苦い良薬が、甘くなる兵法は。

2005/12/31

SDG三国伝BBW

熊が咆えたかと思うような嚏(くしゃみ)が、
冬の荊州の小さな家の中に響き渡る。

「さすがの豪傑も、風邪、ひいてしもうたのかのう、
今時の川の水は、一年のうちでも、特に冷たいでな」

草庵を火事で失った水鏡老師は、
幽州から落ち延びてきた武将の看護をかねたなりゆきで、
愛弟子たる聖軍師の小さな家に厄介になっていた。

「先生、一晩寝れば、治ります。心配しないでくれ」
鼻水をすすりながら、毛布を被って笑む
龍帝剣の主に、顰めた眉間の皺を解くと、
「孔明や、子供達を助けていただいたお礼じゃ。 お薬を作って進ぜようぞ」
灯火を持って、愛弟子を誘い、焼け残った櫃を重ねてある、家の裏手へと姿を消した。

「先生は、医術の心得もあるんだな」
小柄な後姿を見送ったあと、感心したように
彼が呟くと、
「きっとそうに違いありません。先生のおかげで、わたしのこの傷も、癒えるのが早いように思います」
もう話せるようにはなった幽州の仁将が、こちら側に寝返りを打って頷いて、同調する。
「そうかあ? 唾つけときゃ治るだろ」
温かい握り飯を頬張りながら、雷電の豪傑は、右から左といった風情で、
「アニキ、風邪には栄養だぜ。趙雲が治り次第、出発なんだ」
残った握り飯のなかで、一番大きなものを選り、彼に渡そうとする。

「お前が食えよ。ちょっと口の中がザラザラして、もう食えないや」
「なら、あと半分だけでも食ってくれよ」
早とちりだが、心優しい末弟は、彼の具合を気遣って、握り飯を半分に割って、また差し出す。
「そうです、汁物も、もう少しいただいておいた方が」
仁将も、おかわりをするよう、彼に勧める。
「お前達・・・」

體が弱ると、心も繊細になってしまうもので、
彼は特に他者の心に敏感なので、
このような仲間に恵まれていることに、胸も目頭も熱くなり、
熱もまた少し上がったような心地がしたが、
二人の心配を軽くするためにも、
「うん、いただくよ」
食欲を励まして、半分の握り飯と汁物を、ゆっくり腹に納めた。


弟子の家の裏に、延焼を免れたものを積み上げてある水鏡先生は、櫃の中の漢方薬の袋をがさごそと探していた。
「うーん・・・夜は探しにくい。芍薬はどこじゃ。そっちにあるか」
「それから桂皮、です」
「こんな時のために、袋の裏にも名前を書いておくべきじゃったのう」
「いつもは吊るしておいででしたから。非常時です。やむを得ません」
「おお、あった、あったぞ」
「先生、私が」
櫃の底の方に並んでいた、芍薬と桂皮の布袋を見つけて、
老齢の先生の腰に悪かろうと、その愛弟子は、優雅な腕を櫃の中に伸ばした。

「お前が、武器を執る者のために、薬を作ろうという気になるとはな」
櫃に向かってかがんだ弟子の顔が見えないことを利用して、
水鏡先生は、愛弟子の出方をうかがうように、背後で囁いてみた。

「あの、趙という将軍にすら、作ってやらなんだ。ワシより、上手いのに」
「もう、戦はこりごりです。でも、この戦乱を、あの人はきっと、終わりにしてくれます」
「そうだな、三侯のなかで、あの侠が一番幸せ者だ」
「なぜですか」
「今に分かる。呵呵、良きかな、良きかな」
二つの袋を抱えて俯いた愛弟子の双眸の表情は、
影になって見えなかったが、飄々と暮らしているように見えて、
心に重い傷を隠しているこの弟子に、
それ以上は答えてやらずに、水鏡先生は先に立って、
自分の影が落ちた白雪を踏んで踵を返した。

彼は、水鏡先生の勧めで、庵の中で隙間風の来ない一角に
早々と横臥して、濡れた手ぬぐいを額にして、熱にうとうととしていた。

その大きな耳には、
「先生、俺に手伝えることはないか」
「そうじゃな、では、ワシと一緒に、将軍の包帯を換えてくれるかな、ワシ一人では、将軍は支えられぬ」
「よっしゃ、任せとけ」

末弟の明るい聲と、もう聴き慣れた水鏡先生の会話が
聖軍師が黙黙と薬研や乳鉢を操る音に混ざって届き、転寝を誘った。

ややあって、翡翠が転がるような心地よい聲が彼を呼んだ。
「劉備さん、熱を測りますよ」
耳の傍で囁かれて、温くなった手ぬぐいをとられ、ひんやりとした手を、額の上に感じる。

「まだ少し、お熱がありますね」
眸を薄く開けると、天井が見えるだけで、彼が期待したつぶらな瞳はなく、
かわりに陶器が微かに触れ合うような音がした。
煎じ薬独特の、濃い、混然とした匂いが漂うのを知覚する。

「お薬ですよ。起きられますか」
「咳で背中が痛いや」
背まで痛むとは、起き上がるのも苦痛だろうと
「さあ、私につかまって」
聖軍師は、予想よりも重くて熱い彼の體を抱き締めるように支えて、ゆっくりと床に起き上がらせた。
「・・・苦いんだろ」
「ええ、少しは」
「甘くなる兵法とか、ないのか」
「劉備さん・・・。兵法は魔法ではありません」

三侯の魂を受け継ぐこの侠は、意外に可愛らしい冗談を、それとも駄駄を捏ねると、聖なる軍師は白い頬を微かに緩める。
「飲まなきゃダメか?」
「そのような、子供のような事を。早く治ります」
「苦いの、苦手なんだ」
「得意な人はおりません」
「孔明が飲ませてくれるなら、飲んでもいい」
「劉備さん・・・、あれと戦って、掠り傷と風邪だけで済んでいる侠が、薬ごときに・・・」

思わず口を衝いて出た小言を続けるかわりに、
聖軍師はれんげをとりあげて、まるで鳥に餌をやるように、
薬湯を一掬いすると、ふうと息を吹きかけ、彼にそっと差し出した。

「ほら、やっぱり、思ったより苦くないぞ」
彼は、風邪っぴきと思えないような、悪戯そうな視線で、己が聖軍師をみつめた。
「気のせいです」
實のところ、ほんの少しだけ貴重な黒蜜を混ぜて、
後味を調えておいたのだ。
甘いとはいえぬが、飲みやすくはなっているはずである。
だのに、なぜか聖軍師はそのことを言い出せずにいた。

「そうかな? じゃあ、もう一掬い」
にこにこと、嬉しそうに大口をあけて、彼は待っている。

龍帝剣の主に似つかわしくないように甘える大の侠と、
その大の侠を、このように甘やかしている自分との、
双方に淡く混乱しながらも、
(彼には、この理由がわかっているのかもしれない)
その混乱の理由を横に置いたまま、聖軍師は、彼の服薬を手伝っている。

甲斐甲斐しく世話し世話されている様子を、
水鏡先生は耳が遠いふりをして、
背を向けたまま知らん振りを決め込んでいた。



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