「Ni hao Monsieur Liu, Madame Liu. Need Dr. ?」

二人ぶんのランチのワゴンを賑やかに転がしてきた、
人懐っこそうな中近東系の顔立ちのボーイの、
三ヶ国語を混ぜた挨拶に、

彼は、「Madame」を否定もせずに、しらりと、
「Don't worry,Jet lag.」

などと、片言の英語で、笑顔で応じている。
「喉を通るとよいが。兎に角、何か食べてご覧」
この国の特産のタオル地で出来た、とろけるように柔らかい肌触りの、銀色の唐草模様の刺繍の縁取りが入った、オフホワイトの、袖と裾の長い部屋着に、共布の部屋履きを履いて、其の上に、着慣れたモノトーンのガウンを羽織って、
先生は深い密か事の気配も見せず、露わす膚も僅かに、清楚に無言で、軟らかい椅子の肘掛に凭れるように、珍しく姿勢を崩して、別室の居間で、昼食を前にしていた。

料理を前にしながら、先生がぼんやりと考えていることは、東の涯の国の昔話で、全身に怪我を負った白兎を助けた神様が、白兎を「Gamanoho」・・・香蒲、学名:Typha latifolia の褥に優しく横たえて介抱してやったという、そのくだりである。
その神様は、やはり耳が大きい伝承であったような記憶である。

一階のティーラウンジは先生には遠すぎると判断して、おそらく不意の人目も憚られたのであろう、予備に空けていた部屋の居間に、彼にこうして運び込まれたことに、任せている。

彼はその間に、荷を解いてある部屋のベッドメークも含めて、清掃を頼んでしまってある。
あの事の後を片付けている音や出入りを、先生に聞かせないためと、見せないために。
このあと、おそらく先生がまた休まざるを得ないであろうために。
彼は、磊落とは相反するかに見える、細やかな気配りの持ち主である。

もとより彼は、誰にでも優しいのだが、明らかに、先生には特別に、傍目も憚らず、ためらいも見せずに掌も腕も伸べ、心も遣う。
常に甲斐甲斐しいというよりは、多分に過保護な味を含んで、勘所を押さえた、条件反射的な領域に達している。

ほとんど食の進まなかった先生を心配して、部屋に戻ってから、
「せめて茶を、一服してから休みなさい」
整えられた寝室ではなく、
清掃の済んだ居間の長椅子に先生を抱き下ろしながら、彼はそういって、飾り戸棚から、小さな缶を取り出し、金属的に封を切る音をたてて、電気ポットから湯を出している。
「ちと、碗が不向きだが」
先生が物憂げに視線をあげて、テーブルの上を見ると、ふたつ並んだティーカップに湯気が立っている。
少し身を乗り出しただけで、すぐに、ふわりと薫った。
「龍井・・・でございますか」
「そうだよ。好きであろう」
先生の猫舌を知っているので、
彼は、隣でにこにことしながら、先に熱い茶に口をつけている。
「水があっているかどうかはわからんが、 今、封を切ったのだ。まあ、それなりではあろう」

彼自身は、茶の品種に、日頃、全くこだわりを持たない。
廉い花茶であろうが、ありふれた烏龍であろうが、出されたものを黙黙と飲んでいるし、熱い温いの好みも言わない。
国を出るまえか、出た後かはわからないが、少なくとも、ここへ来る先生のためだけに、ひと缶、購っていたことは確かである。

茶の好み、乾燥や日差しに弱いこと、粉薬が苦手なこと、卵の茹で加減の好み、食わず嫌い、菓子の好み、好みの花、先生のなくて七癖は、挙げればきりがない。
しかも、先生は、客人然として我儘放題に過ごしているわけではなく、むしろその逆で、更に言えば、彼ときたら、たとえばスピーチの暗記の類いが最も不得手なことのひとつでアドリブのほうが得意、そんな二人だというのに、である。

赤の他人に、これほど短時間のうちに、細かい嗜好や習慣を、好意的に、ほぼ正確に把握されてしまうことなど今迄なかった先生は、何が悲しくなったのか、
ひとすじの涙を零して呟いた。

「・・・わたくしも、己を見誤っておりました」
昨夜、褥の上で言ったことを思いがけず繰り返されて、彼は茶を喫する手を止めた。
「無償の愛情を注いで下さる人など、もう現れないと、決め付けておりました。 そして、わたくしも、もう誰も愛さないのだろうと、思っていました」

薄幸は、ひと其々様々である。
先生は、両親を早くに亡くし、兄弟も散り散りになってしまったその身の上のことを言っているのだろうか。
それともまだ彼が聞き知っていない何事かを。

彼も、没落貴族という家柄に生まれ、決して平坦な半生を送ってきた訳ではない。
だが、どちらかといえば楽天的な性格と、強運が幸いして、帳尻は合っているようにも思えるし、この歳になると、不幸も幸福も、人の心の中の、天秤皿のような所に載っているだけのものにも見える。
そして、多くは、天秤の傾きがもたらすだけの、かりそめの不幸であり、幸福である。

然りながら、涙の意味を問わず、安心して泣き暮れる場所を再び取り戻せたならば、そこが世界にただ一箇所、彼の傍らであるならば、そしてそれが、先生の真の幸福であるならば、何と彼は果報者なのであろうか。

「離れてしまうと、また、昨夜のようになりかねぬのだから、 ・・・よいな、孔明」

続きは言わなくとも、聡い先生には、分かったであろう。
今日は何もしないと誓った手前、なんとなく手持ち無沙汰で、彼は、先生のほそい小指に小指を絡めて、力を込めた。

その仕草は、東の涯のちいさな国の習慣でも、約束を交わす証であることを、彼は知らなかったが、先生は知っていて、しかも、違えたならば「針千本」を飲むらしいことまで承知のうえで、そっと小指を握り返した。


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