天府南門橋 廿参

2025/06/24

3世紀中編 天府南門橋

「そうじゃ。張府にの。遣いを頼む」

翌朝の書房で、彼は傍らの侍従に命じた。
「かしこまりました。……して御用の向きは」
「うむ、褒美の銀をな」

まさか「昨夜、張府の招宴に応じて出かけた」とは言えぬので、彼は一旦、言葉を濁した。
しかし、その濁しを侍従に気取られぬように、いつもの笑顔に上機嫌な雰囲気をまとって、侍従に笑みを向けた。

たとえば、わが龍が「わが君、孔明、火急のお目通りに参じました」と、不意に来訪するような情景を瞼に描けば、たちまちに自然と眉はひらき、目尻が下がり、頬が緩む。
ゆえに、彼にとって、上機嫌を装うことなど朝飯前なのである。

「……いつぞや、三弟の宴に参った折な、琵琶の名手がおった。褒美を遣わすと約しておっての。いま張府に居るそうじゃゆえ。……三妹に届ければ分かろう」

長年仕えている侍従は、頬に微笑を含んで彼の上機嫌に対して、常日頃と変わらぬ拱手を見せた。
「心得ました」
「うむ、よきに計ろうてくれ」

よきに、とは銀の値のことである。
多すぎず、少なすぎず、民心に鑑みよ、という意味である。


侍従が音もなく後ずさり、廊へ消える姿を見送って、彼は傍らから、おもむろに我が龍に書かせた「關雎」の手本を、いそいそと取り出した。

まるで、一輪の花を手に取るように柔らかに取り上げ、そっと書卓に下ろす。

丁寧に広げ、右上隅のあたりから手前までを、揃えた指先でゆっくりと、なんとなく辿った。

辿った指先を右下の角の辺りで止め、彼は手跡に見入る。

 關關雎鳩
 在河之中
 窈窕淑女
 君子好逑⋯⋯
と、端正な手跡で書き連ねてある。

龍の手跡は、書を巧もうとせず、読みやすく、そして端正である。
わが龍の書には、その姿や人柄が滲み出ている、と彼はいつでも感じずにはいられない。


いま張府に滞在している関平が思い出しているのは、この手跡による書簡が、二将軍こと関将軍のもとに届いた日のことである。

新参の、名高き錦馬超……馬孟起の評価について、関将軍は遠く隔たり、直接に見聞きすることができなかった。

蓋世の将といえども、見えぬこと聞こえぬことには、心中おだやかならざるものがあったと見受けられ、関将軍は龍に書簡で馬孟起の真価を問うたことがあった。その書簡はこの返書であった。

彼が漢室復興を果たすために、連孫抗曹の四字を関将軍に全うさせるべく、龍は端正な文字を連ね、関将軍の憂いを払い得る私見を書き送った。

「お髯殿の武功に及ぶべくもありますまい」

日ごろ感情をあまり表さない関将軍は、機嫌斜めならず、珍しく喜色満面にて二人の息子に書簡を見せたのだった。

ただし関将軍は、龍の手跡で「關」の文字を見たことがない。
龍は常に、関将軍が武官のなかで一の将であることを慮り、関将軍の姓名を避けて、関将軍を立てた書簡を書いている。

公文書は書記官が書くのであるから、龍の書簡は、いまのところ私信である。
私信での関将軍への呼びかけには、いつでも「髯公」または「ニ将軍」を用いるのだ。


彼は、関将軍が見たことがない「關」の字を眺めつつ思い入る。

数日前この書卓で、わが龍が「關雎」を書いたときのことが蘇る。
満月が、不意の叢雲から現れいでるように、わが龍は、筆を進めるごとに、日ごろの輝きを取り戻して行き、彼は安堵したのだった。

先日も、そして昨夜も、我が龍の心の曇りを拭い去ることができた。
手本の右下隅で止まった右手を少し廻らせ、傍目を盗み拇指で微かに撫で、彼は呟く。

「これで、よし」
余の者には、これから彼が書き物に取り掛かる支度ができたことに対する一人言だと聞こえていよう。


(さてのう…)
返書を清書する前に、次弟の書簡をもう一度読み返す。
筆に墨を含ませて穂先を整えようとして、彼は右手を止めた。

(……いや、待て)
筆を置いてもう一度、書簡を取り上げ、目を走らせ、彼はガバと立ち上がった。

「先ほどの遣い、もう出たであろうか」
「はい。お勘定方に立ち寄り、銀を受け取り次第、参ると存じます」
「追え。追うのじゃ」

普段おっとりと発言する彼が、急きこんで聲を強めて下知するので、侍従は気圧された。

「追うて、なるべくその者に直接渡せと言い含めよ。その者は、樂女じゃ。年増の。名は知らん。その者の、右目の下に黒子があるかどうかを検め、復命させよ」
「は。はい、直ちに」
侍従は低頭して、転ぶように廊へ出て、先の侍従を小走りに追った。

「……そうであったか」
彼は短いため息をつき、書簡を念のため裏返して卓上に置きなおした。
(昨夜の樂女は、おそらく貂蟬ではなかった)


廊に出て、彼は東の空を眺める。
東は、荊州の方角である。

彼の脳裏には、いましがた読み直したばかりの、次弟・関将軍の書簡の文字が黒黒としていた。

 小楽の右目の下の黒子には
 かの歌仙のおもかげがあり

(黒子はなかった。夜目ではあったが……)


貂蟬であったなら、関将軍にそうと伝えるべきなのか。
それを彼は悩んでいたのだが、悩む必要が消えつつある。


西から、寒気を含んだ秋風が渡り、彼の袍の袖を揺らした。

(……じゃがのう。あれは。……あのころ雒邑の宴で、よう聞いたあれに他ならぬが)

彼は、念を入れて遣いに樂女を見に行かせたとはいえ、いま己が安堵しているのか、それとも落胆しているのか、俄かには断じかねた。



(廿四)に続く