襄陽秋水(五)

2023/10/24

3世紀中編 三世紀ss 襄陽秋水

  彼ら君臣がそぞろ歩きに出かけたあと、龐府では粛粛と掃除が始まった。
なぜか女僕の姿はなく、幼きも僮僕である。

 別に、龐林に左様な趣味があるわけではない。

 先の大戦で妻女と生き別れの龐林は、邸に女を置かなくなった、ただそれだけの事である。
 
 魔が差して手近な女僕と情を通じるなどあらば、後で必ず困った事になるのは古今東西知れているので、間違いの元凶を置かないことにしたのだ。

 生き別れの妻女は賢婦で、日常の瑣末なことから龐家の家計まで、ちょうどよい塩梅で差配していた。使用人の使い方も上手かった。

 龐林にとって彼女は最愛の人であると同時に、哥と同等に信頼でき安心を与えてくれる人であり、人生を歩むうえで不可欠である。
必ずこの手に取り戻すという固い誓いを心に秘めている。

 その誓いは誰に言うたこともないが、余の女を身辺に置かない、という姿勢に決意の一端は現れ出ている。

 後添えの話も出るには出るものの、その都度、彼女が文祥の妹であることを少し大袈裟に誇り、のろけを挟み、未練を零すついでにこっそり腿を抓って涙を滲ませては、仲人口を引き下がらせてきた龐林なのだ。

 最近は縁談が来なくなり、ようやく気楽である。


 若い四人の家僕は、掃除用具を手に、東院の廊で二手に分かれた。

 二人の家僕は、軍師のために用意した小さめの臥室まで至ると
「……失礼いたします。お掃除に参じました」

 客室の扉の前で頭を下げ、空室を確認してから扉を開けて入室した。

 主公のお供で軍師も外出中と聞いてはいたが、念を入れるところが、さすがは龐府である。

 二人はまず牀へ直行したところ、申し合わせたように足が止まった。
「お休みに……」
「なってない」

 昨日、二人してきれいに整えたので、昨夜にこの牀が使われなかったことは一目瞭然である。

「何か……。お気に召さなかったとか?」
 小柄な方が青ざめる。
「落ち着け。躺りもせずに、気に入るも入らぬも、ないだろ」
 やや年長に見える方が言いはするが

「……もしかして寝てない?」
 客が就寝しないなど初めてのことなので慌てた。

「まさか。臥龍だぜ。寝る龍だろ」
「……じゃ、どこで寝なさった」

 見回すと、私物と見える小さな櫃があり、更衣や調髪の形跡も微かにある。

「とりあえず、被子は干すとして……」
「うん」

二人は、打ち揃って跪くと、一方向へ向かって拱手を揃え
「奥方様」
「客人が牀を、使っておられませぬ」
「不調法がありましたでしょうか」
「敷布はどういたしましょうか」
と、呼びかけた。

 遠くで小鳥の啼き声が秋風を彩り、さわさわと庭木のさざめきが渡る。

 ややあって二人は、のろりと立ち上がり
「……とりあえず、掃除と被子」
「だな。これは午(ひる)からにしよう」
「それだ、それが上々だ」
頷き合うと、黙々と清掃を始めた。

 男手ばかりの邸だが、皆、細かいことで迷った時は
「奥方なら、何とお指図くださるか」
を、過去の経験から類推して判断することが常である。

 つまり
「軍師様が牀をお使いになっておりませぬが、やはり敷布もお取替えすべきでしょうか」
という程度のことで、奥向きに疎い家宰や当主の龐林をいちいち煩わせないための知恵でもある。

 一人で思いつかない場合は、奥方の思い出をより多く持っていて、話しやすい者に答えを見つけてもらうのだ。


 龐府で、徹夜明けだと誤解され始めたこの世で一番の賢者の手を引き乍ら、彼は大街を歩いている。

 彼方に城門の影が景色に加わる小鎮は、まるで行き交う者みなが互いに顔見知りであるかのように思える。

 とはいえ、襄陽の繁華を西に持つがゆえの印象であり、光武帝ゆかりのこの小鎮には、襄陽とは異なる素朴な古風さがある。

 たとえば、祖父母の代を思わせるような懐かしさが漂う。

(じゃが、孔明の身になれば、曾祖父母の代、とでも言うべきかも知れぬな)
彼は胸の内でひとりごちた。

 城内の憩いの場と見受ける小川の傍で、老人たちが盤を囲んで興じている平和な様子にゆきあたる。

 茶店の軒先の長椅子の真ん中に盤を置き、対局者は長椅子を跨ぐようにして相対し、観戦者たちはこれを囲み、一部は立ち見をし、一部は長椅子に腰掛けて茶を飲みながら、時々戦局を覗き見ている。
 
 奥の厨房の続きの屋根の下に食卓をいくつか並べて商っており、見上げると二階もあるようだ。

 店先から窺うと、至極、庶民的な店であるが、きれい好きの店と見えて床板も卓上もすっきりと拭われた風情があった。

 彼は
「ちと、休んでまいろう」
と我が龍をいざなった。

「いらっしゃいませ。何名様?」
 愛想の良い明るい声がして、若い男が歩み寄る。

「ふたりじゃ」
「お茶ですか? お酒もございますよ」
「茶を所望じゃ。一番よい葉でな」
「かしこまりました」

 店の者が目を輝かせたところで、彼は
「二階は空いておるかの」
 おっとりと申し出ると
「はい。どうぞどうぞ。おーい、お二人様、お二階へご案内だ」
「はーい、只今」

 心得た店員が、彼らの先に立ち、店奥の階段へと先導する。

 酒を飲まぬ場合には、上等な茶を注文する。
 龍を賄うには良い茶に限る、というのがその理由の筆頭である。

 また、上等な茶を注文すれば、上席を占めることができる場合が多く、長居するとなれば何煎も喫するため、結局は見合った支出なのだ。

 叩き上げの彼は、おおらかに見えて実は計算をしてはいる。

 雅座はないものの、まだ客が少ない時分でもあり、案の定、二階の角の、小川の眺めも老人たちの様子もよく見える最もよい席を勧められた。

 店の者は彼らに茶器と茶葉と、小さな炉と湯を供しつつ
「今日のお茶請けは、蒸し栗がおすすめでございますです。ちょうど間もなく、出来上がる頃合いで。他は焼餅と……」

一見の客で一番良い茶を注文するならば上客と見てか、言葉遣いが突然に部分的に丁寧になりながら、舌も滑らかに茶菓子の紹介を連ねた。

「では、蒸栗をな。旬じゃゆえの」
彼は巨きな耳で聞いた刹那、決めてはいたのだが、一通り聞いた後でやはり蒸栗を所望した。

「かしこまりました」
「皿と匙も呉れ」
「はい」

 龍は朝粥で満腹であるので、おそらく今は茶ばかりで足りるであろう。

 戦場で、食える時に食っておかねばならぬ事態を多く経験している彼は、いつでも別腹をつくることができるため、味見をかねて蒸し栗とやらを注文してみたわけである。

 旨ければ、長居して龍の小腹が空いてきた時に、また注文して分け与えれば良い。

 こうして府を出て、見知らぬ場所で龍を養うのも、彼にとっては密かな愉しみでもある。


(六)につづく