「お。降ってきたのぅ。そちの申した通りじゃな」
冷えると古傷が痛む、とぼやきながらも、漢中王は降雪が好きであるらしい。
天府の王宮の書房に座して、披見していた竹簡を卓へ置くと立ち上がり、足取りもかろく廊へと寄る。
きょうの降雪は、王の掌中の珠である軍師が昨夜すでに予見していた。
書房には朝から火鉢が用意されており、座の周囲のみであれば、些かの暖が取れはする。
侍従どもは互いに目くばせをかわして、王の興趣を削がぬように音も微かに王の後を追い、衣装盆に用意して控えてあった裘(かわごろも)を王の傍らで捧げた。
「おぅ……済まんのう」
「……勿体なき仰せ」
王は長い腕を伸べ、みずから裘を手に取り、無造作に羽織った。
長年愛用の、黒貂の裘である。
侍従は低頭したまま、空になった衣装盆を捧げて退いてゆく。
この光景にも、彼の王らしからぬ人柄は滲み出る。
もしも彼が、血縁者の王位を継承した王であったならば、侍従どもが裘をひろげて、二人、三人ががりで着せかけ整える成り行きを当然のものと受け止め、ただ心のままに降雪を仰いで立っているのみであろう。
而るに彼は漢室の末裔とはいえ赤貧洗うが如き境遇に生まれ、乱世の辛酸を嘗め、五十を過ぎてようやく王座に就いた苦労人である。
「王宮の規矩はあろうがの。儂はの……なるべく、ただの男子漢でありたいのじゃよ。耄碌するまでは、そうさせてくれ」
と、儀式などで盛装せねばならぬ時以外は、身の回りの些細な事にまで人手を煩わせることを好まないのである。
古参の侍従どもといえば、むしろ甲斐甲斐しく仕えたいと思うてやまぬのであるが、昔から変わらぬ彼の人柄を知り抜いているので、彼の望むように控えめに振舞うよう心している。
彼の寶である白い賢者は、非凡な我が王の傍らに控えて、彼の視線の先の雪を見上げた。
彼が裘を掻き合わせて柱に倚りかかり、雪が舞う様子を飽きもせず見惚れ続けるのは、格別な追憶があるがゆえである。
白い賢者はその追憶が何年何月何日の出来事であるかを知っているため、却って何も言い出せずにいる。
たとえば「あの日も、その裘をお召しでございましたか」 という軽い問いかけさえ、言い出すことが憚られる。
雪が降るたびに、ただ彼と並んで彼と同じ雪を眺めるのみである。
彼が何をどのように思い出しているのかは分からないが、この白い賢者は、あの雪の日に彼が廬を訪れて書き残した書簡を、暗誦できるほど鮮明に記憶にも心にも銘じているので、雪が降り積もるよりもなお、思いは募るばかりである。
「相済まぬが、いま一領、裘を持て」
彼が後ろを振り返って命じると、侍従らは一礼して直ちに奥の衣装部屋へと下がってゆく。
臣の身にも裘を纏わせようとの心配りであろうかと予測し、白い賢者はどのように辞退しようかと頭の片隅で答えを探しながら、さあらぬ態で
「雪は瑞兆でござりまする」
などと、当たり障りがないと思われることを呟いた。
政務の合間の、ふとしたこのような時、彼はちょっとした悪戯を思い付くことが多いため、白い賢者はやや警戒している。
その警戒を知ってか知らずか
「うむ。冬は民草のためにも、適当に寒いがよい。寒い冬は翌年の害虫を減じる、と母者が申しておったものじゃ……」
彼も、世間話か思い出話か、とりとめもなき事を口にした。
寒さに乗じて手を取られる、あるいは外套の中に攫われるなど、今まで降雪のたびに何度も彼に謀られてきた賢者は、こたびこそは彼に翻弄されるまいと、頭脳を冴え渡らせた。
彼の悪戯心を牽制せんとするのは、それを嫌うがゆえではなく、その悪戯に心乱れる己こそが御しがたいがゆえである。
もしも二領目の裘が羔羊の裘であるならば、臣として相応ではあろうが、おそらく貂か狐であろう。
そのような高価な裘を諾諾と拝借するようでは、寵臣を自認するに等しい。
先漢の興隆の所以のひとつは賢臣を重用したことであり、後漢の衰退の一因は小人を寵用したことである。
この賢者は、おのれが人より賢いなどと思い上がったことはないが、少なくとも、あるじに賢い選択肢を呈示できる臣でありたいと心している。
裘一領で、忠を曇らせることは不本意である。
まずは、『裘など、もったいのうございます』と、 両の袖を揃えて白い羽扇を横たえて、伏し目がちに言上するところから始めよう、と白い賢者は思い定めた。
しずしずと侍従が衣装盆を捧げて戻ってくるので、彼がその裘の用途を明らかにする時を見計らうべく、白い賢者は身構えた。
彼は常人よりも腕が長いので、遅れをとらぬよう、心せねばならぬのである。
「温めておいたゆえな。ささ」
彼が言うや否や、白い賢者の身は、柔らかで頼もしい黒い温もりに包まれた。
賢者の視界にあるのは、見慣れた長袍の色も確かに、いま運ばれてきた裘に長い腕を伸ばして、先ほどと同じ所作で無造作に羽織る彼の姿だった。
「ぁ。……わが君。……裘など、もったいのうございます」
白い賢者は、慌てて両袖を揃えて拱手し、低頭する。
計算に入れておいたはずの彼のあの長い腕が、彼自身が羽織っていた裘を臣に着せかけるために使われるとは、全く予測していなかった。
意外な状況のもと、賢者といえども結局は考え置いていた言葉をそのまま発するのみであった。
「何の。そちは、漢室の寶じゃによってのう……。裘の方こそが、畏れ多かろうぞ」
彼はおっとりとした口調で応じると、短く明朗な笑い聲をたてて笑みを刷いた。
「お戯れを......」
まるで家族に対するが如く、君恩をこのような形で施されては、辞退する暇もない。
加えて、君臣は指先すら触れ合わせてもおらず、傍目を気にする必要もない。
白い賢者にとって全く都合が良すぎるただこれだけの出来事は、ただこれだけの事であるがゆえにか、胸には彼への慕わしさが溢れ、眸に映る景色が潤む。
音もなく雪が舞う様子を並んで互いに眺めるまま
「先生……いかがなされた」
彼は、傍らの白い賢者に穏やかに囁きいて問いかけた。
白い賢者の眸に涙が湧いているように感ぜられたからである。
彼の囁きは、皓い息とともに賢者の白皙へと漂い来たり、その頬を撫で、緩やかに雪景色の一部へと溶け込んでゆく。
「……わが君。……孔明は……」
「うむ」
君臣の短い皓い息は、和して共に漂い、雪景色に白さを加える。
その続きを言い出しかね、賢者らしくもなく口籠って俯くばかりだというのに、彼はその続きを逼りもしない。
黒貂の裘と櫛目正しい黒髪と涼しい眉目は、白い雪景色を画し、彼にとっては雪よりも眩しい。
この目映き光景を心にこそ留めようとか、彼は無意識に双眸を閉じて、雪のもたらす静寂に巨きな耳を傾ける。
彼らの背後の火鉢の中で、彼らを促すように炭が爆ぜる音を立てたが、いま彼らの心はここになく、あの日の隆中にこそあるのかも知れなかった。
天府雪景(了)