春爛漫の午後の陽光のなか、翔の私邸の庭で、
龍帝を継ぐ彼は、櫻の花を眺めていた。
彼は、剣が不要となった翔で、
民から慕われるという仁君の資質を
遺憾なく発揮し、翔は三国の中で最も若い国とはいえ、
既に、他の二国から一目置かれる存在となっている。
「お呼びでございますか、我が君」
出逢った頃から全く変わらない、
翡翠を転がすような心地よい聲が彼の耳に届き、
櫻の花弁が、ちらほらと舞う向こうに、
彼が寵用する聖軍師が現れた。
「孔明……。あのな、それ止めろ。今までどおり呼べ」
「それでは示しがつきません」
彼が翔の国主になって以来、聖軍師は彼に対して
あらためて臣下の礼を取って、
特に公の場では、昔のように呼ばなくなった。
「一歩譲って、皆の前ではそれでもいいが、
今は俺とお前しか居ないじゃないか」
「あなた様は、もう一介の将軍ではありません」
「俺は俺、なのにな。孔明と弁を争っても敵わないな」
彼は笑って、若葉の繁った桃の大樹の下の腰掛に誘うと、
エヘンと咳払いをして、半分冗談を装い、姿勢を正して
高らかに宣言した。
「君命である。せめて俺と二人のときは、今までどおりにしろ」
「……、ずるい、です」
「お前相手では、ズルでもしなきゃ言うこと聞いてもらえないだろ」
「ずるい……」
聖軍師には生真面目な一面があるので、
主命を嵩に着られている理不尽を
分かっていても、これは従わざるを得ない。
「怒るなよ。俺だって、お前に余所余所しく呼ばれるの、
いつもガマンしてるんだぞ」
機嫌を取り結ぶように茶菓を勧める。
「お前のおかげで、三国は友好な均衡を保っている。
其の証拠に、機駕の菓子と、轟の花茶だ」
聖軍師の好みを良く知っている彼は、友好の品の中から、
特に選んで、今日この庭に用意させて待っていた。
蓋碗の蓋を開けると、聖軍師の好む香りが、
湯気とともにたゆたったので、
「……劉備さん」
彼の心遣いに、白い頬が緩んだ。
ここで茶化すと、また呼んでもらえなくなりそうなので、
彼は聞き流したふりをして、茶を一口含んでみる。
「美味いぞ」
満面の笑みで応じた。
「そうだ、最近の巷の噂だがな、機駕では、デカい楼台と庭園を
築いたそうだな」
「それが、機駕の経済のあり方の一つです」
「翔が真似しようとは思わないが。
アイツ、土木好きだからな。それに、金も人口もある」
「あなたという人は……よくご覧になっておられます」
「そりゃ、見てるつもりだぜ。聞いてもいるつもりだ」
彼は菓子をひとつ、頬張って咀嚼し、飲み込んでから
話をつづける。
「その例の庭園な、造営中の門に、アイツがケチつけた話、
知ってるか」
「門柱に『活』と書いたという、あのお話ですか」
「さすがに耳が早いな。俺はオチを聞くまで分からなかったが、
お前は分かったのだろう」
「……あの方らしいお話ですが、
平時には、あのような御方にはお仕えしにくいことでしょう」
機武帝は、才気に溢れる奸雄である。
庭園の門の出来栄えに一言も發せず、
ただ門柱に『活』の一字を書きつけて立ち去った。
皆、どのような評価なのかと頸を捻っていたところ、
知恵者がやってきて、
――広すぎる、とおおせだ
と察して、造りなおしたのだという。
門構えに活を書いて、『闊』。広いという意味で、いわば頓知である。
「まあ、そう言うな。あの侠だって、いいところもあるだろ」
彼は、どこまでも闊達である。
(一度は敵対した者をすら、このように温かくご覧になる)
聖軍師は、満開の花よりも、彼の仁徳の芳しさに
酔うような心地でいた。
「ところでな、そこの門には、何と書き付けるべきだと思う?」
彼は、うっとりとしたような双眸をしている聖軍師に
見とれつつ、おっとりと問いかける。
「そうですね……。『木』と書きましょう」
「何だよ、閑人の『閑』か?」
「長閑の、『閑』ですよ」
二人して、それこそ、のどかに笑う。
「では、劉備さんは……?」
優雅な仕草で茶碗を傾けながら、聖軍師が微笑むので、
彼は、
「そうだな……、ちょっと、手、貸せよ」
茶碗を置いて、ほっそりと伸ばされた聖軍師の手を取って、
その掌上にしたためた。
聖軍師の頬が、にわかに染まる。
「今日は、帰さないからな」
彼がしたためた一字は、もちろん、『圭』である。
【SDG359 もくじへ戻る】
龍帝を継ぐ彼は、櫻の花を眺めていた。
彼は、剣が不要となった翔で、
民から慕われるという仁君の資質を
遺憾なく発揮し、翔は三国の中で最も若い国とはいえ、
既に、他の二国から一目置かれる存在となっている。
「お呼びでございますか、我が君」
出逢った頃から全く変わらない、
翡翠を転がすような心地よい聲が彼の耳に届き、
櫻の花弁が、ちらほらと舞う向こうに、
彼が寵用する聖軍師が現れた。
「孔明……。あのな、それ止めろ。今までどおり呼べ」
「それでは示しがつきません」
彼が翔の国主になって以来、聖軍師は彼に対して
あらためて臣下の礼を取って、
特に公の場では、昔のように呼ばなくなった。
「一歩譲って、皆の前ではそれでもいいが、
今は俺とお前しか居ないじゃないか」
「あなた様は、もう一介の将軍ではありません」
「俺は俺、なのにな。孔明と弁を争っても敵わないな」
彼は笑って、若葉の繁った桃の大樹の下の腰掛に誘うと、
エヘンと咳払いをして、半分冗談を装い、姿勢を正して
高らかに宣言した。
「君命である。せめて俺と二人のときは、今までどおりにしろ」
「……、ずるい、です」
「お前相手では、ズルでもしなきゃ言うこと聞いてもらえないだろ」
「ずるい……」
聖軍師には生真面目な一面があるので、
主命を嵩に着られている理不尽を
分かっていても、これは従わざるを得ない。
「怒るなよ。俺だって、お前に余所余所しく呼ばれるの、
いつもガマンしてるんだぞ」
機嫌を取り結ぶように茶菓を勧める。
「お前のおかげで、三国は友好な均衡を保っている。
其の証拠に、機駕の菓子と、轟の花茶だ」
聖軍師の好みを良く知っている彼は、友好の品の中から、
特に選んで、今日この庭に用意させて待っていた。
蓋碗の蓋を開けると、聖軍師の好む香りが、
湯気とともにたゆたったので、
「……劉備さん」
彼の心遣いに、白い頬が緩んだ。
ここで茶化すと、また呼んでもらえなくなりそうなので、
彼は聞き流したふりをして、茶を一口含んでみる。
「美味いぞ」
満面の笑みで応じた。
「そうだ、最近の巷の噂だがな、機駕では、デカい楼台と庭園を
築いたそうだな」
「それが、機駕の経済のあり方の一つです」
「翔が真似しようとは思わないが。
アイツ、土木好きだからな。それに、金も人口もある」
「あなたという人は……よくご覧になっておられます」
「そりゃ、見てるつもりだぜ。聞いてもいるつもりだ」
彼は菓子をひとつ、頬張って咀嚼し、飲み込んでから
話をつづける。
「その例の庭園な、造営中の門に、アイツがケチつけた話、
知ってるか」
「門柱に『活』と書いたという、あのお話ですか」
「さすがに耳が早いな。俺はオチを聞くまで分からなかったが、
お前は分かったのだろう」
「……あの方らしいお話ですが、
平時には、あのような御方にはお仕えしにくいことでしょう」
機武帝は、才気に溢れる奸雄である。
庭園の門の出来栄えに一言も發せず、
ただ門柱に『活』の一字を書きつけて立ち去った。
皆、どのような評価なのかと頸を捻っていたところ、
知恵者がやってきて、
――広すぎる、とおおせだ
と察して、造りなおしたのだという。
門構えに活を書いて、『闊』。広いという意味で、いわば頓知である。
「まあ、そう言うな。あの侠だって、いいところもあるだろ」
彼は、どこまでも闊達である。
(一度は敵対した者をすら、このように温かくご覧になる)
聖軍師は、満開の花よりも、彼の仁徳の芳しさに
酔うような心地でいた。
「ところでな、そこの門には、何と書き付けるべきだと思う?」
彼は、うっとりとしたような双眸をしている聖軍師に
見とれつつ、おっとりと問いかける。
「そうですね……。『木』と書きましょう」
「何だよ、閑人の『閑』か?」
「長閑の、『閑』ですよ」
二人して、それこそ、のどかに笑う。
「では、劉備さんは……?」
優雅な仕草で茶碗を傾けながら、聖軍師が微笑むので、
彼は、
「そうだな……、ちょっと、手、貸せよ」
茶碗を置いて、ほっそりと伸ばされた聖軍師の手を取って、
その掌上にしたためた。
聖軍師の頬が、にわかに染まる。
「今日は、帰さないからな」
彼がしたためた一字は、もちろん、『圭』である。
【SDG359 もくじへ戻る】