襄陽秋水(六)

2024/02/24

3世紀中編 襄陽秋水

「お待たせいたしました。蒸栗でございます………」

店の者は、長方形の盆を捧げて二階へ上がって来、まだ客の居ない卓に盆を置くと、箸や匙、鋏から小皿を並べて、深めの大皿を彼らの卓の中央に据えて湯を注ぎ、その上に蒸籠を乗せた。


小鎮の鄙びた茶店らしからぬ、保温の工夫が好ましい。


続いて大きめの蓋物を蒸籠の側に添え、蓋を取ってみせ

「お熱いので、少しお剥きしてございます」

と、軽く低頭して勧める。

蓋物の中を見れば、渋皮も鬼皮も取り去った栗が、黄金色を呈して詰まっている。

蒸籠の中は「おかわりはご自由に」という意味合いなのだろう。


「こりゃ、造作をかけたのう」

彼が労うと

「滅相もないことで」

店の者は、序でに小さな炉の上の釜に水を足してから

「ごゆっくりどうぞ」

と、階段の辺りへ去っていった。


(儂が、手づから剥いてやろうと思ったのだがのぅ)

と思いつつ、それでは却って龍は遠慮するであろうとも思えて来て

「これは心利きたることじゃの。先生、お一ついかがか」

「わが君がお先に」

「左様か」


あの隆中での春の日以来、何千回と繰り返してきたこのような譲り合いは、彼らにとって既に挨拶のようなものである。


栗が逃げぬよう、匙と箸で慎重に一粒を運び、彼が賞味するのをしおに、龍は袖で茶碗を覆って茶を含む。


彼は、ほくほくとした栗の甘みに目尻を下げ、龍は茶の良さと清涼な香りにほっと息をつき、眸を和ませる。


「………美味いのう」

「はい」


湯の沸く音、炭が爆ぜる音、階下で店の者どもが立ち働く音、店先で棋に興じる老人たちのさざめき、出店から時折に聞こえる売り声、通りを往来する老若男女の声、荷車が近づいては遠ざかる物音、風が枯葉を舞わせる音、通りの向こうのせせらぎに集う鳥の囀り………。


平和というものを音に成したならば、例えばこうではないだろうか、というこの雰囲気の中でなら、白湯一杯にすら心盈ちるに相違ない、と、彼ら君臣はそれぞれの胸にこのひとときを銘じながら、窓の外の情景に心を洗う。


これは、鳳の勧めの巡見なのであるが、一体どこまでが巡見で、どこからが外遊なのか判然としない。



突如、道端から子供の哭き声があがったので、彼は敷物の上を躙って窓枠に長い腕を預け、窓から少し乗り出した。


道の真ん中で、籠を地に置いた婦人が屈んで、地に伏して哭く幼な子を助け起こそうとしている。

どうやら、幼な子は転んだようだ。


いずちでもよくある光景であるうえ、一刻も哭き通すわけでもなかろうことも知れており、棋の一団も道ゆく者も、特に関わろうとはしない。


婦人は母親であろうか。

助け起こされた幼な子は、なかなか哭き止まない。

母親は、何か言い聞かせている風情である。


のどかに見える小鎮であっても、民というものは日々忙しい。

ままならぬ子に対して、大人どもは厳しい物言いをしたり、手をあげたりするものである。


彼は内心、固唾を飲んで見守った。


立ち上がったというのに、なおも激しく哭き喚く幼な子の傍にしゃがんだまま、母親は辛抱強く諭しているようだ。


(じゃがの。童というは………。取り乱しておる時、親の言葉など耳には入るまいぞ)

彼は頬杖をつき、この母親の忍耐強さの所以を推測して一つの仮説に辿り着くと心寂しくなり、視線を路傍の柳に移した。


忍耐強いのではなく、余所余所しいだけなのかも知れない。

例えば、先の大戦で孤児になった子を引き取って育てているだけの、遠縁の婦人なのかもしれない。


そう思い至ると、婦人を母親と決めつけた彼の心は曇りながら

(いまだ戦を続ける者はこれを見よ、との仰せか。世祖は)

と、己を励まして再び直視した。


その時、幼な子の泣き声は、ぴたりと止まった。


彼の視線の先には、婦人と幼な子と、一人の若い武人の後ろ姿があった。


武人は中肉中背で、地味な服装で剣を佩いており、彼には見覚えがあった。

武人は婦人と間合いを保って話をしており、ややあって婦人はかぶりを振った。


武人は、さらに婦人と話しながら、彼に視線は向けずに二階の窓の彼の方角へと斜めに拱手を掲げた。


婦人の視線が二階へ注がれたので、彼はすっと立ち上がり、その巨きな耳がよく見えるように乗り出した。


婦人が跪こうとする所を武人は制し、二言三言話しかけると、婦人は点頭した。


武人は幼な子を両手で抱き上げ左肘の辺りに座らせ、肩を掴ませてから、蔬菜で重たげな籠をひょいと右手で取り上げると、この二人連れが向かっていた方向へと歩き出した。


苦笑いに安堵の色を滲ませて、彼は卓に向き直る。


「あれは………。巨達の甥であったか」

「左様でございます」

彼は、穏やかさを取り戻した往来を見やって、爽やかな茶を含み

「向………。何じゃったかの」

と、龍に問うた。


「はい。姓は向、名は寵でございます」

彼は、わざと舌打ちをして聴かせてから

「者共には、あなたにて待てと下知したはずじゃろうが」

微かに棘を含んで言うてみた。


「さて………」

龍は白い羽扇を涼しく繰り

「お下知に逆ろうた事よりも、最前の功が優っておると存じまする」

目元に笑みを刷いて、先ほどの事への彼の関心を婉曲にあらわした上で、意外にも向寵の肩を持つ言葉を加えた。


「む。さては孔明」

彼は卓に片肘を付いて、少し前のめりになり

「そちが命じたか、ついて来よ、と」

用心深い龍のことである。

そうであっても不思議はない。


「わが君の興趣を削ぐ命など、下せましょうや」

龍は神妙に扇を横たえて袖を揃え、優美に低頭する。


(向寵は気が利くゆえ、供回りに入れておいたのみ、という態であるな)

彼はそう思い至ると

「よかろう。褒美は考え置く」

座り直して栗をもうひとつ味わった。


彼は、栗が先ほどと同じく、ほくほくと甘く感ずることに

(年の刧、であろうかの)

との思いがよぎる。


心が曇ると味覚も鈍くなりがちであり、確かに心に影が差したばかりにしては、美味い。


さすがに、草莽の頃に比して更に彼が打たれ強くなった証左かも知れなかった。

「孔明。儂ぁのう………」

「はい」


わが龍に囁くように話しかけると、照れ隠しに栗をもう一つ取り

「余人のな、痛い、寒い、ひもじい、などがの。どうにも放っておけんのじゃ。昔から、何ともな」

栗を凝視してから、チラと龍を見つめて眉を下げ、肩の辺りで笑った。


「わが君おわすは、漢室の幸運であると存じます」

「そう願いたいが………只のお節介爺ぃでなければよいがの」


(結局のところ、若気の至りで二弟三弟と徒党を組んで、口先の大志を唱えておっただけのところ………望外に拝謁の栄に浴し、陛下のご落涙を目の当たりして、何とかご宸襟を安んぜ奉ることができぬであろうかと、思うたことが始まりであったのかも知れぬ)

彼は来し方を思い、無言で茶を飲み干した。

龍は、このようなとき何と言上すべきか分からず、小さな炉にかかった釜の湯の沸き具合を確かめて、物音も微かに茶の葉を扱い、良い加減を見極めて、いま一服の茶を彼に奉じた。


「頂戴いたす」

彼は、天下一の賢者を前に袖を揃えて礼を取り、熱い茶を喫した。

香り高い茶は涼しき風味を引き出され、彼から雑念を去らしめる。

忽ちに仙境に座が移ったかと思うほどの味わいに、彼の心は澄み渡る。


「………するとじゃ。あの子としては、若い哥哥(お兄ちゃん)に助け舟を出され、良かったことになるか。爺ぃではなく」


またひとつ栗を咀嚼してから、彼は頷いた。

「………好し好し。やはり向寵は、褒めて取らそうぞ」

いつもの、屈託のない朗らかな微笑を彼のかおばせに見、龍は安堵した。


龍には、先刻の幼な子の泣き声さえも、平和の音であると受け止めていた。

なぜなら、哭けば何かが変わることが期待できる状況であるために哭いているであろうことを、察していたからである。

寄る辺もない子らは、哭いても詮ない。


かというて、幼な子にとって見ず知らずの彼が、その哭き声に注意を向け心を痛めたことや、向寵が手を差し伸べたことが無益な事だとも思っていない。


むしろ、彼らのような大人が多ければ多いほど、哭けもしない子らが救われる可能性が高くなるのではなかろうか、と思う。


幼い頃の龍は、寄る辺はあったものの、哭けない子であった。

おそらく、大人たちから見れば、手のかからぬ哭かぬ良い子であったろう。

が、顧みて思うに、哭くに哭けなかった、というのが、当時の幼き己の心をより正確に言い当てているといえた。



(わたくしにも、昔むかし、側に「お節介爺」が居てくれたならばと………。そのように思いまする)


こう言い出しかねて、黙然と自らの碗を茶で満たす。


彼と差し向かい、彼と同じ茶の香りを聞きながら、心の中には未だに、哭けなかった何人もの幼き己らが、大人びた表情で端座している気配を感じ取って動揺する。


時々、彼が龍をその長い腕の中に攫うのは、彼の眸に、龍が凍え悴んで見えることがあるが故に、なのかも知れない。


実際、彼の傍に侍っていると、いつでも暖かく、至極心地よいのだ。


(七)へつづく