幾度も耳元で名を呼ばれて、先生はやっと、目を覚ました。
まだ開けられていないカーテンの隙間から洩れる光の強さに、朝といえる時刻は疾うに過ぎているのを覚えながら
「ぉ・・はよぅ・・ござぃま・・・」
乱れたベッドの中で、先生は風邪をひいたような掠れた聲をあげた。
水を足されて、まだ加湿器は回っているというのに。
「時差に慣れぬと辛い。起きられるかな」
しっかりと着替えて、朝も健啖に三杯飯を平らげた彼は、
少し熱っぽく重たげに感じる先生を、そっと扶け起こすと、
「飯よりも、湯を、使いたいであろう」
喉やそのほか、おそらくあちこちの痛みで億劫なのか、普段に輪をかけて無口になっている先生をしばし覗き込んでから、ぐったりとした右手を取り上げて、右の薬指に嵌った指輪に唇を寄せながら、
「嫌いになってしまったかな・・・儂を」
双眸に不安な色を宿して、じっと見詰めると、先生は、力なく微笑んで、頸を振って見せた。
先生は、知っている。
彼は、決して、力づくで手頸を戒めるようなことをしない。
昨晩ですら、そうなのだ。
ほんのつかの間、自由を封じたいならば、掌で掌を、五指で五指を抱きしめるように握る、そんな優しい彼を、どうして嫌いになどなれようか。
「掴まりなさい。運んでつかわす」
寝返り一つさえ大儀で、厄介なことに言葉を発することすら億劫で、確かに歩けるとは思えない先生は、ひとつ頷き、彼の為すがままに任せていた。
瀟洒な洗面台と大きな鏡が嵌った、湯気が薄く籠もるひろい浴室の乾いた床に、毛足の深いバスマットを敷いた上に降ろされて、彼が、無造作に長い袖を撒くって、張ったばかりらしい湯の加減をもう一度確かめているのを、先生は、なかば呆然と見て、
「・・・ぅ叔、ぅでを」
聞き取り辛い掠れた聲に、彼は、
うん?と聞き返すような表情をしてから、折り返した袖の下の腕に、何本も交差する、細く赤い引っ掻き傷を先生が認めたことに気付いて、
「これか。『名誉の負傷』というものだよ」
やんわりと、他でもない先生の爪痕であることを肯定すると、泣きそうな貌をする先生の前から、速やかに其の腕を袖に仕舞って、
(今まで、このような傷を見たことがないと見える)
一向に物慣れない様子から、薄薄、察してはいたが、
やはりどうもそうらしい と、
背にも、二の腕にも、同じ傷をひりひりと隠しながら、彼は内心、満悦を覚えずにはいられない。
「もぅしわけござぃませ・・・」
掠れる声で、俯いて詫びようとする先生に、
「謝るようなことをしたのは、儂ではなかったか」
屈んで貌を近づけて、昨夜を思い出させるように、少し意地悪く囁いてみる。
先生が、バスローブの下に何も着ていないことを知っている彼は、まるで
”あなたの名を夜通し呼んで泣きました”
と、書いてあるような、しどけない姿に、
(昼間から、目の、毒じゃ)
紛れもない自分の仕業に多少は狼狽しながら、
「風呂も、入れてやってもよいが、それでは傷が増えそうでな」
と、口籠もりながら、今日は誓って、何もせぬから、とそのかわりに、慎み深い先生が、ゆうべのベッドの上で聲を忍ぼうとして何度も唇を抑えていた
右手の甲の薬指の指輪のすぐ近くに、幾度か音をたてて口づけをして、
「いろいろと・・・不都合があったら、戸を叩いて呼びなさい」
すぐそこに、居るから と、
湿度に満ちはじめた浴室を、彼は言葉少なくあとにした。
先生は、力の入らない腕を、湯船の中に伸ばして、すこしぬるめのお湯を感じて、ほっとした。立ち込める湿気が、痛む喉も和らげる。
幾度も気が遠くなるような烈しい一夜だったというのに、
湯に沈んだ白い體には、意外にも覚悟していたような痕跡は何も残っていなかった。
緩慢に湯浴みを終えて、気だるく立ち上がり、漸う伝い歩き、外国のホテルらしい大判の、深深としたバスタオルに身を包んで髪を梳き、ほっと息をついてから、用意されていた着替えに手を伸ばすと、わざわざ青いリボンがかかっていたので、これは備品ではなく、先生が来たときに着せようと、彼が選んだ贈り物のようだった。
微笑して、蝶結びをほどいて、ふわりと羽織ってみてから、背に、くすぐったいような、微かな細い感触を覚えて、
(髪か、糸か)
と、鏡を振り返って肌蹴た背に何気なく目を移すと、抜け落ちた一筋の黒髪よりも、眸を驚かせるものが映っていた。
背の膚のあちこちに彼の歯型の痕や、暈けた楕円のように口づけの印が刻まれており、それらを認めた瞬間、おだやかに巡っていた総身の血が、沸騰したように感じた。
踵から耳の裏まで、あの指で、舌で、歯で、唇で、余すことなく辿られた感触が、じんわりと蘇って、膝が震え、くらくらとして、その場に座り込む。
今までも、このように為されていたのかどうか、それは、彼に聴いてみなければ分からない。
しかし、意図的であるとしか思えないこの痕は、まず余人の目に触れる可能性は、ゼロに近い。
「近い」というのは、
先生の明晰な頭脳を、あの、白髪頭のホームドクターの白衣の姿がよぎったからである。
朧に思い出せば、いつものように、護謨もしてくれていた。あのような状況でも、彼は理性を保っていたことと、眠ってしまう前に、確かに言われたことを
今更に覚えて、赤らめた頬に手を遣る。
”好し好し・・・儂が悪かった。しかしな、
火遊びでも、水遊びでもなく、儂は誓って本気なのだよ、孔明”
深更、なかなか息が整わずに、我を忘れたままのような先生を真綿に包むように抱きしめたまま、眠りに落ちるまで、あの大きな掌で、ずっと髪を撫で続けながら、指輪の傍に優しく唇を押し付けていてくれたことも思い出して、先生は無意識に、右手の甲の薬指の辺りへ、唇を寄せていた。
<指に関する5つのお題 全6話> 全話一気読みへのショートカットは → こちら
まだ開けられていないカーテンの隙間から洩れる光の強さに、朝といえる時刻は疾うに過ぎているのを覚えながら
「ぉ・・はよぅ・・ござぃま・・・」
乱れたベッドの中で、先生は風邪をひいたような掠れた聲をあげた。
水を足されて、まだ加湿器は回っているというのに。
「時差に慣れぬと辛い。起きられるかな」
しっかりと着替えて、朝も健啖に三杯飯を平らげた彼は、
少し熱っぽく重たげに感じる先生を、そっと扶け起こすと、
「飯よりも、湯を、使いたいであろう」
喉やそのほか、おそらくあちこちの痛みで億劫なのか、普段に輪をかけて無口になっている先生をしばし覗き込んでから、ぐったりとした右手を取り上げて、右の薬指に嵌った指輪に唇を寄せながら、
「嫌いになってしまったかな・・・儂を」
双眸に不安な色を宿して、じっと見詰めると、先生は、力なく微笑んで、頸を振って見せた。
先生は、知っている。
彼は、決して、力づくで手頸を戒めるようなことをしない。
昨晩ですら、そうなのだ。
ほんのつかの間、自由を封じたいならば、掌で掌を、五指で五指を抱きしめるように握る、そんな優しい彼を、どうして嫌いになどなれようか。
「掴まりなさい。運んでつかわす」
寝返り一つさえ大儀で、厄介なことに言葉を発することすら億劫で、確かに歩けるとは思えない先生は、ひとつ頷き、彼の為すがままに任せていた。
瀟洒な洗面台と大きな鏡が嵌った、湯気が薄く籠もるひろい浴室の乾いた床に、毛足の深いバスマットを敷いた上に降ろされて、彼が、無造作に長い袖を撒くって、張ったばかりらしい湯の加減をもう一度確かめているのを、先生は、なかば呆然と見て、
「・・・ぅ叔、ぅでを」
聞き取り辛い掠れた聲に、彼は、
うん?と聞き返すような表情をしてから、折り返した袖の下の腕に、何本も交差する、細く赤い引っ掻き傷を先生が認めたことに気付いて、
「これか。『名誉の負傷』というものだよ」
やんわりと、他でもない先生の爪痕であることを肯定すると、泣きそうな貌をする先生の前から、速やかに其の腕を袖に仕舞って、
(今まで、このような傷を見たことがないと見える)
一向に物慣れない様子から、薄薄、察してはいたが、
やはりどうもそうらしい と、
背にも、二の腕にも、同じ傷をひりひりと隠しながら、彼は内心、満悦を覚えずにはいられない。
「もぅしわけござぃませ・・・」
掠れる声で、俯いて詫びようとする先生に、
「謝るようなことをしたのは、儂ではなかったか」
屈んで貌を近づけて、昨夜を思い出させるように、少し意地悪く囁いてみる。
先生が、バスローブの下に何も着ていないことを知っている彼は、まるで
”あなたの名を夜通し呼んで泣きました”
と、書いてあるような、しどけない姿に、
(昼間から、目の、毒じゃ)
紛れもない自分の仕業に多少は狼狽しながら、
「風呂も、入れてやってもよいが、それでは傷が増えそうでな」
と、口籠もりながら、今日は誓って、何もせぬから、とそのかわりに、慎み深い先生が、ゆうべのベッドの上で聲を忍ぼうとして何度も唇を抑えていた
右手の甲の薬指の指輪のすぐ近くに、幾度か音をたてて口づけをして、
「いろいろと・・・不都合があったら、戸を叩いて呼びなさい」
すぐそこに、居るから と、
湿度に満ちはじめた浴室を、彼は言葉少なくあとにした。
先生は、力の入らない腕を、湯船の中に伸ばして、すこしぬるめのお湯を感じて、ほっとした。立ち込める湿気が、痛む喉も和らげる。
幾度も気が遠くなるような烈しい一夜だったというのに、
湯に沈んだ白い體には、意外にも覚悟していたような痕跡は何も残っていなかった。
緩慢に湯浴みを終えて、気だるく立ち上がり、漸う伝い歩き、外国のホテルらしい大判の、深深としたバスタオルに身を包んで髪を梳き、ほっと息をついてから、用意されていた着替えに手を伸ばすと、わざわざ青いリボンがかかっていたので、これは備品ではなく、先生が来たときに着せようと、彼が選んだ贈り物のようだった。
微笑して、蝶結びをほどいて、ふわりと羽織ってみてから、背に、くすぐったいような、微かな細い感触を覚えて、
(髪か、糸か)
と、鏡を振り返って肌蹴た背に何気なく目を移すと、抜け落ちた一筋の黒髪よりも、眸を驚かせるものが映っていた。
背の膚のあちこちに彼の歯型の痕や、暈けた楕円のように口づけの印が刻まれており、それらを認めた瞬間、おだやかに巡っていた総身の血が、沸騰したように感じた。
踵から耳の裏まで、あの指で、舌で、歯で、唇で、余すことなく辿られた感触が、じんわりと蘇って、膝が震え、くらくらとして、その場に座り込む。
今までも、このように為されていたのかどうか、それは、彼に聴いてみなければ分からない。
しかし、意図的であるとしか思えないこの痕は、まず余人の目に触れる可能性は、ゼロに近い。
「近い」というのは、
先生の明晰な頭脳を、あの、白髪頭のホームドクターの白衣の姿がよぎったからである。
朧に思い出せば、いつものように、護謨もしてくれていた。あのような状況でも、彼は理性を保っていたことと、眠ってしまう前に、確かに言われたことを
今更に覚えて、赤らめた頬に手を遣る。
”好し好し・・・儂が悪かった。しかしな、
火遊びでも、水遊びでもなく、儂は誓って本気なのだよ、孔明”
深更、なかなか息が整わずに、我を忘れたままのような先生を真綿に包むように抱きしめたまま、眠りに落ちるまで、あの大きな掌で、ずっと髪を撫で続けながら、指輪の傍に優しく唇を押し付けていてくれたことも思い出して、先生は無意識に、右手の甲の薬指の辺りへ、唇を寄せていた。
<指に関する5つのお題 全6話> 全話一気読みへのショートカットは → こちら