は双眸を瞑り、淡く頷きながら、明日の段取りを思い描く風情を見せる。
 ぎっくり腰の計画は変更しないらしい。

「そして、吉先生のお尋ねには、じゃ。儂は正直に答えるばかりじゃのう」
 眸を開くと、我が龍の瞳を、意味深に覗き込んだ。

 彼の侍医の吉先生は、名医吉平の縁者である。
 吉平が許昌で禄を食んでいる為、彼を暗殺せんとする刺客ではないかと危ぶむ者も過去には居たが、徐州以来の古参であり、既に白髪の老医である。
 灸が巧く、彼の古傷も熟知しており、内疾はなく外傷が多い彼にはますます重宝な医者である。 

 龍の頭の中では、今宵に書簡の完成を逼った場合の、明日の彼の狂言が演じられている。

 彼はおそらく、衆目を集める絶好の時と場所で、腰痛を訴えるのだろう。
 大騒ぎの中、三~四人がかりでここへ運ばれ、吉先生が呼ばれる。

 吉先生が呼ばれる時は「古傷が痛む」ことの対処が多いため、いつでも準備している灸に加えて、その他の可能性を考えあわせた用意をして、童子に薬篭を持たせてやってくるであろう。

 仮病の腰痛では脂汗など出る重篤な様子にはならない。
 吉先生は直ちに訝しく思うであろう。

『腰痛などお初めてではございませぬか。何ぞございましたか主公』
『……むむ、歳には勝てぬのう、面はゆいことじゃ』

 彼は聲を潜めて

『……実はの。我が掌中の珠の望みに、夜通し応じておったところ、かくのごとくとなり、お恥ずかしや、歳甲斐ものう......な』

 彼は「年甲斐もなく徹夜をし、そのあとで仮病であったとしても腰痛」の事実を吉医師に告げるだけである。
 何も嘘は言わぬ。
 
 彼もそれ以上は吹聴しない上、老医も彼の秘密は黙秘する。
 侍従たちも口外しないであろう。

 だが、誤解や憶測が生じかねない。
 たとえば
 ーーやはり、既に
 それとも
 ーーなんと、いまだに……
 などである 

 人というものは事の真偽よりも「艶めかしき密か事」を裏付けるような事柄について好奇の目を向けるものである。

 彼の私室に毎日のように出入りする龍にとっては、決まりが悪いことこの上ない。
 これが、今宵に関将軍への返書を書き上げさせる代償だとしては重すぎた。

  全ては龍の頭脳の中に描き出される光景に過ぎないのだが、おそらくこの想像は当たらずとも遠からず、なのであろう。

  彼は口髭の辺りに微かな笑みを刷いて、にわかに戸惑いながら俯いて扇を使う龍に見とれながら
「不都合じゃのう……臥龍先生」
 と、龍の明晰な頭脳の中身を利用して、からかっている。

 しかも彼は、この掌中の珠の賢者と、今生でどうにかなろうなどと考えていないらしきことは、十余年も起居を共にしていればわかる。

 かといって、互いに特別な感情がないのかといえば、やはりある。

 彼は既に白髪まじりの老境に差し掛かっているというのに、彼と手を携え、眸をかわすたびに、龍の心の水面には忽ちに漣が起きる。牀に躺り夜具越しにどこか触れ合おうものなら心の臓が跳ね、なかなか鎮まらぬのである。
 
 だからこそ、このような冗談に、白き龍はうろたえずにはいられないのであろう。


(十四)につづく