来い、じゃないんだ。

2005/12/31

SDG三国伝BBW

龍帝を継ぐ彼が江東と同盟を結び、
赤壁で曹軍と睨み合うこと既に十日。

彼も、江東の主とともに民心を安んじ、
兵の士気を揚げることに忙しいのだが、
彼の掌中の珠玉たる聖軍師も、
ここのところ、江東の提督とともに
策を練ることに忙しい。
(近頃、ゆっくり話もしていないな)
彼はそう思って、眠る前に聖軍師の部屋を訪ねてみたが、
やはりガラとして火の気もなかったので、
灯りも持たずに、そのまま楼の二階の、広間の次の間へ
まっすぐ向かった。
(邪魔をしても、いけないけどな)
そこは、孫劉両陣営の参謀本部のような形で
使われている部屋で、扉は開け放たれており、
灯りと話し声が洩れていた。

「孔明どの、凝り性もよいが、
あまり根を詰めて倒れられても困る。休まれよ」
「提督がお休みになるなら、わたしも休みます。
我々だとて、この戦、一歩も引けないのですから」
「やれやれ、あなたも相当に頑固なお方のようだな」
すっかり打ち解けたような、楽しげな笑い声が二つ続いて、
「その計算が終わったら休まれよ。もう手は尽くした」
「ええ」
「わたしは、孫策と大殿に祈ってから眠る。また明日」
「おやすみなさい」

立ち聞きするつもりはなかったのだが、階の途中の踊り場から、
彼は、周提督が長い髪を揺らして部屋をあとにする
端正な後ろ姿を、陰になった踊り場から見送ったあと、
廊に洩れいずる灯火に、何か胸の奥がざわざわと、
それとも、ちりりと焦げるような、妙な心地に襲われた。
そろそろと階を上り詰めて、部屋の様子をうかがうと、
聖軍師は扉に背を向けて、机に向かって座り、
細かく筆を動かし、せっせと何かを書付けて、
ややしばらくすると筆をおいて、ふうとため息をついた。

「孔明、まだ起きていたのか」
驚いたように振り返り、大きな瞳を瞠って、
「こんな遅くに。なにか御用でしたか」
少し疲れて掠れたような聲が続いた。
(用がなきゃ、来ちゃダメなのか?)
少し不満に思いながら、普段と変わらぬ軽やかな足取りで、
慌てて立ち上がった聖軍師の傍に歩み寄る。
「あんまり徹夜とか、するんじゃないぞ。
戦いは、今日だけじゃないんだ。メシも食えよ」
「わざわざ、お叱りにいらしたのですか?」
冗談を言いながら、優雅な仕草で白い扇をゆったりと繰る。
「そうだぞ。俺の他に、誰がお前に小言を言える」
「ごもっともです。もう眠ります」
「ほんとか? 今日は部屋に連れて帰るからな」
「お疑いとは」
聖軍師は、計算を終えた竹簡をくるくると丸め、
設計図や参考書のようなものも片付け始めた。
「痛・・・」
小さな聲があがったのを彼は聴き逃さず、
「どうしたんだ?」
振り返ると、彼の軍師は人差し指を咥えて、
眉をひそめていた。
「いえ、もう古いので、棘が・・・」
竹簡を繰る時に、うっかりと引っ掛けたらしい。
「どれ、見せてみろ」
棘は、頭を少し出して、人差し指の腹の薄い表皮を、
狙って挟まったようになって、あとは透けて見えた。
彼の軍師の手は、いつも釣り糸を垂れるか、
白い扇を繰るばかりで、彼らのように槍や剣を
扱わないので、彼らの手に比べて細くて薄く、柔らかい。
「あーっ、これは痛いだろ。待ってろ」
「……ぁ」
彼は、頑丈な歯で棘を噛み切らないように注意しながら、
しっかりと棘を捉えて、痛みが少ないように、
一息に引き抜いた。
「ありが……」
驚きながらも、礼を述べようとした聖軍師の白い頬が、
今度はもっと驚いて、ぼっと燃えるように上気する。
「ゅうび、さん! もう棘は抜けましたっ」
人差し指を解放せずに、彼は舌で拭っている。
「消毒……かな。おふくろさんに、してもらわなかったか?」
彼は、けろりとした表情でそういうと、
口中の棘を、ぺっ、と吐き出した。
「棘ぬきは結構コツがあるんだよな、巧いんだよ俺」
得意げに、それとも照れ隠しに、へへっ、と笑って見せた。
「あなたという人は、大の大人にもこのようなことを
しておしまいになるのですか?」
動揺しながら、その人差し指をどうしたらいいのかわからず、
拭くのもおかしいような気がして、もう片方の手で包み込んだ。
「誰にでもはしないよ。・・・なんでかな」
問われた彼は、首を捻るような仕草をして沈黙し、
ややあって、自問自答するようにぽつりと言った。
「こい、……」
「……はい」
「え?」
「あの……、お部屋、へ?」
「! いや、その」
「違うのですか?」
天才軍師には、どうも天然の気もあるようだと
彼は思ったが、彼も随分と天然なのであった。
ごまかすようにエヘンと咳払いをして、
「あのな、いままで機会がなかったからできなかったけど、
お前にはもう俺が唾つけた。どこへも行くな。俺についてこい」
「……。実際に唾をつける人を見たのは初めてです」
呆れ顔の聖軍師の白い貌を見て、
「嫌だったか。だったら、ごめんな」
彼は、しゅんとした表情を見せてみた。
「驚いただけです。・・・嫌だったのではありません」

眸元を淡く染めて、そわそわと、それとも、もじもじとするような
聖軍師の姿を見て、急にどきどきと胸の鼓動が高鳴るのを感じて、
何にでも全力投球のはずの彼は、片想いかもしれない
このことにだけは、臆病になるのを感じて狼狽していた。



SDG359 もくじへ戻る